昭和30年代半ばの七郷中学一年生の作文集です。嵐山町柔道会の七郷柔道場創設(1974年12月17日)20周年記念として発行されました。
はじめに(大塚基氏)
目次
1 草むしり ゆりこ
2 私の一日 えみこ
3 花火 みちえ
4 草むしり ゆりこ
5 夏休みの一日 ともこ
6 夕飯たき かずこ
7 仕事 えいこ
8 花火 みちこ
9 花火 とく
10 台風のくる日 あきこ
11 ぶちの死 きぬえ
12 約束 みちこ
13 草とり えつこ
編集後記(大塚基氏)
昭和30年代半ばの七郷中学一年生の作文集です。嵐山町柔道会の七郷柔道場創設(1974年12月17日)20周年記念として発行されました。
はじめに(大塚基氏)
目次
1 草むしり ゆりこ
2 私の一日 えみこ
3 花火 みちえ
4 草むしり ゆりこ
5 夏休みの一日 ともこ
6 夕飯たき かずこ
7 仕事 えいこ
8 花火 みちこ
9 花火 とく
10 台風のくる日 あきこ
11 ぶちの死 きぬえ
12 約束 みちこ
13 草とり えつこ
編集後記(大塚基氏)
①八日会水稲共進会 1956年
私達の八日会では恒例の水稲共進会の審査を去る十月廿三日参加会員十七名に依って実施した。入賞者は左記の通りである。
氏名(反収、品種名)
一等
中村常男(3石3斗0升8合、中生新千本)
千野久夫(3石2斗7升5合、金南風)
二等
中村栄一(3石0斗3升8合、中生新千本)
持田市三(3石0斗3升7合、金南風)
大久保義勝(3石0斗1升5合、金南風)
田島菊(3石0斗0升4合、金南風)
三等
永島栄(3石0斗0升0合、金南風)
強瀬長重(2石9斗9升2合、金南風)
小林辰見(2石9斗8升5合、中生千本)
安藤専一(2石9斗7升3合、金南風)
永島倍久(2石9斗7升0合、金南風)
強瀬米蔵(2石9斗6升1合、金南風)
◎審査終了後、水稲作及其の他の問題に就き研究懇談した。結論として次の諸点を得た。
1 成績で見る様に金南風の普及は驚く程である。品種に就いては金南風、中生千本が良い。
2 燐酸、加里分の増施と無硫酸根肥料の施肥が必要である。
3 農作物の増産に就ても村当局農協一体となって適切な施策を講ず可きである。
『菅谷村報道』76号 1956年(昭和31)12月25日
②八日会昭和33年度事業計画 1958年
八日会は昭和三十三年度の事業計画を次のように決定したが全会員張切って自己の研究に進む覚悟であると云う。
一月 新年宴会 一人一研修案 俳句会
二月 農家経営診断(関根先生)
三月 衛生講話(宮崎先生)
四月 蚕桑研究会(花見兼現地視察)
五月 畜産研究会
七月 話し方研究会
八月 科学研究会(田畑先生)
九月 水稲審査会
十二月 反省会 俳句会 来年度事業案の立案
『菅谷村報道』86号 1958年(昭和33)1月25日
③八日会昭和34年度総会 1959年
八日会は去る一月八日、新年祝賀会を兼ね三十四年度総会を七郷中学校において開催した。来賓として青木村長及び市川農協組合長を招き盛会であった。尚左記の如き三十四年度事業計画を討議、承認した。
月別 行事 備考
一月 総会及新年宴会
俳句会 講師安藤専一氏
二月 水稲作の研究 普及員
農協懇談会 農業組合長
三月 農事放送の実際 先進地視察
養豚研究会
四月 林業試験場見学 鉢形及玉淀
花見会
五月 村政研究会 村長
(主として予算に就いて)
六月 休会
七月 養蚕座談会 指導所技師
(夏秋蚕の飼育及経営)
八月 県会傍聴 浦和
映画鑑賞
九月 科学座談会 田畑先生
(月ロケット等)
十月 水稲審査会 会員圃場
十一月 休会
十二月 反省会
来年度事業の立案
附記
八日会は会員三十数名にして、良い家庭人、良い社会人になる為に、真剣に努力を重ねてゐる修養団体である。(中村常男氏提供)
『菅谷村報道』97号 1959年(昭和34)2月15日
④八日会水稲共進会成績 1959年
八日会(会長久保寅太郎)では十月十九日、会員三八名の水稲を審査し、左のとおり入賞者を決定した。
反当収量
一等 藤野守一 三・一九
二等 田島菊 三・一九
