里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古老に聞く 巨人伝説 金子慶助

2008-11-04 22:38:12 | 古老に聞く

 幼い頃父に抱かれての寝物語りに「大昔この土地をダイダン坊という非常に大きな男が、土を一ぱい入れた大きな籠を背負って、どこからか歩いて通った。その時の片方の足あとが今の粕川のダイタン坊堰のあたりで、他の片方のは羽尾あたりにある筈である。
 又その時背中の籠のめどから漏って落ちた土が、太郎丸の御堂山となった。それだからあの山は「めど山」というのがもとの名だそうだ」という話をたびたび聞かされた。始のうちはそれは本当なことだと思って、驚いたり又その姿を想像したりして好奇の心を躍らせていたが、少し大きくなってからは「そんな馬鹿なことがあるものか」といろいろ父に質問し、父と終には笑いながら「これは大昔からある昔話さ」ということになった。今でも懐しい思い出である。
 その後巨人にかかる種々な読み物なども見たが、昭和六年(1931)から刊行された平凡社の大百科事典に、藤沢衞彦、早川孝太郎両氏による巨人伝説、巨人足跡伝説、ダイタラボッチ(大太法師)の三項があって、幼い頃聞いた昔話を思い出し、非常に興味を覚えた。この記事を要約すると、「巨人とは超自然的な存在の巨人を謂い世界各地のこの伝説がありその種類も多様である。そのうち日本における一例として大太法師があげられる。これはダイダラボッチともいい、古代人が自然を支配している神(大人)を想像しその持つ威力を、後に内在的な霊智と形即と体軀とに分解して、その霊知を代表するのが神であり、体軀によって代表された部分は単に巨人となって説話化されたもので、大多(ダイタ)または、大太坊、土地によっては大楽(ダイラ)坊、デイラ、レイラ坊等の名がある。
 大太法師伝説の特色は、所謂一夜富士の形で語られるもので、富士山を一夜で築いたというなど各地の高山の伝説に多く語られる山造りの形式であり、他の形式はその足跡を語るもので、沼とか又は凹地のやや足形に似ているものを大太法師の足跡とする説で、これ亦各地に多く伝えられる。関東地方にはこの種類のものは数十ヶ所もある。要するに足跡は古く神の来た跡を記念する思想から出たのものである」というのである。そこで昔、父に聞いたダイダン坊の話を思い出す。この話にあるダイダン坊堰は今でも普通に呼ばれている名称であるが、この附近一帯を占むる小字の名称は大田坊であるから、これは前記大太法師と通じ、その説話の内容は大太法師のとその軸を一にしている。これによって考えると、関東地方に多いと云われる大太法師の説話が、いつの頃にかわが郷土にも移入されて土地に人々に語り伝えられ、やがて地名にもなったものであろう。それならその移入された時代はいつ頃でのあったろうということになるが、父の話はその祖父から聞いたといって居り、大昔の話としているが、本来地名のうちには相当古くから呼ばれているのが多いらしく、例えば筆者の家に伝わる慶長二年(1597)の秀吉の縄入れの時の杉山村の水帳によれば、大字名は勿論小字名も今のとあまり変らず、その後に加わった今の小字名も、何かその土地の古い名称がもとになったものが多いらしいことから推察すると、大田坊の名称の起りも古く、到底徳川時代あたりではないであろうと思われる。
 現在大字広野の字大田坊と呼ばれる土地は、広野の中部から南部に亘り、西方は杉山に接し粕川を跨いで水田約六ヘクタール畑二ヘクタール平地林一七アール宅地若干を含むかなり広い地域であるが、杉山の猿谷の丘陵が西方から急崖をなして、粕川に迫り、広野の畑地をなす丘が東方からこれに応じ、粕川の汎濫原が最も狭ばまっているところでその流路も屈曲甚し、その堰のあたりを起点として複雑に分岐して流れたことも今の水路から考えられる従って洪水時には沼のようのなって容易に水の退かない低温な水田が多い。
 人工の加えられない大昔はこれがもっと甚しく、相当広い地が沼になっていたことも想像され、その形が大体足跡に似ていて、これが大多坊伝説に結びつき、後世これに接近する地域を含めて字大田坊という地名になったのではないかと思われる。

     『菅谷村報道』149号(1963年12月15日)


