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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 9 熊谷泰作 1957年

2010-02-17 07:20:00 | 熊谷泰作

 私は愛唱の畠山重忠公を吟じて二の丸の高塁を重忠公霊祠に向う。その韻は高く低く心に響く。

  ここに畠山次郎重忠と聞えしは
  鎌倉山に綺羅星と
  輝く武将のその中にも
  一際(ひときわ)目に立つ英雄なり
  抜山蓋世(ばつざんがいせい)の雄略も
  深く韜(つつ)んで現さず
  衆を愍(あわれ)み士を愛し
  功を譲つて争はず
  風雅の道に心をよせ
  優に床しき武士(もののふ)の
  誠を推して仕へしかば
  右府もまたなく思しけり

 その至誠公明人をうつ重忠の人格に右府頼朝はこれこそ「源家の柱石なれ」と臨終の折重忠を枕頭に招き弱年の将軍頼家を始め源家の後事を托して五十三才を一期に鎌倉山の露と消えた。「士は己れを知る人の為に死す」【史記・刺客伝】人生これにまさる感激はありえようか。重忠は一途よく弱年の頼家を輔け今は亡き頼朝の信にこたえた。しかし頼朝亡きあとは尼将軍政子の生父北条時政は外戚の権をもって政をもっぱらにせんとし、まず頼家の舅である比企能員とその一族を謀殺し遂に新将軍頼家を幽殺してしまった。この時のことを物語化したのが修善寺物語であり人間頼家の最後の一こまである。そして弟実朝若年にして将軍職をついだが、時政の威権はますます強かった。
 重忠は源家の後事を思ひ心をいためながらもよく実朝に使え元勲としていっそう諸将の畏敬するところとなった。この重忠も遂に北条時政の後添「牧の方」の妊計により重忠の一子六郎重保と牧の方の愛婿平賀朝雅の争論を機についに謀叛の名を負わされ北条氏のために相州二俣川の露と消えてゆくのである。時に重忠生年四十二才であった。実朝は重忠が讒言(ざんげん)によってその実なくして殺された事をあわれんだが北条氏の武士の中にも謀殺の挙をにくむものが数多くあったと言う。重忠亡き後実朝はその形勢を察し風月を友とし世事を脱却して身を其の間に善処したが北条氏の専恣はその実朝をして「源氏の正統この時に縮まり畢(おわ)んぬ子孫之(これ)を敢て之を相継ぐ可からず」【吾妻鏡】と歎かしめた程である。そして公暁が鶴ヶ丘八幡宮の銀杳の下において実朝暗殺の愚挙に出たのを最後に源家将軍は三代にして北条氏の代るところとなったのである。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 8 熊谷泰作 1957年

2010-02-15 13:07:00 | 熊谷泰作

 歩を進めて三の丸へ入ると北側の高塁の脇に二三の人家を見る。人の世の生業は果しなく続く。天に太陽あり地に山河の存する限り世界はなお理想と希望との存する世界である。
 こゝに梅花の咲き匂うを見る。矢負に梅花をさし幽しい武人の風流に興じ滋藤の弓に生国の名挙をかけ、馬にうちまたがって名乗りをあげる武夫の武術修練の場と想われる。馬場の跡がこの一画に名残をとゞめている。
 分け入れば老松その枝を亭々とのばして、いかにも武蔵武士の気骨を示すかのように屹立している「松ヶ枝分けいでし昔の光」今はないけれど英風颯夾の関東武士の名残り追憶するに充分である。
 三の丸に心を留めながらも二の丸に向う。山林の自由を味わいながら二の丸門に入ればこゝに梅林を見る「梅花無尽蔵」と詩歌集に書き留めた古人の心のしのばれて懐かしい。古来日本人は梅を愛しその詩歌は数多い。天満天神として祀られた偉人菅公は十一才の春すでに梅を眺めて「梅花似照星」と歌っている。
 爾来春秋星霜亡くなるまで外部の褒貶に動くことなく梅の花のようにその自分を清くしその潔白を持ちつゞけた。ほろぶことなく、今もなお咲き香る梅にむせび、山林の児に生まれた自由多き青春の幸を思う。
 前方に本丸を眺める鎌倉の昔武士の鑑と歌われ至誠人の道をつくして遂に天命にたおれた畠山重忠公の館跡である。東方左手の丘にあがれば畠山重忠公像が最後の地二俣川に向って射るような眼を向けている。丈余の像の左右には香りも高い月桂樹が二本、公の徳をたゝえて香る。その碑文【小柳通義「重忠公冠題百字碑文」】に曰く
    畠山重忠公貞亮晩節堅
    山間秩父荘出如斯大賢
    重義履正路文武両道全
    忠良無私心仕源家罔愆
    公明而寛大人敬其誠純
    蹈水火忘身轉戦着鞭先
    正受疑應召發菅谷進駐
    路上討兵遮相州二俣川
    遭難釋甲冑自殺不怨天
    讒構雖覆明無實之罪甄  と。
 像のもとに立つと往時の事などしのばれて暗涙と共におもいは恩讐の彼方へと馳せる。「戦争と平和」私の青春はこの岐路にあって苦しんできた。もってこゝに恩讐を超えたこの偉人の人生に崇高な愛敬を捧げるのみである。たゞ誠心を盡して身を致し成否を天に委ねて永遠の真理に殉じた重忠公の名は七百年の今日尚燦然として我々の頭上に輝やいている。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 7 熊谷泰作 1957年

