goo blog サービス終了のお知らせ 

里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

桜の花を訪ねて13 手白神社のさくら 吉田 1981年

2009-03-30 22:02:00 | 吉田

 老杉に映ずる古木の桜が枝を四方に拡げて花びらを散らしていた。神木の杉は二本あり、樹齢六百年という。町指定の天然記念物である。社殿のすぐ隣にある社務所兼集会所は改築中であった。その玄関の柱に飾られている彫り物だけは古びたもので、大工さんは「きずつけないよう注意しながら仕事をしています」と云った。社殿の彫刻はやはり町指定の文化財である。
 手白神社(嵐山町吉田952)の起原について町誌は次のように述べている。宝永三年(1706)に別当泉蔵院から領主折井氏に提出された伝説として、「仁賢天皇(第二十四代)の第五皇女に手白香姫命という女性がおり、武烈天皇の酷刑苛政を諫めたがきかれないので東国に下り、この吉田の里に止って里人を教化した。ところがある日、手白香姫が村内を巡回し、とある清水で手を洗おうとして懐中の鏡を水中に落してしまった。水底を探し尋ねたがついに発見することができなかった。その後、手白香姫は都に帰り継体天皇の皇后となった。
 鏡を落とした湧水は鏡浄呂(きょうしょうろ)池と名づけ、姫の命によって鏡浄呂弁財天を祀った。その後、白河天皇の御代(1080年頃)に村長の芦田基氏という人が早朝弁財天に参詣したところ、社木の樫の木に向って神気が立ち上がり、その中に姫の姿が現れて「私は先年ここで鏡をなくしたので魂はまだここに止っている。手の業を望むものや手の病気を患うものは来て頼むがよい。」というお告げがあったという。
 手白香姫が武蔵国まで来たのであろうか。そして吉田の地にとどまったのであろうか。全く疑わしい。史書によると継体天皇は手白髪命(たしらかのみこと)を皇后としたとある。手白香姫と手白髪命とは同一人物でなければならない。もとより伝説である。
 今では鏡浄呂池について吉田の人さえほとんど知らない。もっとも昔、神社の前の下に三坪か四坪の池があり、松の木と碑が建っていたというが、今では桑畑になってしまって何の面影もない。滄桑の変という言葉があるが世の変遷の甚だしきを思わざるを得ない。
     『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日

<script type="text/javascript" src="http://maps.google.co.jp/maps?file=api&v=2.x&key=ABQIAAAAiqSLL0x2C9fumhvdtO_9mhRK5KJ_ysfVkCrlOfZpAyQdOP0PshTxZN1UytcCnpzYmax-11cBbQXbKw" charset="utf-8"></script>
<noscript></noscript>
<script type="text/javascript">setTimeout('mapFunction_9062()', 2000);function mapFunction_9062(){var map = new GMap2(document.getElementById('mapContainer_9062'));map.addMapType(G_PHYSICAL_MAP);map.addMapType(G_SATELLITE_3D_MAP);map.addControl(new GLargeMapControl());map.addControl(new GScaleControl());map.addControl(new GHierarchicalMapTypeControl());map.setCenter(new GLatLng(36.091891163589075, 139.31380480527878), 13, G_NORMAL_MAP);var marker = new GMarker(new GLatLng(36.091891163589075, 139.31380480527878));GEvent.addListener(marker, 'click', function() {marker.openInfoWindowHtml('');});map.addOverlay(marker);}</script>
Latitude : 36.091891163589075
Longitude : 139.31380480527878

吉田稚蚕飼育所「物の怪」の記 吉田・小林武良

2008-10-27 23:37:19 | 吉田

 昭和四十年代ある夏の夜のことである。七月下旬飼育所では初秋蚕の掃立が終り私も機械係として飼育所の任に当ることになった。機械係とは二人一組となって一昼夜勤務し、翌朝の交替制である。昼夜を通して二時毎にボイラーを点検し又、室内の温度と湿度の調整及び記録する仕事である。
 初秋蚕の稚蚕飼育も順調に経過したある夜のことであった。飼育所の地下室は日毎桑の量がふえるため桑が熱をもたないよう見回りも兼ねた。夏の夜は十二時間近となりボイラーを点検し、室内の温度と湿度を確認して、ひと休みしようと思い床につくと何者かそれとも猫なのか地下室の廊下を「カタカタ」と渡り歩くような音が聞える。あれっと思い起き上ると物音が消える。しばらくして又「カタカタ」と今度は廊下から階段を昇るような気配がした。念のため早速地下室を見回ったが何の姿もなかった。翌朝次の出勤者と交替したが深夜同じ様な物音を聞いていた。奇怪な現象が何日か続き飼育所内はその話でもちきりとなった。しかしそこは嶋田組合長の機転で「今晩一ぱい飲んで清めよう」と役員一同に呼びかけると話がまとまり夕方お酒が用意された。役員他みんなで酒を飲み乍ら語り合いそれが所内のお払いも兼ねた。するとその夜から奇怪な物音はピタリと止った。
 そして翌日飼育所は何事もなかったようにみんな元気な姿で仕事に励むことができた。
 吉田飼育所は宗心寺地内にあり近くに多くの墓地が散在している。昭和四十三年(1968)に始った飼育所は時の流れと共に嶋田忠治組合長から小林清治、藤野守一氏へと引継がれ、人工飼育の時代を経て平成九年(1997)一月十九日、三十年の歴史を終え春を待たず解体された。
 古き良き時代の夏の夜の物語りである(1999年1月)


