里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

東昌保育園が開設される 1974年4月

2009-05-28 14:54:07 | 1974年

 本年四月から、嵐山町に社会福祉法人(設立者代表、長谷川黙龍氏)により保育園(東昌保育園)が設立、開園されます。
 保育園とは、保護者の労働又は疾病等の理由により、その監護すべき乳児、幼児の保育に欠けるところがある場合に入所させて保育する施設です。入所の手続きその他については次号の報道でお知らせします*。 (住民課)
     『嵐山町報道』236号 1974年(昭和49)2月17日

*次号に記事はない。
参照:菅谷幼稚園、嵐山町立嵐山幼稚園。


宅地分譲、住宅団地ブーム 1961年

2009-05-27 23:02:26 | 1961年

 日本相互信用株式会社(東京)は、東昌寺裏、鉄道線路上、山林一町一反余を買収し住宅地を造成、嵐光苑と名付け都人を対象に分譲中であるが、すでに大部分が売約済みの由。尚、一区画割六〇坪~八〇坪程度、坪当最高五〇〇〇円、平均三〇〇〇円。
     『菅谷村報道』125号 1961年(昭和36)6月15日
  
  分譲地売り出し風景
 平沢の東光台団地を皮切りに村内に住宅団地ブーム。嵐光苑(菅谷)、小千代山(千手堂)、武蔵(平沢)、公苑台(菅谷)等、山は拓かれ地はおこされて忽ち区劃計画が出来、街灯が立てられ、アレヨアレヨと目を見張る村民の面前を六一年型スカイラインが分譲地へ疾走する。秋空に万国旗がハタメキ、レコードのメロデーが高鳴っている。写真は、菅谷公苑台分譲地
     『菅谷村報道』127号 1961年(昭和36)11月30日


埼玉国体夏季大会炬火リレー行わる 1967年9月

2009-05-26 00:02:00 | 1967年

 九月十五日あさ、堂平天文台において採火された、埼玉国体夏季大会川口会場を飾る炬火は、都幾川、玉川の両村をリレーされ、同日午後零時二十二分鎌形中島地区において、玉川村柏俣議長のトーチより関根町長のトーチに点火された。
 炬火は菅谷、七郷両中学校男女走者によりリレーされ、午後零時三十七分新月田橋において、安藤助役より東松山市杉浦助役のトーチに点火引継ぎを行い、ここに炬火リレーを盛会裡に無事終了した。
 この日のために用意された舗装道路を、台風の余波小雨降る中をリレー隊は白煙をなびかせて通過した。
     『嵐山町報道』177号 1967年(昭和42)10月15日


昔を今に・部落めぐりあるき 序 関根昭二 1950年

2009-05-23 00:03:00 | 1950年

 「國敗れて山河あり」とは東洋の詩人の言葉であるが、げにとこしへに変らざるものは自然の姿のみであろう。清らかな川や美しい山に囲まれた私たちの郷土に過去何千年の間、いかに多くの人々が生き且死んでいったことであらう。さうした人々の生活記録、云はば民衆の歴史は華やかな戦場の武士達の影に消え失せてしまってしのぶことさえもできない。私たちの祖先が、名もなき人々が、この土地で如何に生活し、如何に働いてきたか、さうしてそのやうな時代とはどんな風土であたかは、僅かに年老いた人々の口に語り草として傳へられてゐるだけであり、然も遠い日のことは知るべくもない。だが私たちのささやかな生活の端々に、なにげない言葉の一片に、或はさりげない日常の慣習に、地名や呼名に、年中行事に、更には自然の一木一草に、私たちの遠い祖先の血が脈々と流れてゐるのである。
 今日生きてゐる年老いた人々は、明治の代に生まれた人々ばかりである。でもそれらの人々に私たちはありし日の私たちの村の姿を尋ねることができるであらう。更にはそれらの人々が遠い日のこととして語り傳へられてきた数々の物語を聞くことが出来るであらう。さうして私たちは、私たちの郷土の歩みを云はば歴史の影の部分を知ることができるであらう。かうした歴史の影の部分を記録に留め更にその生活史的意義を解明してみたい念願でこの「めぐりあるき」の企てを起こしたのである。これは一つの「思ひ出の記」である。村人の心の奥底に秘められたささやかな懐古録である。さうして菅谷村の現代的風土記である私たちの郷土の史蹟はすでに多くの研究家によって記録に留められてゐる。だが民衆の歎きや、喜びや、苦悩やがて時の流れという懐古のベエールを通して眺められた時、ただ懐かしい思いを以て甦ってくる民衆の生活史、民俗史は何等残されてはゐない。私たちはかうした私たちの歴史を自らの手によって書き綴って置く必要があるであらう。それは私たち祖先へとつながるものであり、更に私たちの子孫への贈り物ともなるからである。
 私たちは、私たちが、現在生き且(かつ)働いてゐるこの土地を「ふるさと」としてこよなく愛するものである。今回、報道委員会の編輯部がこのやうな企画を建てたのも実に愛郷の心から他ならない。我々は多くの人々がこの企てに廣く協力され、進んで資料と意見を提供して下さることを心から願って止まない。
   一九五〇年十一月二十日   菅谷村報道委員会編輯部
     『菅谷村報道』9号 1950年(昭和25)11月25日


