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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

(更新)津島神社祭礼の神輿渡御とその前の暴れ揉みのあった時代

2010-06-05 16:43:00 | 菅谷

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 毎年、7月13日、14日の2日間行われた菅谷神社内津島神社祭礼の神輿渡御風景である。この写真は『嵐山20年のあゆみ』(1977年発行)の1960年(昭和35)の頁に掲載されている。この年代は既に午後1回だけの担ぎで2回目(午後9時頃から)の暴れ揉みは無かったと思われる。農協は未だ旧い建物で建て替えられていない。向かって右端の農協の左奥に見える二階建ての建物は辻沢肉店である。未だ新築間もない感じである。辻沢肉店が二階建に新築されたのは、1962年、63年(昭和38)頃のことであるという証言があるので、『あゆみ』との齟齬がある。
 神輿の行く駅通りは未だ舗装されていない。左側手前に見える建物は農協の精米所である。神輿は駅通りを駅方向に向って進んでいる。
 1956年(昭和31)以降、土、日や休暇の日の昼間、神輿をトラックの荷台に乗せて菅谷の大通りを巡回したのを数回見たことはあるが、1975年(昭和50)頃、勤めを終えて帰宅して飛び入りで神輿を担ぐまで、御輿を担いだのを見た記憶はない。
 ここで注意するのは神輿の担ぎ棒の取付け方と長さで、現在とは異なる。昔は神輿の正・背面の担ぎ棒とそれと交叉する横方向の担ぎ棒の長さがほぼ同じで、担ぐと道路一杯となり、担ぐ人の向は横向きになり、蟹歩きになって担いだものである。担ぎ手の力関係で神輿がよく回転したことを憶えている。掛け声も現在と異なり、ワッショイ、ワッショイであった。
 当時の神輿を担ぐ人達は背は低かったが、力と持続力(スタミナ)の点では2009年(平成21)現在の人をはるかに上回っていた。それは現在の人の神輿の担ぎ方を見れば分かる。担ぎ棒が全員前向きになって担げるように組まれ、担ぎ方も穏やかである。そして、一番の問題は持続力の問題で、肉体労働の少ない現代の人は昔の人とは比較にならない。
 写真でも分かる様に神輿の担ぎ棒が井桁に組んである。そしてこの担ぎは夕刻の第1回目の巡回である。それは神輿にまだ鳳凰などの装飾がついている。夜遅くの担ぎは神輿が激しく揉む(暴れ揉みと言った)ため、あらゆる装飾を外し、注連縄のような縄でがんじがらめに神輿を縛り、壊れないようにして、一般の人が寄り付けないほど激しく担いだ。
 次に神輿の休憩について記憶を辿ってみると、神輿の夕刻と夜と2度担いだ。担ぐ順序は根岸豊氏宅前の御旅所の前を出発し、まず上(かみ)に行く。大通りを平沢境辺りまで行きUターンして大通り(県道・鴻巣小川線【昭和38年4月より国道254号線】)を菅谷下(しも)の東松山市境まで行き、また同じ道をUターンして駅通りに入り、武蔵嵐山駅前でUターンして御旅所前に戻る。行程は約2㎞強であろうか。その担ぎの途中でところどころで休憩を入れる。休憩を取る場合は商店の前が多かった。上(かみ)の方は余り記憶に無いが、魚時、桐屋、足袋屋、島本薬局、小島屋、美松、松浦自転車店、福島商店、岡松屋、中島屋。駅通りでは高山商店、佐野屋商店、東雲亭、内田屋、凸坊、花井商店などがあったと思われるがすべては思い出せない。神輿の休憩所となる家は予め、その家の前に縁台、テーブル、椅子などと振る舞いの茶碗酒、キュウリの切ったのに塩をまぶしたものや、季節の野菜、果物など、また、するめを焼いたのを裂いたのとか、氷のぶっかき、氷水などを用意して、担ぎ手、その他の人を持て成した。また、この持て成しを行う家は毎年でなく、輪番の様になっていて、それが予め祭礼の役員に伝えてあったものと思われる。神輿には、担ぎ手の他に幣束(御幣)持ち(神輿を先導し、神輿の行く先を払い清めてゆく人)、神輿の置き台(2脚必要)担ぎ2人、法螺貝吹き、介添え役、それに、羽織・袴で正装し提灯を持った氏子総代などが居た。この持て成しは、1回目の担ぎの時も、2回目の担ぎの時も家を代えて行われていたと記憶する。
 担ぎが一巡するのに休憩時間を入れると2時間前後はかかったと思われる。1回目の担ぎ始めは午後5時頃、2回目は、午後8時頃からではなかったかと記憶する。また、この形が採られたのは東松山市のヤクザとのトラブルの起きる1955年(昭和30)(自分はトラブルの起きたのはこの年と記憶している)までの形式である。それ以後のことは、どの様に行われたのか分からない。(2009年3月、菅谷・権田文男)