2010-02-13 11:31:00 | 熊谷泰作

 往時足利のを懐古すると関東管領時代の名将に太田道灌と云う人があった当時都に上ぼり時の帝に「武蔵野は。」と問われて、「露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原」と答え「武蔵はかるかやのみと思ひしにかゝることばの花や咲くらん」と帝を感嘆久しうさせたと云うこの名将道灌は関東の地に江戸城等を築城した。昨年はその五百年祭が東京で行われた事は記憶に新らたである。当時関東管領は扇谷上杉と山内上杉の両上杉にわかれていたが道灌は名実共に両上杉の棟梁であった。この道灌が糟谷の館に五十五才を一期に讒死(ざんし)したあとの両上杉は相共に兵をあつめてその覇を争い武蔵、相模の間に小合戦を現出した。この合戦の中にこゝ菅谷の原の合戦がある。即ち扇谷定正の嫡子朝良、相模扇谷を本拠とし江戸河越岩槻を従え道灌の家臣であった斉藤加賀守を軍奉行として長享元年(1487)十一月武蔵菅谷の原に山内上杉顕定と対陣したその時戦乱の巷に諸将の陣営を廻った漆桶万里の詩文集である「梅花無尽蔵」には、菅谷に扇谷上杉方の武将太田源六資康の陣営があり長享二年(1488)六月十八日には両軍大合戦あり戦死者七百余人、馬たおれるもの数百と書いてある。
 こゝに書かれた武将太田資康が道灌の一子で菅谷城はすでにこの時資康の手で改築されていたものと思われる。こゝに見えし武蔵武士は戦場の閑に詩歌念に身を寄せて武夫のおくゆかしさを歌に託す色も香もある風雅の人であった。
 この武人も合戦にあっては「恥かしからん敵ござんなれ」とその武勇を競う人となったのである。そしてこの仰ぎ見た大手門を馬に打ちまたがって討って出たものと思われる。
 菅谷原の戦は先に家職の事により両上杉に反抗した長尾景春が扇谷定正に附属して働いている。朝良が一時敵襲に敗れて退く際山内顕定父子の軍再び横より攻め立て将に危ぶない時、父定正左右に命じて朝良を援けさせた程で非常に接戦であったといわれている。
 治乱興亡は夢ににて世は一局の碁の如く*この両上杉も小田原北条氏の為に衰亡し武蔵の国は世変り人変り早雲謙信、信玄の戦場となった。私の生地信濃も謙信、信玄の川中島の決戦の歴史を刻んだ。後北條氏は秀吉の征服する所となり浪花の夢は二代にして消え德川氏十五代の基礎、江戸城に築かれた。「功名なんぞ夢のあと」はたして人の世で消えることのないものは何であったろうか?
 懐古は無限に続く。地球には年令はないが人の世は刻々とその歴史を語っている。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:三上卓(1905-1971)の『昭和維新の歌』(別名・日本青年の歌)(1930)の一節か。
  汨羅の渕に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れ飛ぶ
  混濁の世に我れ立てば
  義憤に燃えて血潮湧く

  権門上に傲れども
  国を憂うる誠なし
  財閥富を誇れども
  社稷を思う心なし

  ああ人栄え国亡ぶ
  盲たる民世に踊る
  治乱興亡夢に似て
  世は一局の碁なりけり

  昭和維新の春の空
  正義に結ぶ丈夫が
  胸裡百万兵足りて
  散るや万朶の桜花


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 6 熊谷泰作 1957年

2010-02-11 11:29:00 | 熊谷泰作

 今再びその青春の足音を鎌倉街道と遺称する道と思われる山道に響かせた。鎌倉街道は鎌倉―東村山―所沢―入間川町―高萩―今宿―菅谷―花園―児玉町、更に北上し藤岡に至る信濃越後に向う主要道路である。鎌倉時代畠山の庄司重忠この街道を鎌倉に向う折しも、南都幾川の断崖に臨み視望遠く展けたこの形勝の地を認め居館としてより鼎は移り歳流れて足利時代の長享年間太田道灌の子源六郎資康之を改築山河姿を改えて鎌倉館跡の片影を留めていず往時を回想することはできないが、今残存している資康築城の城跡は「平山城」を作り東と西とは谷を深くして区画し北方の台地に続き南方より順次本丸二ノ丸三ノ丸を置き各廓の間は深濠高塁を以て区分している。長さは各々等しく東西南北共に約四七二米(二百六十間)面積は約十町六反九畝歩ある。同城本丸の一部が重忠居館跡であったと思われる。その後小田原北条氏時代は北条氏方部将小泉掃部助が城代として守っていた。この三ノ丸の外濠高塁を南に見て杉檜の木立入り乱れる雑木林にふみ入ると両者に高い残塁を仰ぐ、」大手門である。濠ははるかにその深さを増している。濠におり立って大手門に至れば武蔵野にふさわしい雑木林が立並び周囲残壁累々として廻る、こゝに一軒の伏屋があり人の暮して居るのを見る。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 5 熊谷泰作 1957年