将軍沢に消防サイレン設置 1951年

2009-05-21 23:00:00 | 1951年

   将軍沢にサイレン設置
 将軍沢の警鐘はバチャンバチャンと破れなべを叩くやうな響きをもっていたが、このほど民の手によって菅谷村第三番目のサイレンを設置するといふ進歩ぶりを示した。総費用一万五千円で火の見櫓から新しく取替へ、サイレンも停電の時を考慮に入れて手廻しといふ念の入れ方である。
     『菅谷村報道』11号 1951年(昭和26)2月10日


コンクリート橋の月田橋が完成 1967年

2009-05-19 23:49:00 | 唐子

   待望の月田橋完成
 本町の大字根岸と東松山市上唐子境界(県道大野東松山線)に、このほど月田橋が旧橋の五〇米下流にできあがり、九月二十八日その竣功式が行なわれた。
 旧橋は、木橋でたびたび改修されたが年毎に老朽化甚しく、月田橋架替促進期成同盟会に於いて、昭和三十五年(1960)以来国県に対して陳情してきたが、公共事業により昭和四十年(1965)九月二十七日着工、昭和四十三年(1968)を目標に工事を進めてきたが、特に埼玉国体の堂平からの炬火通路として指定されたので工期を短縮、昭和四十二年(1967)九月七日完成した。
 この橋は、鉄筋コンクリート橋、延長二〇〇・八米、巾員六・〇米、工事費四九九二万七千円、請負業者は関中組、住友建設である。
 式は、午前十時に始り東松山市役所企画室長の開式、神事、東松山市長、知事代理の挨拶、国会議員、県会議長代理、町村会長、議長会長の祝辞の後、知事代理、東松山市長、嵐山町長によってテープが切られ盛大な渡り始めの式を終了した。祝賀会は、東昌寺会館で祝宴が開かれた。
     『嵐山町報道』177号 1967年(昭和42)10月15日


杉山道路改良工事竣功 1967年

2009-05-17 23:31:00 | 1967年

   杉山道路でき上る
     十二月二十六日
       引渡し並びに竣工式挙行
 自衛隊施設部隊の実施による杉山道路改良工事は、去る十一月三十日起工式を挙げ、その後隊員の真摯なる作業を重ねて、十二月下旬見ごと竣功となった。引渡し当日は第一師団、県地連等の幹部臨席のもとに、その引渡し並びに竣功式が現地においておごそかに取り行われた。
 本工事の延長は約一三〇〇メートル、巾員は五メートルで、先年完工の串引道路延長一六五五メートルと合わせて延長約三〇〇〇メートルに達し、串引(くしひき)及び杉山地区の産業並びに交通面に一大福音をもたらすもので、今後の活用と維持修理の適正とを大いに期待する次第である。
     『嵐山町報道』180号 1968年(昭和43)1月20日

※自衛隊の越畑・串引道路改良工事(1966)については、「里やまのくらし5 越畑」を参照。


嵐山町消防団の機構改革が行われる 1967年

2009-05-16 13:09:00 | 1967年

   機構改革後初の消防点検 好評裡に終了
 従来、消防団は自動車ポンプ四台、可搬一三台を有し、定員二一二名が六分団に編成されて消防活動を実施して来た。団員二一二名の最近における町内在住実態調査によれば、定員中町内勤務が半数、町外勤務が半数という率を示し、逐次他市町村へ労働力が流出する傾向が見られる。非常時に備えて団員の少数精鋭主義、消防車の機動力強化が昨秋改革の主な事由であった。
 改革後は、消防車五、定員九五名に減員して、これを二分団に編成して町内全域の防備に当ることとなった。又別に自治消防団実施要項を定めて、従来の可搬を主力とする各地区自治消防団十一団を設置し、本団に協力して町内の防災治安に当ることとなっている。
 十二月八日は消防機構改革後初の消防検閲とあって、九五の団員は開式当所より張り切った気勢を見せて町長の検閲宣言に対した。
 この朝は今年初めての大霜で、寒気は非常に強かったが、一点の雲もない絶好の消防日和に恵まれた。
 国旗、町旗掲揚、消防殉職者に対する黙祷は菅小鼓笛隊も参加して、いと厳粛に行われた。服装規律、機械器具の点検、ポンプ操法、分列行進等も順調に進んで、放水試験は都幾川原に出動して、一斉に開始された。放水の飛沫が初冬の日光を反射して二重の虹光(こうこう)を生み、一瞬都幾川原は一大美景を現出して観覧者を喜ばせた。
 再び菅中校庭に引上げて町長の講評訓示、表彰状の伝達、来賓祝辞等が続行された。規律、基本、訓練に於ける精神力がやや希薄である。一層の努力を望む。その他は各部門の技術において昨年度に比し非常な上達が見られて大変結構であったことなど、講評、祝辞の主要素であった。
 当日の表彰者は次のとおり
一、県消防協会表彰
 一等功労賞 団長 高崎武治
 二 〃  副団長 中島重男
 三 〃  分団長 小林盛雄
 消防功労者 町議 山岸宗朋
 技能賞  副団長 田島三津也
二、同小川支部表彰
 一等功労章 副団長 中島重男
 二等功労章 分団長 小林盛雄
   〃  副分団長 高瀬光次
 三等 〃   部長 松浦博
   〃    〃  高橋鉦吉
   〃    〃  星野文男
   〃    〃  長島貞夫
 表彰徽章   班長 井上一喜
  〃     〃  内田章
  〃     〃  田島新作
三、町表彰(火災予防ポスター入賞)
 金賞小四 小林洋子 鎌小
   〃五 長谷部貞子 菅小
   〃六 中静久美子 〃
   中一 細内隆司 菅中
   〃二 田中みよの 七中
   〃三 久留田みや子 菅中
 銀賞小四 福島健司 七小
   〃五 井上和彦 〃
   〃六 飯島孝枝 〃
   中一 市川義郎 菅中
   〃二 富岡宏江 〃
   〃三 中村米子 七中
 鋼章小四 河野正平 菅小
   〃五 忍田まるみ 菅小
      中村光春 七小
      加藤陽子 鎌小
   小六 細川秀一 菅小
      吉野栄 鎌小
   中一 江森不二男 菅中
      内田美津江 七中
   〃二 中村晴恵 菅中
      高橋矢枝子 七中
   〃三 市川草子 菅中
      設楽恵美子 七中
     『嵐山町報道』180号 1968年(昭和43)1月20日

