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政治家に必要な『国家構想』

2017-09-28 12:00:01 | 歴史から学ぶ

@幕末明治維新をゼロから作り上げた大久保利道の生涯。イメージ的には冷徹非常な人間としての記憶があったが、正に利害関係(既得企業・団体・個人)を軽視・無視できるほどの政治家が本当の意味での「国民にとって相応しい政治家」だと感じさせる。今の政治組織を含む政策は守るべき事を守らず、政治家個人、蟠りのある、周りがいい方向だけのものとなっている。 この大久保利道の生き様を読むと真の政治家とはこのような人だと感じるのは自分だけだろうか。

『国家構想』も現代につながる内容を含んでいるのにはびっくりする。

  • 使命感と決断力で徳川幕府を倒し、明治新政府を率いた。冷徹非情な策謀家というイメージを払拭し、新国家の建設に向かって疾走した誠実な志の政治回の姿を描きながら明治維新に新たな光を当てた。
  • 大久保は下級武士から藩の重役となり、幕末の解体とともに政府や官史組織を行動力とともに急ぎ組織化していった政治的なリーダーシップがあった。
  • 冷徹非情とは藩主島津久光への「裏切り」、西郷隆盛への「非情をもって嘗ての盟友を見殺し」、佐賀の乱の江藤新平を梟首した「私刑」が歴史的に残っている
  • 政治家としての20年間、国家の為「確固として動かない」人間であり私情や利害で動いたりしない人物であった、よって多くの信頼を受け続けることができた人物
  • 大久保は薩摩藩島津藩主の下、井伊大老暗殺事件、桜田事変後から頭角を表すが最初は建白書・嘆願書を作成、攘夷、派兵をすることだったが、公武合体を目指す
  • 34歳で藩の重役側役となり、幕閣、関白等重要、主要人物(近衞関白、朝彦親王、政事総裁職慶永等と久光の代理交渉役となる。藩として「一利を起こし、一害を生む」から「趣意を変じ、中策を取る」とした。
  • 孝明天皇による急進的尊攘派を一掃、「公武合体」へと仕掛けたのは大久保だった、だが横浜閉港問題で久光中心の天皇の動きに慶喜等が反対、蛤門での衝突となり、長州藩尊攘急進派と尊攘激派の志士たちは自滅していった(久坂玄瑞、真木和泉等)
  • 大久保は第一、第二長州征伐において、朝廷、幕府と決別し手を切る事を考えていた、それは新しい統一国家建設の構想で「倒幕」は何も意義がないと悟った。「王政復古」へと動く。
  • 米価格は3倍にも暴騰し、各地で暴動、一揆が勃発した。武蔵の国だけでも10万人を超す大一揆があり発生総数は185件、国が大混乱した。そんな中徳川家茂が大阪城で病死、慶喜が将軍となる、その20日後には孝明天皇が悪性の疱瘡で没した。
  • 薩摩・土佐藩を代表する後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左前、坂本龍馬、中岡慎太郎、小松帯刀、西郷隆盛、大久保らが「大条理」(公武合体の改革構想)をまとめ、その後芸州藩、長州藩も同意。岩倉具視(公家)に起案した。その後大政奉還となった。
  • 新政権は岩倉具視を中核(右大臣)とする総裁・議定・参与の三職制とし、総裁に有栖川宮熾仁親王、議定には仁和寺宮嘉彰親王等で明治政府が発足した。その他最初の会議には大久保利道、後藤象二郎らの薩摩・土佐・越前・芸州・尾張5藩も加わった。東京遍都となり江戸城は「皇城」となる。
  • 「版籍奉還」(領地と人を天皇に返還)は薩摩・長州・土佐・肥後の藩主が同意し他藩も追従した。官史も公選で選び、情実的人事を排除した。
  • 「廃藩置県」(土地と戸籍を管理、藩を無くし県とし、県知事等を任命)を実行。民衆は偽札や粗悪な貨幣の反乱で物価が暴騰、農民一揆が勃発、大隈は断固として鎮圧を命令した。当時藩数は272、15万石以上の大藩15藩、5万石以上24藩、残り233藩、うち76%が2万石以下だった。藩は経費削減の為兵士を政府に送り込む、その数は鹿児島藩3174名、高知藩歩兵2大隊、山口藩3大隊等、東京に結集した兵士は約8千人。3府302県、最終的に3府72県1史(開拓地)となる
  • 廃藩置県発令後1ヶ月後には政府首脳陣はアメリカ、ヨーロッパへの視察に出る、メンバーは岩倉、木戸、大久保、伊藤、山口等48名、目的は近代国家への宣伝、条約見直し。大久保はドイツビスマルクでの主導者、リーダーシップ検察。
  • 首脳陣の1年以上の視察で国内の不都合が勃発、西郷の朝鮮問題(征韓論)、台湾問題、政府施策不平(身分制度廃止、徴兵制度等)など、大隈重信は鎮圧する為大分、岡山、福岡そのが民衆暴動で多くを殺害、一揆を兵力で鎮火させた
  • 明治6年、大久保は内務卿になり台湾問題で命を掛け中国に行き賠償金を勝ち取り実質国政の中心人物になった。内務卿に関わったのは征韓論後の3ヶ月と清国への3ヶ月のみだったが、内務省を基盤に「 殖産興業による産業立国を達成することで国家が本当に自立することが可能になる」と信念を持った。その為大久保は農業関係から始め、農業試験場、駒場農学校等を設立した、また富岡製糸場、新町屑糸紡績を新設、工業技術の導入と移植に努力、下総牧羊場を作り羊毛の国産化、輸出貿易では岩崎弥太郎の三菱汽船に資金援助等をした
  • 『国家構想』大久保の国家構想
  •             立憲政体に対する意見
  •             殖産興業に関する建議
  •             家禄奉還中止の建議
  •             勧業寮定額見込書
  •             海外直販の結社設立の建議
  •             内国勧業博覧会開催の建議
  •             国本培養の建議
  •             貸付・資本手形発行の建議
  •             地租軽減の建議
  •             行政改革の建議
  • 大久保はこれまでの近代化=開化路線の修正を意図しており、伝統を見直し、地方の特性に配慮しつつ、近代化を進めていこうという方向が明確にした。従来の地価に対する3%課税を0.5%軽減した。行革は省等を廃止、統合し組織のスリム化を図り、官員の給与削減、府県知事の等級、報酬を削減した。それは政治家や個人、組織の利害に関わらず行われた。
  • 明治10年西南戦争にて西郷軍159人が戦死、西郷も没、その年第一回上野での第一回博覧会が開催10日間出品8万4353点、45万人入場であった
  • 大久保利道は明治11年5月14日8時30分頃紀尾井坂付近で士族島田一郎等に暗殺された(1830〜1878)
  • 「大久保利道の5月14日の朝の最後の言葉」
  • 『明治元年からこの10年の日本はゼロからの出発であり、何もかも最初からで、しかも兵事が多く、創業時代であった。これから先の10年は、内治を整え、民産を興す、すなわち建設の時代で、これは不肖私の尽くすべき仕事である。さらにそれから先の10年は、優秀な後輩が後を継いで、明治の日本を大きく発展させてくれるだろう」