2010-02-09 11:27:00 | 熊谷泰作

 戦に敗れて声はなく興廃は移って悲喜まじる昭和二十一年(1946)春夢空しく去った落日の夕べに十九才の私にも傷心の身に盛衰存亡一場の夢なることをおぼろげながらも感じとれた。そして私はこよなくこの城跡を逍遥した。
  国破山河在 城春草木深
  感時花濺涙 恨別鳥驚心
と杜甫の春望の詩*を吟じ月の夜は荒城の月を唄って時の移るを忘れ傷心の身をいやした今日ここに十年未だ当時口ずさんだ牧水の
 「かたわらに秋草の花の語るらく
    ほろびしものは懐かしきかな」
と言う歌を覚えている。梅を尋ね春草の萌え出るを見、寝てしまうには惜しいような夏の夜に月を眺め秋草に情をこめ雑木林に山林の自由を吟じて血を湧かしそのようにして青春の息吹きは育くまれて来たのである。
「世の中を夢とみるみるはかなくも尚おどろかぬ我が心かな。」と驚き得ぬ自己の不明にいらだたしさを感じながら、青春を成長させていた友と語り明かした春宵もあった。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:杜甫「春望」
  国破山河在   国破れて山河在り
  城春草木深   城春にして草木(そうもく)深し
  感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
  恨別鳥驚心   別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚かす
  烽火連三月   烽火(ほうか)三月に連なり
  家書抵万金   家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あた)る
  白頭掻更短   白頭掻(か)けば更に短く
  渾欲不勝簪   渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 4 熊谷泰作 1957年

2010-02-07 11:24:00 | 熊谷泰作

「古跡についての懐旧の情は永遠の自然と一転瞬の人生との対照であり又懐古の詩文は必ず其の中に宇宙観と人生観とを含む」といわれているが全くその通りで、この感慨には無量の思いと無限の生命のつながりがあることが感じられる。人生において人間としての深いなぞに直面したとき誰でも自分の生命の根源に呼びかけ、自分の生命の秘密を深く究めようとする。
 そして自然を念い故郷を慕い血統を探りその結果郷土と父祖への愛に貫かれた自分の宿命を覚り懐古の情となって現れるのであろう。信州は私の生命の故郷であるが、私の青春をはぐくんだのは菅谷城跡である。菅谷城跡こそは私にとっては第二の故郷である。こゝに私の人生の花は咲き山林の一生を想う心は根強く養われたのである。皇師七百万日本の雄図は敗れ昭和二十年(1945)軍旅を引いた多恨の私が未知の国菅谷に旅装を解いたのは昭和二十一年(1946)四月十九才の時であった。
 こゝに再び全国の有為な青年と一緒に生活をすることが出来るようになった。そして『会いがたき師』にあい『得がたき友』を得た。爾来菅谷及び菅谷城跡は遂に私の忘れることの出来ない存在となったのである。今城跡に遊ぶことになってうたた感慨無量のものがある。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 3 熊谷泰作 1957年

2010-02-05 10:36:00 | 熊谷泰作

 私の幼時を追憶すると今もなお自然は忘れることの出来ない存在となっていることに気づくことが多い。一木一草を眺める毎々に故郷の姿幼き日のいろいろのこと等が頭に浮んでくる。城跡といえば戦国の昔故郷の偉人二木豊後守重高は松本城主小笠原氏を甲斐武田の軍勢の手より救い、故山の中塔*に迎え攻め寄せた武田勢と戦い城を固く守って遂に信玄の計画である私の郷土征服の野望を、挫折させたこの重高の本城中塔城跡の姿が目に浮んで消えない。私はこの城跡に遊んで荒れはてた城のあとに戦国の世を偲ぶ日が多かった。「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」と啄木も歌っているが眼を閉じれば高塁樹々皆眼底に残り、忘れることの出来ない印象の一つとなっていて、又しても今日十五の心が脈うつのを覚える。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:『城と古戦場』さんの「中塔城


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 2 熊谷泰作 1957年

2010-02-03 10:33:00 | 熊谷泰作

 人間が長い歴史に文化を連絡し之を表現し伝達するに至った天恵の書である。「自然の児たらしめたまえ」と祈った独歩の願望、天地の有情を夢みながら無限の詩鏡を歌い「うたかたの世々のあと、いづれの世か乱れの騒ぎなかりけむ」と歎き史上の英傑に思慕を寄せて治乱興亡の果敢なさに万るいの涙をそゝいだ晩翠の感慨等深くこの自然と歴史と人生と永遠の相におもいをめぐらせると「行く春の春とこしえに春ならじ」とこゝに生き抜いてきた二十九才の生涯に懐旧の情を止めることが出来ない。「人の生涯は殆んどその出発点できまると云うことは以前から学んでいたが近頃それについて思い当ることが多い。青年時代が人間の生涯に重要な位置を占めているということはいう迄もないが然し大体において人間は極く幼い少年時代に既にその生涯の路がきまるのではあるまいか、そう思って私は時々心に驚くことがある。だから自分の郷里がどんな田舎でもどんな石ころの多い土地であってもそこには自分の幼年時代がありその記憶が周囲のものであって見れば自分の生涯に及ぼす郷里の影響を軽々しく思うわけにはいかない。」と藤村は語っているが、実際異国にあって祖国をあこがれ異郷にあって故郷を慕うこのような時こそ初めて祖国が、故郷が、父祖が、幼時が、そしてそれを囲む自然環境がその真の意義において自覚されてくるのではなかろうかと私もつくづくと感じるようになった。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 1 熊谷泰作 1957年

2010-02-01 10:31:00 | 熊谷泰作

   梅の香と人の世は
        ―菅谷城跡を尋ねて
 「耐雪梅花香」(ゆきにたえてばいかかおる)*春にさきがけて香わしく匂う梅の花の無量の妙味を慕い、来る春に無限の情を走らせる頃になると私は近年いつも物を思う人となる。あー私はどのように人生を生きて来たか、青春には悔はなかったかと、そして「花とこしえの春ならず」と夢のように短い人生を悠久なる永遠の行旅と考えた游子の旅情にかようような、淡い言い知れぬなにものかを感じるのである。
 このような早春の一日「野は私の書斉、自然は私の書」と云って人生を楽しみ、或は行く旅を詩歌に託して人生をつぶさにかみしめ、或は思索散歩と名づけ?、朝夕散歩して人生観を呼び覚ましたりした人達の事を追憶しながら菅谷城跡を散歩し武蔵野及び武蔵武士の面影を満喫することゝした。大自然はさながら天の書である。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:西郷南洲「示外甥政直」(がいせいまさなおにしめす)の一節。