※参照:「昭和初期の消防組役員」(1933)。大字菅谷では10年前の1958年(昭和33)に「通勤者の増加で消防団員の獲得が困難に」なっていた。


武蔵嵐山観光協会から嵐山町観光協会へ 1967年

2009-05-15 11:34:00 | 1967年

   嵐山町観光協会と改称
              通常総会終る
 武蔵嵐山観光協会は去る七月十七日菅谷東昌寺会館において四十二年度通常総会を開催した。
 参加会員は全会員の約五分の一で僅少であったが、予定どおり予決算並びに事業報告、事業計画の審議承認がなされ、続いて会則一部改正の件が上程され、従来の武蔵嵐山観光協会を嵐山町観光協会に改めることが満場一致で決定された。本総会は会員の建設的意見も多く発表されて、意義ある総会であった。

  四十一年度事業の大要
1、文化財と観光誌の編集
2、河川を汚染から護る運動
3、町制施行記念さくら植樹
4、菊花展示会の助成
5、その他

 なお観光施設として計画した指導標建立ができなかったことは遺憾であった。
     『嵐山町報道』175号 1967年(昭和42)8月15日

※参照:「武蔵嵐山観光協会が設立される」(1950年)


一夜堤行灯堀の由来 安藤専一 1965年

2009-05-14 06:20:00 | 古里

  銷夏(しょうか)二篇 一夜堤行灯堀(いちやどてあんどんぼり)の由来
               文化財保護委員 安藤専一
 近代化した欧州諸国が盛んに海外に進出して、立ち後れたアジヤの国々を植民地として支配したのは江戸幕府中期以降のことである。
 1776年(安永5年)独立宣言によって起ち上った米国も西欧の例にもれず東洋への大夢を抱いてさかんにアジヤの諸地域を掠めた。直接わが日本との関係が、時の幕府諸藩を狼狽させたのは、1853年(嘉永6年)で米国の提督ペリーが大統領の国書をもち四艘の軍艦を率いて浦賀に来航したいわゆる黒船事件である。
 幕府諸藩がこの外交問題すなわち鎖国か開国かの二派に分かれて国家の大事に錯綜された時代であったが、国内的には1783年の天明の飢饉があり、1834年(天保5年)は諸国の飢饉があり、続いて1836年には再び天保の大飢饉が襲って、諸国に百姓一揆すらひん発するありさまであった。

