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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵酪農の歴史 24 酪農の思い出 滑川町・江森重良 1990年

2010-01-25 07:02:00 | 比企地方

   酪農の思い出
          滑川町 江森重良
 武蔵酪農と云えば名前を聞いただけでも懐かしい。昔の彼女に再会したような感がする。其の組合が四十周年を迎えたとは長いこと忘れていて申し訳ない次第です。組合発足間もなく御世話になった三十有余年前だ。旭運輸に木炭車一台。毎日修理をしていたようだった。福田地区方面の集乳は長谷部輪店の社長正ちゃんだった。これもやっぱり中古車でやっと廻って来た。たまには後押もさせられたのをおぼえています。今は当時の苦労が実を結び共に大社長になって居られる。
 獣医陣も田村さん一人で広範囲をかけめぐっていた。その頃乳牛の流感が出てたちまち蔓延してしまった。当時細かった田村さんは寝食を忘れて治療に当たったのを良くおぼえています。今の時代のように自動車でもあればよかったがその後やっとオートバイが購入され井上さん、小鷹さんと入って来た。
 組合長も初代吉田さん温厚な人でした。川島町の福島さんも長く組合長をやって下さって、歴代立派な組合長のもとで十石、二十石、五十石、百石祝いが出来たものです。専務も大塚、山田と立派な実績を上げられました。同年代の鯨井君も武蔵酪農協の為に貢献した人です。酪農不況の中良く努力されました。
 酪農も貿易自由化と後継者の問題で苦しい立場になっていることで、現役の武蔵酪農の皆様、新鮮な牛乳を十二分呑んで武蔵酪農農業協同組合を永く持続させて下さい。
 武蔵酪農農業協同組合の発足四十周年を迎えるに当り唯思いのままあの頃の牛乳はおいしかった、もう一度ゲートボールをやめて乳牛を飼育しようと思う時もある。然し俺の人生に余力は少ない。現在の組合員の皆様が大いに頑張って頂き度い、そして長く武蔵酪農を存続させて下さい。益々発展を祈ります。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)98頁


