goo blog サービス終了のお知らせ 

里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

嵐山町・菅谷神社の祭神 2 素盞鳴尊(すさのおのみこと)

2009-08-31 11:36:00 | 菅谷

  素盞鳴尊
此大神は天明六年丙午年(1786)五月吉日辰日旧幕府地頭猪子佐太郎氏の信仰に基き尾張国海東郡津島町に鎮座の(現今県社)津島牛頭天王宮(つしまごづてんのうぐう)の御分霊を当所字東側現今県道の中央へ*市神の**崇敬し三鎮齊し維新までは津島牛頭天王奉称して明治四年(1871)より当所西側境内六坪の地に移転し無格社にせられ社号を八雲神社改称し明治二十三年(1890)当所大火の節旧殿は焼失し仝年七月信徒の寄附金を以て現今の社殿再建し今般神社の崇敬上設備完全を期するため村社菅谷神社境内に移転および社号改正の儀を明治四十年(1907)五月九日付を以て埼玉県知事の御許可を得て社号津島神社と改正の上同年七月拾四日に移転祭執行す

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*文字は「伊」(い)であるが、「江(へ)」の誤記として改めた。
**「乃」の文字から「の」としたが「市神の崇敬し」では意味不明。

参照:津島神社については、愛知県津島市のHPから「津島神社」、津島市観光協会HPより「尾張津島天王祭」。


嵐山町・菅谷神社の祭神 1 大山咋命(おおやまくいのみこと)

2009-08-30 11:32:00 | 菅谷

  大山咋命亦名山末本大神*
大山咋命ハ元日枝神社ナリ是ハ畠山重忠年十七才ニシテ治承四年(1180)十月武蔵国長井ノ渡シノ頼朝ノ御陣所ニ参シ頼朝公ニ属シテ先鋒ノ将トナリ各地戦争ニ大ニ軍功アツテ此ノ菅谷ノ地ヲ賜リ依テ此ニ新城ヲ築キ居住トナシ武運長久ノ守護神トシテ近江国日吉山ニ鎮座ナス(現今滋賀県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此ノ分霊ハ日本国中即チ三府二十三県ノ内五百社之アリ其ノ一社ノ内ノ御分社)日吉山王権現ノ御分霊ヲ畠山重忠請願ニ依リ建久元年(1190)九月十九日ニ奉遷観請ス故ニ日吉山王大権現ト称セシヲ明治四年(1871)神社取調ノ節村社ニ列セラレ社号ヲ日枝神ト改称ス
明治四拾年四月十七日付字本宿無格社稲荷神社字城無格社天神社ノ二社ヲ合祀ノ上社号日枝神社ヲ菅谷神社ト改称ス
昭和五十五年一級社ニ列セラル

   『菅谷神社及境内神社公認経歴』(菅谷神社)より

*「山末本大神」は不明。


老人クラブ菅谷後楽会が結成される 1965年

2009-08-29 19:17:59 | 1965年

 謹啓
 晩春の候貴職益々御清栄の事とお慶び申し上げます 扨て老人クラブ菅谷後楽会もお陰様をもちまして1年を経過いたし、ここに昭和40年度の総会を実施いたすことになりました。ついては御繁中誠に恐縮に存じますが御臨席の栄を賜りたく御案内申し上げます
     記
 1.日時 4月28日午前11時
 2.場所 菅谷東昌寺会館
 附記 総会終了後玉川ちどり一座の余興がありますので御観覧下さい
          昭和41年4月25日
       殿
        後楽会会長 米山永助


村民体育祭プログラム 菅谷村体育協会 1965年10月

2009-08-28 18:05:00 | 1965年

期日 10月10日(日)
 午前6時花火打ち揚げ
 午前8時30分開始(開会式)
 雨天の場合 10月11日(月)