〃 永島栄 三・一二
三等 中村栄一 三・〇一
〃 松本茂 三・〇八
〃 小沢文定 二・九八
〃 新井重秋 二・九八
〃 永島倍久 二・九三
『菅谷村報道』106号 1959年(昭和34)12月10日
※八日会句会については、「八日会句会の農民俳句」を参照。
三月二十七日、菅谷、七郷両村の議会は、廃村と新村建設の決議を行い、四月十五日、新村名を菅谷村としてその第一歩を踏み出した。
面積 約三十平方粁(キロ)
世帯数 一五八二
人口 九三九三
村長職務執行者 高崎達蔵
参与 青木義夫(七郷村長) 小林博治(菅谷村助役)
収入役代理 安藤安雄(七郷村収入役)
七郷支所長 井上文雄(七郷村助役)
また当時の村会議員は三十六名で菅谷地区二十二名、七郷地区十四名であった。七郷地区の議長であった馬場覚嗣氏が新議長に、菅谷地区の議長であった杉田寅造氏が副議長となった。最高齢者は馬場覚嗣氏で六十六才、最若年者は三十二才の小林久氏である。
四月十五日には菅谷小学校で祝賀会が行はれたが、これに先立ち午前八時から役場職員に任命辞令の交付があり、続いて村議会が開かれ上提された四十案件を一気に可決して、十一時から祝賀会に移った。
川越農高菅谷分校の第一回の入学式が四月十一日に行はれ三八名が入学したが、その後、時勢には勝てず十年を待たずして自然廃校となってしまった。
四月二十四日には県会議員の選挙が行はれ、本村平沢から立候補した山田薫氏は本村で二五〇七票を得たが落選した。
合併後初の村長選挙は五月十四日行はれたが高崎達蔵氏が無投票で当選し初代村長に就任した。
六月の定例村会において三十年度予算が審議されたが、総額二千三百三十九万円であった。また助役には青木義夫、小林博治の両氏が、収入役には安藤安雄氏がそれぞれ決った。
菅谷中学校校舎の落成式が八月二十二日の行はれた。
大川建築士の設計で勝村建設が請負い、工費は一千五百十二万、校舎三棟四八八坪である。校地は七〇二六坪、運動場の広さ三七九五坪である。
八月に新村名の募集を行った結果、いろいろな名が寄せられたが、そのうち主なものを挙げてみる。
城山村、菅郷村、嵐山村、七菅村、谷郷村
議会は新村名について協議したが、結論は得られなかった。
十月には村議会議員と教育委員の選挙が行はれたが教育委員は無投票で決まった。議員選挙は小選挙区制で菅谷地区十二名、七郷地区十名の定員であった。臨時村会で議長に栗原侃一氏、副議長に山下欽治氏が決った。
「菅谷村報道」159号 1965年5月10日
「報道」は昭和二十五年(1950)四月二十日に第一号を発行したが、合併した三十年(1955)の四月には五十六号を発行するに至った。その後十年、新村菅谷村と共に歩んできたこの十年間を「報道」を通じてふりかえってみようと思う。十年一昔というが、この十年の流れの中でさまざまな人たちが浮かんでは消えていった。そうしてさまざまな出来事が生起され、かずかずの建築物が遺されていった。過去から未来へ今後の十年間にこの「報道」はどのような記録を綴るであろうか。
「菅谷村報道」159号 1965年5月10日
その9 熱気球
大正4年(1915)か5年(1916)頃と思いますが青島戦争で飛行機が初めて実践に使用されたためか、とにかく軽気球というものが作られて、市野川沿いに飛んだのを約一キロメートルばかりの三ツ沼下まで見に行った記憶のある。寒い記憶があるので十二月の農休か、お正月の三カ日頃と思いますが、例によって前の山を越えて、前の家へ行って見ると、三年先輩の船戸政一氏が紙袋を持ち出してこれを揚げるのだと言うのです。
要は直径一メートル位の紙袋の一部に小さい穴があり、道端のいわゆる、土手を利用してカマドを作り、煙突を長くして(それは土管)その煙突に紙袋の穴をはめ込んで、どんどんと火を燃やすと、追々に紙袋がふくらんで、遂には空中に飛び上がるというので、五,六人して紙袋を持つやら、燃し木を集めるやら、今の人には理解できないでしょうが、当時は燃し木は家庭の必需品なので、仲々その辺に自由に見つかるほどあったのではありません。
