@家系図で分かる武将・将軍の繋がり。浅井家から徳川家・将軍への血筋の繋がり、昔敵対視する家系で有りながらその子孫が味方の武将に、また将軍家に繋がっているのには驚愕する。様々な家系との結びつき、その血筋がどんどん繋がり、広がりを持っている家系図歴史と現存する「墓」は面白い。昔「ルーツ」という映画が流行った時には、誰ものが「自分のルーツ」を「地元のお寺」で探索したものだが、父系、母系など現代では天文学的な数値の先祖がネットから検索できる。「血筋は争えない」と言われた昔と今では考えが違い、子供・孫の性格とか容姿が「その血筋」と言われるようになった。近未来のDNA移植がない限り「血筋」は絶えない、だから日頃の行いは皆「先祖」の所為かも知れない。ということは自分の子孫は自分のコピーになるかもしれない。先日広尾にある光林寺、樹木希林さんの斎場になったところだが、お参りしようと思ったが遂に本人のお墓がみつからなく断念した。法名だと見つけ難い、お墓にも場所一の地図が欲しいところだ。
『墓が語る江戸の真実』岡崎守恭
- なぜそこにあるのか、誰が立てたのか、並び方の意味は、墓は歴史を知り、その真実を浮かび上がらせる。悪女とお憎まれた側室と藩主の絆(鹿児島・福昌寺)後継の兄よりも弟の自分を愛してくれた母への強い思い(高野山奥の院)、死後も将軍家を見守ろうとした乳母の執念(湯島麟祥院)、百万国の安泰をもたらした不遇の兄への気配り(金沢・野田山墓地)墓が語る、江戸時代の愛憎と恩讐の物語
- 「死んでもお前は隣」お由羅と島津斉興(鹿児島・福昌寺)
- 正室は鳥取藩池田家弥姫・賢夫人
- 妾・麹町の八百屋町娘・5男久光を生む
- 天皇家での島津貴子はお由羅の血筋
- 斉彬は6男5女、男全員が夭折
- 「死んでも母が一番」お江と徳川忠長(高野山奥の院)
- お江は浅井家お市の方の末娘、再々婚者として秀忠の妻となる
- 忠長はお江が死去すると乱行となり蟄居、28歳で切腹
- 「死んでもお前は別」鷹司孝子と徳川家光(小石川伝通院)
- 孝子は京の摂関家の姫君、お江の推挙で家光の正室
- 御台所でもなく別居、江戸城大奥では住めなかった孝子
- 家光は春日局に愛され、側室お万の方を愛する
- 伝通院はお大の方(家康の生母)の寺名
- 「死んでも穴から見ている」春日局と淀藩稲葉家(湯島麟祥院)
- お福、斉藤利三との娘「謀反の子」として転々とする
- 江戸城のお江に採用されるが、家光の母との説もある
- 「死んでも想いは豊臣」松平秀康と越前家(福井・大安禅寺)
- 家康は信康・秀康・秀忠を設けるが信康は信長の命で切腹
- 2代将軍は秀忠となる。秀康の母はお万で秀吉の養子となる
- 越前松平と名乗るが34歳で病死
- 16代慶永(春嶽)は将軍家と一線をとる
- 「死んでも落ち着けず」お保良と柳沢吉保(上野寛永寺)
- 6代将軍家宣の生母お保良、家光の孫
- 家光の子、綱重との間に身籠ったのが家宣である
- 綱重は35歳で死んだことで5代将軍は家光の子綱吉がなる
- 慎み深い柳沢吉保がお保良を改葬し、綱吉を支えた
- 「死んでも兄上が上」前田利久と利家(金沢・野田山墓地)
- 野田山には80基の前田家の墓がある
- 兄利久は信長の命で当主交代させられたが墓地では格上
- 利久の養子、前田慶次「歌舞伎者・おもしろ」
- 「死んでも見捨てられず」高尾太夫と榊原政岑(池袋本立寺)
- 姫路藩榊原政岑が家督を継ぎ高尾を身請けする(6千両)
- 31歳で急死、21歳の高尾は榊原家で暮らす(67歳)
- 「死んでも悪評は続く」藤堂高虎と徳川将軍家(春日大社)
- 「忠臣は2君にまみえず」否定し転々とする武将
- 信長、秀吉、家康、秀忠など最後に井伊と藤堂の地位を受ける
- 家康の遺言から宗派を日蓮宗から天台宗に変える
- 「死んでも戒名に差別」寺坂吉右衛門と赤穂浪士(高棚泉岳寺)
- 切腹は四十六人、墓は四十八人
- 2名とは萱野三平(討ち入り前に切腹)と寺坂
- 寺坂吉右衛門は広島の浅野本家に報告、その後自首
- 赤穂浪士の墓石には冒頭に「刀」と最後に「剣」があるが寺坂の墓石には「遂道退身信士」とある