武蔵酪農の歴史 23 創立40周年の懐古 滑川町・篠崎高一 1990年

2010-01-24 19:34:18 | 比企地方

   創立40周年の懐古
          滑川町 篠崎高一
 武蔵酪農協発足40周年おめでとうございます。昭和25年(1950)春組合設立、半世紀に近い足跡をのこし歴史を生んだ組合に今新たな感慨を覚えるものであります。当時私は23才酪農をはじめて3年半、まだすべての面で初心者でありました。地域の先輩達になにも知らず従って秋深い24年11月嵐山町の中島精米所の庭先が初出荷でありました。
 そして翌春埼玉へ初進出した明治乳業系酪農協として産声をあげたのでありました。当時の先輩指導者達の決断と御苦労大変だったろうといつも考えお察ししております。当時埼玉酪農といえば森永系酪農協として埼玉に並ぶものなしの大組織でありその圧力やいかばかりだったかと察するにあまりありますが、屈せず決断し独立した先輩に今更乍ら敬意と感謝を表するものでございます。そして誕生がきびしい程仲間意識が強くなるものと思います。武蔵酪農の伝統である同志結合の所以はその辺に根ざしたものと考えます。私も常にそうした誇り高き武蔵の一員として恥じない組合員たるべくつとめたものでありました。
 しかしその後の組合は平坦な道ばかりでなく幾多の苦難な道が待ちうけておりました。小川プラントの問題、比企酪農協の拾円牛乳にからんだ問題、いつも続いている他酪農協との組合員の争奪戦、これには夜がけ朝がけ夜明かしの晩もしばしばあり役員はもとより参事、獣医の先生方こぞって奮斗した事は特に思い出深いものでございます。又組合内部の意見対立も数年続いた。思想的背影もあるやに感じられたが一時は組合を二分する恐れすら心配したものでした。そうしたさまざまな事件の背影にある時代の流れ。その時々の役員、参事等ご苦労が偲ばれよくぞここまで来たものだと実感するものでございます。
 私もその頃地域の同志の結合による協業酪農に夢をのせ希望をふくらませておりました。昭和35年(1960)から約5年間楽しみも苦しみも味わい時代の変転に対応出来ずはかない夢と消え去った訳でありますが、今当時を回顧してやはり素晴らしいころだったと自負しております。その頃私は酪農に休日を、とか、企業的酪農をと云った思想と、果ては自由社会の中の集団農業は協業だと地域の農地を含めて法人化し、企業的農業の楽園をと……。しかし時代は益々変化成長し経済発展を進めていました。追いつけない経済成長でありました。あの手この手と対策に必至になったがついに夢破れ消え去る運命にありましたが、武蔵酪農あればこそ画けた夢であり指導陣の充実がたよりの計画でありました。お世話になった事に感謝し乍ら若さあればこそのえがけた夢だったかと懐かしみ大事にしまっております。
 その後組合は多頭化、専業化の時代を迎えたのでございます。年々組合員の減少が続きその分組合は飼養頭数がふえていきました。玉川地区の組合加入も組合に大きな希望をあたえました。日産2万kg達成祝も組合の全盛期として懐かしく思い出されます。そしていつかは来る組合員百名時代にそなえたのでございます。及ばず乍ら私も組合指導陣と共に安定した専業経営のため微力をつくし共に勉強したものでありました。しかし酪農業をとりまく社会情勢の変化即ち押し寄せる都市化の現象は畜産公害をもたらし、規模拡大の阻害となっていったのでございます。組合も主生産地だった嵐山、滑川地区がますます減少し、玉川、川島地区へと移行していったのでございますが、それは組合指導部の一貫した施策の成果であり、ここにめでたく40周年を迎えられる大いなる力であったと信じるものでございます。
 不幸にして私は酪農歴33年、昭和53年(1978)末を最後に時代の流れに抗しきれず、幾多の夢と生涯をかけた希望を捨て転業の止むなきに至りましたが、拾年たった現在も目を輝かしひたむきに生きた頃の自分を懐かしみ乍ら時折テレビに移る乳牛を、牧場を、そして搾乳をしたしんでおります。
 組合発足当時お世話になった先輩の方々も今は数少なくなりました。他界された方々には只々御冥福をお祈りするのみでございます。そして今は退職されたと聞く田村参事、井上先生本当にお世話になりました。特に田村先生には創立と同時に組合職員として活躍され今もあの目黒500の音が忘れられず耳に残っております。あの時伊東先生と共に明治に戻れば輝ける将来が待っていたろうにと、武蔵のために一生をかけてくれた先生に深甚の敬意を表すものでございます。
 40周年記念誌に寄稿をお許しいただき思い出す儘に書いてまいりました。若しも失礼な点ありましたらお許し下さい。私も今は新たな人生の中で再び希望をもってそれなりに働いております。組合員の皆々様、益々御精進され御繁栄の程お祈り申し上げます。そして末ながくおつきあい御指導の程宜しくお願い申し上げます。終りになりましたが寄稿の栄を与へて戴いた役員の皆々様に厚く御礼申し上げまして粗文を終りといたします。有難うございました。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)94頁~95頁


武蔵酪農の歴史 22 私と酪農 小川町・成川昇兵 1990年

2010-01-23 21:29:00 | 比企地方

   私と酪農
          小川町 成川昇兵
 私が酪農を始めたのは、昭和22年(1947)8月の事でした。嵐山町広野の杉田重次さんから1万3千円で1頭の仔牛を購入致しました。それは。非常に暑い日でした。リヤカーに仔牛を乗せ、徒歩で自宅まで引いて来ましたが、朝から夕方までかかり大変な作業でした。昭和23年(1948)に埼玉酪農に入りまして、2年間総会にも出席しましたが脱退し、昭和25年(1950)に武蔵北部酪農設立と同時に入会致しました。同年3月初めて仔牛が出産し、原乳は東京乳業へ出荷しまして、出荷場所は、竹沢村下勝呂の宮沢辰平氏宅まで出荷し、必ず朝6時までには、横塚元吉さんが集乳に来ました。
 昭和26年(1951)11月23日に2回目の出産の時の事です。非常に難産で、集乳所所長伊東先生の出向を願い、6時間がかりで出産しましたが、仔牛は助かりましたが、親牛は残念ながら死んでしまいました。この時力が落ち、酪農をやめようかと思いましたが諦めきれず、親戚の群馬県松井田町の藤巻さんから初産の牛を購入し、酪農を続けました。昭和29年(1954)に搾乳牛3頭になり、同年度夏に行われた夏乳増産共励会に於いて一等賞になる事ができました。組合長浜中東重郎さんの時でした。昭和30年(1955)頃組合理事になりました。その頃組合長が決まらず、5日間もの間役員会を開催し、藤野組合長、鯨井副組合長が決まりました。その頃、わが家の経済状態は悪く、農業近代化資金を借り、経済の立て直し及び乳牛の増頭を計る事ができました。その借金も昭和40年(1965)には、返済が完了する事ができました。昭和43年(1968)12月23日に力士男山應輔の記念碑を立てる際には、組合の協力もいただきました。昭和55年(1980)家の新築もできましたが、これも酪農を続けてやっていたからです。酪農をやっていて本当に良かったと思います。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)93頁