武蔵酪農の歴史 30 人工授精の歩み 松本功 1990年

2010-01-31 06:01:45 | 嵐山地域

   人工授精の歩み
             松本功
 人工授精も普及され始めたのが昭和23年(1948)頃からではあったが、まだまだ雌牛を近くの授精所まで引いていき、直交させた。この辺でも菅谷の木村牛舎、玉川の田中牛舎、唐子の野原牛舎等々、旧町村に1~2軒位づつ牡牛舎があったが直交での利点もあったが弊害も多かった。武蔵酪農創立の昭和24年(1949)頃は食糧難、就職難で敗戦による経済恐慌で米麦中心の農業から毎月現金収入の得られる酪農をとり入れる人が多くなり1~2頭の軒下酪農ではあったが、毎日の乳量、毎月の乳代の自慢話しで「お早う千両」と云う言葉も出て、正に酪農は楽農であった。人工授精の普及率はS25年(1950)頃は50%強で1頭当りの年間乳量は3300㎏位、その後人工授精も急速に普及されS30年(1955)頃は普及率90%乳量4500㎏位となり組合員としても少しでも乳量の多い牛を求めるようになり雌牛の選択には基より種雄牛についても強い関心を持つようになり授精についても種雄牛を指名するようになった。
 昭和34年(1959)先輩の加藤授精師が退職したので後任として勤めてくれと云われ人工授精担当として奉職することとなる。当時は激動の酪農界ではあったが、大先輩及び諸先輩の寝食を忘れてのご努力とご活躍により創立10年にして県下屈指の組合となっていた。
 私の入ったS34年(1959)は組合員630名位乳牛頭数800頭位で組合長藤野喜十氏、専務山田巌氏、参事田村孝一先生、獣医井上、西川、小鷹の諸先生、事務員と牛乳処理系の諸先輩で全員15~6名で毎日活気に満ちていた。
 当時は授精も茶壷の様な形態魔法瓶に氷を入れ生の精液を運搬したが夏場など特に氷を切らさないようにするのに苦労した。
 当初の乗物は組合より貸与のオートバイ、メグロ350㏄で廻ったが何しろ半年位は道も又組合員宅も仲々みつからず道路も未舗装が多く砂塵が上がり厳寒の雪の日や雨の日のオートバイは身に応えた。でもS36年(1961)頃より乗用車も流行りだし組合でも役員の方々等の深いご理解で中古車ながらも名車のヒルマンを買って頂き先生方共、たまには乗せて貰ったが私も勇躍小型自動車の免許をとり、スバル360で廻れるようになり雨の日も風の日も苦にならなくなった。
 酪農組合も発展を重ね霞ヶ関の鋼管牧場のキングドンとキーノーターと云う種雄牛では間に合わなくなっがS37年(1962)頃より凍結精液が叫ばれ、我々授精師も度々講習会に参加、県の山下、入江、大竹の諸先生のご指導を受け、始めは4?のジャアーにドライアイス(-75℃)を入れ、グロンサン位の錠剤の凍結精液による受胎率試験を1年位行い、その後細ストロー式の試験も行い結局現在のストロー式となり保存も液体窒素(-196℃)となり半永久的となり、S43年(1968)より実用化となった。従って国内はもとより諸外国の名牛の種まで容易に手に入るようになり改良も一段と進んだ。
 その頃より日本経済も安定し工業立国へと進み始め第二種兼業農家も増え、酪農が落農となり立派なサラリーマンに転向する人も出るようになり、又楽農家は多頭飼育となり健全な酪農経営をめざして専業化して行った。
 S43年(1968)頃より優秀な遺伝子の固定化を図るため種雄牛の後代検定制度が始まり酪農家の血統書付きの牛に厳選された後代検定候補牛の種を授精し1候補牛に対し30頭位の娘牛を国が買い上げ2産程度まで飼育検定し基準点に合格した候補牛だけ後代検定済種雄牛として供用する制度に当組合でもS47年(1972)頃よりS60年(1985)まで大勢の組合員の皆さんにご協力を得てこの事業にも参加して頂き徐々にではあるが、この辺の搾乳地帯の目標である豊乳性、連産性、強健性に富んだ牛作りに励み、40年前より可成良い牛群となり1頭当り年乳量も6000㎏近くまで上昇してきた。
 これからは尚進んだ雌牛側からの改良技術も取り上げられ授精卵の移植に依って、めざましい改良が進められる事と思います。
 最後になりましたが創立40周年記念誠にめでたい極みでございます。組合及び皆さんの益々の繁栄をお祈り申し上げます。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)123頁~124頁


