里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作 1962年

2009-08-17 16:36:00 | 古老に聞く

 「君のため世のためなにかおしからん、すててかひある命なりせば」(新葉和歌集)

 正平七年(1352)閏二月二八日新田、足利の会戦が小手指原に展開された。征夷大将軍宗良親王(むねよししんのう)は親しく、官軍将兵の部署を定め、この歌を作って、全軍を鼓舞し、為に官軍の志気は大いに振ったといふ。笛吹峠は、時の官軍の本陣である。即ち太平記笛吹峠の軍の条に「小松生ひ茂りて、前に小河流れたる山の南を陣に取りて、峰には錦の御旗を打立て、麓には白旗(しらはた)・中黒(なかぐろ)・棕櫚葉(しゅろのは)・梶葉(かじのは)の紋書きたる旗共其の数満々たり…」とあるここは往昔、鎌倉往還の大道であり、南は今宿、苦林、入間川を経て、武蔵府中から鎌倉に通じ、北は将軍沢、大蔵より菅谷に至り、上州の児玉、勅使河原を通って前橋近くの府中に達するもので、鎌倉と上野、信濃、越後地方を結ぶ主要交通路であった。新田義貞の鎌倉攻めも大体に於て、この通路のよったものとされており、宗良親王も又、この峠に錦旗を立てられたのである。

 さて、世変り時移り、昭和十九年(1944)、戦争も末期的様相を呈し、敵機の本土上空に跳梁する漸く激化した頃だという。一日、東京尾久の産業報国会の一行が、嵐山で、練成会を開いた。
 この時、当時村の助役であった福島愛作氏は、この会の講師を委嘱され、この地方の歴史的伝説等について説明し、最後に笛吹峠の古戦場を紹介し前掲の宗良親王の和歌を朗唱して、講義を終った。戦、必ずしも利あらず、敵機の蹂躙下に祖国を死守せんと決意する当時の人々の胸に、この歌はひしひしと響くものがあったという。蓋し、南朝勤王将兵の心事に、思相通ずるものがあったのであろう。
 笛吹峠が文化財史蹟として県の指定をうけたのが、昭和十年(1935)。地元、菅谷、亀井両村により「笛吹峠保存会」が結成され、記念碑の建立が企画された。即ち、県助成金として、両村へ三十円宛、他に村からの補助もあったが、その額は明らかでない。この補助金については地元村議小久保代吉氏の画策するところ、与って大いに力あったという。菅谷村長は杉田富次氏、亀井は小峰寛一郎氏である。碑は、両々村境を東西に通ずる巡礼街道(慈光山が板東9番、岩殿観音が10番の札所に当る)と、南北に貫く鎌倉街道との交点、亀井村寄り村有地に建てられ、記念碑周辺の景観を守るため、特に須江の日野両氏に要請し、隣接同氏所有山林、松樹等の保存につとめらるべき旨了解を得た。

 記念碑は、表面に、「史蹟笛吹峠 埼玉県」を一行に刻み裏面には「正平年間の戦蹟にして、建武中興関係遺蹟として名あり、今回埼玉県の指定に基き、菅谷亀井の両村長が保存を協議し、当所を選び、時恰も建武中興六百年に際す。即ち記念保存の為に之を建つ。昭和十年参月。笛吹峠保存会」と記してある。撰文は県史編纂官稲村坦元氏、筆者は福島愛作氏である。福島氏は時に将軍沢区長であり記念碑建設委員長の任にあった。令正に四十才。男盛りの頃だという。表面史蹟笛吹峠の文字は、特に精魂を傾けて揮毫したものだと同氏は語った。福島氏の朗唱する宗良親王の和歌が聴衆の心魂をゆさぶったのも斯くして偶然ではないことを知るのである。 

        内田房男画 笛吹峠記念碑

       『菅谷村報道』134号(1962年6月10日)

  新葉和歌集(しんようわかしゅう) 南北朝時代の和歌集。後醍醐天皇の皇子宗良親王(1311-1385?)撰の準勅撰和歌集。吉野に戻った宗良親王が南朝側歌人の和歌だけを選び、1381年(弘和元)、南朝の長慶天皇に奏覧。

   故郷(ふるさと)は恋しくとてもみよしのの花の盛(り)をいかがみすてむ(94)

   いかてほす物ともしらすとまやかたかたしく袖(そで)のよるの浦浪(95)

   思ふにもなほ色浅き紅葉かなそなたの山はいかヾしぐるゝ(96)

   しげりあふさくらが下の夕すヾみ春はうかりし風ぞまたるゝ(98)

   君のため世のため何か惜からん捨てゝかひある命なりせば(1232)


古老に聞く 重輪寺の大榧 安藤専一 1964年

2009-05-06 20:09:00 | 古老に聞く

   重輪寺の大榧(かや) 
 重輪寺は古里字神伝田に位置し、宗派は禅宗永平寺派に属する曹洞宗の寺院である。本尊は地蔵菩薩を安置している。
 新記*によれば『元は重林寺と書せり曹洞宗上野国群馬郡白川村龍沢寺末、旧里山と号す。慶長年中の草創にて開山理山銀察は寛永十年(1633)十一月二十五日化す』云々と記している。又他書には慶長元年(1596)草創となっているので之を信ずれば今より三百六十八年前建立の古刹である。当寺は古里及び西古里に渡って約百六十の檀家を持っているが、以前は郷党の信仰深かった同村瀧泉寺天台の宗門に属していた。この天台を去って禅門に鞍替し新寺院建立に踏切った檀家の非常決意と開山銀察和尚の熱意とが相融合してこの改宗事業が難無く成し遂げられたものと思う。
 当寺は豊臣秀吉の晩年で秀吉が明使の無礼を怒り朝鮮に再出兵したいわゆる慶長の役(1597-1598)の頃で、家康が征夷大将軍(1603)となり江戸幕府を確立したのはその数年後のことである。
 重輪寺は草創以来数度の大火に見舞われて焼失の憂き目に会い、これがため過去帳外古書類一切を焼失しているので題名の榧樹(かやのき)との由来は確証を得られないが寺院の風除けとして植樹されたことは察知するに難しくない。古老の言によれば、『寺の風除けとして成長の早いこの榧数本を寺地の東南に植えたもので、植樹は草創後五六十年と古くから聞き及んでいる』ということである。この古老の言を一応信頼して年表を繰れば開山銀察和尚の晩年の植樹ということになり、寺が毎年の東南より襲う津波風に悩まされ之に備えるため、時の総代らと相計ってこの植樹対策が実現化されたものと考える。
この榧樹は寺院東南部に位置して現在大小二本が各(おのおの)万朶**(ばんだ)を四方に拡げ巍然(ぎぜん)として寺前の大空を突き衆目を聚めている。
 調査によれば左記のとおりである。 
    樹高  約一八米(六十尺)
    目通り 約四米(一四尺)
    枝下  四米強(一五尺)
    樹令  約三百年
 以上大榧は近郷の名木であり、約三百年の郷土歴史を秘めるものとして、この文化財価値を大いに認め、又衆目を新たにして頂く意味をもってここに記したものである。
 昭和三十九年十月記 村文化財保護委員会 安藤専一
     『菅谷村報道』156号 1964年(昭和39)11月10日