 題名の「一夜堤行灯堀由来事件」も幕末数度にわたる大飢饉に連なるもので旧古里村(ふるさとむら)と旧板井村(いたいむら)との長期にわたる水利争いの結果が生んだ遺跡なのである。
 この一夜堤行灯堀のできた当時の文書類等何ら手がかりもないが、天保の大飢饉の直後と推定され、今より約百二十年前の事件であったことは、古老その他識者の伝言から察知される。
 当時古里村の名主は安藤長左衛門で英智に長け諸事業推敲に手腕あり、しかも気力旺盛で時の実力者として近郷にその名を謳われた人物であった。古里村の大半は旗本有賀伊予守忠太郎の知行する領地で、当の長左衛門が名主を務め名主代は大塚籐左衛門(現大塚正市家)、百姓代は藤田助左衛門(現安藤専一家)が当っていた。
 1853年の黒船事件は前述の通り鎖国勤王派の武将たちが大狼狽し、有賀家も急遽各地より御用役を召集することとなった。このとき古里村より江戸召集を下命され六十日間の勤務に当たったのは名主長左衛門百姓代助左衛門(実名粂次郎)の二名であった。
 一夜堤築工は当時の板井村農民によって成り、行灯堀は長左衛門を指揮者とする古里村農民によって作り上げたもので、場所は北田耕地(きただこうち)東端板井(いたい)と隣接する箇所である。
 古来飢饉渇水による水騒動は各地にその実例を見るが、この北田耕地はほとんどその上方に灌漑用水地を有せず、降雨期には大洪水を呼び干魃期には水不足その極に達する最悪の天水耕地のため、之に対処する百姓たちは常に血眼で引水に走り廻わるありさまであった。
 このため水争いは以前から絶えず続き、耕地の上部を占める古里村と下部を耕作する板井村田との対立は数十年にわたって眼にあまるものがあった。
 徳川末期における数度に及ぶ飢饉から遂に板井農民の怒りはその極に達し、大挙して古里農民の持つ耕地堰の大部を破壊するところとなり、古里農民もまた之に対決して再三の大騒ぎがくり返された。
 「そんなに古里の奴等水が欲しければ、おれの方は耕地境に大土手を築いて、古里を水浸しにしてやる」という板井村民の暴挙は完全に盛上がり、一夜総動員して耕地を塞ぐ大土手を築きあげて気勢を挙げた。
 この有様にあわてだした古里農民は鳩首熟議を重ね、
 「板井村一夜堤をこのまま看過すれば、北田はほとんど水浸しになって、収穫の皆無は明らかである。一夜堤を一挙に切りくずすか、新たに排水堀を作るか、このどちらかにする外対策はない。」
 「そうだ、排水工事を企ててなるべく穏便な策を講じたい。」
 「それには北田耕地南排水より南方畑地山地を堀り割って駒込沼に落水させるより方法は考えられない。この堀割を急遽りあげて板井の奴らの眼をむいてやることにしよう。」
と言う結論決議となった。
 そこで名主長左衛門がこの指揮監督に推され、さっそく一夜結集して行灯をかかげてこの排水路工事に取りかかり、たちまち竣工を見るに至った。後世この堀割を称して行灯堀と名づけている。
 一堤夜築堤を見た古里村民の驚きもさることながら、行灯堀開拓を断行した古里に対して板井農民もまた驚異の眼で見はったことと思う。
 この両村対立の一大事からすでに百二十年の星霜は流れ、いつの時代か歴史年表を明らかにしたいが、隣接両村の和解は成立してその後対立な事件は起らずすこぶる平穏な村として共に栄え、北田耕地水利問題はむしろ協力してその改良に当っている。
 現在一夜堤は大里郡江南村【現・深谷市】大字板井地内に、また行灯堀は菅谷村【現・嵐山町】大字古里北端に相対して共に昔の面影を残しているが、土地の人たちの多くはこの由来を知る由もなく、馬耳東風といったかたちで文化生活に浸りこんでいる。やがては世の進展にともない、一夜堤も行灯堀も潰滅し、この封建時代に起こった寒村の悲話もまた人の世から忘却されてしまうのであろう。
               (昭和三十八年十一月三日起稿)
     『菅谷村報道』154号 1964年8月1日

※銷夏:消夏。夏の暑さをしのぐこと。
※江戸時代の三大飢饉:享保の大飢饉(1732)。天明の大飢饉(1782-1787)、1783年8月浅間山噴火。天保の大飢饉(1833-1836-1839)。


町の今昔 史蹟・笛吹峠 安藤専一 1968年

2009-05-13 23:37:00 | 将軍沢

 大蔵から南方将軍沢を越えて、鳩山村【現・鳩山町】須江(すえ)に入り入間郡に通ずる町村道路がある。この将軍沢と須江の境界が太平記に名高い笛吹峠である。その昔先進国上野と多摩の国府をつなぐ大動脈であった。
 日本武尊時代の軍旅の動きや、桓武帝の頃征夷大将軍坂上田村麻呂の東征筋、鎌倉の末新田義貞が北条高時を滅ぼした時も、その子義興(よしおき。新田義興)・義宗(よしむね。新田義宗)らが足利尊氏と争った時も、この道筋が用いられたものと想像される。
 笛吹峠の地名起因の伝説として次の三説が古からこの地方に伝承されている。

 その第一は坂上田村麻呂にまつわるもので、当将軍沢の地名も笛吹きの名も田村麻呂将軍に起因されるものと云われている。
 鎌形村八幡宮縁起に「桓武帝の朝、坂上田村麻呂勅命を奉じ、東奧の夷族征伐の途次関東に赴かれしみぎり、当所塩山の絶景を愛で筑紫の宇佐八幡をここに勧請し給ひ……」と記され、その道筋に当たる将軍沢も同将軍に関わりを持つことはうなづける。
 この頃岩殿山に悪竜出没して常に人畜を悩ましていた。たまたま此の話を耳にした将軍は、この悪竜退治を引受け、岩殿山中を西深く分け入りこの峠で悪竜呼び出しの笛を吹き、笛の音に躍り出た悪竜を見ごと退治することが出来た。爾後に峠名にされたものと云う。

