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「人柄」で出世できるのか

2018-06-09 09:03:13 | 歴史から学ぶ

@「人柄」で出世した隠れた明治の逸材、小松帯刀。文中にもあるが「学才でもなく、軍事の天才でもなく、先見の明がある秀才でもない」帯刀が明治維新の発端、徳川幕府の「大政奉還」に導いた唯一の人材だったとある。幕府側と朝廷側・討幕派を説得しながら戦闘をしない解決方法を病魔を抱えながら東西奔走した立役者である。36歳没という短い生涯の帯刀は朝廷からも新政府からも信頼と高い評価があった。死の直前まで「帯刀無くして成り立たない」とまで言われ惜しまれた人材は、人の話をよく聞き、周知して物事を即座に判断できる逸材、それは「人柄」に評価された部分が多く記されている。「人柄」=「信頼」を勝ち取り、いつでも人の立場を考え抜いた交渉術が帯刀の処世術だったと考える。短気は禁物、人の話に耳を傾け、周りに気を配ることは出世術でも大切だ。 現代は周りを気にしすぎて、また多くの意見を聞きすぎて選択できず、最終的には沈没する人材が多い。それは基本がブレているからである。基本に帰り見直すことで必ずや方向が見えてくると確信する。

『小松帯刀』高村直助

  • 幕末の薩摩藩家老。「国父」島津久光の絶大な信頼の元、海軍増強など強藩づくりを推進し、中央政局においては、大政奉還から王政復古を導き出した演出者である。維新後も外交の矢面に立ったが、そのあまりに早死は歴史的評価を著しく低くした。幕末維新史を大胆に見直しながら、東方西走し大変革を成し遂げた奮闘の生涯を描いた。坂本龍馬には「海軍総大将」と呼ばれた。
  • 1835年10月14日一所持肝付主兼善の3男として生まれ、同年代は坂本龍馬、五代友厚・松方正義ら。西郷隆盛は8歳上、大久保利通は3歳上、岩下方平は8歳上、寺島宗則は3歳上。西郷や大久保は下士で、帯刀は、生まれつき名門小松家上士身分であった。
  • 24歳、定火消隣、斉彬の葬儀に参列する
  • 27歳、長崎で操艦、軍事技術を学ぶ、馬術の達人
  • 28歳、大番頭・家老並みに、国父久光と上洛、その後御軍役掛、琉球掛、唐物取締掛、琉球産物方掛、御製薬方掛、造士館演武館掛、御改革御内用掛、御勝手方係、佐土原掛、蒸気船掛を兼ねる
  • 29歳、朝議に議奏または参謀として参加
  • 32歳、薩長同盟を結ぶ、海軍規則を定め、予算管理、総髪となる
  • 33歳、城代家老となる後藤象二郎と大政奉還健白書に合意
  • 34歳、参与・外国事務掛、総裁局顧問、外国官副知事
  • 35歳、版籍奉還を促進、治療のため大阪で養生
  • 36歳、下腹部の腫瘍悪化で死去
  • 小松家系図では平清盛まで行き着き、29代目となる
  • 国父の久光から帯刀は「御改革御内用掛」となり誠忠組が抜擢、堀、大久保等が昇進、無位無官の久光の上洛で藩兵1千名、しかも野戦砲4門と小銃百挺を持参した
  • 寺田屋事件では未遂に防いだ事で久光の名声と朝廷の信頼が増した
  • 薩摩藩は琉球貿易で多くの汽船を購入、軍艦はボードイン・グラバー・ローレイロから購入、4隻で40万ドル、さらに長崎ではミニエ銃、エンフィールド銃等を3千挺を注文。これらの財源は調所広郷の時代の5百万両の借金返済済からの備蓄費現金70万両であった。多くは奄美三島の黒砂糖販売で稼いだ1200万斤、その他幕府特許の鋳銭収益と生糸貿易だった
  • 帯刀にも京都には側室琴がおり、安千代(30代目)が誕生していた
  • 藩の軍賦規定から銃砲・軍馬を備え、藩は1万挺の銃を持っていた
  • 軍備予算は
  •             海軍方には1万3千両、集成館2万両、蒸気船5隻1万3千両、陸軍所6千両、銃薬方硝石1万4千両、精錬所1万4千両、これに対して歳入は米7万両、砂糖となっていた。不足分は藩札を発行(89万両)
  • 西郷の「当藩に於いては討幕は仕らず」で異論勃発、帯刀の「成る可くは皇国の為、干戈に及ばず、一新の御処置これあれかしと掛けてお祈り賜わり候、一戦は難しくて易く、後の御処置に置いて甚だ難しか敷くと深く心痛仕り候」(戦いを始めるのは難しそうで実は易いが、後の処理が大変なので、なるべく戦闘は避けて変革を実現したい)
  • 帯刀の決断は「近く出兵すると風聞をも含めて武力を『威力』として利用しつつ、後藤・辻と連携して大政奉還・王政復古を実現すること」であった。
  • 慶喜の大政奉還の決断は、薩摩藩からの建白書の10月6日に提出から3日後、9日に決定しており、12日の二条城での老中以下有志を集めた中で発表された。その後帯刀が心配したのは大政奉還勅許後の事態処理の展望をも具体的に提示しつつ、奉還の早期上奏・早期勅許を実現しようとしたことである。(帯刀の功績は慶喜や板倉への説得工作であり、王政復古への具体的な道筋を附けた)
  • 慶喜の「御書附が出た。それは小松帯刀が言った通りのものが出たという訳だ」(偽勅・密勅の一般公開になったのは明治に入ってしばらくしてから世に知らされた)
  • 帯刀は多くの借金の処理(フランス商社での造船所建設:240万ドル)、武器・軍服の入手:50万ドル等)外国語学校の再建、造幣
  • アーネスト・サトウ「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能あり、態度が優れ、友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通より綺麗だったが、口の大きいのが美貌を損なっていた。」
  • 帯刀は特に学才に優れていた訳ではなく、乗馬の名手だったが、軍事の天才という訳でもなかった。また、時代に先んじた鋭い意見書をものしたこともない。しかし人柄は、外国人を含む多くの人々が、口を揃えるように高く評価するところであった。知識を吸収し、様々な考えによく耳を傾ける。それを踏まえて、進むべき方向をいち早く察知する優れた判断力を持ち、直の一歩先を見据えて、そこに向かう現実的な方策を感が出す政治家であった