*新記:新編武蔵風土記稿。
**万朶(ばんだ):多くの花の枝、多くの花。ここでは多くの枝の意。


古老に聞く 昭和16年の家計簿 菅谷・関根操 1963年

2009-03-23 10:37:00 | 古老に聞く

   昭和十六年の家計簿
 昭和十年十二月、菅谷大火災の記録によれば(前々号所掲、中島喜市郎氏の覚書き)、村内外からの見舞金、一口最高一〇〇円から一円まで総計は、二一二八円六銭となっている。約二一三〇円である。
 試に役場隣の奥野洋品店にきくと一品二一〇〇円程度のものは、男の替ズボン、浴衣なら二反だという。これがその当時どの位の値うちがあったものなのだろうか。一円の貨幣が道に落ちていても、今では拾い手もないという。
 その一円が昭和十年頃はどの位のねうちがあったのか身の廻り、日用品の値段が分れば、それを今と比較して、当時の金のねうちを知ることが出来るし、又、その頃と今を比べると物の値段がどの位高くなっているのかも知ることが出来ると考えて、当時の家計簿を探し廻った。敗戦という大きな変動の遇い、物の価値が一転し過去を無視したり咎めたりした時期が暫く続いたためか、僅か二十数年前の記録であるが、仲々見当らない。然し、幸い、関根操さん(長倭氏夫人)の、昭和十六年(1941)の家計簿を探り当てた。
 関根さんを古老にあてては申し訳ないが、もともと、老いというのは、「古実をよく知っている老成の人」という意味で、年令に若者には拘らない。新しくても「老酒」つまりよく、ぬれた酒と同じである。さて関根さんの
メモから、拾ってみると、

▽食料品では
  白米(一升)四十銭
  小豆(一升)三十銭
  味噌(百匁)二十銭
  醤油(一升)六六銭
  食油(一升)六三銭
  清酒(一升)一円十銭
  ビール(一本)五十七銭
  豆腐(一丁)十二銭
  ブリ切身(一切)二十銭
  りんご(一個)十銭
  夏みかん(一個)十五銭
  お茶(百匁)五十五銭
等があり、

▽光熱費として
  水道料(一ヶ月)一円二〇銭
  練炭(一包)八十一銭
  炭(檜丸)(一俵)二円十三銭

▽雑貨では
  靴ずみ 三十五銭
  はみがき粉 二十銭
  たわし 十五銭
  茶椀 十五銭
  竹ほうき 二十五銭
  水のう 三十銭

▽衣料では
  シュミーズ 一円五十銭
  ズロース 一円十銭

▽その他
  新聞代 一円二十銭
  家賃 十五円
等である。その頃関根さん夫婦子供さん三人、大宮に住んでいた。大宮と毛呂との電車賃が往復一円四十銭である。
 さて右の品の中主なるものについて、現在の値段を調べてみると、

  白米(一升) 一五〇円(三五七倍)
  味噌(百匁) 三〇円(一五〇倍)
  醤油(一升) 一四〇円(二一二倍)
  食油(一升) 二八〇円(四四四倍)
  清酒一級(一升) 八一〇円(五五五倍)
  ビール(一本O 一一五円(二二〇倍)
  豆腐(一丁) 一五円(一二五倍)
  ブリ切身(一切) 三〇円(一五〇倍)
  りんご(一個) 二〇円(二〇〇倍)
  夏みかん(一個) 三〇円(二〇〇倍)
  お茶(百匁) 一五〇円(二七二倍)
   炭(檜丸)(一俵) 四五〇円(二一一倍)
  靴ずみ 六〇円(一七一倍)
  はみがき粉 百円(500倍)
  たわし 一〇円(六六倍)
  竹ほうき 三〇円(一二〇倍)
  水のう 五〇円(六六倍)
  シュミーズ 四〇〇円(二六六倍)
  ズロース 一五〇円(一五六倍)
   新聞代 四五〇円(二七五倍)
となり、平均二四〇倍である(一個一丁といっても、形状分量、品質の相違があるからこの倍数は必ずしも正確とはいへない)。ところで明治八年(1875)を一として、日本の物価指数を調査すると、昭和十年(1935)は三・六、昭和一五年(1940)は五・八六であり現在は一四八七と推定されるといふ。従って現在の物価は昭和十年に対しては四一三倍、昭和十五年に対しては二五三倍(前記の二四〇倍と大体一致する)になっている訳である。
 そこで火災の年、昭和十年(1935)の四一三倍をとって、当時の見舞金を換算して見ると、

 一円は四一三円
 十円は四一三〇円 
 百円は四一三〇〇円
となる。この数字を今の感覚にあてはめると、さしづめ、

 一円は五〇〇円
 十円は五〇〇〇円
 百円は五〇〇〇〇円
の見舞金を包んだ勘定になるだろう。見舞金総計二一二八円六銭は、八七万八八八八円となる。見舞金全部を白米にすれば一升四拾銭として五三石一斗となる。一人二合として二六五五〇日、約七年間の食糧である。五人家族の家庭では、十四年余りの米代となる。昭和十五年菅谷第一小学校の先生の給料平均は、六十円であるから,中堅職員の三十五・五月分(約三年)の給料である。
 今では男の替ズボン一着分しにかならない金額だが、当時は大したものだった。以上火災見舞金の注釈の意味で蛇足を加えた次第である。
     『菅谷村報道』146号 1963年(昭和38)8月30日


古老に聞く 菅谷大火災の義損 菅谷・中島喜市郎 1963年

2009-03-22 00:04:00 | 古老に聞く

   菅谷大火災の義捐
        -中島喜市郎氏の覚書-
 昭和十年(1935)十二月二日、菅谷の大火災は罹災二十一世帯五十二棟焼失の大被害で、今尚、地民の記憶に新しい。然しこの時、この災害に対して温い同情を寄せた村内外の有志や各種団体の名前、救援金品の額等については混乱の最中であったため、必ずしも村民の間に明らかには残っていないようである。ところが幸い中島喜市郎氏が当時、小島屋の塀に張出された同情金品の一切を書き留めこれを一冊の覚書として、今尚保管していた。請うて被見するに極めて貴重な文献である。よって村誌編纂の資にもと考えて、その全文をここに揚げた。  (村内外、有志、団体の区分は筆者が試みた)

▽村内有志
握飯二盤台(大蔵 向徳寺)
金五円(平沢 内田福次郎)
金一〇〇円(鎌形 杉田ふく)
金一〇〇円(菅谷 田幡歯科)
材木(鎌形 星野材木店)
金十円(菅谷 中島近吉)
金十円(志賀 大野幸次郎)
金十円(平沢 村田秀作)
半紙百帖(川島 島崎友直)
金二円(巡査 富田健吾)
金五円(内田実 権田文司 瀬山正男)
金三円(長島勇二郎 内田保治)
金二円(菅谷 根岸しづ江)
金三円(正木京作、町田富作、小林光雄)
金五円(嵐山駅長大谷)
学用品(岡松屋)
軍手30組(いづみや呉服店)
バケツ(栗原清次)
金5円外衣類(沢野フサ)
太筆百本(卒業生 内田義房 栗原光由 大野文男 栗原千吉)
金十円(志賀 大野角次郎)
金一円(菅谷 中島ヤス)

▽村内団体
金100円(農士学校)
魚二箱(同)
金五円(菅谷武道奨励会)
金五円(千手堂青年団)
金二十円(大字志賀)
金五十円(大字鎌形)
金五円(大字遠山)
金五円(大字川島)
金九円十銭(大字平沢)
金六円(大字将軍沢)
金六円五十銭(大字千手堂)
金三円(大字根岸)
金十五円(大字大蔵)
金100円(第一小学二学区)
金十円(菅谷村分会)
慰問袋22袋(女子青年団)
金二十円(第一小職員)
金十円八十七銭(第一小児童)
金十円(第二小職員)
金三円(青年団平沢支部)」
金十円(鎌形青年団)
金十円(菅谷職工組合)
金十五円(菅谷女子青年団)
金二十円六十銭(菅谷男子青年団)