 其の第二は新田氏兄弟に関係したものである。
 正平七年(1352)、新田義貞の子義興、義宗が後醍醐天皇の息子宗良親王を奉じて信州に挙兵し、上州から街道を上りこの笛吹峠を経て鎌倉の足利尊氏、直義を討とうとしたが、鎌倉勢は意外に強く之に怖気立った新田方は多摩郡分倍川原に退き小手指が原でも利なく更に後退してこの笛吹峠に陣した。この時新田勢の総師宗良親王は、名月に誘われ陣営の夜々の無聊を名笛に慰められたことから、この名が起ったと云われる。

 その第三は畠山庄司重忠に関係するものである。
 重忠は大里郡旧本畠村(川本町。現・深谷市)畠山に居城を構えていたが、後鎌倉街道の一要衡地に当る当地菅谷宿のその別館を築いた。その後は鎌倉出仕の際はいつも菅谷館か向ったもののようである。
 菅谷から笛吹峠までは約一里程で乗馬すれば短時間で着ける。重忠も笛を愛好したものと思われ、菅谷館からよく峠に出向き、名月を友に笛を吹かれたので、この名が生じたのだと云う。

 いづれを問わず有名地にはくさぐさの伝説がつきものである。その一つだけが真実で他は皆うそだという考え方は無謀である。私はこの三伝説とも各武将の一面を物語るもので一応うなづける語り草と思う。
 当笛吹峠は昭和十年(1935)三月史蹟として県指定となったが、昭和三十六年(1961)の整理によって解除され、現在本町指定の史跡として、多くの人たちから詩情豊かなものとして慕われている。
     『嵐山町報道』181号 1968年(昭和43)2月20日

※笛吹峠の伝説:「雪見峠は笛吹峠」、「桜の花を訪ねて7」、「町の今昔 ケツあぶり」、「古老に聞く 笛吹峠の記念碑」、「峠のロマン “論争”尾を引く笛吹峠 」等を参照。


嵐山町の歴史散歩 その5 大沢喜一 1968年

2009-05-12 00:30:00 | 平沢

   菅谷館と太田六郎資康の菅谷陣営 (続き)
 鎌倉時代の名将、平家物語、源平盛衰記、曽我物語などに、板東武士の典型として描かれているが戦後の歴史からはほとんどその名を消してしまっている。
  朽ち果てぬ名のみ残りて恋が窪 今は問ふもちぎりならずや
 この歌碑は熾仁親王の筆で、恋が窪の熊野神社にある。私はかって(昭和二十四年当時)鎌倉街道筋の歴史と伝説をたずね歩いたことがある。その折りに武州国分寺(現東京都国分寺市の恋が窪の傾城歌碑と一葉松に残る、重忠の恋物語に関する伝説を、土地の古老に聞いたことがあるが、いずれ改めて紹介することにする。現在の菅谷城は、後に修築されたため、重忠の菅谷館当時の遺構はわずかで、館址の鬼門にあたる長慶寺跡は、現在の長慶寺山東昌寺であり、寛文年中(1661-1672)に現在地へ移ったと伝えられる。
 太田源六郎資康の菅谷陣営「梅花無尽蔵」に「長享戌申(二年)八月十七日入須加谷(菅谷之地平沢山門太田源六郎資康之軍営」とされている。城主太田源六郎資康は、太田道潅の家督で、道潅の死後扇谷定正の陣営を去り、両上杉の争った長享年中の大乱に鉢形城の前線基地たる菅谷城を預かっていた山内顕定方の武将である。
 その際古い菅谷館址は修築拡大されて、戦後城郭としての型式を備えたものと考えられ、太田源六郎資康が戦国期における最大の築城家太田道潅の息子であったという事実からも考えられることである。長享二年(1488)六月十八日、扇谷定正と養子の朝良の軍勢七百余騎は山内顕定と養子の憲房の軍勢二千余騎と武蔵国須賀谷(菅谷)に対陣して激戦を展開した。須賀谷原が現在の菅谷であることは、鎌倉九代記、北条五代記、太平記などにより明らかである。
 前述の通り菅谷は当時の鎌倉街道の要衝で、武蔵府中、所沢、入間川、坂戸、と北上する鎌倉街道は大蔵、菅谷、平沢を通って奈良梨、高見、用土、児玉を経て藤岡、倉賀野と上野国に達していた。
 鉢形城の顕定は、小川を通って菅谷に出陣してきたのであろう。河越城についた扇谷定正は、北進して伊草坂戸方面より六月十七日には勝呂(坂戸町)の陣に入った。
この須賀谷原の合戦を、膝桶万里(集九)の「梅花無尽蔵」には太田源六郎資康の陣営あり。二年六月十六日には両軍の大合戦がありて戦死者七百余人馬の斃るもの数百}とあるから相当激しい合戦であったろうと思われる。
 万里は資康の父太田道潅の親友で、八月十六日入間郡越生町の龍穏寺(梅園)に道潅の父道真を訪ずねている。須賀谷原の合戦は長尾左衛門入道伊玄の活躍により扇谷定正方の勝利となったが、合戦場となった菅谷は顕定方によって占領されていた。太田源六郎資康はこの前線基地を守る顕定方の武将で、万里は次のように資康の陣営を書き遺している。
 「十七日須賀谷の北、平沢山に入り太田源六資康の軍営を明王堂の畔に問う。今また深泥の中に鞍を解く。各々その面を拝し資康の恙なきを賀す。余すでに暫く寓して去る。明王堂の畔に君の軍を問ふ雨後の深泥雲を度ねるに似たり馬足いまだ臨まず草血を吹く。細看すれば戦場の文を作るを要す」と(「梅花無尽蔵」)。
 雨後の深泥も加わって今だ決戦の余燼生々しい菅谷の地で、親友道潅の子資康の元気な姿を目の前にして、万里は感無量であったのであろう。
 明王堂は、不動明王を本尊とする不動堂のことで、新篇武蔵風土記稿巻之一九四比企郡の九平沢村の条に不動堂、不動は伝教大師作、此像古は平沢寺の本尊と伝えば、当時此地もかの寺の境内なるべしとある。
 万里は太田資康の陣営に、三十六日余り泊っていたらしく、資康は詩客万里と袂別の前夜、九月二十五日には万里送別のために、鉢形城の山内顕定を招き、平沢寺の鎮守白山社の境内で詩歌の会を催うした。(県指定史蹟の碑あり)
 この詩歌会に感激した万里は、「梅花無尽蔵」に曰く、「社頭の月 九月二十五日 太田源五平沢寺鎮守白山の廟に於て詩歌会。敵塁と相対し風雑を講ず。ああ西俗この様なし」と。
 関東武士が敵前で風流をたしなむことに感激しつつ、関西武士にはないことだと万里はいっている。
 菅谷はその後、小田原北条時代に北条方の小泉掃部助が城代となっている。したがって武州松山城関係の支城と考えられるが、明らかでない。菅谷城が前哨的な位置を占めたのは、両上杉の対立時代に重要性があったからで、北条氏の関東制圧の頃は、その価値を失っていたものと考えられる。   嵐山町文化財保護委員・日本歴史研究会理事
     『嵐山町報道』184号 1968年(昭和43)5月25日


