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関東大震災から学ぶ

2017-09-26 10:58:58 | 歴史から学ぶ

@今から94年前、関東大震災が発生、当時人口が東京府と横浜で450万に対して190万人と多くの犠牲者と被災者がでた。既に生きて伝える人々もいなくなり当時の悲惨な出来事も忘れ去られている。震災等から何を学び、何を次の地震・自然災害に備えるか、また次世代に伝えるかが大事だ。

「大事なこと」とは1)的確な情報を下に行動すること、特に「流言」で人による2次、3次災害を招く場合もあるということ。2)自然発火、暴風による防災警戒を高めること。3)避難所での組織・仕組み・造作(特にトイレ)4)周りの処理はできるだけ自分たちで協力して行うこと。(救援・救護、食料・水確保、防犯・盗難防衛警備など、現代はさらに携帯等の電源も必須)特に都心ではこれだけの多くの人々が住んでいると一瞬で身動きが取れず、救援も相当な時間がかかると想定した自己防衛をしておかないと生存も難しくなると思う。あの東日本大震災での東京の有様は震源地から遠く離れていながらも交通、電力、通信が一部停止、翌朝まで交通の多くは復活できず徒歩で帰宅した人も多いはず。

東日本大震災は6年前、2011年3月11日。 震災後南相馬の図書館に行ったが膨大な当時の写真含めた本・資料等を見たが、余りにも多く資料に圧倒され一部の写真集を見るだけに止まったが実際の悲惨な状況は知るべしもない。