▽他町村有志
金五円(小川町 船戸商店)
金五円(福田村 権田雄三)
金二円及び衣類(松山町 坂本屋)
金二円(小川町 自由社)
地縞二十五反(松山 松本倉治)
手桶、柄杓(石橋 桑原政吉)
金十円(月輪 高坂奧)
金十円(水房 吉野龍太郎)
金十円(松山 山下正人)
水のう22本(小川 石井賢次郎)
金五円(七郷 田中長亮 井上文雄)
餅菓子五百(宮前 宮崎貞吉)
金一円(杉山 金子忠良)
金十円(県議 横川貞三)
金十円(川越 同郷の子)
金十円(穀物検査員 森慶助)
金十円(水房 吉野和助)
金一円(慈眼寺 篤中俊光)
墨20本(熊谷 滝沢商店)
金一円(松山 塚本忠男)
金一円(志木 細田登志子)
金二円(川口町 欠川波治 高橋増造 欠川清)
金十円(東京 内田利三郎)
金五円(小川 関口忠平)
金五円(赤羽 中島義男)
金一円(福田髙小 江守重良)
金五円(呉軍港 早川留造)
金三円(東京 大野安吉)
金二円(野火止 乙幡金蔵)
金十円(東京 関根国平)
半紙百帖(小川 田口紙店)
玄米二俵(横川重次)
金十円(所沢 岡田ツネ)
紙入23個(松山 精進堂)
学用品(高崎 大畑総七)
金十円(岡本恭平)
石版10枚(七郷 青雲堂)
金三円(大宮 馬場明次)
障子紙百本(下里 安藤喜作)
金五円(東京 小林まつ子)
金二十円(唐子 岩田六郎)
金二円(無名氏)
金二十円(大岡 森田茂一郎)
金五円(小川 福島五久)
金五円(上州 新井親之助)
金三円(軍艦駒橋 中島友蔵)
金五円(東京 大野あき 大野フク)
鉛筆一グロス(松山 戸村新聞店)

▽他町村団体
金五十円(八和田村)
金五十円(小川無尽)
金五十円(松山 武州銀行)
金二十円(竹沢村)
金一〇〇円(小川町)
金三円二五銭並手拭二二本(八和田青年団中爪支部)
金五円(八和田青年団)
金一〇〇円(松山町)
手拭25本(松山 八五銀行)
手拭29本(小川 八五銀行)
金三十円(愛国婦人会埼玉支部)
金三十円(唐子村)
手拭30本(松山日々新聞)
金五円(宮前青年団月輪支部)
金四十円(大河村)
バケツ23個(日本自動車)
金二十円(日赤埼玉支部)
金六十円(福田村)
金三円(岩殿山正法寺)
金十円(宮前村分会水房支部)
金五十円(宮前村)
金五円(川越髙女校友会)
金二十円(五ヶ村護法仏教会)
金五円(小川連合仏教会)
消毒薬八本(小川町松島、市川、マスヤ、横町薬局)
金五十円(吉見四ヶ村)
金三十二円五銭(大椚村)
金五円(七郷男女青年団)
金三円(八和田女子青年団)
金二円茶碗20個(吉見天理教)
金四円五〇銭(太郎丸青年団)
椚金二十五円(高坂村)
金十円(男衾 仏教会)
金十円(比企郡長会)
金二十五円(野本村長)
金三円(実業補習学校長)
金四円(大椚等常高等小)
金五十円(川島領六ヶ村長)
金十円(熊谷農学校)
金十一円三十銭(松山土木事務所職員)
金五円(七郷杉山青年団)
金五円(松中同窓会)
金一円(小川町連合仏教会)
金十五円(今宿村)
金十五円(明覚村)
金十五円(平村)
白米拾壱表(七郷村)
金二十円(行田比企同鄕会)
金二十円二十五銭(松山第一小)
金三円五十七銭(松山第二小)
金七円四銭(大岡小)
金十四円五十五銭(唐子第一小)
金三円四銭(唐子第二小)
金十三円(高坂小)
金十二円(野本小)
金六円十六銭(松山実科高女)
金二十円(比企電灯KK)
金三十円(大岡村)
金二十一円十三銭(福田小)
金二十三円五銭(宮前小)
金二十円二十八銭(七郷小)
金二十円四銭(小川小)
金一円四十銭(浦和小六年)
金五円(月輪青年団)
               (小林博治記)
     『菅谷村報道』144号 1963年(昭和38)5月20日


古老に聞く 巨人伝説 金子慶助

2008-11-04 22:38:12 | 古老に聞く

 幼い頃父に抱かれての寝物語りに「大昔この土地をダイダン坊という非常に大きな男が、土を一ぱい入れた大きな籠を背負って、どこからか歩いて通った。その時の片方の足あとが今の粕川のダイタン坊堰のあたりで、他の片方のは羽尾あたりにある筈である。
 又その時背中の籠のめどから漏って落ちた土が、太郎丸の御堂山となった。それだからあの山は「めど山」というのがもとの名だそうだ」という話をたびたび聞かされた。始のうちはそれは本当なことだと思って、驚いたり又その姿を想像したりして好奇の心を躍らせていたが、少し大きくなってからは「そんな馬鹿なことがあるものか」といろいろ父に質問し、父と終には笑いながら「これは大昔からある昔話さ」ということになった。今でも懐しい思い出である。
 その後巨人にかかる種々な読み物なども見たが、昭和六年(1931)から刊行された平凡社の大百科事典に、藤沢衞彦、早川孝太郎両氏による巨人伝説、巨人足跡伝説、ダイタラボッチ(大太法師)の三項があって、幼い頃聞いた昔話を思い出し、非常に興味を覚えた。この記事を要約すると、「巨人とは超自然的な存在の巨人を謂い世界各地のこの伝説がありその種類も多様である。そのうち日本における一例として大太法師があげられる。これはダイダラボッチともいい、古代人が自然を支配している神(大人)を想像しその持つ威力を、後に内在的な霊智と形即と体軀とに分解して、その霊知を代表するのが神であり、体軀によって代表された部分は単に巨人となって説話化されたもので、大多(ダイタ)または、大太坊、土地によっては大楽(ダイラ)坊、デイラ、レイラ坊等の名がある。
 大太法師伝説の特色は、所謂一夜富士の形で語られるもので、富士山を一夜で築いたというなど各地の高山の伝説に多く語られる山造りの形式であり、他の形式はその足跡を語るもので、沼とか又は凹地のやや足形に似ているものを大太法師の足跡とする説で、これ亦各地に多く伝えられる。関東地方にはこの種類のものは数十ヶ所もある。要するに足跡は古く神の来た跡を記念する思想から出たのものである」というのである。そこで昔、父に聞いたダイダン坊の話を思い出す。この話にあるダイダン坊堰は今でも普通に呼ばれている名称であるが、この附近一帯を占むる小字の名称は大田坊であるから、これは前記大太法師と通じ、その説話の内容は大太法師のとその軸を一にしている。これによって考えると、関東地方に多いと云われる大太法師の説話が、いつの頃にかわが郷土にも移入されて土地に人々に語り伝えられ、やがて地名にもなったものであろう。それならその移入された時代はいつ頃でのあったろうということになるが、父の話はその祖父から聞いたといって居り、大昔の話としているが、本来地名のうちには相当古くから呼ばれているのが多いらしく、例えば筆者の家に伝わる慶長二年(1597)の秀吉の縄入れの時の杉山村の水帳によれば、大字名は勿論小字名も今のとあまり変らず、その後に加わった今の小字名も、何かその土地の古い名称がもとになったものが多いらしいことから推察すると、大田坊の名称の起りも古く、到底徳川時代あたりではないであろうと思われる。
 現在大字広野の字大田坊と呼ばれる土地は、広野の中部から南部に亘り、西方は杉山に接し粕川を跨いで水田約六ヘクタール畑二ヘクタール平地林一七アール宅地若干を含むかなり広い地域であるが、杉山の猿谷の丘陵が西方から急崖をなして、粕川に迫り、広野の畑地をなす丘が東方からこれに応じ、粕川の汎濫原が最も狭ばまっているところでその流路も屈曲甚し、その堰のあたりを起点として複雑に分岐して流れたことも今の水路から考えられる従って洪水時には沼のようのなって容易に水の退かない低温な水田が多い。
 人工の加えられない大昔はこれがもっと甚しく、相当広い地が沼になっていたことも想像され、その形が大体足跡に似ていて、これが大多坊伝説に結びつき、後世これに接近する地域を含めて字大田坊という地名になったのではないかと思われる。

