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外交の難しさ・「人徳」の差

2017-10-13 08:32:21 | 歴史から学ぶ

@江戸時代後期、高田屋嘉兵衛という蝦夷を開拓、今のロシア・カムチャッカとの交易を発展させ一代で富を得た。「徳」・「人徳」とは三国志にもある劉備玄徳の「人物」でさまざまな武将、豪商なども「身についた品性・善や正義にしたがう人格的能力」・徳育・徳目・美徳など「人徳」に恵まれた人物が多い。「人徳」と現代の「道徳」(人がしたがうべき道義的な規範)は今最も「人」が必要なものであり、人の基本的、社会的要素だと思う。その要素が不足気味な人は道に外れ不徳・悪徳になる。外国人から聞かれることは「災害時に日本人は列を乱すことなくきちんと整列し、物の補給の順番を待つ、が諸外国では珍しい。で、どうのような教育を受けるとそのようになるのか」とよく聞かれる。 今その人間社会で一番大事なものが富になくなり「自分だけ」主義的なものの考えが出始めているのはとても残念だ。その為にも社会・道徳教育の重要性は、今後如何に取り組むかが将来の人間社会に必要となり、国と国との外交関係にも繋がると確信する。今の北朝鮮のような世界からはみ出した社会、国家を如何にして世界の輪(和)に入れ込むのは至難の技だが、必ずそこにもそれなりの原因がありそれを突き止め、「人徳」を持って心を広く行動すれば、最後は人の「徳」道に通づるのではないかと思う。

  • 高田屋嘉兵衛・裸一貫、北海で巨額の富を築いた商人、蝦夷地開発の先駆者、日露の紛争解決に身を投じて一大金宇塔を打ち立てた。死後一挙に松前藩の恨みか2代目金兵衛で罪をかぶり私財をなくす
  • この時代既成業者の長張りがあり、新参者は非常に多難な出足となる(一部の有力者がそれぞれの株仲間を取り仕切り外に門戸を閉ざしていた)特にこの時代は松前藩が取引許可を制限しており特権が一部豪商に集中し藩が儲ける構造にしていた
  • 蝦夷産地物は昆布で品質もよく高値で商売ができた、逆に米、酒、砂糖、塩、醤油、綿、古着、紙、畳表、陶器、漆器類を蝦夷に輸送した
  • 1796年喜兵衛は最初の船「辰悦丸」を1500両で建造、地元北風庄右衛門、酒田の栖原屋角兵衛に資金援助してもらった。喜兵衛には初対面でも人に信頼される不思議な力があった
  • ロシアからの密貿易が一部松前藩との間で行われ、蝦夷に眠る金、銀を幕府は検視し始めた、松前藩はアイヌ人に倭人の言葉を禁止、多くの人種差別化を施していた。(最初のアイヌ語辞典は最上徳内が作成)
  • 喜兵衛は田沼意次幕府重臣から信頼され蝦夷開発(貿易、農業)を加え千島、樺太開発を示唆された。一部の検視は択捉島、ノサッブ島へも渡り調査した。翌年田沼は失脚、松平定信は最古の最上徳内を退かせ、その他近藤重蔵、高橋三平「北陽の3傑」も同等に扱った。倭人とアイヌ人を差別化することなく交易を盛んにし、喜兵衛には「冝温丸」を提供し、特に択捉島への輸送を命じた
  • 択捉開発は魚場経営と地の生活改善を優先させ、1800年物資を択捉島に運んだ。島に会所を設け、役人を常駐、島の人口は男420人、女429人だった
  • 1804年ロシアの特使レザノフが長崎に来日したが幕府は一切接触せず、ロシアを怒らせた。1806年フボストフが戦艦とともに樺太、千島で様々なものを強奪、延焼させた。択捉も襲い、シャナの日本人町は消滅した。多くの倭人は捕虜になり、アイヌ人には危害を加えなかったが、金品の略奪、小屋・家を延焼させた。
  • 北洋カムチャッカ沿岸を調査していた海軍将校ゴローニン船長その他7名が松前藩に拿捕され「フボストフの犯した事件は個人的な海賊行為だ」と言ったが幕府・松前藩は聞き入れず、最初は酷い仕打ちの牢獄生活であった。
  • 後輩のディアナ号のリコルドは今まで漂流・拿捕した日本人をゴローニンと交換しようと試みたが幕府は受け付けず、代わりに商船の喜兵衛を拿捕した。喜兵衛含め6名がカムチャッカへ捕虜として向かう。翌年の春まで留置されることになったがその際携行物資として大量の食料物資を積み込むことを許された。
  • カムチャッカでの生活は寒さを除いて環境は悪くはなかったが捕虜の2名が壊血病で死亡、だが住民との親睦が功を奏してある程度自由に動けた。喜兵衛はロシア語も多少話せるようになり、リコルドと腹を割っての話し合いもし、友好を深めた。
  • 日本側では荒尾坦馬守成章が苦労して幕府を説得、人質引き換えに応じた。折衝の相手は喜兵衛で、幕府側がようやく条件を整わせ交渉会議が始まった。日本側の条件は「フボストフ事件は政府とは関係がない旨の証明であった、何度かディアナ号が入国するたび喜兵衛は日本の物資をディアナ号に無償提供し、親睦を図った。ディアナ号は港の見物となり住民も安堵、住民による船内も見学できるようになった。
  • 無事人質交換が成立、喜兵衛とリコルドは親友関係を深め、住民等も大喜びした。
  • のちに幕末の下田条約(日露和親条約)にも好影響をもたらした。2代目ディアナ号の来日したプチャーチンは、アメリカとの交渉を優先したためロシアを怒らせた。其の間東海大地震で停泊中のディアナ号は破損、修理を幕府に依頼、日本人大工だけで日本で初めて西洋軍艦を3ヶ月で作り上げた。地震の時にはプチャーチンは住民を助け、医療も提供したことで明治時代になって勲1等旭日章が贈られた。
  • 喜兵衛は罪状を持ったまま幕府に対応していたが地元で寄進事業をするが体調が悪く、1827年4月5日悪性腫瘍で59歳没となった。
  • その当時舟数は450隻、使用人982名、有金高は1121万8千両あった。本店箱館、店舗は江戸、大坂、蝦夷
  • 2代目金兵衛で松前藩の陰謀等あり罪人にされ家財一切を没収された。人間の恨みは底知れず時間をかけて高田屋を潰しにかかった。