  • 1923年、大正12年9月1日午前11時58分大地震が関東地方を襲った
  • 主な過去の地震は、弘化4年の善光寺大地震、安政2年の江戸大地震、明治24年の尾張名古屋の大地震
  • 群発地震は頻度にあり大地震は60年ごとに起きると予測していた
  • 関東大震災震源地は東京の南26度西の方向120k相模湾にあたり地震は約1時間20分にわたって余震があり継続した
  • 相模湾の南西部にあたる深さ1,300メートルの海底が長さ24キロ、幅2キロから5キロの広大な部分に渡って100メートル以上も陥落した。最も激しい沿岸では180メートルも陥没し、反動で湾の北東部では逆に海底が100メートル以上も隆起した
  • 「激震地の被害」
  • 当時の東京府と横浜市の人口は約4,500,000人であった
  • •箱根の温泉地では866戸の家屋が倒壊、横須賀ではトンネルが崩壊2,300戸の家屋の倒壊、平塚では海軍火薬庫がガス爆発、神奈川県家では家屋倒壊数は全壊46,719戸、半壊52,859戸計99,578戸、横浜市では全壊9,800戸、半壊10,732戸、 合計20,532戸、グランドホテル、オリエンタルホテルも轟音とともに倒壊、外国人達が多く即死した
  • 千葉県では家屋の全壊12,894戸、半壊6,204戸合計19,098戸
  • 埼玉県では全壊4,562戸、半壊4,348戸、静岡全壊2,240、半壊5,216、山梨県では全壊562、半壊2,217、茨木県では全壊157、半壊267だった
  • 東京府では全壊家屋16,684、半壊10,122、東京の初の高層建築物と言われた12階建て 凌雲閣は階上が崩れ傾いた
  • 地震によって水道管が破壊され消防能力も失われ、延焼した。火災は随所で発生し風は低気圧の影響受け10メートルから15メートルとかなり激しいものになった
  • 火災の原因となった家屋は天ぷら屋などの発火、さらに最大の発火原因になったのは薬品だった。特に学校、研究所、製造所、工場、病院、薬局等の薬品が棚から落ちて発火した
  • 地震発生と同時に火災が東京市内15区すべてに起こり、麹町区10、神田区12、日本橋区2、京橋区10、麻布区1等約179ヶ所から出火した。炎は最も速度の速いもので毎時800メートル以上の速さで街を舐めつくし、約1,000,000平方メートル以上の地域を焼失させた。大火災は9月1日正午に始まり9月3日午前6時まで続いき、東京市の43.5%に達する10,485,474坪と言う広大な地域が焼き払われた
  • 東京市で一番悲惨な光景は本所被服廟跡20,430坪余りの広大な敷地に約38000名の死者、大惨事となった原因は火災による大旋風とされる。中でも1番多かったのは外出が制限されていた吉原公園の娼婦たちの遺体であった
  • 関東大震災と同規模の地震であった安政2年の大地震でも大火が大きな原因となり、発火したのは60六箇所で関東大震災の84カ所と著しい差はないが面積は19倍であった。
  • その中でも広大な砂漠の中に出現したオアシスのように和泉町、佐久間町の見事な焼け残りは好条件に恵まれていた。それは1部のビルが耐火構造建築であったことである
  • 避難場所の広場には避難者が荷物を手に流れ込んでくることが予想されるので、荷物置き場を指定し、さらに十分な消火設備を広場に備えることが絶対必要だと述べている
  • 「人心の錯乱」
  • 地震の後、民集の錯乱状態が起きるそれは流言の拡大である
  • 横浜市では加入者電話の90%が消失し連絡がつかなくなった
  • 流言とは「富士山の噴火」、「強振が再来する」、「大津波」、「朝鮮人来襲説」「囚人の暴動」、「婦女暴行、掠奪」、「社会主義者、共産党の活動」、「放火説」等
  • 自警団を組織化し暴動、掠奪、強盗等を殺戮した、特に朝鮮人に対しての流言が止まらず、日本人ですら多少でも疑われたものは殺戮された。
  • 当時関東には朝鮮人労働者が多く滞在しており、流言を利用して一部の日本人の集団が掠奪、強盗等をしていた。実際には朝鮮人による来襲説等は一切無く、人々の大半が精神異常をきたしていた
  • 流言は報道機関の新聞等で事実かのように報道され、内務省からの伝達も事実を確認せずそれを煽った。 結果、殺害された朝鮮人は26、013名におよんだ
  • 「列車輸送」
  • 政府機関も軍隊も貯蔵してあった食料を放出したが食料の大半は焼失してしまったので乏しく被災者を救出することができなかった、よって政府は電車等を無料で開放し、地方への分散を図った。
  • 東京市に戒厳令が敷かれ旅客以外は絶対入京出来ないようにした。但し公務を帯びる者、自ら大量の食料品を携帯する者、東京市内に家族を有し帰宅を必要とする者は除外したがそれでも多くの地方からの流入が多く、後半には上りの電車を空車にして運用した。
  • 鉄道省は電車以外に船も用意して静岡県清水港まで輸送を開始、また海軍省も船を用意して清水港に被災者を送ることに努めた
  • 「新聞報道」
  • 流言を止めるべく市内の新聞は政府の承諾なしには発行出来きないようにしたが、地方新聞はあらゆる流言を報道し混乱させた。
  • 政府は反政府組織の動きに敏感になり、社会主義者の大杉事件もこの時期に発生、大杉氏含め妻子は憲兵隊に殺害、軍法会議裁判を受ける
  • 「死体処理」
  • 9月1日以降128回の余震が続いていたのでしたい処理ができなかった。衛生課が死体処理をしたがあまりにも多く、腐敗していることもあり、死体の検視がだきないまま火葬場以外での外でも火葬した。
  • 出来るだけ本人確認する為の情報、死体の場所、特徴、衣類、携帯品、、毛髪、写真を残した。運搬した死体は4万8千131名、237台の運搬自動車と8300人の作業員が動員された。それには地方からの警察官も動員された。死体処理で難題が河川の死体処理には時間がかかった。
  • 避難所の新たな問題は糞尿処理で、トイレの数が足らず、その為の請負作業員、学生も動員された(糞尿を汲み取り搬送した)
  • 震災後には赤痢、腸チフス、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘が発症し、1万4千364名の患者、1、827名の死者も出た。
  • 「バラック街」
  • 上野公園には約50万人、外苑には30万人が集まり、避難者向け小屋を2万3千戸造作、バラック部屋数は上野で226、日比谷144、九段70、明治神宮外苑53、合計618棟造作
  • 「犯罪の多発」
  • 盗賊、窃盗等が多発し、殺害に及んだものもあった。
  • 銀行、郵便局では印鑑、通帳を無くしたといいことで強硬に現金を引き出し、強奪するものもあった
  • 食料品、薬品類、建築資材、綿毛糸毛布類、貴金属等も例外では無く襲われた
  • 暴利を貪る商人もあらわれ、政府は通常の3割以上高くしたものを暴利だと判断し警察が取り締まりした
  • 支援物資、医者を積んだ「レーニン号」ソ連の軍艦は政治的判断で拒否した