武蔵酪農の歴史 29 酪農獣医師として33年間の変遷 小鷹隆夫 1990年

2010-01-30 05:59:00 | 嵐山地域

   酪農獣医師として33年間の変遷
             小鷹隆夫
 酪農40周年に当り衷心よりお祝い申し上げます。記念誌発行に際し、私の武蔵酪農での生活を記してみたいと思います。
 私は、山間の村鳩山町(旧亀井村)の農家の4男として生を受け、戦時中の少労力の中で、兄弟協力農作業を手伝いながら成長。戦後29年(1954)酪農振興法が制定され、食物増産(動物性蛋白脂肪の摂取)が不可欠というので畜産が奨励され始めた時、動物愛護が社会に役立つ事に人生の生き甲斐を感じ獣医科に進学、農業と酪農の複合経営の中で、兄夫婦の家業を手伝いながら30年卒業。
 当時は就職難の時代で、先輩の西川奨先生を尋ね武蔵酪農を訪問。伊東勝太郎先生、田村孝一先生と出逢い、それが、その後33年間酪農にお世話になるきっかけとなりました。そして30年(1955)5月より就職の見つかるまで、技術見習として、大きな診療カバンを抱えて田村先生の単車の後に乗り、酪農家を訪問、乳牛に接し、獣医師としての自覚と責任が培われ教育されました。当時は組合員数611戸、毎日10軒からの往診で、夜は小島屋(旅館)さんに宿って廃用診断書の整理を手伝い、報酬3000円を藤野専務さんより頂いた事は今でも忘れる事は出来ません。
 4ヶ月の見習期間後、30年(1955)9月岐阜県恵那郡畜産連合会勤務(長野県境の観光地木曽谷馬籠の近く)。動物全てを対象に、自然と素朴な人情にふれながら一年一ヶ月。若林進先生転職により、武蔵酪農に招請されて31年(1956)11月奉職。
 当時、浜中組合長、藤野専務の管理体制のもとに、組合獣医師としての使命感が強調され、田村、西川両先生の技術指導に基づき、受精、診療に従事、疾病は単純で管理の失宜が多く、抗生物質などの科学療法剤の発達は、病気を容易にしてくれました。
 32年(1957)には、田村先生が健康を害され技術的に惜しまれながら組合参事に就任、以後、役職員の信頼のもとに、酪農振興、組合発展に尽力なされた功績は、まことに大きなものがありました。田村先生の代りに、家畜保健所より井上久雄先生が就任、主任となって、酪農経営改善指導、診療にと大いに努力され、酪農発展に貢献なされたことは承知の通りであります。
 この頃から、漸次、治療技術も進歩して、内科的な治療から外科療法が普及し、帝王切開手術(小見野高橋正照さん所有牛)を始め、盗食鼓張症による第一胃開腹手術が試みられ、充実した技術者のもとで診療に専念出来ました事を誇に思って居ります。
 33年(1958)12月には、長い間乳牛の改良増殖に尽くされた加藤留平受精師さんが転職。翌年1月松本功受精師さんが担当、多忙な時代を生産向上に献身的に尽され、43年(1968)より田辺郁彦受精師さんと共に協力、資質向上に努力されて現在に至って居ります。
 この時代は、機械器具が普及、生産基盤の確立、畜舎の造成も図られ、月輪、太郎丸には共同経営事業も始まり合理的な生産向上を目指して夢と希望に燃えた時代でした。指導部としても念願の診療自動車が購入され、獣医、受精師共に陣容も整い、酪農家の庭先には乳牛が悠然と草を食み、日光浴をし、反芻をしている姿を眺めながら、安定した酪農情勢の中で青春時代を過した懐かしい思い出も多い時でもありました。
 酪農はなやかなりし36年(1961)6月、技術的にも精神的にも大変お世話になり尊敬して居りました西川先生が転職。大山通夫先生が嘱託獣医として診療の一翼を担い、外科手術を得意として活躍することになりました。
 所が、全国的に30年後半より飼養戸数の減少が始まり、武蔵酪農に於いても47年(1972)には顕著となり、35年(1960)658戸、乳牛頭数1021頭数えた生産者も、47年(1972)145戸、乳牛頭数1539頭と戸数が極度に減少、これは小規模層の経営離脱によるもので、内部問題としては、生産性の低さ、所得規模の小ささ、労働周年拘束性が強い事等、外部問題としては、他産業の雇用機会増大が原因と考えられます。反面、規模拡大の動きも見られ、生産向上と一定所得額確保を目的として努力する様にもなって来ました。指導部に於いても、35年度より乳牛資質の改善と、基礎牛確保生産態勢確立のため、計画的に北海道導入が実施され、生産確保に全力を投球する事になりました。
 その間、井上先生が受乳場に転属、二人で苦労を共にした事もある大山先生も、45年(1970)12月小動物に専念のため転職。その後、井上先生と二人で診療、多忙の折には藤田利雄先生の御協力を頂き今日に至って居ります。
 47年(1972)以降は、徐々に戸数減少、多頭飼育という生産性収益性の高い経営形態へと著しく変化し、利益優先の時代へと変貌。51年(1976)にはオイルショック後の景気低迷の中、酪農経営の安定化が叫ばれ、更にその後も、生産調整、環境整備問題等、荒波にもまれつづけて来ました。
 一方疾病も、多頭飼育、省力管理という畜産経営形態の変化に伴い、粗飼料、運動不足による顕性的急性病から、陰性的慢性病へと変化。従来の単純な運動器病、消化器病に比べると大変複雑化して来ました。例えば、第4胃変位、産後起立不能、極度の運動器病、過肥による繁殖障碍、いわゆる代謝病中毒性疾患(ストレス病)等、新しいタイプの疾病へと移行し現在に至って居ります。58年(1983)には、異常産が発生(アカバネウイルスが原因)、難産による切胎、帝王切開手術が夜半に迄及ぶ事もありました。
 この様にして臨床生活33年を経て、今日、振り返って見ますと難産後の出生の喜び、子宮脱、開腹手術後の全快の安堵、又、加療の甲斐もなく廃用・死亡の苦い思い等、どの生産者の家にも、脳裏に刻まれ、決して忘れる事の出来ない思い出が、枚挙にいとまがない程でございます。
 現在、酪農界に於てもここ数年、畜産状況も厳しくなる一方で、農産物の自由化、生産調整下に於ける乳量、乳質問題、飼育者の高齢化、後継者問題、畜舎の環境による公害問題等、畜産経営のむずかしさが問われて来ております。
 この様な酪農形態変遷の中で、生産向上に試行錯誤、勤勉努力なされました生産者の皆様、又、技術的にも精神的にも御指導頂きました多くの先輩諸先生方、職員の皆様方に深甚なる敬意と感謝を表わすと共に、今後もますます酪農発展に御尽力下さいます事を御祈念申し上げます。
 ここに、酪農発足40周年を迎え、多くの先人の築いた偉大なる功績とご苦労を偲び、武蔵酪農発展を心から念願すると共に、今後共微力ながらも出来る限り尽力させて頂きたいと思っております。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)120頁~122頁