古老に聞く 首なし地蔵 金子慶助

2008-11-04 22:27:34 | 古老に聞く

 武蔵野台地のゆるやかな起伏、その丘陵の上や窪地(くぼち)に拓(ひら)けた田や畑、その間にまばらに散在する農家、古い昔から恐らくこのままの姿であったろうと思われるそのただずまい。何の変哲もない平凡な農村であるわが杉山の郷(さと)ではあるが、時の流れの幾変遷、歴史の激しい嵐の下に、土に喰いつき土に埋もれて生きて来たこれら農民の社会にも亦それなりに幾多の歴史があった筈である。
 これら郷人(さとびと)の間に、口から口へと語り伝えられた伝承・里伝も、今や残り少い古老の間だけに残り、遂に日の眼も見ないで埋没せられるであろうし又すでに埋没されたものも多数あることであろう。今にしてその埋没を防ぎ、埋蔵されたものを発掘し、それを記録して後世に遺すことに努めなければ、悔いを将来に残し、文化国家の国民としての誇称を嘲笑せられる時が来るであろう。
 徳川の治世もすでに中葉を過ぎ、世は太平で文化の華咲き匂う如くであった頃にも、農民は重税と年毎にかさむ生計費に苦しんで居た。殊に狭い土地からの些やかな収穫では、とてもくらしが立たないこの土地の農民は、いろいろな副業による現金収入の途を考え出した。農業のかたわら大工・左官など職人となるもの、或は資本の多少によって質屋・金貸しなどの金融業、或は酒屋・餅屋・団子屋などの商売を始め、中には心天(ところてん)屋などまででてきた。
 その頃はまだ交通機関が発達せず、人は徒歩、荷物は人か馬の肩か背によって運ばれ、車はあまり使わなかった時代であるから、道は途中に坂はあっても距離の近い方を選んだので、物資の交易も狭い範囲で行われ、その交通路線も今日の人々からは想像も及ばないような処を通じていた。西の方小川町を中心とする山の方と、東の方今の滑川村・江南村・大里村などの平坦地(里方=さとかた)とでは、多くの物資の交易が行なわれ、その重要な交通路の一つが杉山村の北部を通じていた。
 即ち江南村須賀広・小江川方面から滑川村和泉を経て勝田の長沼谷通り、広野を経て杉山に入り六万坂を超えて市野川を渉り、中爪の七曲(ななまがり)の坂を越えて小川町に入るもので、明治になって熊谷-小川間の県道を通ずる際にもその候補路線の一にもなったと聞いている。昔は東の方の里方から米麦の俵を積んだ駄馬が西に向かって山の方に行き、帰りには炭俵や蚕の掃立紙・障子紙・織物類などの荷を積んで里方に通るという具合(ぐあい)で人馬の交通量は相当なものであったと思われ、筆者の少年の頃、明治三十年代にも人と駄馬との交通は非常に多かったと記憶している。
 この杉山村の北部を東西に通ずる道筋にある六万坂は、昔から有名な粘土坂の難所であった。今でこそ丘陵間の東西の窪地を切り通しで結び幾度かの改修を経て、狭い坂道ながら村道となった道が通じているが、その昔はその窪地を避けて北側の丘陵の中腹を穏やかな傾斜をなして斜めに登り頂上を超えて通る長い坂道だったらしく、今でも大体その跡はわかる。例の杉山城主源経基が、六万部の大般若經を埋めた経塚だと伝えられる六つの塚や塚跡もその路傍に並んで存在する。
 このあたりの地質は粘土層が多く露出し、通行に非常に困難なので、人も馬も一息入れなければならぬところであったろうと思われ、この路傍に団子屋・餅屋などの出店があったのもうなずけるのである。筆者が幼い頃古老に「ここで佐重さんが甘(うま)い餅を売っていたっけ」と話されたところが丘の上のにある。

