私は愛唱の畠山重忠公を吟じて二の丸の高塁を重忠公霊祠に向う。その韻は高く低く心に響く。
ここに畠山次郎重忠と聞えしは
鎌倉山に綺羅星と
輝く武将のその中にも
一際(ひときわ)目に立つ英雄なり
抜山蓋世(ばつざんがいせい)の雄略も
深く韜(つつ)んで現さず
衆を愍(あわれ)み士を愛し
功を譲つて争はず
風雅の道に心をよせ
優に床しき武士(もののふ)の
誠を推して仕へしかば
右府もまたなく思しけり
その至誠公明人をうつ重忠の人格に右府頼朝はこれこそ「源家の柱石なれ」と臨終の折重忠を枕頭に招き弱年の将軍頼家を始め源家の後事を托して五十三才を一期に鎌倉山の露と消えた。「士は己れを知る人の為に死す」【史記・刺客伝】人生これにまさる感激はありえようか。重忠は一途よく弱年の頼家を輔け今は亡き頼朝の信にこたえた。しかし頼朝亡きあとは尼将軍政子の生父北条時政は外戚の権をもって政をもっぱらにせんとし、まず頼家の舅である比企能員とその一族を謀殺し遂に新将軍頼家を幽殺してしまった。この時のことを物語化したのが修善寺物語であり人間頼家の最後の一こまである。そして弟実朝若年にして将軍職をついだが、時政の威権はますます強かった。
重忠は源家の後事を思ひ心をいためながらもよく実朝に使え元勲としていっそう諸将の畏敬するところとなった。この重忠も遂に北条時政の後添「牧の方」の妊計により重忠の一子六郎重保と牧の方の愛婿平賀朝雅の争論を機についに謀叛の名を負わされ北条氏のために相州二俣川の露と消えてゆくのである。時に重忠生年四十二才であった。実朝は重忠が讒言(ざんげん)によってその実なくして殺された事をあわれんだが北条氏の武士の中にも謀殺の挙をにくむものが数多くあったと言う。重忠亡き後実朝はその形勢を察し風月を友とし世事を脱却して身を其の間に善処したが北条氏の専恣はその実朝をして「源氏の正統この時に縮まり畢(おわ)んぬ子孫之(これ)を敢て之を相継ぐ可からず」【吾妻鏡】と歎かしめた程である。そして公暁が鶴ヶ丘八幡宮の銀杳の下において実朝暗殺の愚挙に出たのを最後に源家将軍は三代にして北条氏の代るところとなったのである。
菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月