  夏祭  夏祭り
 恒例の菅谷津島神社夏の祭典は七月十三、十四の二日間盛大に行はれた。神輿渡御が午後五時からワッショイ、ワッショイと掛声も勇ましく始まり、市内を一周して七時奉納、余興が十時まで御仮家の前で演ぜられた一方、嵐山駅通り共和会も子供用神輿、山車を新しく造り、大蔵から笛、太鼓、鐘などの囃子を借りて、ひょっとこの踊りを演じながら練り歩いた。又商工会公演の書道、生花展が二ヶ所で開かれた。両日とも曇り日であったが土曜日であったため、人はかなりあった。この祭りに要した費用は約五万円である。共和会は三万八千円。
     『菅谷村報道』81号 1957年(昭和32)7月25日

  夏祭りに菅谷賑う
 恒例の菅谷津島神社の祭礼は七月十三・十四日の両日行はれた。夏祭りのはしりだけに、天候にめぐまれて、かなりの人出でにがわった。渡御式は四時から始まり、菅谷の市街地を一周、七時までの明るいうちにすませ、あとは余興など見て平穏に祭りの夜を過ごした。
     『菅谷村報道』124号 1961年(昭和36)7月20日


菅谷神社境内社天手長男神社の由来 菅谷・笠原三郎氏談 2009年

2010-03-23 10:53:02 | 菅谷

   菅谷神社境内社天手長男神社の由来
          菅谷・笠原三郎氏談
 菅谷神社境内、本殿の東前に一坪程の建物があり内に、小さな社(やしろ)が祀(まつ)られている。
 菅谷の人は御手長様(おてながさま)と呼び、古来より火伏せの神、火防(かぼう)の守り神として祀られてあったと聞いているが、「菅谷神社由緒」の中に、当社に関する記載は見られない。
 戦後期まで菅谷宿(すがやじゅく)中央の神社入り口、高野(こうの)氏宅地内に祀られ、例祭が行なわれていたと聞いている。戦前期の社について詳細を語る人は少ない。
 菅谷在住の笠原三郎氏が父傳伝吉氏の話として、御手長様縁起の一端を語ってくれた。
 昭和十年(1935)十二月の菅谷大火の二、三年程前【昭和8年】に、宿の大上(おおかさ)にある農家の藁葺(わらぶき)屋根の母屋が火災により消失した。
 当時、お手長様(天手長男神社)は菅谷宿の、火伏せ(火防)の守り神として、東昌寺前の辻の道端の角地に祀られており、宿の人々に信仰されていたが、この火災により消失した。
 宿の人達は、火伏せ神の在所の火災により社も消失した事実に驚いて、ご利益の有無について論議が交わされたと言う。
 火災が一軒で留まり類焼を見なかったのはお手長様の御利益が有ったという説と、母屋の火災により御手長様まで焼失したのは御利益が無かったとの二説に菅谷宿の人達が別れたと伝えている。
 社の再建が大上に為されたかは不明だが、菅谷大火後と思われる時期に、宿の中程の神社入り口南側の高野氏宅地内に移されて例祭が行なわれている。
 その後、昭和六十一年に完成した菅谷神社大改修の際に、境内社として移され、現在の場所に祀られている。
 例祭日は十二月二日である。(2009年 菅谷・権田重良)