武蔵酪農の歴史 28 乳牛導入についての思い出 井上久雄 1990年

2010-01-29 05:57:00 | 嵐山地域

   乳牛導入についての思い出
             井上 久雄
 武蔵酪農の北海道乳牛導入事業は、昭和35年(1960)夏より第1回が実施され、約40回位総頭数1500頭以上の初妊牛、経産牛、優良牝牛が導入されました。
 始めの頃は貨車輸送で、ワム(8頭載)、ワ(6頭載)の貨車で1回に3~4頭位が到着しました。嵐山駅では貨車扱いが出来ないために小川町の貨車ホームで牛の引き取りを行いました。又当時は牛専用トラック等もなく普通2tトラックに三角枠を組み2頭の牛を乗せて配送したものです。こんな簡単な枠のため途中でトラックから転落した事故もありましたが大事に至らなかったと思います。又貨車の到着時間が夜のことが多く翌日午前十時頃までに清掃し返還する事は大変忙しいことでした。その後嵐山駅でも貨車到着が出来るようになり牛の配送も便利となりました。
 上乗りさん(貨車1~2両を受け持ち牛の乾草給与給水等をする人)について。津軽の東海林牧場の牧夫だと思いましたが結婚し新婚旅行に熱海温泉に行くのに東京まで二人で上乗り、その間の旅費は只その上、上乗り料金を貰ひ旅行の費用にしたときの事を聞き微笑ましく思ったものです。二人で貨車に乗車中ベッドが頑丈に出来ていなかったのか?二人の愛が強かったのか?牛の背中の上に落ちてしまい元通り直すのに大変苦労したとのこともあり上乗り仲間より大笑いされたそうです。
 夏は非常に暑く、冬は牛いきれと、貨車の中の環境は最悪です。馴れないと食事、トイレに行くのにも大変なことだと上乗りさんに苦労話を聞かされたものです。或る秋の輸送の時、台風のために函館で一週間も連絡線待ちをしたので乾草も殆んど無く、水だけで来たこともあったそうです。こんな時は牛を貨車積みしてから10日間もたって到着したのだと思います。貨車より降りてからも体がふらついているような事が有ったように思いました。購買時の面影もなく巻き腹となりみすぼらしい姿でした。牛の疲労度は最高だった事でしょう。
 その後、東北自動車道が仙台まで開通するようになり、大型トラック輸送が実施され輸送機関も短縮され3日位にて到着出来るようになりました。牛の疲労度も格段に改善されて現在に至っている状態です。
 稚内市勇知地区について、ホルスタイン農協の購買担当の木伏技師より遠くて不便な所だが小型で胃腸の丈夫な牛が居るとの事で早速田村参事と二人で、札幌発午前十時頃の急行に乗り午後五時頃稚内市に到着、市内より内陸部に35㎞位はいった所に、勇知農協があり、阿部さんと云ふ購買係により管内農家を巡回して、購買に当りました。道南の牛と比較して、足が短く、背が低く、粗飼料を多く喰っているためか胸囲は充分あり被毛も長く一見して粗野に見える牛でしたが丈夫であり基礎飼料も少なくてすむ経済効率の良い牛で武蔵の組合員に合ったような牛でした。1車購入するのに2日間位掛かったものです。その後この宗谷地方でも牛の購買に慣れて、こちらの要望を満たすようになってくれたと思います。
 阿部さんの後任の吉田さんですが、ユニークな人で、ポーラー化粧品のセールスマンで札幌より当地に来て農協職員として奉職するようになった方です。スマートで顔面の彫り深い人で宗谷地方に居ないような、そしてユーモアのある人で農家の信頼度の厚い購買担当者でした。組合にも牛の追跡調査のために来たこともあり、玉川支部に行ってもらったと思います。後年稚内支所の参事として勤務されて居たと思います。
 豊富農協管内の購買時であったと思いますが、放牧場でヒ熊に襲われて尻に熊の爪跡をつけた牛も購買したこともあります。多分唐子地区の組合員に抽選されたと思います。
 勇知抜海駅近くの西岡牧場でエコーランド系の2産目の牛を購買しました。この牧場の親父が特別の変り者であり農協の組合員にもならず、息子さんのみ組合に加入すると云った牧場であり借り入れ金など全くなく特別扱いされていた人と聞きました。此の時は経産牛の希望者は無くて初妊牛のみでありました。小型で黒い皮膚のよい牛であり、抽選会で町田さんに希望を曲げて取ってもらいました。この牛の系統が川島の町田さんで増えた、エコーランド系で現在も飼育されている牛です。
 2月購買では羽田沖で全日空機の墜落の残骸を見ながらの飛行は気持の良いものではありませんでした。千歳空港着陸前に田村参事はビールを注文するような事があり内心気持ち良くなかった事だったのでしょう。私も同感でした。
 勇知、厳冬2月購買の馬橇について、此の時期、除雪した道路以外はジープでも動く事は不可能なので馬橇で購買に当りました。元気の良いアングロノルマンの4才馬に箱付馬橇を引かせて4人乗りで約14㎞位の雪道山道を巡りました。この箱の中には品川アンカ2ケ毛布2枚で足を暖めながらですが寒くて手足が痛くなり橇より降りて雪道を走りやっと寒さに耐える事が出来た始末です。北国の冬の日は雲が来るとすぐ吹雪となり寒さが一段と厳しく感じられます。歩くと長靴の下の雪が、キュキュと鳴くのです。本当に雪国の生活は大変だとつくづく思いました。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)118頁~119頁