嵐山町の歴史散歩 その4 大沢喜一 1968年

2009-05-11 22:45:24 | 平沢

   菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営
 菅谷城は、鎌倉街道に面し、南は槻川の断崖に接する要害景勝の地である。本条の本丸は、古くは畠山重忠の居城であったが、長亨年間(1487-1489)に大田源六資康によって改修された戦国時代の城郭と化したため、鎌倉期の遺構は一部を遺すのみである。
 形状は平城で、東西は谷を深く区画し、北方は台地に続いている。東より本丸、二の丸、三の丸を配し、東北西の三面は土塁がめぐり、南西の二面と北面の西半分は、土塁の外方に並走する空堀で、東面は自然の浸蝕谷によって固められている。更にその外方の東西二面は槻川に開く内外二条の浸蝕谷により限られている。外側のものは東西両面に対する防禦性を意味し、内側のものは複雑な築城土木工事により本丸北方を三重に、東よりの部分は二重に土塁と空堀で本丸を固めている。
 二の丸と三の丸は東西二郭から形成されていたと考えられ、台地内方に対する防禦性を完全に発揮している。この郭配置が示すものは中世前期の館址でなく、そのグランドプランが単郭、単堀方形館の古い館址を中核として、自然の地形條件を最高度に活用し、時代の要求に対応して各時期の支配者により、改変拡大されて、現存遺構の型式に発展した戦国時代の多郭式平城である。
 城地はほぼ方形で、その面積は十町六反九畝(約107ヘクタール)で、一辺は472メートル程である。大部分は山野水田畑となっているが、遺構はほぼ完全に保たれており、築城史上貴重な城阯として高く評価されている。菅谷城が存する嵐山町は、所謂鎌倉街道の要衝で古くより東国武士団の一拠点として、重要な位置にあった。本城より望む都幾川の対岸、大蔵の地には平安末期における大蔵源氏の棟梁、帯刀先生源義賢(菅谷村の歴史散歩その一)の居館大蔵の館があった。
 菅谷城の歴史も当然鎌倉時代にさかのぼり、本丸の一部は関東の名族として北武蔵の地に威を誇った板東八平氏(畠山、土肥、上総千葉、三浦、大廃、梶原、長田)の一たる畠山庄司重忠の菅谷館として知られた。
 畠山氏は桓武平氏、武蔵守村岡五郎良文の子忠頼を祖として、秩父郡中村郷(現秩父市)に館を構えて秩父氏を名乗り、武蔵総検校職を世襲していた。
 重忠の父は、秩父庄司重能と称したが、畠山の荘司となるにおよんで武蔵国大里郡畠山(現川本村)に館を構えて畠山氏を名乗った。重忠は長寛二年(1164)に畠山の館において三浦半島の豪族、三浦大介義明の女を母として生まれている。治承四年(1180)源頼朝挙兵に際して、父重能が平家に仕えていたために、頼朝攻略に立ち上がった。時に重忠十七才のときである。八月二十六日、一族の河越太郎重頼、江戸太郎重長、村山、山口、児玉、横山、丹綴の諸党三千余騎で、相模国の豪族三浦大介義明(重忠の祖父)を衣笠城に討つ悲劇を演じた。
 重忠の菅谷館を知る資料としては「吾妻鏡」がある。重忠は源家の重心であるから、鎌倉街道の要衝である菅谷の地に館を構えたことは当然であるとしても、その時期は詳でない。
 吾妻鏡文治三年(1187)十一月十五日の条に畠山次郎重忠武蔵国菅谷の館に引きこもり…とあるから 文治三年(1187)には、既に菅谷館の存在は明らかである。又「元久二年(1205)六月十九日小衾郡菅谷の館で」もある。いずれも幕府方の策謀略のためで、この日菅谷の館を出発し、武蔵国都築郡(神奈川県)二俣村に達したとき、即ち六月二十一日の明け方にいたり、重忠の子六郎重保が鎌倉で謀殺されたことが知れた。そのうえに重忠追討の軍勢、北条義時を大将とする葛西清重、千葉一族、足利義氏、小山朝政、三浦一族、河越次郎重時、和田義盛などの大軍が自分に向けられたことを知った重忠は、覚悟を決めて二俣川(現横浜市保土谷区二俣川町)鶴ヶ峰に対陣した。
 この時重忠に従うものは、弟の長野三郎重清は信濃に、六郎重宗は奥州にあったので、二男小次郎重秀、本田次郎近常、榛沢六郎成清以下百三十四騎と言われている。
 両軍火花を散らして戦うこと数刻、豪勇をほこる重忠も遂に申の刻(午後五時頃)に至り、愛甲三郎季隆の矢を受けて、北条時政の陰謀のもとに四十二才の惜しい生涯を閉じたのである。(以下次号)
     『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日