 昔、この坂附近の団子屋で繁昌した金子屋には十四.五才の美しい娘があった。今本名は伝わらないが杉山小町といほどの美しさであったので、土地の若者達はいうまでもなく、ここを通る旅人や馬子たちも必ずこの店に立ち寄り、渋茶をすすり甘(うま)団子を味いながら、愛嬌のよい小町娘の初々ういうい)しい姿に心を奪われ、ひそかに甘い情緒を湧かしたに相違ない。
 ところが寒い冬のある夜その金子屋の本宅に強盗が押し入った。寝ていた主人はじめ家中のものを残らず縛(しば)りあげ、家の中を隅(くま)なく探して金目の物を奪ったのみならず、家の飼馬を曳き出してそれに縛ってあった娘と奪った物とをくくりつけ、熊谷街道から反(そ)れて北方に向かって引き揚げて行った。恐らく娘を中山道深谷宿の遊女屋にでも売りとばすつもりであったろうと思われる。
 ところが少し行った道の傍近くに、同じ杉山村の藤野多右衛門の家があった。その近くにさしかかった時何かのはずみに娘の口にはめてあった猿ぐつわがとれたそこで娘は大声で「多右衛門さん助けて!!わたしは盗まれて行く!!」と叫んだ時ならぬ娘の泣き叫ぶ声を床の中で聞いた多右衛門は「さては夜盗め!!」と歯がみをしながら、平素腕に覚えのある木刀片手に、戸を蹴明(あ)けて声のした方にひた走って行く。
 「助けて!!助けて!!」という娘の絶叫は尚もつづいたがそのうち「このあま!!」という声と共にバッサリと太刀音がして、娘の声はそれきり絶えてしまった。「しまった」と歯ぎしりしながら息はづませて駆けつけた多右衛門の目の前は真暗で何もみえない。漸く後から駆けつけた忰(せがれ)のさし出した提灯の、震える光の下で見た物は何であったろう。「ヤアこれは金子屋の娘だ!!」多右衛門は棒のように突き立ったまましばらくは口もきけない。寝巻きのまま後手にしばられ両足をくくられた娘の胴体と首とが、血の海となった枯れ野の中に別々に転がっていたあとには馬の蹄の音だけが北の夜空のしじまを破ってかすかに聞こえている平素自分の娘のように可愛がっていた娘、しかも最後の最後まで自分を頼って叫び続けていたその声、多右衛門は腸をちぎられる思いで男泣きに大声で泣いた。「自分がもっと早く駆けつけたならば憎い賊の一匹や二匹は叩き伏せ、たとえ自分は手傷を負うとも娘はこんな無残な姿にはしなかったものを」とくやしがった。その後も多右衛門はその声が耳について離れず、どうしても忘れられないので、娘の死骸のあった自分の畑の片隅に、小さいながら石の地蔵さまを建てて毎日香花をあげて供養していた。
 ところがある夜その地蔵さまの首が何者かに持ち去られた。多右衛門が可愛さのあまり特に石屋にたのんで娘の顔に似せて彫らせたその首である。「どこまで運の悪い娘だろう」と多右衛門悲しがって又同じように首だけ石屋に彫らせてつけたが又なくなっている。
 幾度かこれをくり返したことであろう。そのうち多右衛門はなくなり石像は首なしのまま道端に草むらの中にしょんぼりと淋しく立っていた。
 筆者は幼年の頃祖母や母にこの悲しい話をきき、その首なし地蔵がなんとも云われない悲を持っているように思われて傍に近づくのも避けるようにしていた。「それにつけても昔は恐ろしいこたがあったものだ、今はよいなあ」と幼な心にも感じたものであった。
 この藤野氏は天正十八年忍城の落城と共に帰農した武士の流れと云い伝えられ明治維新後百姓も姓を名乗る時代となって若野と改め、筆者の少年の頃まで多右衛門さんの何代目かの孫にあたる多右衛門さんというお爺さんが居て、可愛がられたのを覚えている。
 金子屋は有名な元杢網の生家で、殺された娘は弟の喜四郎の末娘か孫であったろうと思われる。その後若野家は明治四十二年(1909)頃秩父市に移住し、その畑地も、他人の手に渡ったので、金子屋の当主長さんは、字内の積善寺に頼んでその地蔵さまを境内に移し、今でも毎月二十四日の娘の命日には必ず団子をつくって供えに行っている。
 今積善寺の入口の向って左側近くに小さなお堂があって、その中に高さ五〇糎ばかりの首のない地蔵尊の石像が安置されている。在石はあまり良質でないためか欠損したところもあるがその背面には次のような文字が判読できる。

     天明元丑辛天  施主
     為如幻童女菩提也
     二月◯◯◯藤野多右衛門

 天明元年(1781)は十代徳川家治の頃でその三年(1783)にはかの有名な大飢きんがあった。古老の話によるとその年より四年位前から年々気候不順で五穀稔(みの)らず、だんだん食糧が不足して来て遂に大事に至ったとのことであるから、天明元年頃も人心は不安で荒んでいたものであろう。
又この年は元杢網は六十才位で健在だった筈であるから、生家のこの災難をどこかで聞いてさぞ悲しんだことであろう。

     『菅谷村報道』147号・148号(1963年10月14日・11月1日)