会場 菅谷小学校

種目及びプログラム
  1 ダンス 菅小3、4
  2 提灯競争
  3 ダンス 鎌小
  4 綱引
  5 スモーキング競争
  6 ダンス 七小
  7 スプーン競争
  8 ダンス 菅小1、2
  9 特別出場 菅谷幼稚園
 10 コテキ隊
 11 親子目かくし競争
 12 バレーボール 菅谷、七郷婦人会
 13 むかで競争
 14 豆ひろい競争
 15 踊り 菅谷、七郷婦人会
 16 球けり競争 議会
 17 招待リレー
 18 玉入競争
 19 小学リレー 小学生
 20 中学リレー 中学生
 21 仮装競技

種目内容
 提灯競争(男)直線100mで行う。
 綱引(男10、女5)勝負は3回行って決める。1回毎に位置交換。1回3分。
 スモーキング競争 直線50mで行う。
 スプーン競争(女)直線50mで行う。
 親子目かくし競争(女)直線50mで行う。
 バレーボール(女)菅谷、七郷両婦人会の対抗とし、9人制3セット
 むかで競争(男5)直線50mで行う。
 玉入競争(男5、女10)綱引に同じ。
 仮装競技 審査員の採点による。
  (審査員)体育協会長、副会長(2)、教育長、教育委員長、議長、体育祭審判(2)、婦人会長(2) 計10名


俳句を始めた頃の思い出 越畑・久保茂男 1993年

2009-08-27 12:46:00 | 俳諧・俳句

 もう遠い昔のことなので記憶もはっきりしないが八和田(やわた)【現・小川町】の旧郵便局の側に倉庫だか作業所だかのようなものがあった。其処に昭和の初めだったか俳句会があった。その時出席して柳という題で天賞になり扇面に先生が書いたのを頂いた。
   終日の風和らかき柳かな
 選者は中爪の文令舎可及先生*であったが、形式は旧いなから今でも悪い句ではないと思う。文令舎とは地方に於ける俳句の先生で私の先妻の祖父である。
 矢張り同じ頃か余り違いはない時分の事だと思うが小川に句会があって私と奥村喜四郎さん二人だけで行った。十二月だったか一月だったか時季はよく覚えてないが、夜の寒い中を行った。成績は劣等であったが矢張り文令舎の選で
   若竹に光る朝日の雫(しづく)かな
が天賞になった。その外
   沈む陽に染まる川瀬や夕霞
 昔は俳句が盛んで、俳句を知らないのは一人前ではないように思われた。昔は学校がなかったから小学校を終れば、それからの勉強は独学でやらなければならなかった。
 それが俳句であったようである。歳時記によれば世の中の一切のことが題になっているのである。
 天文、地理、時候、人事、宗教、動物、植物に亘(わた)っている。だから私は俳句を庶民大学だと言っているのである。こんな訳で昔の人は俳句が学問であったり趣味であったのである。こんな状況下であったから、村に一人や二人の先生も居るしそれに次ぐ熱心な人も居たのである。
 私が俳句を始めた頃、勝田【現・嵐山町勝田】に夜秋庵如昇と号した先生が居た。本名は田中太藏とか聞いている。
 中爪の文令舎と、勝田の夜秋庵如昇は地方の先生だったからどこの句会でもこの二人のどちらかは見えて居た。その当時流派として蕉風と雪門とがあった。蕉風とは芭蕉の系統で言葉も意味もやさしいのを特徴とした。
 それに対する雪門は夜雪庵の系統で漢学者かぶれの傾向があったから言葉もごつごつしていて漢詩調で内容も漢詩的なものを好んだ。中爪の文令舎は蕉風で、勝田の夜秋庵は雪門であった。
 吉田【現・嵐山町吉田】に句会があったので出して置いたら、暫くたってから連絡があって天になっているから賞品を取りに来いというので貰いに行ったことがある。
 その時の句が今で考えれば馬鹿げたような拵(こしら)えもので、初心とは言い拙(つたな)いものであるが参考迄に挙げておく。
   夕風や柳眉の美人欄に倚る
   一路右曲陽炎もえて牛遅し
 雪門に当て込んだ句であるが紛れ当りによかったのである。
 句の良悪(よしあし)は別として、当時を回顧して無上の懐(なつか)しさを感づる。
 当時吉田は俳句をやる人が多くどこの句会へも見えた。私のやり始めた頃もそれ等の人が仲間であったが、私より八、九歳上の人であった。私が最年少であった。それ等の人は今一人も居ない。時代が変われば人も変わるのか。高度成長によって銭取りの方が面白いのか俳句をやる人は一人も居なくなった。
 齢(よわい)八十八を迎えて俳句ばかりではなく一般の同輩も殆ど居なくなった。世間では丈夫でいいねいとか、達者だと言って呉れるが、本人は冗談じゃない。間違って百まで生きられたとしても僅か十二年しかない。考えて見れば寂寥(せきりょう)の感に堪えない。折角この世に生れて来て何をしたか。食うことが精一杯で何にもしてない。寔(まこと)にお恥ずかしい次第である。それにしても私は恵まれて十八の頃から俳句や短歌が好きで以来七十年に亘る長い歳月をやり通して来た。別に偉いとも思わぬが兎に角稀有(けう)なことだと思う。因(ちなみ)に私の祖父は吉田から婿に来たのだが、仕事ばかりやらせられて好きな俳句も出来なかった由(よし)、その哀(あわ)れな遺志を引き継いで私は俳句が好きなのかも知れぬ。
       平成五年 五月十七日
            八十八歳 久保茂男