重忠節 作詞:中島運竝 1965年

2009-09-07 10:10:00 | 菅谷

   〝重忠ぶし〟

 一 秩父の嶺に 雲は湧き
   流れも清き 都幾川(つきがわ)の
   山河ゆかしき 菅谷野は
   関東武士の かがみなる
   重忠公の やかた跡

 二 文武の道に 励みたる
   誠忠無比の 精神(まごころ)は
   源平宇治の たたかいに
   ひよどり越えの かちどきに
   先陣競う 男意気

 三 風雲告げる しらせにて
   鎌倉山に 急ぐとき
   二俣川の 夕まぐれ
   世に謳(うた)はれし 英雄も
   天命ついに 果敢なしや

 四 時は過ぎゆく 幾星霜
   菅谷野山河 遷(うつ)るとも
   鎌倉武士の 功(いさ)をしは
   われ等がたぎる 熱血に
   生きてぞ通う 重忠ぶし

     『菅谷村報道』157号 1965年(昭和40)2月10日

※埼玉県知事畑和(はたやわら)作詞、三橋美智也歌唱の重忠節が発表されたのは、1977年(昭和52)7月21日である。
 一 国は武蔵の畠山
   武者と生まれて描く虹
   剛勇かおる重忠に
   いざ鎌倉のときいたる
 二 平家追い討つ一の谷
   愛馬三日月背に負えば
   そのやさしさに馬も泣く
   ひよどり越えの逆落とし
 三 雪の吉野の生き別れ
   恋し義経いまいづこ
   静の舞の哀れさに
   涙で打つや銅拍子
 四 頼み難きは世の常か
   誠一途が謀反とは
   うらみも深く二俣に
   もののふの意地花と散る
 五 仰ぐ秩父に星移り
   菅谷館は苔むせど
   坂東武者のかがみぞと
   面影照らす峯の月    


嵐山町・菅谷神社の祭神 6 菅原道真公命

2009-09-04 06:22:45 | 菅谷

  贈太政大臣正一位 菅原道真公命
此の大神は当所字城畠山重忠大人城跡三の郭に壱丈参尺余の築塚あり其山上へ*宝暦十二年(1762)九月吉日京都市上京区御前通馬喰町に鎮座官幣中社北野神社(往古は天満大自在天神宮と奉称)の御分霊を奉遷観請す因て天満大自在天神宮と奉称しを明治四年(1871)に至り無格社に列せられ社号天神社と改正す然る処今般神社の設備完全を期して明治四十年(1907)三月二十日付を以て村社菅谷神社へ*合祀の儀出願の処同年四月十七日付を以て埼玉県知事の御許可を得同年七月十七日合祀祭執行す
   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*文字は「伊」(い)であるが、「江(へ)」の誤記として改めた。


嵐山町・菅谷神社の祭神 5 保食命(うけもちのみこと)

2009-09-03 13:43:15 | 菅谷

  保食命亦名稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
此大神は当所本宿に直立壱丈余築塚(此の塚の下は石室)あり其山上畠山重忠大人の鬼門除の農蚕業の守護神として年月日不詳雖然京都府城紀伊郡伏見里深草村稲荷山に鎮座の官幣大社稲荷神社の御分を奉遷観請す本社境内は五畝拾八歩御除地の処明治四年(1871)に無格社に列せらる尚同五年(1872)に境内参拾歩を残し跡は上地官林に引裂れ明治三十七年(1904)六月二十日付をもって特売により四畝拾歩および立木共買受設備完全のために同年三月二十日付を以て村社菅谷神社合祀の儀出願候処同年四月十七日付を以て埼玉県知事の御許可を得同年七月十七日合祀祭執行す

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より


嵐山町・菅谷神社の祭神 4 畠山重忠公

2009-09-02 13:38:00 | 菅谷

 畠山重忠命
畠山重忠ハ秩父神社ナリ重忠当地ニ新城ヲ築キ居住中農工商悉ク愛撫シ終ニ元久二年(1205)六月二十二日四十才ニシテ武蔵国ニ於二俣川ニ戦死ス農工商ニハ重忠ノ恩徳ヲ感シ承永元年(ママ)*六月二十二日戦死ノ日ヲ以テ鎮守ノ末社トシテ其ノ神霊を勧請ス

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*永承(えいしょう)(1046年5月22日~1053年2月2日)という年号はあるが、「承永」はないので、「貞永(じょうえい)」(1232年4月23日~1233年5月25日)と思われる。貞永元年は1232年。

※畠山重忠については、川本出土文化財管理センター『武蔵武士 畠山重忠辞典』。


嵐山町・菅谷神社の祭神 3 市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)