     『菅谷村報道』149号(1963年12月15日)


古老に聞く 首なし地蔵 金子慶助

2008-11-04 22:27:34 | 古老に聞く

 武蔵野台地のゆるやかな起伏、その丘陵の上や窪地(くぼち)に拓(ひら)けた田や畑、その間にまばらに散在する農家、古い昔から恐らくこのままの姿であったろうと思われるそのただずまい。何の変哲もない平凡な農村であるわが杉山の郷(さと)ではあるが、時の流れの幾変遷、歴史の激しい嵐の下に、土に喰いつき土に埋もれて生きて来たこれら農民の社会にも亦それなりに幾多の歴史があった筈である。
 これら郷人(さとびと)の間に、口から口へと語り伝えられた伝承・里伝も、今や残り少い古老の間だけに残り、遂に日の眼も見ないで埋没せられるであろうし又すでに埋没されたものも多数あることであろう。今にしてその埋没を防ぎ、埋蔵されたものを発掘し、それを記録して後世に遺すことに努めなければ、悔いを将来に残し、文化国家の国民としての誇称を嘲笑せられる時が来るであろう。
 徳川の治世もすでに中葉を過ぎ、世は太平で文化の華咲き匂う如くであった頃にも、農民は重税と年毎にかさむ生計費に苦しんで居た。殊に狭い土地からの些やかな収穫では、とてもくらしが立たないこの土地の農民は、いろいろな副業による現金収入の途を考え出した。農業のかたわら大工・左官など職人となるもの、或は資本の多少によって質屋・金貸しなどの金融業、或は酒屋・餅屋・団子屋などの商売を始め、中には心天(ところてん)屋などまででてきた。
 その頃はまだ交通機関が発達せず、人は徒歩、荷物は人か馬の肩か背によって運ばれ、車はあまり使わなかった時代であるから、道は途中に坂はあっても距離の近い方を選んだので、物資の交易も狭い範囲で行われ、その交通路線も今日の人々からは想像も及ばないような処を通じていた。西の方小川町を中心とする山の方と、東の方今の滑川村・江南村・大里村などの平坦地(里方=さとかた)とでは、多くの物資の交易が行なわれ、その重要な交通路の一つが杉山村の北部を通じていた。
 即ち江南村須賀広・小江川方面から滑川村和泉を経て勝田の長沼谷通り、広野を経て杉山に入り六万坂を超えて市野川を渉り、中爪の七曲(ななまがり)の坂を越えて小川町に入るもので、明治になって熊谷-小川間の県道を通ずる際にもその候補路線の一にもなったと聞いている。昔は東の方の里方から米麦の俵を積んだ駄馬が西に向かって山の方に行き、帰りには炭俵や蚕の掃立紙・障子紙・織物類などの荷を積んで里方に通るという具合(ぐあい)で人馬の交通量は相当なものであったと思われ、筆者の少年の頃、明治三十年代にも人と駄馬との交通は非常に多かったと記憶している。
 この杉山村の北部を東西に通ずる道筋にある六万坂は、昔から有名な粘土坂の難所であった。今でこそ丘陵間の東西の窪地を切り通しで結び幾度かの改修を経て、狭い坂道ながら村道となった道が通じているが、その昔はその窪地を避けて北側の丘陵の中腹を穏やかな傾斜をなして斜めに登り頂上を超えて通る長い坂道だったらしく、今でも大体その跡はわかる。例の杉山城主源経基が、六万部の大般若經を埋めた経塚だと伝えられる六つの塚や塚跡もその路傍に並んで存在する。
 このあたりの地質は粘土層が多く露出し、通行に非常に困難なので、人も馬も一息入れなければならぬところであったろうと思われ、この路傍に団子屋・餅屋などの出店があったのもうなずけるのである。筆者が幼い頃古老に「ここで佐重さんが甘(うま)い餅を売っていたっけ」と話されたところが丘の上のにある。

 昔、この坂附近の団子屋で繁昌した金子屋には十四.五才の美しい娘があった。今本名は伝わらないが杉山小町といほどの美しさであったので、土地の若者達はいうまでもなく、ここを通る旅人や馬子たちも必ずこの店に立ち寄り、渋茶をすすり甘(うま)団子を味いながら、愛嬌のよい小町娘の初々ういうい)しい姿に心を奪われ、ひそかに甘い情緒を湧かしたに相違ない。
 ところが寒い冬のある夜その金子屋の本宅に強盗が押し入った。寝ていた主人はじめ家中のものを残らず縛(しば)りあげ、家の中を隅(くま)なく探して金目の物を奪ったのみならず、家の飼馬を曳き出してそれに縛ってあった娘と奪った物とをくくりつけ、熊谷街道から反(そ)れて北方に向かって引き揚げて行った。恐らく娘を中山道深谷宿の遊女屋にでも売りとばすつもりであったろうと思われる。
 ところが少し行った道の傍近くに、同じ杉山村の藤野多右衛門の家があった。その近くにさしかかった時何かのはずみに娘の口にはめてあった猿ぐつわがとれたそこで娘は大声で「多右衛門さん助けて!!わたしは盗まれて行く!!」と叫んだ時ならぬ娘の泣き叫ぶ声を床の中で聞いた多右衛門は「さては夜盗め!!」と歯がみをしながら、平素腕に覚えのある木刀片手に、戸を蹴明(あ)けて声のした方にひた走って行く。
 「助けて!!助けて!!」という娘の絶叫は尚もつづいたがそのうち「このあま!!」という声と共にバッサリと太刀音がして、娘の声はそれきり絶えてしまった。「しまった」と歯ぎしりしながら息はづませて駆けつけた多右衛門の目の前は真暗で何もみえない。漸く後から駆けつけた忰(せがれ)のさし出した提灯の、震える光の下で見た物は何であったろう。「ヤアこれは金子屋の娘だ!!」多右衛門は棒のように突き立ったまましばらくは口もきけない。寝巻きのまま後手にしばられ両足をくくられた娘の胴体と首とが、血の海となった枯れ野の中に別々に転がっていたあとには馬の蹄の音だけが北の夜空のしじまを破ってかすかに聞こえている平素自分の娘のように可愛がっていた娘、しかも最後の最後まで自分を頼って叫び続けていたその声、多右衛門は腸をちぎられる思いで男泣きに大声で泣いた。「自分がもっと早く駆けつけたならば憎い賊の一匹や二匹は叩き伏せ、たとえ自分は手傷を負うとも娘はこんな無残な姿にはしなかったものを」とくやしがった。その後も多右衛門はその声が耳について離れず、どうしても忘れられないので、娘の死骸のあった自分の畑の片隅に、小さいながら石の地蔵さまを建てて毎日香花をあげて供養していた。
 ところがある夜その地蔵さまの首が何者かに持ち去られた。多右衛門が可愛さのあまり特に石屋にたのんで娘の顔に似せて彫らせたその首である。「どこまで運の悪い娘だろう」と多右衛門悲しがって又同じように首だけ石屋に彫らせてつけたが又なくなっている。
 幾度かこれをくり返したことであろう。そのうち多右衛門はなくなり石像は首なしのまま道端に草むらの中にしょんぼりと淋しく立っていた。
 筆者は幼年の頃祖母や母にこの悲しい話をきき、その首なし地蔵がなんとも云われない悲を持っているように思われて傍に近づくのも避けるようにしていた。「それにつけても昔は恐ろしいこたがあったものだ、今はよいなあ」と幼な心にも感じたものであった。
 この藤野氏は天正十八年忍城の落城と共に帰農した武士の流れと云い伝えられ明治維新後百姓も姓を名乗る時代となって若野と改め、筆者の少年の頃まで多右衛門さんの何代目かの孫にあたる多右衛門さんというお爺さんが居て、可愛がられたのを覚えている。
 金子屋は有名な元杢網の生家で、殺された娘は弟の喜四郎の末娘か孫であったろうと思われる。その後若野家は明治四十二年(1909)頃秩父市に移住し、その畑地も、他人の手に渡ったので、金子屋の当主長さんは、字内の積善寺に頼んでその地蔵さまを境内に移し、今でも毎月二十四日の娘の命日には必ず団子をつくって供えに行っている。
 今積善寺の入口の向って左側近くに小さなお堂があって、その中に高さ五〇糎ばかりの首のない地蔵尊の石像が安置されている。在石はあまり良質でないためか欠損したところもあるがその背面には次のような文字が判読できる。