     久保茂男『峡のともしび』 1993年(平成5)5月

*『武蔵俳諧百人集』(1917年)を、序より順次、ブログ『嵐山町の古文書を読む会』に掲載予定。

※筆者は軒星(けんせい)と号し、1989年1月埼玉県文化ともしび賞を受賞、嵐山町町一番にも認定された。『峡のともしび』「はじめに)には、「平成元年(1989)だったか町の企画課で町一番の名目で町内で珍しいものや勝れたものを募集した。私も八十年町に在住した記念に何か出したいと思って、それほどの物ではないが十八、九の頃からやり通して来た短歌や俳句、川柳など千を越すものがあるので良悪は別として兎に角一寸珍らしいと思ったので勇気を奮って応募した。幸に認定されたのでその喜びを後世に残す意味でこの冊をまとめた。」とある。
 ほかに、『俳句自叙伝』(1983年5月)、『寂光』(1986年4月)等が出されている。

参照:宮田珪一郎「茶友会と会員俳句」久保茂男「俳句と私」


茶友会と会員俳句 広野・宮田珪一郎 1966年

2009-08-26 22:15:00 | 俳諧・俳句

 今より六十五年前平民文学として寵幸され流行した俳句の会、茶友会のことについて太郎丸の田幡宗勝(八二)を訪問、思い出深き会の事について、いろいろと語られましたので書き記したいと思います。(敬称略)
 交通地獄もなく何処へ行くにも徒歩、農家として買う物は暦位、地方の祭典や其他にて催する左衛門や義太夫を聞く楽しみが頂上。農閑又は夜間等うまく応用、月並みに自作を発表、疲れをぬぐい去りより合ふ会、これが何よりの慰安! 明日の仕事に懸命を誓ふ我山村の時の姿であった。
 此の山村にても庶民文学として俳句の研究会を作り、モノワ、都々逸、川柳等発表、明治三十三年(1900)正月、相計りて茶友会と名称、俳道一徹に前進したのであります。会友に致しましては三十五、六名、会長に権田亀逝を推薦し、文学に強い関心と同時に自己の有用性を再発見し、最も敬遠される意欲不満が解消、尚高級的な此山村にては紳士的な娯楽として、発展したのであります。
 その会友は広野・永島春水、小林如風、小林静湖、栗原梅窓、栗原一風、栗原晴山、権田松月、権田一朱、権田一仙、宮本明堂、宮田五生楽、内田春風、栗原露琴、永島竹雨、永島竹子、内田一九、大沢一和、静月愚笑、笑風、雪風、一晴等。杉山・水島如水、水島如雪、金子梅月、内田松寿等。太郎丸・田幡松雪、中村紅雲、中村茂山等の面面。
 会の選者として広野・文秀斎春昌、楽山居花酔【栗原慶次郎】、杉山・迎翠堂竹水、勝田・夜秋庵如昇、中瓜・文令舎可及。又、会を側面より深く援助し育成してくださった宗匠としては、志賀・伏亀軒松秀、玉川・可心庵如柳、羽尾・可秋庵可光、東京・金令舎光哉。