武蔵酪農の歴史 21 四十周年によせて 滑川町・横田隆吉 1990年

2010-01-22 21:27:00 | 比企地方

   酪農と私
          滑川町 横田隆吉
 やっと終戦となり幸、生命あって、20年(1945)の12月生れ故郷の土を踏むことが出来た。喜んで家を見ると変わっていた。屋根は朽ちて数條の筋がついていた。周りの木の幹が想像以上の成育を見せていた。顧みると家を出てから8年もなんなんとしている。勿論必死で東京周辺を飛び廻っていたのだった。月日のたつのは早い。復員して10日目に父を亡くし、途方にくれて何も考えられないで、年の暮れを迎えざるを得なかった。教職にも戻れないし、公職はつけない運命である。悲しい田や畑はどうなっているだろう。然しこんなことでくじけてはいけない。こと戦争で生命財産を失った不幸の人が幾人いるかしれない。勇気をだそうと思ったのが酪農である。早速仔牛2頭を買い受け、厩舎で飼育が始まった。飼料に乏しく、冬枯の草を集めたり、山から青い葉を取ったり、僅かな稲藁を切ったり、飼料集めに懸命の日々を過ごした。春より秋にかけては、野草の刈取りで忙しかった、1年たっても成育は悪い。どうしたらよいか。思案にくれてあちらこちらを廻って、見たり、聞いたりしたやっぱり、麩糠等濃厚飼料の不足である、買うなら少しはあると云う人があったが、金は人間生活にあてて仔牛の飼料にはまわらない。軍隊でも1年半は無給、帰る電車賃は借りて帰る始末、戦争の苦しみが未だ続いているのだ。それから1年余り後、2頭を基として成牛を購入した。1年過ぎてやっと仔牛が誕生して搾乳が始まった。乳の出荷になり、先輩各位の指導を受け、1人前の牛飼いとなったのだ。
 其の頃は六軒の高坂清一さん、加田の小高睦治さん、新井実三郎さんはベテランの酪農人であった。乳は其の頃嵐山駅前の集乳所へ運んだ。自転車がリヤカーとなって、数人一組となって当番制で運んだのを思い出す。埼玉酪農の松崎孝了さんと話をして離別し、独立したのが昭和25年(1950)1月だった。交渉が難航したことを記憶に残る。当時伊東さんが指導者で信頼性厚く、多くの搾乳者は集団化し、明治乳業と契約し、現在の武蔵酪農の源泉となったのだ。それから組合長も藤野喜十さん、福島敬三さんとなり、事務所、倉庫の拡張と配合飼料機の導入、配合飼料の製造等、数多くの事業を時代の流れと共に遂行し、組合員の数乳量も多くなり、乳の処理場の増築、改築と並んで、小型ロリー車の設備等、活気に満ちた運営が続いた。私も全盛時代の理事或いは監事とお世話になって、昭和46年(1971)5月16日総会に於いて役員を引退させてもらい、昭和50年(1975)滑川村の公人となったので暇がなくなり酪農と別れを告げた。
 大変関係者並びに先輩各位等に御世話様になり、この期を借りてお礼申し上げます。組合の増々発展をお祈り致します。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)91頁~92頁