菅谷村の歴史散歩 その3 大沢喜一 1967年

2009-05-10 22:40:00 | 杉山

   杉山城 (杉山)
 吉見丘陵の一角、幅広い二つの谷に挟まれて、細長く延びる台地の中ほどを、さらに自然の谷によって前後を断ち切られ、独立丘となった小高い丘にこの城は築かれている。
 南西面は戦国史上に名高い松山城の外郭を流れる市野川上流が、裾を洗って急坂絶壁となる自然の要害地で、その形が雁の飛ぶように見えるところから、雁城の名がある。
 杉山城主については、金子十郎家定、あるいは庄(杉山)主人(もんど)といわれ、『新編武蔵風土記稿』にもその二人をあげている。
 ただ現在見る遺構は明らかに戦国期、それもだいぶ末期のもので、かなり近世的な要素の含まれた中世城郭といえよう*。
 金子十郎家定は、武蔵七党中、村山党に属した人で保延四年(1138)、入間郡金子郷(元武蔵町金子)に生まれ、保元平治の両乱、また源頼朝の挙兵に際しては畠山重忠に従い、それぞれ勇名をはせている。
 庄(杉山)主人は、松山城主上田氏の臣と伝えるのみで詳細は不明だが、武蔵七党中、児玉党に庄氏が見え、『小田原役帳』にも庄式部大輔などが記されているので、その一族中の者かと推定される。
 城は、丘陵の最高所に本丸を置き、それを中心として十個余りの曲輪が取り巻く多郭式の城郭で、面積は二万五千坪に及火、その非常によく発達した縄張りが中世城郭においてはこれ以上望みえないという程の完璧な状態で現存する。真に貴重な遺跡である。
 一方整然と見える曲輪が、実は細心の注意を払った複雑な形で現存し、ヨコヤ等を見事に備えたその曲輪の周囲には、おのおの土塁と空堀がきれいにめぐりそれぞれの虎口(入口)は空堀を土塁によって渡し、しかも食違いなどにより、すべて一直線に入ることなできない等々、まるで軍学書でも見るようで全く興味の尽きない城である。
 大手は東西に開け、そこから内郭部に至る途中には木橋を仮定すると見事な枡形を現出する小郭があり、興味深い。
 城の南側、市の川に面した部分には水の手と言われる泉があり、そのあたりから幾つかの立堀が急斜面を貫いているのが見られる。以上のような要害の適地であるから、鎌倉期に、金子十郎家定がこの地に城を構えたとしても不思議はなくそれは畠山氏との関係からも当然考えられることだがいずれにしても現在の遺構とは全く関係なく、現在見られる極度に発達した近世城郭への過度期のものと見られる杉山城は、その地理的條件(寄居、秩父方面へ通じる街道の押え)からも松山城の支城として、戦国末期に構築され、天正十八年(1590)、松山城の落城と共に運命をともにしたものとみていいだろう。 なおこの城の根小屋的な位置に現在住んでおられる初雁不二彦氏宅には、明治の初めごろまで杉山城の大手門といわれるものが存在したという。(昭和41年7月20日稿)   菅谷村文化財保護委員・日本歴史研究会理事
     『菅谷村報道』171号 1967年(昭和42)3月10日