里やまのくらし 10 根岸

2008-07-07 15:23:00 | 吉田

  大火の歴史
 明治の頃、嵐山では数十戸が全焼する大火が幾度もありました。1868年(明治元)10月・全焼30戸、1870年(明治3)1月・全焼25戸、1881年(明治14)5月全焼50戸、同年11月・大蔵全焼13戸、1890年(明治23)2月・菅谷全焼47戸という記録が残っています。明治後半以降、1910年(明治43)4月・菅谷村役場、1917年(大正6)9月・鎌形小学校、1939年(昭和14)5月・七郷産業組合が焼けています。
 1935年(昭和10)12月3日の菅谷の大火では、米山材木店の東側にあった菅谷小学校も類焼しました。火元より延焼して21戸52棟が焼けた原因は、前日からの北西の烈風と消火のための水の便の悪さからと言われています。

  大蔵・根岸の大火
 1946年(昭和21)3月8日午後1時頃に出火した大蔵の火事は南東の方角にある大字根岸に飛び火し、10軒が焼け出される大火となりました。
根岸福平さん(写真右)の話:横なぐりの強風で焦げた麦ワラが空が見えないほど飛んで来ました。母屋のワラ屋根に飛んでくる火の粉を払うため、濡らしたムシロを持って屋根に上がりました。北側の家二軒が燃え上がるのが見えても、わが家を守るのに手一杯で助けには行けません。煙が立ち上らず地面をはうように流れたので、大蔵・根岸方面が火事だと気づかれるのは遅れました。応援に親戚が来てくれた時は助かりました。
根岸茂夫さん(写真中)の話:大きな黒い固まりのワラがボタッと落ちるとパッと赤くなって火の粉となり飛び散ります。はしごで屋根に上がりホウキで火の粉を下へ払い落としました。新しいワラ屋根は堅くて滑りやすいので自分も下へ落っこちそうで怖いものでした。都幾川対岸の唐子村の青年団の人たち多数、消火の応援に来てくれました。演習の時にはかかった消防ポンプもこの時は動かず、手押しポンプを使いました。
対岸からの目撃者の話:盲腸で岩田病院に入院していました。家財道具を運び出すことにみな夢中になっているようでした。屋根の火の粉を払えば間に合うのにとやきもきしながら見ていると、屋根が赤くなり一気に燃え広がっていきます。吾妻(あづま)神社【権現様(ごんげんさま)】のある前山(まえやま)の山林にも火がつきました。

Photo

 大字根岸では1923年(大正12)、各家の目につきやすい場所にコンクリートの灰小屋を設置しました。カマドやイロリから出た灰を貯蔵し、カリ肥料として使いました。上の写真の灰小屋は根岸隆男さん宅の庭先にあります。

  根岸観音の火災
 安産と子育ての御利益(ごりやく)があるとして近郷の信仰を集める根岸観音の祭りは毎年2月20日と10月20日におこなわれています。下の写真は1953年(昭和28)10月20日に撮影されたものです。境内につくられた舞台には、昭和の初めに大蔵の若者たちが組織した「大若連」の引き幕があり、警備の消防団員が写っています。観音様のお堂は、1948年(昭和23)4月14日の火災(全焼2戸3棟・公会堂)で類焼しました。
Photo_2
根岸直次さん(写真左)の話:当時は観音様のとなりに住んでいました。前年9月15日の大水で流された月田橋の掛け替え工事のため家の側の旧道を代燃車(木炭自動車)のトラックが走っていました。その火の粉が、積んであった麦わらに燃え移り、そこから発火したのです。現在の観音堂は1997年(平成9)に新築したものです。


里やまのくらし 1 吉田

2008-05-22 21:07:00 | 吉田

 手白神社の祭典

 町の天然記念物に指定されている二本の杉の大木がある手白(てじろ)神社の春季例大祭は4月17日の日曜日に行われました。一九一三年(大正2)、大字吉田にある峯野神社、琴平神社、五龍神社、六所神社、厳島神社の五社が手白神社に合祀(ごうし)されました。みごとな彫刻のある本殿は、六所神社の建物を移したものです。