そのうちに誰かが竹の火が強いから、竹がよいというのでどこからともなく拾ってきて燃やしましたところが、とにかく、袋が一杯にふくらんできたので抑えていた手を放したところ上がりました。
しかし、五十メートルぐらい上がって、百メートルぐらい飛んで落ちてきました。その日はそれで別れましたが、その幾日か後、私は立ち会わなっかたが、今度は大いに上がって、目下工事中の関越高速の山を越えて、下串引の雷電社の大杉に引掛かって、遂にそのままにしてしまったとのことでした。
距離は八百メートルから千メートルぐらいでしょうか。ちなみに用紙は父親が日露戦争に出征しているので、現役から戦争にかけての手紙であった由、政一氏の母親から聞きました。
とにかく昔の子供は、コマとかタコとか作るなり、何もない時は木に登るなり、木の実を投げつけあったり、少し暖かくなると(最初は)潅仏会(かんぶつえ)(シャカの誕生日にその像に甘茶をそそぐ行事 陰暦四月八日)に、ぶるぶるふるえながら、水泳したりして遊ぶのが我々の子供時代の遊びでした。
『嵐山町報道』281号 1979年(昭和54)7月1日
その8 病気
私の父は、明治37年(1904)の6月虫垂炎を病んだのでしたが、前後百日、再危険期には看護婦さんを頼んで自宅療養をしました。その看護ぶりは、今で思えば何とも考えられないようなものでした。
つまり、痛み薬と冷すことと何と患部に塗り薬を塗って浸みこませるために二時間位なでているのだそうです。これは私が浦和に行ってから、一年先輩氏がそのように言ってましたから、まあそうだったのでしょう。
前の家の主人は、冷やすのをまちがって、逆に温めたとかで、ついに亡くなっていたのでした。
もう一つ、前にちょっと申しましたが、インフルエンザが猛威をふるったのは大正7年(1918)の夏から10年(1921)の春までの間で、【七郷村】越畑の方はあまりたいした事はなく、もちろん、学校の臨時休校などはありませんでしたが、【菅谷村】平沢は実に烈しかったと聞いています。
一軒で三人も亡くした家もあるとかで、薬は何軒分かをまとめて買って来て、おれぞれへ分けた事も多かったと申します。
また、当方【平沢】の父は一日二回床番*(とこばん)をしたと申しました。
実は私も、大正10年(1921)2月、浦和でやられました。午後寄宿舎に帰って寝こみましたところ、たちまち高熱を出し、同室生が医者を頼むやら、氷を使うやら、本当にやっかいになりました。
その時、医者が四〇度三分と言っていたのをはっきりと記憶しています。
一週間位で一応回復し、期末試験は受けたものの、まだ足は地に着いた気もせず、ふらふらで試験を受け、満点近いと思った数学がなんと五十七点だったことだけは、よく覚えています。
『嵐山町報道』280号 1979年(昭和54)5月25日
*床番(とこばん):関東地方で、墓穴を掘る人のことを床番といった。床取り。(日本国語大辞典)
その7 思い出すままに
糸紡ぎ 大正8(1919)、9年(1919)頃までは木綿を蒔いて綿をつくったものです。まず、畑から採ってくると、竹のかごにのせて、何日か天日干しをし、綿繰機で種を除き、綿打ちをする人を頼んで、たたみ綿と糸綿に作りわけ、糸綿は箸を中心にくるくると巻いて、太さは普通の指位、長さは二〇センチ位の円棒を作り、右手で糸車を廻し、左手指で巧みに繰って、糸を針に巻きつけていくのですが、私の母は六歳の時から始めたとか話していましたが、実に腕達者でした。
幼い頃の自分は、その母のひざを枕に、糸紡ぎを子守唄にしてよく眠ったものです。
その糸で主として男衆の仕事着(シャツ)を作ったものです。
機織機は足の突き、引きで綾を作る下織でしたが、大正なかばにはハタシになりました。また、娘たちはハタシで絹織をしたものです。二人か三人位、どこかの家に持ちよって早朝から夜一〇時過ぎまで働いたものです。
子供達は、弁当を運んだり、石油ランプの掃除をしたり、なかなかのものでした。
自転車 自分が自転車を買って貰ったのは大正7年(1918)か8年(1919)の春でした。明治から大正に移るころ七郷には四台か五台あったとの話です。誰が最初かはわかりませんが、杉山の金子才助氏、越畑の強瀬富五郎氏、市川藤三郎氏は確実に記憶しています。