2009-09-01 12:28:00 | 菅谷

  市杵島姫大神
抑当神社ハ往古当地ノ者弁才天ヲ信仰シ安芸国佐伯郡*厳島町ニ鎮座ナス厳島神社ヘ懇願ノ上建久二年(1191)五月二十一日ノ吉辰ヲ以テ当所鎮守山王宮御境内御手洗池中ノ塚ニ末社トシテ御分霊ヲ奉遷シ然ル後変シ王政復古**維新ノ際遂ニ敷地ノ沼地ハ境内ヲ分裂シ官有第三種ニ編入セラレ共ニ神社ノ名称モ取サレタル始末ニシテ各氏子信徒ハ遺憾極リナク因テ明治四十年(1907)十二月二十五日ヲ以テ沼地六段六歩ヲ現今ノ菅谷神社ノ境内ニ編入ト共ニ神社ノ再興ヲ出願シ仝四十一年(1908)五月二十三日埼玉県指令社収第一五九五号ノ七ヲ以テ境内取拡ゲ境内神社公認ノ件聞届ケラレ茲ニ再挙ヲ成スヲ得タリ因テ記念トシテ其経歴ヲ謹記ス
  明治四拾壱年五月弐拾弐日

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*「佐郡」を「佐伯郡(さえきぐん)」に訂正。
**「往政復古」を「王政復古」と訂正。


嵐山町・菅谷神社の祭神 2 素盞鳴尊(すさのおのみこと)

2009-08-31 11:36:00 | 菅谷

  素盞鳴尊
此大神は天明六年丙午年(1786)五月吉日辰日旧幕府地頭猪子佐太郎氏の信仰に基き尾張国海東郡津島町に鎮座の(現今県社)津島牛頭天王宮(つしまごづてんのうぐう)の御分霊を当所字東側現今県道の中央へ*市神の**崇敬し三鎮齊し維新までは津島牛頭天王奉称して明治四年(1871)より当所西側境内六坪の地に移転し無格社にせられ社号を八雲神社改称し明治二十三年(1890)当所大火の節旧殿は焼失し仝年七月信徒の寄附金を以て現今の社殿再建し今般神社の崇敬上設備完全を期するため村社菅谷神社境内に移転および社号改正の儀を明治四十年(1907)五月九日付を以て埼玉県知事の御許可を得て社号津島神社と改正の上同年七月拾四日に移転祭執行す

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*文字は「伊」(い)であるが、「江(へ)」の誤記として改めた。
**「乃」の文字から「の」としたが「市神の崇敬し」では意味不明。

参照:津島神社については、愛知県津島市のHPから「津島神社」、津島市観光協会HPより「尾張津島天王祭」。


嵐山町・菅谷神社の祭神 1 大山咋命(おおやまくいのみこと)

2009-08-30 11:32:00 | 菅谷

  大山咋命亦名山末本大神*
大山咋命ハ元日枝神社ナリ是ハ畠山重忠年十七才ニシテ治承四年(1180)十月武蔵国長井ノ渡シノ頼朝ノ御陣所ニ参シ頼朝公ニ属シテ先鋒ノ将トナリ各地戦争ニ大ニ軍功アツテ此ノ菅谷ノ地ヲ賜リ依テ此ニ新城ヲ築キ居住トナシ武運長久ノ守護神トシテ近江国日吉山ニ鎮座ナス(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此ノ分霊ハ日本国中即チ三府二十三県ノ内五百社之アリ其ノ一社ノ内ノ御分社)日吉山王権現ノ御分霊ヲ畠山重忠請願ニ依リ建久元年(1190)九月十九日ニ奉遷観請ス故ニ日吉山王大権現ト称セシヲ明治四年(1871)神社取調ノ節村社ニ列セラレ社号ヲ日枝神ト改称ス
明治四拾年四月十七日付字本宿無格社稲荷神社字城無格社天神社ノ二社ヲ合祀ノ上社号日枝神社ヲ菅谷神社ト改称ス
昭和五十五年一級社ニ列セラル

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*「山末本大神」は不明。


津嶌神社祭礼の子供屋台 1960年

2009-08-11 00:18:00 | 菅谷

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 『嵐山20年のあゆみ』(嵐山町発行)に掲載されている写真である。津嶌神社の祭礼で7月13日か14日のいずれかの日に俄(にわか)作りの子供の屋台(山車)を女の子だけで曳いている。場所は菅谷大通り(県道鴻巣小川線後の旧国道254号線)の中島旅館の前。写真右下の下水溝にふたのあるところは通称・大蔵街道の入り口である。(権田文男、2009年3月)


菅谷大通り(国道254号)での交通事故現場 1965年頃?

