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「誠実」に惚れ込む、諸葛孔明

2019-03-29 08:18:42 | 歴史から学ぶ

@「三国志」諸葛孔明、軍師であり劉備玄徳の参謀として劉備死後も最後まで「蜀」に尽くした人物である。一番の魅惑は劉備玄徳の家臣になった「三顧の礼」が有名であるが、その書籍では一部否定されているが孔明が志を決めたのは「劉備の誠実さ」であったことは間違い無いと思う。人を如何に評価するかでやはり「誠実」と言うのは必須だったかもしれない。 曹操、孫権、劉備、3人を比較するにこの時代「探り合い・騙し合いの戦い」であり、お互い敵同士でありながら都合により協力し、すぐ敵対し戦闘を繰り返す、不思議な「交渉術」の交差時代である。その立案者であり交渉者、曹操の司馬懿、孫権の諸葛瑾、劉備の諸葛孔明たちである。特に関心を持ったのは「蜀」の劣勢、魏・呉と比較(下記の詳細)でありながら対等に交渉、戦闘を繰り返し続けたことはやはり孔明の「先を読む力・交渉力、それは8陣からなるもの」であったことだろう。

『諸葛孔明』植村清二

  • 「三国志」の主人公の一人である諸葛孔明は三国時代(220〜280年)、蜀の宰相として活躍した。曹操の魏や孫権の呉に比べ劣勢だった蜀の勢力を拡大し、主の劉備亡き後も、縦横無尽の機略によって支えた。そして2千年を経た今日なお、「戦略家」「参謀」の天才として語り継がれる。
  • 「孔明」
  •             智謀の将軍、用兵の天才として知られるが、その中でも8陣と言うものがある。兵団を9部隊に分けて中央部隊の周囲に8陣を配備すること。天・地・竜・虎・風・雲・鳥・駱駝(ラクダ)である。これは易の8卦からとの説もあるが、城を中心とした郷作りにある。また、孔明は様々な武器を発明しており、連弩・竹槍・衝車・雲梯・鉄蒺黎・満袖鎧鉄帽・木牛流馬などがある。
  •             玄徳の臨終で孔明に「後主が不肖であれば、君代わって欲しい」と孔明を信頼し、付託は切実であった。劉備63歳で没となる。また、生前劉備は息子に「悪事はたとえ小さい事であってもこれを為さず、善事は小さい事であっても必ずこれを為すようにしなさい。人を服従させるものは、ただ賢と徳だけである。」と遺託した。
  •             孔明の実際の戦闘は南征と4回に亘る北征(魏との戦い)であり敗戦が多く最後は遠征中に病気で亡くなる。劉備玄徳が生存中遠征はなく、蜀での采配を任された事で、実際の才能・才覚・名声は玄徳死後の戦い・北征である。最後の北征、五丈原、陣中で亡くなる。54歳、蜀の丞相になって14年、劉備に仕えて28年、魏の戦略家司馬懿は最後まで戦い続けた宿敵だった。
  •             孔明は刑罰を重んじ、処罰は厳正したとある。信頼を寄せていた馬謖への処置はその例である。また、その事は宰相としての権限を他人に委ねないことを意味しており自らも忠実だった。孟獲の7度に及ぶ解放処置は有名(7檎7縦の故事)、これは稀有名の将略の優れたことを伝えるための作為された物語である。
  •             孔明の私生活は実に簡素で趣味は絵画、弾琴を嗜んだ。特に読書、申子、韓非子、菅子、六韜などであった。孔明の妻はメンナンの地の黄承彦の一女、色は黒く周りに笑われるほど醜い容姿の娘だったが、賢夫人であり家庭を守る妻であった。兄、諸葛瑾は呉(孫権)の戦略家
  •             孔明の伝説から地理的にも十数カ所の地名が残っている。諸葛洞、諸葛営、諸葛城、諸葛池、諸葛駐兵など
  • 「三国の国政の比較」
  •             魏:12州、93郡、66万戸、443万人、30万兵
  •             呉:4州、43郡、52万戸、230万人
  •             蜀:1州、22郡、28万戸、94万人、5万兵(3万説)
  •                         蜀は人的資源が根本的に不足で、山間部の盆地で生産力、財政も魏とは大差あった。蜀の貿易は呉で錦と馬であった。その為南征への意義も高かった。玄徳ほど諸将の間を転々とした者はいない、公孫瓊、陶謙、呂布、曹操、袁紹など身を寄せていた。だから「劉備はしばしば反覆して養いがたい」と言われた。孔明が劉備に三顧の礼で支えたのは劉備の「人間の誠実な精神」であると「出師表」にある。