自然物 川や沼には水量もあり、どじょう、うなぎ、ふなはたいしたものでした。うなぎも何年に一度沼が干あがると、ヤスをもって夜半過ぎまでうなぎ打ちをしたこともあります。多くとれたのは二回記憶していますが三〇匹以上で大きいものは二〇〇匁(約750グラム)、小さいものでは二〇匁(約75グラム)、平均して三〇匁(約110グラム)程度のものが多かったようです。
小堀にはどじょうがいました。田植頃からそろそろとり始めて-それまでは繁殖期なので父はとらせてくれませんでした-11月まで、また1月頃水の枯れたドブの小堀に通気穴をあけて、冬眠の姿のをとるのです。普通はみそ汁の中へ入れて、どじょう汁にして、よほど大型のほかは骨ごと食べたのです。
また、沼には菱、じゅんさいが一面に生育し、ことにじゅんさいは千年以上の古沼でなければ出ないのだと父に聞きました。後になって、あの新葉がまるくなって、特殊のヌルヌルをつけて水中にある時採ったものが、酢のものとして上乗で高級な料理だと知り驚きました。そのような水草は、エビガニの進入によって全滅し、今はほとんど見受けられないと思っていたら、先日志賀の寺沼に菱が出ていたので、これまた驚きでした。
きのこも、上等ではないが、初茸、だいこく、黒シシ、青シシなど、子供の力では持ちきれないほどでたものでした。
また、天然現象では、大正7年(1918)頃から昭和3年(1928)頃までの冬は非常に寒く、山間の沼には厚い氷が張りつめたものです。大正8年(1919)から9年(1920)へかけての冬には、兄弟三人して沼の氷の上で火を燃したりマキを伐ったら割ったりしたものでした。
昭和2年(1927)、3年(1928)頃も、毎朝沼の氷の上に、うさぎの足跡が点々と続いていたのを記憶しています。
また、日照続きは大正7年(1918)の暮れから8年(1919)の田植にかけて猛烈で井戸を掘ったり、八年(1919)の田植水は全部沼水でしたが、その時、明治2年(1869)生れの父が、覚えて初めての沼水田植えだと申してました。
『嵐山町報道』279号 1979年(昭和54)4月5日
その6 子どもの生活
七郷はほとんどが農家だから、一定の遊び日以外は、もんなそれぞれ家人と働いたものです。
遊び日は、お正月の三が日、七草、一月十五、十六日、雛まつり、四月のお釈迦様、五月の節句、七月の農休三日間、盆の三日か四日間、十日夜(旧の十月十日)、十三夜、秋の農休三日間といったものでした。
仕事は、季節にもよりますが、朝は草刈り(五月から九月)、夜は縄綯、ぞうり、わらじ、足中づくり(十月から四月)、私も今でもやれば作れます。水田は、馬の鼻取りや田の草取り、畠は、大人達がエンガで耕起する溝への堆肥入れ、カッパ抜き、麦踏み、冬山は、木の葉をはき、松葉は燃料、落葉樹は堆肥用にした。
勉強は、夕食後暗いランプの下でやった。石油ランプといえばランプ掃除と石油さしは、必ず毎日行うのだが、それは子供の専業で、食事のしたくをするものがすると、石油臭くて困るからである。
七郷【大字越畑(おっぱた)】に電灯がついたのは、昭和四年(1929)の十月からですが、馬内(もうち)地区は二年ぐらい早かったでしょうか。宿題がある時は、午後の家事は休んで宿題をしました。
自分達の修学旅行は、大正8年(1919)3月、東京へ二泊三日で行ったと思うが、その費用は労働によって貰った金を貯めるのが普通で、熊谷駅まで往復徒歩、出発の日、学校集合が夜半の零時、提灯つけて母が前の山を送ってくれた事がなつかしく思い出されます。
遊び日の遊びは、夏は沼で水浴び、先輩から次々に教わって泳げる様になる。その他には、こままわし、鬼ごっこ、兵隊ごっこ、大正七(1918)、八年(1919)頃二冬ばかり飛行機とばしが流行した。プロペラの形をした鉄片を針金で円く囲い、プロペラの中央に穴があって、それを台にさしこみ、その台にヒモを巻いて強く引いて回転を与え、とび上がらせる。数十メートル上がり百メートル位はとんだと思います。