*杉山城の築城年代については、その後の研究成果を参照のこと。
参照:HP『~未知なる城を求めて~城郭研究ノート』の「★ 城郭探訪 杉山城3(埼玉県嵐山町) 杉山城問題について ★


菅谷村の歴史散歩 その2 大沢喜一 1966年

2009-05-09 22:35:00 | 大蔵

 当時大里郡岡部の住人で岡部ノ六弥太忠澄と称する武士がいたがこの岡部氏との所領争に加えて、義朝が京都にあって源氏の棟梁として重視されているのも、東国の武士団がその支配下にあるからであって、その地盤において、ともに源氏の正統を伝える弟の義賢の武名が日増しに高くなることは、義朝にとっては耐えられない苦痛であったろうと想像される。その心中は甚だ穏やかでなく、東国の棟梁の地位をめぐる内訌的なものではあるまいかと思われる。
 時に駒王丸二歳の嬰児であったが、義平は郎党の大里郡畠山の住人畠山重能に探し出して必ず殺すように命じたが情ある重能に助けられて、長井ノ庄(大里郡妻沼町)の住人斉藤別当実盛に託せられた。
 重能から駒王丸を託された実盛は、駒王丸の乳母の夫、信濃国(長野県)木曽ノ庄司中三権守中原兼遠に預けることにして、駒王丸を懐に抱きながらはるばる木曽に落ちていった。母は涙ながらに中原兼遠に幼児の保護を哀願したことであろうと思われる。
 実盛の母の頼みを聞いた兼遠は、源平盛衰記によると、此の子共は正しく源氏の正統で、今は親を討たれて心細い孤児の境遇にあるが兼遠は何としてでも養育して、天下の檜舞台へ晴ればれしく乗り出させましょうといったと伝えている。
 義仲は宮菊(菊姫)と称する妹がいたが、義賢討死の折、夫人の小枝御前は妹の満寿に、宮菊を養女として託したが詳らかない。
 義仲討死当時の宮菊は美濃国(岐阜県)に住していたらしく、吾妻鏡元暦二年(1185)二月三日の項に左馬守義仲朝臣に妹公あり……その女が美濃国から京都に出て来てとある。
 又五月一日の項に故伊予守義仲朝臣妹公宮菊と云。京都より参上。これ武衞招引せしめ給ふの故なりとあり、更に御台所ことに憐み給ふ……即ち美濃国遠山庄内の一村を賜ふ所也とある。
 頼朝より与えられた美濃国の一村の領地として、頼朝の家人小諸太郎光兼の世話で安穏な生活を送ったと思われる菊姫のその後の消息は残念ながら不明である。
 駒王丸は、その後成長して高祖義家の故事を襲ぎ、仁安元年(にんなん、にんあん)(1166)京都石清水(いわしみず)八幡宮において元服をなし、木曽二郎義仲と称した。
 時に義仲十三歳のときである。
 治承四年(1180)九月七日義仲二十七歳の秋、驕る平家を打ち世を平和にかえさんと北陸道より皇都に攻め上り、平家を西海に追いおとした当時の義仲の心中はいかばかりであったろうか。
 僅二歳にして父を討たれ日陰の身を木曽山中に育った義仲が、三十歳の若き源氏の武将として入京した寿永二年(1183)七月二十七日と後白河法皇から平家追討の院宣を賜った二十八日の両日は義仲の生涯にとって最良の日であり幸福な日ではなかったかと思われる。
 寿永二年八月十日平家討伐の論功行賞として従五位下左馬守兼越後守となり、六日後の十六日には伊予守に任ぜられ翌三年正月六日には、従四位下に昇進し、武門最高の栄誉たる征夷大将軍に任じられて、粟津ヶ原において、相模の三浦一族石田次郎為久に討ち取られる迄、旭将軍と称された薄倖の人木曽義仲は史上余りにも有名である。
 義仲の墓は、大津市馬場之町の義仲寺に存し、その背後には義仲をこよなく愛惜したといわれる俳聖松尾芭蕉の墓がある。元禄四年(1691)八月義仲寺を訪れた芭蕉は観月の宴を催した折、
   木曽殿と背中あはせの寒さかな*
と詠み、短命の英雄を愛して自分もこの英雄の瞑る義仲寺に葬られることを願ったといわれる。
 帯刀先生義賢の墓は鎌倉街道の東面、新藤義治の庭に存する五輪の塔がそれであり、大正十三年(1924)三月三十一日埼玉県指定の史蹟として保存されている。(昭和31年10月20日稿)   菅谷村文化財保護委員・日本歴史研究会理事
     『菅谷村報道』170号 1966年(昭和41)12月15日

*「木曽殿と背中あはせの寒さかな」は、伊勢の俳人島崎又玄の元禄五年(1692)の句。
参照:ブログ『現身日和(うつせみびより)』の記事「義仲と芭蕉が眠る義仲寺は静かに訪れる人を待つ <大津巡り18回>」。