 手白神社は手の神様として信仰されてきました。手や腕の病から裁縫・機織りまで御利益(ごりやく)があるといい、神社合祀を記念して「手白講」が始められました。当時の講の規約には、「講の納金は代参一人金五十銭、代参の方には粗飯及神酒を呈す、一般の講中諸君へは、お札供物並に当地に安置し奉る蚕影山を祈願し養蚕大豊熟のお札を併せ提供す」と書かれています。蚕影山(こかげさん)は現在、宗心寺境内にあり、養蚕の盛んだった時代を偲(しの)ばせます。昭和初年には、関東一円に四五〇もの手白講がありました。

 代参の人々や参拝者に食事やお酒を出して接待し、お札や絵馬を取扱っていた「手白家(てじろんち)」は、福島銈一家の屋号です。当時は、神社石段の南側にあり、中二階の建物でした。神社に隣接して四阿(あずまや)や二段の池を公園風に作り、上の池から中二階に板を渡して、下の池の噴水を見ながら出入りできました。大祭があった旧暦三月十五日には、「十銭店(じっせんだな)」とよばれる露店が並び、青年団の素人演芸も催され、境内は大いに賑わいました。

 写真は昭和五〇年頃の演芸会です。社務所の前に舞台が作られ、社務所は出演者の楽屋になりました。演目は八木節、炭鉱節、人生劇場等々で、見物の人たちも輪になって秩父音頭等を踊りました。

 井戸水に頼った生活

 四月七日、吉田第一公民館で茶話会がありました。参加者は、小林美知子、内田千代子、内田つる子、小林稔枝、小林春子、小林保子、福島たけ、島田ヨネさんの8名。昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長の時代、世の中は大いに変わりました。ちょっと昔のその頃の、くらしぶりを回想してもらいました。

 蛇口をひねると、使いたいときに、使いたいだけ水をだすことができるようになったのは、いつからでしょう。嵐山町では、一九六一年(昭和36)の春、菅谷地区内の家々の井戸水がかれて、となり近所の水争いが起こりました。となりの家よりも井戸を深くして水を手に入れようと、夜中にこっそりと井戸を掘った人もありました。水道をつくる運動がおこり、一九六三年(昭和38)、菅谷・川島・志賀・平沢・千手堂を給水区域とする簡易(かんい)水道が完成、一九七三年(昭和48)には、町全体に上水道をひくことができるようになったのです。

 島田ヨネさんが結婚して吉田に来た一九六六年(昭和41)、家には井戸が二本ありましたが、水道はまだ入っていませんでした。井戸から動力ポンプで水を汲み上げる自家水道にもなっていなかったので、洗濯機には、井戸水をガチャポンと呼ばれた手動ポンプで汲んで使いました。勝手には水がめがあり、流しにはまだ蛇口がない時代でした。「女どもはたいへんだ」と言って舅(しゅうと)の要(よう)さんが、井戸をもう一本掘ってくれましたが、井戸の水量を気にする生活を送っていました。井戸水が不足した時には、およそ一キロメートル離れた、江南町塩の地獄沼でオシメを洗ったり、子供用のプールに沼の水を汲んで耕耘機で家まで運んで風呂やちょっとした洗い物に使ったこともあったそうです。

 嵐山町の水道は現在、町内の三つの水源井(すいげんい)と町の総配水量の20%をしめる県水を使っています。

          嵐山町『広報』2005年5月号より作成

<script src="http://maps.google.co.jp/maps?file=api&v=2.x&key=ABQIAAAAiqSLL0x2C9fumhvdtO_9mhRK5KJ_ysfVkCrlOfZpAyQdOP0PshTxZN1UytcCnpzYmax-11cBbQXbKw" charset="utf-8"></script>
<noscript></noscript>
<script type="text/javascript">setTimeout('mapFunction_80262()', 2000);function mapFunction_80262(){var map = new GMap2(document.getElementById('mapContainer_80262'));map.addMapType(G_PHYSICAL_MAP);map.addMapType(G_SATELLITE_3D_MAP);map.addControl(new GLargeMapControl());map.addControl(new GScaleControl());map.addControl(new GHierarchicalMapTypeControl());map.setCenter(new GLatLng(36.0920320458531, 139.3137001991272), 13, G_NORMAL_MAP);var marker = new GMarker(new GLatLng(36.0920320458531, 139.3137001991272));GEvent.addListener(marker, 'click', function() {marker.openInfoWindowHtml('');});map.addOverlay(marker);}</script>
Latitude : 36.0920320458531
Longitude : 139.3137001991272