武蔵酪農の歴史 20 四十周年によせて 東松山市・大塚賢一 1990年

2010-01-21 21:25:00 | 比企地方

   四十周年によせて
          東松山市 大塚賢一
 戦後食べ物であれば何でも金に成る時代から、そろそろ安定の兆しが見えて一定収入が欲しいという事が考えられる様に成り、酪農を取り入れることにより、給与所得者の一ヶ月分位の現金収入が得られる事で、急速に当時の若者の間に広まったように思います。
 私も今振り返って見ると、何の事前勉強もせず白黒の牛を飼えば良いものと思い、人に進められるままにこの道にいとも簡単に飛びこんでしまった訳ですが、これも一つには若さ故に出来た事だったと思っております。爾来幾多の試行錯誤の繰り返しで中々実績が上がらなかった記憶があります。
 酪農が盛んになればなる、程当然のことの様に組合員の争奪の問題も、色々の内容を含んで繰り返された訳でありますが、私共の班でも他の組合から加入したいとの事で或る種の制約をしながら組合員に成っていただいた事が昭和三十一年(1956)から三年位に渡っての日記からも発見されます。そして当時は娯楽らしい娯楽もない時代であり乳代清算が楽しみの一つでもあった訳であります。
 僅かな会費で懇親会を持ち、明日の酪農についてよく語り合った訳でありますが、その事が又酪農振興の原動力にもなって居ります。班長宅では新年会を、唐子支部の総会は唐子小学校で開催され、同志的結合の輪を深めて行って黄金の武蔵酪農の時代を築いて行ったように感じております。
 歩けオリンピックの主催国オランダへ、東松山市の第一回派遣団の一員として丁度十年程前に視察に行って参りましたが、この国の面積は日本の九州とほぼ同じ位だそうですが、九十九パーセント平野と云われる様に見渡す限り平野であり、その大部分が牧草地であり、四、五十頭位づつの群れでのんびりと草を食べて居る様は、将に一幅の絵を見て居る様でありました。酪農の本場とは云え、一朝一夕にして現在の様に決して成ったのではなく、永い永い努力の結果であるとの話を伺いました。
 国においては国際競争に充分耐え得る様な体勢造りには強力な行政指導を行ったとの事、即ち意欲のある者には農地の移動等には積極的に指導もし、補助金等も優先し、反面乳価等には一切補助制度は認めなかったとの事です。今静かに日本の農政を振り返って見る時、深く反省させられる想いであります。
 幸いにして当組合には優秀な組合員が意欲を持って経営に精進されて居られる訳であり、40周年を期に尚一層の努力と飛躍を祈念致して筆を措きます。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)89頁~90頁


武蔵酪農の歴史 19 組合発足当時の思い出 小川町・島田俊雄 1990年

2010-01-20 21:36:00 | 比企地方

   組合発足当時の思い出
          小川町 島田俊雄
 当組合の創立当時は旧八和田村には乳牛を飼育して居る方が九十何人か居たが、搾乳をして居る者はごく少数で森永乳業会社の埼玉酪農に属し牛乳は大字中爪の村境で集め各人交替で「トンカー」に積んで菅谷の駅前迄運んで行った。その頃新しい組合を作ると云う気運がもりあがり能増の佐藤さんが来て一人でも多く仲間を集め実現しようと始まったのが武蔵酪農八和田支部の前身だと思う。仲間が力を合わせ集乳所を建てたが始めの内は水槽もないおそまつな物だったが段々と改善して行った。搾乳順で号数を定め、一斗缶に大きく印をし自転車で運搬すると云う程度だったが、集まると色々の話題が出て、乳運搬には相当な時間を費やしたが、給飼の話や搾乳の自慢話作物の作り方などが出て、大へん役立つことが多かったと思う。
 最初の頃は毎月の十一日が乳代精算の日で支部長が組合から現金で受けとって来て支部員が集合して各人の計算をし、お金を分配し終わると順番で会場の家で御馳走を出しお酒をくみ交わし、他の農家では見られない交友を深めて居たと思われる。
 時には計算が合わないで随分と遅くまでかかった事もあった。それから忘れられない事は殆どの方が牛は飼ったが後の事はお先無暗であったが、幸い能増に牛乳屋をして経験豊富な増田重作さんが居たのでお世話にならない人は居なかったと思う。
 今でも思い出すのはやっとの事で組織が出来組合員がぼつぼつ増えて来た小川町の井上某と云う方がプラントを経営すると云う事で組合員の切り崩しに会って、増田さんと私の父親で最後迄残るのは二人だけかなと話した事が今でも忘れる事が出来ない。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)88頁