武蔵酪農の歴史 27 牛の流行性感冒発生に懐う 田村孝一 1990年

2010-01-28 05:55:00 | 嵐山地域

   牛の流行性感冒発生に懐う
              田村孝一
 組合発足して間もない昭和25年(1950)9月、突如として牛の流行性感冒が発生した。初発10日位にして埼玉県内全域に発生をみた。
 私の診療した初発牛は、菅谷村遠山地域が最初で9月の10日頃と記憶しているが、それから関係組合員の飼育する乳牛は殆んど全頭罹患し、体温上昇、呼吸困難、皮温不整、流涎、流涙、茫然起立、食慾不振、食慾廃絶等、呼吸器型、神経型、胃腸型の症状を呈し、軽症のものは一回の治療で回復したが、重症のものは数回の治療を要し、妊娠中のものは流産、早産も発生した。
 最盛期の9月中旬から下旬にかけて一週間~10日位は、伊東所長と共に夜も寝かせてもらえず診療活動も大変でした。
 薬品についても、当時は大動物専用薬は少なく、人医用薬を使用し、人間の10倍以上使用するため、菅谷の島本薬局、松山の辻薬局にお願いし薬品の調達も大変に苦労した。
 その当時、往診は自転車(西、竹沢約15㎞ 東、八ツ保約25㎞)だったので、初発後数日は間に合わせたが、罹患牛の増加が激しくなり集乳車を運転手つきで用意してもらい、東部は木村さんの小型トラック、西部は長谷川さんのオート三輪車をお願いした。
 オート三輪車の長谷部正ちゃんには随分と苦労をかけました。オート三輪車の助手席に乗せてもらい、膝に毛布を掛け夜になると私が居眠りをするので片手で私をささえ片手で運転をしたり大変だった。
 又治療の時、ブドウ糖やリンゲル液に、消炎鎮痛剤等アンプルをカットし混合する作業も手伝い、静脈注射の時、ブドウ糖を持つ手伝い、その時私は又注射針を持ち乍ら居眠りをするので、注射が終るのを確かめて合図をしてくれる等、手際よく助手の役割を果してくれて大変助かりました。
 長谷部さんも不眠不休が続いているので、そのうちに私が治療している時間にオート三輪車のボデーで仮眠する様になり、尚その後は長谷部さんの近所の古谷さんを頼み昼夜交替で運転してくれることになりました。
 或る時、松山から八ツ保小見野の地区【現・川島町】の診療を終え、木村さんの車で松山の駅まで送ってもらい、東上線の終車で嵐山駅におりると長谷部さんが駅前に待って居て、これから未だ数件往診を頼まれているということで早速竹沢方面にいくことになり、途中小川の町外れで、タイヤがパンクして雨の中2人は困惑したが、道路の端の親切な家の軒下をかり、10数ヶ所チューブに穴があいて仕舞ったところを根気よく直してくれた長谷部さんには頭が下がりました。
 結局この日も診療が終ると夜が明けて、私を下宿(月輪六軒、長谷部恭太様宅離れ家二階)に送って長谷部さんは雨の中集乳に出かけました。
 集乳の時間が私の仮眠の時間で、下宿に帰った朝、“おばさん”は集乳が終る時間頃まで私を起こさずに気をつかってくれ、組合員の方も朝早く往診の依頼に来ても大部待たされた様子でした。
 診療の時間も頼まれた順序でなく、地理的にコースを組んで往診するので朝早く頼まれても途中で隣の家の牛が発病したり、罹患牛が蔓延し計画した時間より次々遅れて夕方になっても未だ診てもらえないと云うことで、生産者には心配かけたり苛立たせたり大変迷惑をかけました。又怒られもしました。
 この様な状態が1週間から10日続き、最盛期は9月下旬頃で、猛威をふるった流感も1ヶ月余にして終息した。
 私の治療した頭数は約300頭に達し、流産した牛は数頭発生したが。斃死牛の発生をみなかったことは、組合員の皆様の協力によって若輩で未熟な私に幸運を与えてくれたものと感謝して居ます。
 この1ヶ月余にして300頭に及ぶ貴重な治療の体験が、私の将来の臨床生活に於ける大きな源となり、基盤となり、40年に亘ってお世話になるスタートでもありました。
 翌26年には、咽喉頭麻痺が散発し玉置獣医師と治療に当り大事に至らなかった。
 流感大発生の往時を偲び、その一駒を記しました。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)116頁~117頁