     天明元丑辛天  施主
     為如幻童女菩提也
     二月◯◯◯藤野多右衛門

 天明元年(1781)は十代徳川家治の頃でその三年(1783)にはかの有名な大飢きんがあった。古老の話によるとその年より四年位前から年々気候不順で五穀稔(みの)らず、だんだん食糧が不足して来て遂に大事に至ったとのことであるから、天明元年頃も人心は不安で荒んでいたものであろう。
又この年は元杢網は六十才位で健在だった筈であるから、生家のこの災難をどこかで聞いてさぞ悲しんだことであろう。

     『菅谷村報道』147号・148号(1963年10月14日・11月1日)


古老に聞く 菅谷中学校校歌 安藤専一

2008-09-20 11:32:00 | 古老に聞く

 安藤専一校長が、七郷中学校から菅谷中学校に転じたのが、昭和三十一年(1956)四月。その前年三十年(1955)八月には菅谷中学校新校舎三棟が落成し、三十二年(1957)四月には更に一棟増築にとりかかっている。この頃村の重要施策は新しい教育施設、特に中学校舎の整備に向けられていた。

 菅谷中学校の外、七郷中学校では、三十一年(1956)一月から約一ヶ年、三十二年(1957)二月に新校舎四三七坪が完成している。

斯くして、昭和二十二年(1947)新制中学発足以来の懸案であった新校舎建設は略ゝ(ほぼ)この時代に完了を見たのである。このように学校の形は一応整ったもののこの新しい学舎には、まだ学徒の魂に培うべき、醇美なる校風や、高い理想が建成されるに至っていなかった。それで父祖の伝へた古い歴史や伝統に導かれ、郷党の美しい山河にくん馴致された奥床しい校風の樹立こそ現下の急務と考えられていたのである。新校舎の庭に立った新校長は、この校風と理想を、校歌によって歌い上げようと決意したのであった。

 時のPTAは会長田幡順一氏、副会長岡村定吉氏であった。校長はこのPTAの役員に諮り、PTAの事業として、校歌制定のことを始めたのである。一月のことである。先ず歌詞を村民一般から募集した。締切当日の二十日には、数編の応募作品が集まった。選考委員はPTA役員がこれに当たった。投票の点数により第一位より第四位までを一応入選とし、その中から更に一遍を選んで、正式に校歌として採用することとして、その選定を教育委員会に仰いだ。入選者は、第一位安藤専一、第二位小林荘治、第三位柳生正子、第四位小林荘治の三氏である。

 時の教育委員は、根岸忠興、金子慶助、小林忠一、安藤義雄、長島実の五氏。委員会では、学校の要請により入選作を検討したが、根岸委員長は、委員に諮り更に之を、然る可き権威者に依頼し、補作並に決定を煩はすべき議をまとめ、これを農士学校創始者として、本村に縁故の深い安岡正篤氏に懇請することとした。その時兼任教育長をしていた筆者【小林博治】が命ぜられてその使者に当ったのである。

 東京大手町世界経済会館内全国師友協会の一室で入選四篇のガリバン版刷りを読み乍ら、先生は熱心に筆を加えられた。「矢張りこれが一番いいようだ」と言はれて一位の安藤校長の作品をなおしていかれたが、その結果、(一)の第五句「真理のあとを慕うなる」を「真理の道をすすみゆく」と正され、(二)の第二句の「平和の空は遙けくも」を「平和の空は遙けきも」とし、第六句の「われらが夢」を「われらが郷」となおされた。さて、(三)であるが、(一)が「学舎」(二)が「郷」(三)は当然「国」が来なければならない。先生は暫く考えておられたが、第二位の小林荘治君の(一)に筆を加えられた。

 小林君のものは

   大空に

   のぼる朝日の姿こそ

   菅中校舎の象徴なり

   明るく清く勇ましく

   のびゆく生徒を育てゆく

   輝く 菅谷中学校

が原文であった。これが現在のように、

   澄みわたりたる大空に

   のぼる朝の姿こそ

   われらが学舎の象徴なれ

   明るく清くつつましく

   励む師弟の姿こそ

   我等が祖国の誇なれ

の形になったのである。これにより学舎から郷土、郷土から祖国へと、中学生の理想を追求の姿がここに鮮かに浮び出たのである。

 斯うして出来上がった校歌は川越高等学校教諭牧野統氏の作曲により、昭和三十二年(1957)六月三十日、正式の菅谷中学校校歌として、制定を見るに至ったのである。

 安藤校長を古老に擬するは当らないと思ふが、「安藤専一作詞、安岡正篤監修」と註されている菅谷中学校校歌の成立について、その経緯を知るものが案外に少い。

 四月二十八日、日曜日の午前、今日は人影の全くない庁舎内で偶々訪れた中島運竝(うんぺい)君と四方山(よもやま)ばなしをしている中、話題が菅谷小学校の国旗掲揚塔、門柱などから菅谷中学校校歌にうつり校歌制定の由来についてその実情を知るものの意外に少いことを説かれ、急に思い立ってこの稿を草した。

 菅谷中学校校歌を語るには、安藤校長を措いて他に人はない。それで、些か附会の恨を免れないが、安藤校長に、古老として、御登場願った次第である。

       写真・安岡先生が添作されたガリ版刷の原稿

     『菅谷村報道』143号(1963年5月20日)から作成。

 学校の通称「菅中」「七中」「川高」「菅小」は、それぞれ「菅谷中学校」「七郷中学校」「川越高等学校」「菅谷小学校」に改めた。


古老に聞く 菅谷観音堂由来 多田浦吉

2008-09-18 11:28:00 | 古老に聞く

 菅谷観音の境内に、志賀多田家の墓地があり、その一隅に、寛政九年(1797)多田英貞建立の石碑があって、これに千手観音安置の由来を伝えている。

 寛政九年(1797)といえば今から百六十数年前に当るが、磁石は風雨に暴らされて文字も崩れ、的確に読取ることが困難になっているが、倖(さいわ)い多田さんがその写しを所蔵している。