2009-08-07 23:50:00 | 菅谷

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 菅谷大通り(国道254号、2009年現在は旧国道254号)での交通事故後の警察の現場検証現場を中島屋旅館前辺りから東松山方面を撮影したものである。写真左側の家が奥野長吉氏宅(家号だんご屋)、その右隣り(奥)が小林長次郎氏宅(家号松屋)、その横に菅野(すがの)美容室の路地の入口の看板が見える。その右隣りの二階建ての家が山岸松次氏宅(家号虎屋)の空き地に建てられた中華料理店(主としてラーメン屋)の「五十番」(内田勝氏経営)である。この店は4~5年商売をしていた。この家屋(店)は取り壊されて現在は無い。この写真の撮られた年は特定できないが、昭和40年(1965)頃と推定する。
 なお、道路左側のトラックの後部辺りの位置は、現在の(株)ファミリーフーズ、滑川町月輪、六軒方向に通じる道路の入り口である。写真右側のブリヂストンタイヤ、ヨコハマタイヤ、MOBILの看板の見える店は、中島油脂店である。(権田文男、2009年3月)


大字菅谷北西部より見た航空写真 1965年頃

2009-08-04 12:29:54 | 菅谷

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 写真中央部左側の森が長慶山東昌寺である。墓地は区画整理されている。寺の周りの家も少ない。写真下側には一部、平沢も写っているのか。役場庁舎はある。撮影年を特定できないが、推測するところ昭和40年(1965)前後の写真か。東昌寺の工事は終わっており(1962)、菅谷幼稚園の建物はある(1964)。(権田文男)

1960年(昭和35)12月25日 菅谷村役場新庁舎落成
1961年(昭和36)6月15日 東昌寺落慶式
1962年(昭和37)4月6日 東昌寺落慶式
1964年(昭和39)4月1日 私立菅谷幼稚園開園(根岸忠与園長)
1970年(昭和45)4月15日 嵐山町中央公民館落成
1971年(昭和46)4月1日 東昌会館を改築して嵐山町立嵐山幼稚園開園
1974年(昭和49)1月 嵐山幼稚園、千手堂中原の新園舎に移動


菅谷上の道路清掃風景 1960年

2009-08-03 13:52:00 | 菅谷

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 埼玉県と県道路協会主催による道路清掃、および危険物の除去作業。場所は菅谷の上(かみ)地区、2009年現在の嵐山三叉路付近での道路清掃作業の様子である。道路右側、「ネオサイクリ…」「ワイ…」の広告は島元薬局、手前に島本釣具店があった。

   道路愛護週間
 県と、県道路協会では、例年のように、四月二十一日から三十日まで道路愛護旬間と定めて、道路愛護作業を行うことになり、本村ではこれに協力して次のように、小中学生が出動し、道路の清掃危険物除去等の作業を実施した。
 四月二十六日
 菅谷中 四〇四名
  菅谷地内県道及び千手堂-遠山、大蔵-将軍沢村道
 菅谷小 四八八名
  菅谷地内県道及び村道(中学に同じ)
 鎌小 一六七名
  鎌形地内県道
 七郷小中合同 六一〇名
  七郷地内県道及び村道
    『菅谷村報道』110号 1960年(昭和35)5月15日