武蔵酪農の歴史 26 酪農20余年の歩み 嵐山町・吉場雅美 1990年

2010-01-27 05:46:57 | 古里

   酪農20余年の歩み
          嵐山町 吉場雅美
 時は激動化した、昭和の真只中、酪農家として発足したのは、27年人生男さかり30才の時であった。
 私の営みを酪農に決定づけたのは、自然条件に恵まれた町の片隅の林野に囲まれた地形に、土と闘い、酪農に生き20数年を返り見て、此の度、武蔵酪農40周年誌発刊に際し、想いでを記する機会を得ましたことは、誠に、感謝にたえません。
 戦後も10年余も過ぎ去った頃、日本は経済大国として、造船ブームも世界一として、高度成長を世界に誇り示した頃であった。
 乳量需要も活気を呈し、明治や森永の乳業会社も乳量確保に争奪に及んだこの頃は、我々生産者にも張りのある時代であった。
 酪農家も、次第に増して、武蔵酪農も、頭数は、益々拡大し、各町村にも、畜産共進会が盛んに施行される。昭和32年(1957)秋の比企郡市育成共進会が開かれ、時の組合長浜中東重郎会長より優賞に召されたこともございます。その翌年の頃かと思いますが、本年(1989)誕生した天皇陛下は美智子妃殿下と結婚した頃、県の畜産共進会が深谷市で開催され、武蔵酪農一組合員として入賞出来たのも、時の組合員各位の御支援の賜ものと深く感謝申し上げます。然し、その後の事である。人生には浮き沈みもございます。期待した二産目の成牛が、突然病み出し、食慾もなくなり激しい疲憊その極に達し、田村、井上、小鷹三先生には深夜まで治療に当られ、小鷹先生には夜を徹して看病に付いて頂いたが、悔も空しく遂に、私の不注意怠慢から、手遅れとなり帰らぬ牛となった事も、心に残る深い思い出として、三先生には、本誌をもって、厚く御礼申し上げる次第であります。
 此の様な強打も受けて、又波を越えて、私達、班のグループ7名は、月に1回の乳代精算に、各家庭を廻って、楽しく話合に花咲く夜の交流に生きがいを感じ、大型酪農をめざして、夢と、希望に、躍進した時もあった。
 尚、39年(1964)東京には、オリンピックが開かれ、一大人類の祭典として、乳量需要も増えてか、各メーカーは、色物乳製品が、多量に出廻り、生産者にもピンチが来た。でも我が組合は、益々繁栄し、或る時の通常総会に、議長として就任した時の思い出は、500人もの組合員と記憶しているが、この頃は、玉川地区や、江南地区からも新加入者が増えて、堅実に、組合は、昇る朝日の如く運営されたのである。
 併し、時代の変革の中で、牛と別れる時が来た。49年(1974)成牛7頭、育成3頭、長年愛育した牛も目頭うるむ涙で見送ったのであった。
 でも之を資本として、植木の生産に切り替え、今や会社として造園業に導いて下さったのも酪農のお蔭と信じ、幸せを求めて、今尚、健全な老後の日々が送れる事は、人生の最大の幸福と思い、今後とも、何分よろしく、御支援賜りたく、心より御願い申し上げます。
 武蔵酪農の御繁栄を、お祈り申し上げます。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)108頁~109頁

吉場雅美「菅谷村畜産と自給飼料」(1958)「戦後五十年に思う」(1995)


武蔵酪農の歴史 25 酪農の思い出 嵐山町・杉田善作 1990年

2010-01-26 07:05:07 | 太郎丸

   武蔵酪農40周年を迎えて
          嵐山町 杉田善作
 組合40周年を迎えお目出度う御座居ます。
 かえり見れば私達は埼玉酪農組合より菅谷支部の山田、奥平、鯨井氏等の日夜を分たぬ勧めに依りまして、武蔵酪農組合第2支部としてお世話に成りました。明治乳業からは伊東所長、昭和31年でした。この当時は各組合とも組合員獲得に熾烈を極めた時代。菅谷第二部内でも100頭を数える様に成り、酪農なくして農家経営なしと云う様な農村事情でした。
 菅谷第1、第2支部は組合の指導的立場にありました。村当局も酪農協会にも理解を示され仔牛の無償買付も行われました。私も福島、藤野両組合長さんと一緒に役員としてお世話になりました。山田専務役員等の計らいに依り飼料倉庫の増設、配合飼料等の機械設備を備え、健全な組合活動を続けて参りました。
 各集乳所へのクーラーの設備も会社の援助を戴き乳質の改善にと取りくんで参りました。
 昭和38年(1963)5月には日産100石を集乳処理するまでに組合員も努力致しました。
 経営形態も少数から多頭飼育へと変り、規模拡大される様に成って参りました。太郎丸地区、月輪地区に於ては、飼育の共同経営も実施されました。当時は現在と違い牧草畑も少なく山林を利用しての経営でした。協同経営にもなかなかむずかしく。相手は動物、計画通りには行かなかった様で大変苦労された様でした。
 十年一昔と云えますが多頭化経営に付いて行けなく成り、一人二人と組合を脱退するものが出る様になり、出稼あるいは会社にと転向する社会情勢と移って参りました。幾歳月の過るのも早いもので組合から離れて20年夢の様です。
 平安の時代農産物も自由化となりまして大変とは思いますが、残って居ります皆様、若い力と経営努力に依りまして健全なる酪農業に邁進して下さい。必ず立派な業績が上がると信じて居ります。
 益々組合も発展致す事を希望致して居ります。私も早70才、30年前思い出し懐かしくペンを走らせて戴きました。当時一緒にお世話になりました役員さんも何人か他界された方も在る様に伺って居ります。こうした方々の御冥福をお祈り申し上げると同時に、組合員職員の皆様方の御健康と御多幸を御祈念申し上げまして、過ぎし日を想い出し終りと致します。失礼致しました。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)101頁~102頁