志賀村騒動記 "娘に色目……"スワ合戦

2008-11-02 20:58:09 | 小江川

 志賀村(嵐山町志賀)の若者たちは、どうも威勢がよすぎたようだ。これは、前回でも触れた水野家の剣術道場(水野倭一郎道場主)「士関演武場」の繁栄からもうかがえる。この血気の多さが、近くの小原村小江川(江南村小江川)との、地域ぐるみの大喧嘩(げんか)を引き起こした。戊辰戦争が終わり、世間が平静を取り戻しかけた明治三年(1870)のことである。
 ことの起こりは、同年四月十二日夜、志賀村の娘に小江川の若者が"色目"を使ったことが発端。これを見とがめた志賀の若者と小江川の若者たちの間で口論となった。この場所が悪かった。大がかりな回向が催されていた杉山村(嵐山町杉山)の薬師堂境内。そばには、志賀村が腕によりをかけて作って飾った大江山酒呑童子退治の人形があった。口論のすえカッとなった小江川の若者が、この人形の首を引き抜いたからたまらない。逃げるのを追いかけた志賀の若者たちは、隣の広野村(嵐山町広野)の石橋の下に隠れていた小江川の岡部勇之丞を見つけ、袋だたきにしたうえ縛りあげてしまった。
 岡部を救出するため、小江川では杉田幸七らを中心に百数十人が集まり、竹ヤリなどの武器を手に志賀に向かってきた。志賀でも、水野倭一郎の長男喜一郎が先頭となり、腕自慢が集まって迎え撃つ準備をした。やはり武器は竹ヤリ。水野家の「一反五畝(約十五アール)の竹やぶを全部切ってヤリにした」=水野信夫さん(46)=というからすごい。倭一郎は鎧(よろい)を着込み、馬上で助宗作の大刀を振りかざして指揮をとる。
"小江川軍"は広野村庚申塚、"志賀軍"は杉山村溝堀谷に陣取った。今では、この地もはっきりしないが、庚申塚とは嵐山町川島地区の庚申塚あたり、溝堀谷とは「溝堀」という屋号が残っている杉山【番地略】、内田恒雄さん(45)宅付近らしい。とすれば、"両軍"の距離は約二キロ。ともにかがり火をたき、ほら貝を吹き鳴らしての一時触発の状況となった。
 近郷の村人たちの方が、この騒ぎに驚いた。広野や杉山など六村の総代ら六人が、あわてて紋付袴(はかま)の正装で仲裁のため両陣営の間をかけ回った。初めは首を縦に振らなかった双方も、十七回も往復した仲裁人の顔を立て、「こう頼まれては……」と和解。流血の惨事は免かれた。
 この騒動は、さっそく大里村の瓦版屋にとりあげられ、てん末は「ここにサァエー 珍し騒動話し」という文句で始まる歌となった。志賀、小江川地区では、やはり歌として明治末ごろまで、娘たちは洗い物などをしながらよく口ずさんだという。
 騒動の後日、小江川で田舎歌舞伎を呼んでの盛大な手打ち式が行われた。争いでの被害者は袋だたきにあった岡部勇之丞だったが、和解での被害者も出た。それは、小江川での聟養子たちだった。歌舞伎は回り舞台。下で一生懸命、舞台を回す役目を言いつかったのが、集められた婿さん連中だった。三角英吉さん(68)(小江川【番地略】)は「昔は、婿の扱いは、そりゃひどかったんです」と、とばっちりの被害者たちに同情を寄せる。
 ところで、志賀での大将格だった水野喜一郎のひ孫の水野正男さん(70)は産婦人科医で子供三人とも医師。一方、小江川の方は、"捕虜"となった勇之丞の子供は岡部宗助さん(71)(小江川【番地略】)で酒店を営み、幸七の孫の杉田弥平さん(55)(同所【番地略】)は「ポンポン山ヘルスセンター」を経営している。杉田さんは、「うちのヘルスセンターに、志賀の人たちも沢山来てくれてます」というから両地区での騒動のしこりは全然ない。

 メモ:騒動の発端となった薬師堂の天井には、「にらみ竜」の墨絵が描かれている。江戸時代、蜀山人らとともに活躍した狂歌師元杢網の筆によるものだ。杢網の本名は金子喜三郎、享保九年(1724)、杉山で生まれた。学問が好きで、家で手習いを教えていたが、壮年期に家を弟の喜四郎に譲って江戸に出た。杢網は初め、当時の銭湯である湯屋業を開いて生計を立てながら、狂歌を学んだ。あか抜けていて好男子だったことから、当時、「杢網は兼好を一度湯がいたようだ」とその粋ぶりが語られたという。
 杢網には子供がいなかったため、生家を継いでいるのは、喜四郎から八代目に当たる金子長吉さん(79)(杉山【番地略】)。金子さんの家には、自画像の狂歌の掛け軸などの遺品が残っており、墓地には「あな涼し 浮世のあかをぬぎすてて 西へ行く身はもとのもくあみ」の辞世の歌が刻まれた墓がある。
     「まちかど新風土記91 鎌倉街道・嵐山」(『読売新聞』埼玉版1978年5月19日)