子づかいは二銭くらい、五銭の白銅貨が貰えれば天にも昇る気持で、鉄砲玉と称する小指頭大の甘い黒い玉が一銭で一二個買えた。
学校の方は、私が尋常六年間で無月謝、その上二年間が高等科で月謝毎月三〇銭、自分で直接役場収入口へ納入した。
『嵐山町報道』276号 1978年(昭和53)12月30日
その4 熊谷小川間の交通
その頃は、人は馬車(一頭立)に荷物は馬背か馬に曳かせたいわゆる運送車で、人力の二輪車もあったが、これは字中で2台か3台しかなかったので、まああまり使われませんでした
まだ近いところは、人は人力車を利用しました。人力車も自分の記憶では、タイヤではなく硬い細いゴム輪なので、乗る人もつらいしまた、曳く人は相当のものだったと思います。
したがって重い人や大急ぎの時は二人曳き(梶棒に入る人と梶棒の前のある横木に5メートルくらいの麻なわをつけて、その先を肩にして曳く)を利用したのです。
馬車が走ったのは、大正5(1916)、6年(1917)が最後だったでしょう。大正5年(1916)の熊谷の桜観に行った帰りに雨の中、馬車の後を走って帰ったのを記憶しています。
また、運送と称して、新聞を夜通しで熊谷から小川まで、独特の二輪の箱車で運んだもので、その帰りの空車が、昼過ぎガラガラと熊谷へ向けて帰るのを、沼に魚釣りに行ってよく見かけたものです。
大正9年(1920)には、馬車は無く自動車が走っていましたが、それも普通の乗用車に乗れるだけ乗せて定期的に走っていました。当町にあった自動車は、外輪式で、かなり大きなしっかりした泥よけがついていたので、その上にも人が乗ったり、時には自転車を後部につけたりしたものです。
私もある時、車の外にへばりついて乗っていったのですが、荒川の大橋を渡って間もなく、電柱で背中をこすり痛い思いをしたことがあります。
荒川の大橋は、明治43年(1910)の洪水で流れ、しばらく仮橋であったのが、大正5年(1916)の桜観の時期をチャンスに、中央わづかを鉄橋にし、その開通式がはなばなしく行われました。その開通式の四、五年前、その仮橋から下流に、二艘ほどの帆船が動いていたのを見たことがあります。
ちょっと話がはづれますが、私が、昭和7年(1932)八月、先輩に呼ばれて満洲に遊んだ時「旅大道路(旅順-大連)を二〇人乗りの車が走る。これだけはお土産に乗っていけ」というので乗ってみたが、まだ内地には二〇人乗りは無かったと思います。
その5 服装
男も女も、いわゆる着物(和服)がほとんどで、洋服は、学校の先生と巡査、郵便配達夫などが着ていましたが、ほかには、女では、テニスのところで出てきた女性一人、子供では、大正3年(1914)4月1日の入学式に、故田幡順一氏が「ニッカボッカ」姿で来たのを見ただけ。メリヤス類も、大正7(1918)、8年(1919)頃までは一〇人に一人か二〇人に一人位だったでしょう。シャツ、股引は布だけ買ってきて、だいたい家庭で作ったものです。もちろん足袋も手製、ただ底だけは石底とかいったものを買って使ったもので、だから、たいていの家に足袋型があったもです。
登校の時の常のはきものは、手製のわらぞうりで、雨の時はほとんどはだし、ですから学校には足洗の池がありました。雪のときはわらじ、学校に着くと、一年生の廊下にだけ大火鉢が出されたのもです。私は、学校に着いてからの大雪に、約1.5キロの道をはだしで帰って家人を驚かせたこともあります。
体操の時は、着物の裾を折り上げて三尺をその上から締め、足ははだしかいっつけぞうりでしたがまれに、足袋靴と称して、かかとの下部に鉄の鋲を打った、労働用の足袋を用いた人も一人か二人いたと思います。いっつけぞうりというのは、鼻緒にひもをつけてかかとの上側をまわして、足の甲のところでくくるようになっているものです。
マラソン足袋については、私が七郷では元祖です。当時、兄が熊中でランニングをやっていたので「スパイクというのもあるし、半足袋もある」というので、母にねだって作ってもらいました。