 開巻毎に鶏鳴暁天を告げるも知らず刎頸の交新たに、熱心に面白く楽しく会に深甚の好意を寄せられた、千手堂の光月、光風、光星、克光、川島の花盛竹生、千里、志賀・峰月、秀月、松栄、松風、菅谷・吉月、美風、鎌形・其風、源風、野風、亀水等であります。
 会員皆現実の姿を良くとらえ、大きく、美しく其表現強く柔に美と香を深くした風味其の物を十七字に圧縮し月並に発表する熱心さ、ここ月日は流れて明治四十三年(1910)拾周年を記念し、大句集を二回開催。正月、広野八宮神社に春昌の画、二段式の春昌の筆に寄る記念奉額、巾三尺八寸長二間を捧げ、拝殿に今尚立派な雄姿を拝見す。又九月、広野広正寺本堂に栄玉の画、梅洲居士の筆にて、巾二尺八寸長さ三間の席額を奉納す。いかに其熱心さと時の流行を物語る大なる記録であろう。
 正月第一回句集に於て詠じたるを拾い左に選者より収録致します。

  夜学した功現すや司召(つかさめし)* 春昌
  色替えぬ松や十々世も百々十世も  花酔
  垣越しや広野に香る梅一木     竹水
  探らばや果し知らぬまに道の奧   如昇
  冬枯れの中や緑の麦畑       可及

此より会員

  ゆがみなきすがる月日や鏡餅    如風
  続かれて幾世も涼し茶友会     一珠
  花咲くや山に余りて船に人     亀遊
  祝酒には先の肴や小殿の原(ゴマメ) 一晴
  供ふへて尚にぎはしき花見哉    海月
  五里で良し六里でも良し春の旅   竹子
  船と名のつかぬばかしや夏座敷   雪風
  茶を入れて木逝よび来る日永かな  一和
  凧揚げや広野の空の一羽鶴     五生楽
  気は安し蛙聞き聞き延ばす足    静月
  茶の友の昔話しや菊の主      愚風
  松に月春十分の眺めかな      笑風
  帆の見ゆる浜の出店やかしわ餅   静湖
  千早ふる松に衣や蔦かつら     竹雨
  秋のなり松山近く来りけり     一九
  石になるつもりか桶の蝸牛     茂山
  茶の友の交り深し梅の庵      一風
  十年の昔なつかし恋し鳥(ホトトギス)晴山
  茶の友の笑顔揃や花の山      楼窓
  茄子にのみ笑ふ種あり秋の夕    松林
  十年の汗に立派な出前哉      松雪
  正直に涼しき大和心哉       如水
  予算した俵の外や今年米      亀逝

 各巻選者の感吟を引用致します。

 夜雪庵金羅選 甲ノ巻
  虫寒し言はぬ髑髏に語る過去   亀遊

 泰然堂平気選 甲ノ巻
  夢にしていれば涼しき浮世哉   如水

 楽山居花酔  甲ノ巻
  母良慰に移して軽し孫の夢    梅月
  竹涼し月を見せたり隠したり   松林
  南耕慮香旦選 乙ノ巻
  改号の披露目出度し豊の秋    秋風