 これによると、畠山重忠が館を構えた頃、その城の傍に仏寺を置いて、長慶寺と称した。興農研究所の洗心林の地点である。この寺は中世に至って、現在の観音様の敷地に移されたが、何時の頃か廃寺となってすたれてしまった。東西八町南北九町といわれる菅谷村が岡部太郎作(新編武蔵風土記)の知行所となったのは寛永年中であると碑文は語っている。多田氏の祖先が、岡部氏の陣屋にあってその頭地を支配していたことは前号(千日堂菅谷観音由来)に述べた通りであるが、宝永三年(1706)、多田重勝の時、前述の廃寺跡の地を岡部氏から貰って、これを多田家の墓地と定めた。そこで重勝はここに多田堂とする堂宇を建て、千手観音を安置してのである。

 新編武蔵風土記によれば、幕府は岡部氏の子孫、徳五郎の時その領地を上地せしめ、将軍直轄の地とした。碑文には、これを「岡部氏滅亡し重勝の子多田英貞こに地に土着し他に移らず」と述べている。多田氏は主君を失なったが、その後支配地の住人となって永くこの地に留まったのである。尚菅谷村は、安永九年(1780)に至り再び幕府直轄を離れ猪子左大夫の知行に移った多田氏が今の志賀の地に居を定めたのは享保九年(1724)であるといふから、岡部氏が亡び、天領となったのはこの頃であると思われる。重勝が、領主岡部氏から賜った観音境内の地は、前述のよう、幕府の直轄領となり猪子氏の領地と変り、ことに明治維新による版籍奉還等のこともあってその所属が次第に不明となり地元菅谷との間に紛議を生じるにいたった。

 これらが熊谷裁判所に持ち込まれたが、その結果「観音は多田亀三郎のものに相違ないぞ。但し志賀から来て守護することは容易でないから、菅谷の人と話合って管理せよ」という裁断が下った。そして従来の多田堂の名を改めて多田山千日堂と称え共同管理の形とし、その議定書が出来た。明治七年(1874)のことである(議定書の内容は未調査)。然し多田さんの話によるとこの亀三郎さんが貧乏して菅谷から話があっても、その都度会合に出席出来ないそれで管理の実権は次第に地元に移っていたという。

 大正五年(1916)、菅谷区長関根浜吉氏調製の「多田山千日堂調」によると、明治二十五年(1892)、畠山城址の城山学校をここに移して菅谷学校を建て、その敷地として観音敷地を貸与したとある。又同じ調書に「現在の管理の実況は、菅谷区長と評議員が之に当り、堂の縁故者多田家が、年度収支決算の時立合っている」とあるから明治の中葉から実権は完全に地元に移ったとものと見られる。

 これについて又多田さんによると、平沢の内田倍太郎(ますたろう)氏が村会議長の時である。内田氏は当時名うて名うての村会実力者、その上その父君は志賀の多田氏の出で内田家の婿になったものである。観音堂の管理について大いに不満を感じたらしい。「大体陣屋がおとなしすぎる。今日は俺の云ことをきかぬと開会しないぞ」という訳で多田家の立場を明らかにしようとした。その結果、従来の経理を明瞭にした上、管理は一本化して菅谷に委せることとし、村会全員でこれに連判した。多田さんの記憶では、時の村議として、滝沢宗八、小林市太郎、関根丑太郎、福島緑造等の名が上げられる。旧村の議員名簿にこれ等の人が名を連ねたのは、明治三十年から四十年の頃であり尚議員名に若干記憶違いもあるようである。とも角管理権は菅谷に移り総決算の結果残ったのは僅か金五円。これを多田氏が受けて旧来の権利を放棄したのだという。

 かくて観音境内六反五分の地が地元管理となり、内一畝二十四歩の墓地が多田家の所有として現在の地に残ったものである。

     『菅谷村報道』139号(1962年12月20日)


古老に聞く 千日堂菅谷観音由来 中島喜市郎

2008-09-18 10:20:00 | 古老に聞く

 「菅谷村ハ江戸ヨリ十五里、郷庄領ノ唱ヘヲ伝ヘズ…御入国ノ後ハ岡部太郎作ノ知行所ニシテ……」とある。志賀の陣屋、多田米三郎氏の先祖がこの岡部氏の被官として、東西八町南北九町の須賀谷(菅谷と書き改めたのは元禄頃から)の知行所を支配した。その陣屋は現在の中島長吉氏宅附近だという。陣屋というのは領主の役所の意味で、城を築くまでに至らない格式の領主の政庁である。

 伝えによれば、この岡部氏の先祖に岡部主水という人があり、その母が二代将軍の乳母として、殿中に仕えた(*)。将軍秀忠が生まれたのは、天正四年(1576)四月、その前年に、信長・家康の連合軍が武田勝頼を長篠に破っている。家康は元亀元年(1570)に浜松城を修築してこれを根拠とした。秀忠も父の居城に生まれたのである。その乳母であった岡部氏は、そのまゝ浜松にとどまりやがて、その地で死去したという。これは岡部氏が菅谷に知行所をたまわってかららしい。交通不便な江戸初期のことである。その遺骸は現地に葬り、「正心院殿日幸大姉」の位牌が知行所の菅谷の送られて来た。その後宝永三年(1706)(将軍綱吉の時)領主岡部藤重郎元貞は、長慶廃寺の跡を、多田家の墓地として、多田平馬重勝に賜った。これが現在の観音堂の敷地である。仍(よ)つて多田重勝はここに堂宇を草創し、正心院殿の位牌を納め、千手観音を安置し、多田堂と名づけて奉仕した。然し、この多田堂は昭和十年(1935)十二月の火災で焼失するまで、間口二間四尺奥行三間四尺向拝付の本堂を構えて、その名は近隣に高かった。時は移って昭和十九年(1944)、安岡[正篤]先生が東京中野に松村善蔵氏御訪問の事があった。

 松村氏は大阪の石油会社社長である。この時先生に随行した農士学校農場長酒井利晴氏は、松村氏饗膳の前に観音経の一節を誦唱して箸をとった。このことから予(か)ねて観音信仰者である氏との交契が始ったという。これは中島氏が酒井氏から直接聞いた話である。

 観音堂は、昭和十年(1935)焼失後、多田氏が、三尺四方の小堂を建立して、尊靈だけを祀っていた。次いで昭和十八年(1943)、的野梅軒氏が、観音堂敷地を借りて梅精工場を建てるに当り、更に観音堂も新築した。

 ここに的野氏は、酒井氏を通じ、松村氏が観音像寄贈の意あるを知り、酒井氏を介して、千手観音一躰の寄贈を松村氏に懇請した。松村氏はこれを快諾して、大阪の仏師藤岡志好氏にその彫刻を依頼してこれを完成したのである(**)。

 昭和十九年(1944)七月、酒井氏からの通知により、(酒井氏は農士学校を辞し、東京日野町在住)、根岸久一郎、根岸正作、的野梅軒、中島喜市郎氏等が上京して、松村氏から新彫の観音像を受領した。七月十八日である。

 この日のついては、中島氏の記憶によると、一行は途中安岡先生のお宅を訪ねた。この時先生は、小磯大将が帝国ホテルで待っているというので出かけるところだった。小磯氏は大命を拝し組閣中であったが、「多分今夜中に組閣を終わるであろう」といって先生が出かけられたという。つまり組閣の前日に当たっているので、この日を記憶しているという。観音像は中島喜市郎氏が拝持して、午後四時菅谷駅に着いた。出迎えの総代関根清一氏等に守られて、東昌寺に安置し、後二ヶ月を経て、松村氏夫妻、村長、その他有志が列席して、開眼式が行なわれた。