母も型が無いので作れないと困ったのですが、私は欲しい一心でいろいろ知恵を出してとにかく作ってもらいました。できあがったものは、普通の足袋の上を切り甲を中途から二つに割って、ボタン穴のような穴を作り、ひもで結ぶようになっているものでした。
それを大正8年(1919)の運動会にはいていたら、おりからインフルエンザの流行で休校中の、埼玉師範の先輩が見に来ており「お前はいいものをはいてるな」と言われたのを記憶しています。
『嵐山町報道』275号 1978年(昭和53)11月30日
私は明治45年(1912)4月1日(その頃は4月1日が始業、入学の日でした)に七郷尋常高等小学校尋常科一年入学ですので、多くの先輩諸賢も健在なのでちょっと面映ゆい気もするのですが、どうしても皆様に広く知ってもらいたいことがあるのです。
どうしたわけか、みんな運動のことですが。
その1 野球
大正2年(1913)10月、七郷の高等科(今の中学一、二年)と大河の高等科の者が大河の校庭でとにかく野球の試合をやりました。
私は小学二年ですが、全員歩きで行く故弁当だけあれば行けるのでついて行きました。
結果は11対4で七郷が敗れたのですが、七郷の選手は、越畑の馬場利二氏、長島藤三郎氏、馬場仙重氏、勝田の田中清氏、外は姓だけだが、杉山の金子氏、広野の永島氏などが記憶にあります。
用具は、グローブなどは一切無く、捕手が一人だけ野手用のグローブを使用、外はすべて素手、球は何かを芯にして糸を巻き、布で縫いあわせたのもで、外見は今の様なものです。バットは、七郷は確か市販されたもの、つまり今のと同じようなものだったが、大河のは適当な丸太棒的なもので、虫が食った紋様がついていたのが忘れられません。もちろん長さも少々長かったと思います。
ルールは、投手のボーク等細かい点は知りませんが、ほとんど今と同じだったでしょうが、特に異った二つの点は良く記憶しています。その一つは、打者のファールはどこで捕っても打者アウト、その二は、走者にボールを命中させれば走者アウトというものでした。
その2 テニス
職員連中が昼休みによくやりました。七郷は庭が小さく、ボールはすぐ二、三〇メートルの篠ややぶの傾斜面(自分等はママ下といった)に落ちた。先生達にとってくるよう頼まれもしないのにそれを拾って来るのが楽しくて「おれは何回拾ったぞ」と仲間達で自まんしたものでした。そうしたある日突然、本当に突然、それは三代目の深谷校長の時ですから、大正四年(1915)か五年(1916)、季節は記憶にありません。昼休みに出て見ると、真白なドレスに白帽を載いた女性が一人でテニスをやっていたのです。その時の球拾いは本当にハッスルしたものでした。
その3 自動車
あれは、多分、大正2年(1913)の秋11月初旬と思います。
「明日は三ツ沼まで自動車を見に行く、弁当だけ持ってこい。」
当時、男衾村の今市から八和田の高尻、能増、奈良梨、中爪、志賀の中山道(なかせんどう)裏街道は、宇都宮第一師団の秋期演習順路だった。
その自動車部隊が来るわけなのです。そこで、三ツ沼わきの山に入って木登りしたりなどして待っていたがこない。昼頃、板倉先生(教頭)から「今行って見てきたが(約四キロ徒歩)、自動車は今市下の白坂タンボに落ちているので、今日はこない。見たい者は自由に行け。学校としては解散する。」
私は家も1キロ位だし友達と行くことにした。とにかく子供の足で全然未知の土地、行って見るとまだ刈らない稲田(その頃は11月いっぱい位は刈らずにおいた)の中に2台の軍用車、まあ今のトラック体でカーキ色の車が腹を天に向けて、亀をひっくり返したように落ちている。その後にまだ10台位は道路上にあった。
八和田との境は市野川の上流で夏は三~五メートルで、子供の目には立派な橋があり、その八和田側のたもとに黒塗りの乗用車が一台とまって、それは将校用で二~三人の長剣を吊った将校が出入りし、巻尺で道路を計ったり、殊に念入りに橋を計測していたのを記憶している。そうして、近所の農民達もある程度集まっていたが、兵の方から「厚板はないか」とか何とか、だいぶがやがやしていたが秋の日は暮れやすく、なかばかけ足で帰宅した次第。
『嵐山町報道』274号 1978年(昭和53)10月30日