菅谷上組の天神講 田幡憲一

2009-08-02 00:23:00 | 菅谷

 菅谷の子供の楽しみの一つに天神講があった。十二月二十四日、俺たち小学校【菅谷村立菅谷尋常高等小学校。現嵐山町立菅谷小学校】の一年生になった者は、風呂敷に包んできた通信簿を座敷に放りだして、天神講だと言って家を駆け出して行く。今年から天神講に参加できると喜んだものだ。高等二年の上級生、高等一年、小学六年、皆大きくたくましく兄貴のようだった。上級生が学校から帰るのを待ち構えていた。昭ちゃん、良平さん、秀夫さん、みんなが帰ってきた。さあこれから天神講だ。
 高等二年、一年、みんなで米を入れる袋、醤油ビン、油のビン等をもって、天神講に参加する子供の家を廻る。米二合、人参一本、又次の家では米と大根一本、醤油茶飲み茶碗一杯、油茶飲み茶碗一杯、ゴボウ一本……。上級生の後ろについて歩きながら家々を集めて歩き、今年の宿(やど)をしてくれる家につくころには、荷物が一杯集まった。
 そして子供達も大勢集まり、上級生の命令で、これから山に薪を集めに行くものと、笹竹取りに行くものとに別れて出掛けて行く。皆協力して枯木を集めて縄でいわいて運ぶ。夜と朝との自分たちで使う物はみんなで共同で集めて、宿をしてくれる家へもって行き、宿のおばさんに渡した。
 宿をしてくれる家では、二部屋続きの座敷を開放して、子供たちに自由につかわしてくれた。子供たちは共同ではたらき、今晩の天神講の宿での、一同に会しての晩飯を楽しみにしながら、上級生の指示に従い、髪と筆、 硯、紙も小さい子供には初めての唐紙(トウシ)という長い紙でした。その紙に上級生がお手本を
     奉納 天満天神宮
 と書いてみせて、下級生の手をとりながら書いて行く。全員書き終わり墨が乾くまで、座敷いっぱい並べて、うまく書けた子、書けない子、うるさいこと……。
 その間にも、年上の子供たちは先程取ってきた笹竹を適当な長さに切り揃え、長いものと旗の頭につけるものとに分けている。そして乾いた紙の頭に糊をつけて笹竹に丸く張り付けて、竹の両方の端を糸で結び、長い笹竹につるしてできあがり。
 そろそろ先程集めたゴボウ、大根、ニンジン、いろいろのものを宿のおばさんが料理している匂いがしてくると、子供たちはなんのご馳走ができるのかとひそひそ話。その間にも、上級生たちは習字の道具を片付けたり、掃除をしたりして、宿をしてくれる家に迷惑の掛からぬ様にと気を使っている。自分たちの事だから自分たちでするのが当り前だ。
 夕方近くなると上級生の命令で、みんなが家に帰り、ご飯茶碗と箸を持ってくる。上の人たちは、ご飯のちゃぶ台を借り集めて持ってくる。いよいよ待ちに待った夕ご飯。それぞれの絵のついた茶碗に、おいしくできた五目ご飯をよそる。宿のおばさんが一番大変だ。急に子供が十六人。おいしいおいしいとお代わり。もう五杯もたべた。俺は四杯。豆腐のつゆもうまい。食欲旺盛だ。みんなで食べれば何でもうまい。おばさんの作った五目ご飯はすぐになくなる。皆満腹だ。
 いじめなどない、塾もない。皆、上級生の命令に従いついて行く。そして、自分も早く大きくなって下のものの面倒をみるのがたのしみだ。
 またまた、上級生の命令がでる。今夜泊まるものは布団一枚、家からもって来るようにと。小さい子供は母親が布団をもってくる。布団を敷き、これから上級生のこわい話。雨の夜、土葬の墓の上で青い炎が燃える話。これは、亡くなった人のリンがたち昇る、いや死んだ人の身体からでる油だとゆう話……。又小学校の南西二百メートルぐらいの、山の中の焼場のこわい話。昭和十六年(1941)頃まで使用していた伝染病や肺結核で亡くなった人を火葬したところ。薪に油をかけてもやしていた話……。皆布団の中から首をだして先輩たちの話に長い夜を過ごした。そしていつしかいびきが多くなり眠りについた。
 朝六時に起床。顔を洗い、皆寒い寒いと震えている。泊まらなかった子供たちもみんな集まってくる。昨日作った天満天神宮の旗をこれより神社へ奉納しに行くのだ。みんなそろって旗を持ち神社まで行進する。神社には上組・中組・下組、それぞれの子供たちが旗を収め、頭がよくなりますようにと天神様を拝む。
 宿へ帰り、宿のおばさんが作った朝ご飯を食べてから全員で遊び、夕方それぞれ解散。子供たちは一年一回のこの天神講をどれほど楽しみに待っていたかがよく分かる。(1995年8月記)

※戦時中の菅谷上組の天神講の回想である。鎌形の天神講については時代は新しくなるが、1961年(昭和36)の中学生の作文がある。


武蔵嵐山駅前から駅通りを望む 1973年・1974年

2009-07-28 22:25:08 | 菅谷

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 武蔵嵐山駅から駅通りを写した写真である。道路は再舗装され、柳の街路樹は取り除かれ、せまい歩道が設置されている。人通りは現在と比較して格段に多く、賑わっている。新装開店の食堂凸坊二階には、未だ「喫茶モール」は開店していない。松山映画劇場の看板は未だ有る。撮影年は昭和48年(1973)か49年(1974)である。
   凸坊新装開店:昭和47年(1972)12月30日
       閉店:平成10年(1998)12月31日
    モール開店:昭和50年(1975)8月
                  (権田文男)