 又、現在観音堂内の「正心院殿日幸大姉」の位牌は中島喜市郎氏が、在京の多田龍作氏を数回訪ねて寄進を得たものである

 昭和二十年(1945)敗戦の結果、全国、中・小学校の奉安殿は撤去されることになり、菅小の奉安殿は、村会の議決を経て、観音堂として、無償譲渡となった。これが現在のものである。千日堂の由来のついては尚考証を要する点が多数あるので、今回は、特に中島氏が直接携り、又見聞したことを中心に、書きとめた(未完)。

*日幸大姉の位牌の裏面には、「岡部主水の母、徳川将軍の御乳母、慶長十五年正月二十六日江府城内に病死」とある。

**中島氏所蔵の観音像写真裏面には、「藤岡志好謹刻/葛野仏喜堂監工/施主 松村善蔵/昭和十九年五月大祥日」と書いてある。

     『菅谷村報道』138号(1962年10月10日)


古老に聞く 鎌倉街道記念碑 関根茂良

2008-09-10 23:52:04 | 古老に聞く

関根茂良氏から旧鎌倉街道記念碑建立の由来を書いておくようにと言はれてから四年気にかけていたが最近は殆んど忘れていた不図筐底から当時の覚書を発見しこれに促がされて、一応建碑の経緯を記して後に残そうと試みた。今を逸すると全てを忘却し去る懼れがある。不確のところは関根氏に質した。(小林博治)

 「伊昔鎌倉街道菅谷」菅谷から嵐山に通じる県道、東武バス停留所「原」から南に入り、農髙敷地の西側をまっすぐに槻川へ下る道路に沿う櫟林に中に、この七文字を刻んだ鎌倉街道の記念碑が建っている。これは記念碑の裏面に刻まれているとおり、昭和三十三年(1958)四月、有志八八余名により建立されたものであるが、この記念碑建設の経緯は概ね次のとうりである。
昭和三十二年(1957)九月十五日、皇太子殿下が興農研修所見学のためお成りになった、この奉送迎中石川浅夫氏のカメラの中に偶然関根茂良、田端順一、小林博治、小林久、関根昭二、水野正男の六人が一かたまりになって写っていた。これがもとで前記六名(水野氏は病欠)が集まり二葉本店で淸酌閑係を試みた。秋も酣(たけなわ)の十月二十五日夜である。この席上関根茂良氏から同氏が予ねて抱懐せる旧鎌倉街道建碑のことが開陳され一同これに和して翌年桜花の頃を期してその実現を計ることになった。これがその発端である。かくて昭和三十三年(1958)一月三十一日第一回発起人会が開かれるに至るまで、建設場所の選定、碑石の調達、同志の勧誘等総て関根氏の独力で基礎的準備が進められていたが、その中で特に書き留めたいことは碑文の策定と、揮毫(きごう)のことである。
これは、文、書共に安岡先生の手に成ったものであることは万人のよく知るころであるが、何時何処でという点になると、殆んど記憶する人はないと思う。筆者もその年月日については完全に忘れ去っていたが、偶々これに関係ある一文書を発見して、場所は勿論、年月日まで明らかとなった。それは一つの寄せ書であるがその冒頭に「昭和三十二年師走念七日於芝石庵愚弟相会痛飲席上」とある。これは現内閣官房副長官細谷喜一氏の筆である。十二月二十七日の夜芝の御成門付近の芝石庵という料亭で安岡先生を囲んで忘年会が行なはれたその時にかねて関根氏の依頼があって先生の「伊昔鎌倉街道菅谷」の碑文が出来上ったのである。「伊昔」は「これむかし」と読むのである。三十三年(1958)一月には、発起人二十三名連名で旧鎌倉街道記念碑建立趣意書が発せられた。草案は筆者。関根氏が加刪(かさん)した。

 「文治五年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討つ時、その大軍は鎌倉を発し一は北上して、本県の西部を過ぎ、下野国から白河を経て陸奥に入っているが他の一隊は、西北に向かって八王子飯能を通り上州高崎から信濃路を越え日本海岸を伝って出羽に進んでいる。今、図上にその跡を辿ると征討軍は秩父連山が東に傾いて武蔵にその姿を没せんとする山麓の丘陵地帯を通過したものと考えられ、その進路は大体今の八高線に沿ったものと想像される。
 本村内に古く鎌倉街道と称せられる地点が数ヶ所存ずるが、今この地に立って、地形を相すると頼朝の遠征軍が果して此処を通り過ぎたか否か俄に之を決することは出来ないが、少なくとも鎌倉から上、信、越を連ねる路線が本村内に存したことは主骨出来る。畠山重忠の故事、木曽義仲の伝説、後に上州世良田長楽寺の所領が存在したことなど、又このことを証拠づけるものと考えられる。
 私達は徒(いたず)らに過去に泥んで古を重んずるものではないが、今の時代が長い過去を承けてこれを遠い将来に伝える大きな歴史の歩みの一貫であることを思う時、今私達が、その父祖の跡を顕彰することは、子孫に対す責務の一環であると思う。
 よって茲に有志相集まって、鎌倉街道跡に記念碑を建立し、これを後世に留めようと計ったのである。
 尚、更に思うことは、終戦以来こゝに十年余、敗戦による混乱の期はすでに去ったといはれるが、今や米ソを頂点とする自由、共産両国家群のはげしい対立や、人工衛星出現による科学的成果の驚異に耳目を奪はれ世は挙げて魂の帰趨(きすう)を失い内に省る暇なく、国を治めず、家を斉えず、身を修めることを忘れて、世情騒然祖国は再び興亡の岐路に立っている。吾々は一大勇猛心を奮起して、この危機を突破しなければならない。
 而してこの勇猛心に培ふものは、日本古来の伝統に根ざした民族精神の覚醒である。古を尚(たっと)び、伝統を重んずる私達の志が結集して建碑の計画となったのであるがこのさゝやかな営みがわが民族精神覚醒えの一つの灯になることを念願する次第である。」
関根茂良、小林博治、野口静雄、根岸忠興、笠原祥二、田幡順一、森田清、内田百太郎、内田実、杉田角太郎、高橋正忠、高橋照士、瀬山修治、関根関太郎、関口庄平、瀬山芳治、簾藤国平、長島一平、金井佐中、根岸寅次、福島愛作、安藤専一、内田家寿

 一月三十一日の発起人会では次のことが定められた。即ち建設費は
  石工謝礼   6000円
  〃 食糧    1000円
  建設工費   2000円 
  石材運賃   1500円
  祭事費     1500円
  会議費     1000円
  諸雑費     1000円
  記念品代   3500円
  計            17500円
とし、これは発起人と、賛同有志会員で搬出することと石工は小菅山福治氏に依頼、碑石は杉田角太郎氏、台石は、簾藤庄治より共に進んで寄贈の申し込みがありその厚意を仰ぐこと、記念品は、手拭百本を作り、賛同者に贈ることなど、等のことであった前述のように右諸計画及び賛同者の勧誘など全て、関根茂良氏を主軸として進められていたのであるが、更に発起人会を組織化し責任の分担を明らかにして、事業の推進を計るを可として二月二十日左の役員を選んだ。
  委員長      関根茂良
  副委員長    田幡順一
  〃(兼書記)   小林博治
  石工相談役  簾藤国平
  〃          田幡順一
 さて軌道に乗った建設事業は順調に進捗(しんちょく)し、建碑の場所は、旧街道の俤(おもかげ)を最もよく残しているといはれる高橋照士、中島茂平両氏の山林が提供され、又四月中旬完成に至るまで、千手堂有志による代石の搬入、基礎工事、建立。遠山有志による石碑の運搬等ひたむきの奉仕作業が続けられた。尚石碑裏面の文字は出野憲平氏、基礎の石積は、内田武一氏の手に成ったものである。以上の如くして、記念碑は予定の通り完成し、四月二十四日の除幕式を迎えるに至ったのである。
 この日桜花には稍(やや)おくれたが、春色正に酣(たけなわ)の、古い鎌倉街道の辺りに、記念碑の除幕式が行はれ、続いて菅谷中学で祝賀会が催された。出席者は前記発起人の外
来賓 横川重次、村長青木義夫、議長山下欽治
賛同者 松浦高義、関根長倭、福島秀雄、島本虎雄、岡村定吉、関根子之助、米山永助、松本金兵衞、中島喜一郎、山岸宗朋、関根昭二、新井義憲、青木髙、森田与資、島崎和一郎、初雁勝吉、河野要、権田和重、権田稔、権田喜又、高橋亥一、高橋四郎平、儘田雪光、高橋甚右ヱ門、出野憲平、根岸善吉、内田清、内田茂、内田保治、内田喜雄、山田巌、小林忠一、小林久、村田富次、吉野賢治、栗原彌之助、内田孫三郎、瀬山光太郎、内田喜代作、林忠一郎、西沢光五郎、高橋重吉、瀬山善吉、関口保助、関根平三、内田佐助、西沢富次、浅見覚堂、吉野松蔵、内田直一郎、内田原作、内田武一、岩沢房之助、簾藤庄治、山下正、金井倉次郎、金井孝作、山下伝次郎、山下光太郎、小久保恭之助、福島楽、忍田福造、小久保幾喜、伊藤泰治の各氏である。
        写真<鎌倉街道記念碑>

     『菅谷村報道』137号(1962年9月20日)

この菅谷館跡西側の「鎌倉街道跡」は、その後の調査(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/sekizoubututyousakai/2008/12/1982_48e3.html)で疑問が出て、1983年(昭和58)、このルートはまちがいで、実は堀跡であったことが判明した。
また、菅谷婦人会『しらうめ』18号(1998年3月)に関根昭二嵐山町長の「歴史的真実と伝説(鎌倉街道について)」があるので併せて参照されたい。


古老に聞く 津島神社縁起 根岸宇平

2008-09-10 23:33:18 | 古老に聞く

 慶応二年(1866)十月、菅谷村(大字菅谷)の戸籍帳(根岸宇平氏藏)によると、名主伊左衛門、組頭与兵衛、同一郎左衛門、同柳七等の名が見える。この組頭柳七さんが根岸宇平氏の祖父の当るが、津島神社の起源はこの柳七さんの頃だという。
 県道をはさんで、宇平氏が西側。東側が中島元次郎氏(農業委員会長)の家であるが、中島氏の曾祖父を平兵衛さんといい、この二人が、ある夏の頃、都幾川筋で瀬干しの漁を試みた。この時、図らずも水中から拾い上げたのが、津島神社の御神体だという。然しこの神様がその後すぐに津島神社、天王様として村人の信仰を集めた訳ではなく現在の天王様の信仰が固まるまでには尚若干年月の経過があったらしい。
 両人は御神体を両家の間の、街道の真ん中に安置し、市神様(いちがみさま)(街衢(がいく)にあって疫神の侵入を防止する神)として奉祀したという。新編武蔵風土記稿に「菅谷村ハ……戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道ヘ出ル脇往還ニシテ人馬継当ヲナセリ」とあるから、往来の人馬も可成り繁かったと思われるが、何分維新前のこととて世の中は呑気であった。コセつかず悠々としていた。道路の真ん中にこんなものを邪魔外道としかる人もなかったらしい。それのみか、この道路上の市神様は次第に厄病除け悪魔祓いの神として村人の尊信を集めるようになって来た。
 さて旧菅谷村内の九ヶ村即ち、菅谷・川島・志賀・平沢・遠山・千手堂・鎌形・大蔵・根岸・将軍沢が統合され、菅谷村聨合戸長役場が出来たのが、明治十七年(1884)であるが、この頃になると流石に往還中央の神祠は時勢に合わず傍傍村人の信仰も増して来た為であろう社祠移転の議が起り、根岸宇平氏の家で、宅地六坪を割き神地として奉納し、社殿を建てて移祀することとなった。かくして現在祭典の際お仮谷の建てられる場所に鎮座することになったのである。役場の土地台帳には、西側440のロ、宅地六坪、八雲神社有として登記されている。現在は津島神社といっているが、土地台帳に見るように、八雲神社といった時代もあり又、根岸さんの話によると八坂神社といったこともあるらしい。
 八坂神社も、八雲神社も、津島神社も祭神は皆、素戔鳴命であり、天王様というのも新羅牛頭山の素戔鳴命の神靈、牛頭天王から出た名称であって、厄除け、悪魔祓い神としての、素戔鳴命信仰には変りがないので、時により、山城の八坂神社に準じ、伊勢の八雲神社に做い、尾張の津島神社に和して、このように社名が変ったのであろう。 
 いづれにせよ、明治二十年頃(1887)になると、この神社は道路上の市神様から更に一歩進んで天王様としての、性格が明らかに固まり、厄除けの神として大字菅谷全体の崇敬をうけるようになっていたと考えられる。
 即ちこのことは、明治二十三年(1890)菅谷の大火の時、すでに神輿が出来ており,この神輿は、根岸忠与氏の邸内に安置してあったが、この火災で焼失したと伝えられているから、天王祭りの中心神事である神輿御渡の行事がすでに存在していたことが分り、当時の天王様信仰の実態を推察することが出来る。尚現在の神輿はその後七年、明治三十年(1897)に小川の梅さん大工(米山宗吉氏家より出る)の弟子熊さん大工によって作られたものだという。
 かくして、天王様としての神格を確立した津島神社は大字菅谷の発展と共に、その祭典も漸く華やかになった。京都八坂神社の祇園祭とその名も同じ、七月十四・十五日の例祭に、疫神・災厄を吹き飛ばして、意気軒昂と市中を練り歩く神輿は菅谷祇園の呼びものとなり、近郷近在の善男善女が、団扇片手に浴衣がけの夏姿で、神輿見物に集った。祇園祭りは、夏の農繁期を終えた村人達の憩の場所でもあった。
 根岸さんが兵隊に行っている頃、字内の神社の統合が行なわれ、津島神社と稲荷様が、現在の菅谷神社の境内に移され、根岸忠与邸内に安置した神輿は、稲荷様の祠に納め、稲荷様には新しい社殿が建設された。約五十年前というから、明治の末、大正の初の頃と思う。然し祭典は、その後も必ず縁りの地にお仮屋を設けて執行され、神社発祥の地には、今尚脈々として、その伝統が生きているのである。
 〔附記〕長い梅雨と入れ替りに、俄に訪れた猛暑の午後。ここは涼風の渡る根岸家の縁側で、土用の暑気払いと進められた心づくしの梅酒を傾け乍ら、根岸さんから聞いた数々の話の中、津島神社の分だけを摘記してその発祥と信仰の成立を辿った。尚御神体を川から拾い上げたという件りは善光寺の本尊が本田義光の難波の堀江から拾い上げたものであり、浅草の観音様は、隅田川の下流で土師臣真中知の網に懸ったものであるという伝説に思い合わせ、地方信仰の起源を探る上から興味深いものと考えた。

     『菅谷村報道』136号(1962年8月5日)


「古老に聞く」連載開始に当たって 小林博治

2008-08-18 18:22:39 | 古老に聞く

村の教育委員会で、村誌編纂のことを始めるという。わが報道も早くから移り行く村の姿を筆にとらえ、カメラにおさめて、十余年を経た。今また失われ行く口碑伝説、風俗習慣の多きを憂えて、これを古老に聞き、文にとどめて村史編纂の資にも供せんと「古老にきく」の稿を起した。筆者を一定せず、有志相はかって、書きついて行き度い。
     『菅谷村報道』132号(1962年4月15日)掲載