 克己堂露山選 乙ノ巻  
  月一ツ人には千々の思ひ哉    柳畝

 迎翠堂竹水選 乙ノ巻
  只見世やお初は下女の鏡山    〆次

 夜春庵柿本選 丙ノ巻
  夏痩せに笑凹失ふ女哉      亀遊

 文令舎可及選 丙ノ巻
  口切や川越して行く水貰ひ   谷藤

 可心庵如柳選 丙ノ巻
  踏み心地良き若草の広野哉   松雪

 燕千居一心選 通巻
  千代口の月空へ戻して廻しけり 松雪
  あやめにも萩にもなるや若莨  亀遊

 私等生活する周囲に、空想的なもの、現実的なもの、千体万状の俳味が、ほうきで掃き立てる程千五百(ちいほ)**散在してゐる。其天然の美、人工の香り! 我が主にする視点から眺めて観察をすると田幡宗勝氏の語らいは続けられた。ここで文芸的と申しますと過言になるが、秀れたものは文芸的感動もしくは人格的感動をあたえる事が深く、自然の姿を直感して、それを抽象的にでなく、感覚的にとらへるのは、句作者のとくに秀でている技術というてよいかも知れない。つまり句作者が直感的文芸的な性格や嗜好を以て生き、一滴の水の中に宇宙を感じるといふような具合に過程を飛過(とびすご)して、物の神髄を感得する才能に、すぐれてゐるといふ事もあろう。自然の姿に繊巧な美を発見し微妙な陰影を楽しむといふ気持ちもあづかっていたであろう。いづれにせよ大切な親睦な集へ打込た心理の盛上り、それを忘れては成らないだろう。
 活気充満なる茶友会主催広正寺席額より左に収録。

     軸          住職
  便り木を便り枯すな茂る蔦   正英

     引受保証     
  筆弟子の師恩報じゃ墓参り   春昌
  師を祭る記念には良夏書哉   花酔
  四君子の名も昔なり千代見草  風流
  山寺や何時から咲て藤の花   柳性

     后見 茶友会
  広がって正しき花や寺の蓮

     催主         年齢順
  霊棚や昔を偲ぶ故師の恩    栗原一道
  東雲を喜ぶ花の庵り哉     中村一松
  師の恩を忘れぬ弟子や筆始め  権田久隆
  枯山子へ手向る花や翁連    永嶋逸性
  故山子に手向る彼岸桜哉    権田長松
  山子翁在すが如き盆会議    宮本明堂
  広野から遊ぶ連あり春の花   杉田野遊
  東雲や月抱きせんと薫梅    内田佳友
  東雲は旅の愉快や舞雲雀    久保和風
  山里は焚火を雪の馳走哉    真田竹林
  石垣の奧や留守居の菊の庵   石田留石
  山裾の一家ぬくし冬の梅    栗原芳晴
  迎火や鉦の音響く広正寺    権田一英
  冬枯や広野に目立つ寺一宇   内田弛月
  鶯の初音直座や山屋敷     田村初音
  東雲の其名も伝えし大般若   久保文月
  撞く鐘もそうとやりたし花の寺 青木青平
  是が子の手向けの水や花の露  久保青暁
  慾に折る人柄でなし庵の梅   馬場松声
  秋の不二一条の雲もなかりけり 馬場和歌
  老一人庵ふく花の留守居かな  青木青小
  山寺や山門見へて月朧     権田金水
  大寺の障子ほころぶ寒哉    権田源喜
  人の子の大きく見ゆる頭巾かな 辻の家
  涼しさや木陰に潜む師の庵   権田いろは
  蓮清し邪のなき君子哉     島崎沼端
  村雨に隠れぬ声や時鳥     権田露降
  虫啼や浮世に遠き草の庵    島崎浜水
  雪けして春の定るの山哉    権田里螢
  山寺の鐘や細りて夕霞     田幡文泰清記
  香を焚く煙も寺の蚊逃り哉   松月
  寒梅や冬緩き広正寺      野蝶
  床軸は山子の筆や夏座敷    一珠
  弟子共の師の恩語る長夜哉   晴山
  鶯や筆置へて立つ手習子    海月
  名月や広野を歩く笛の声    一九
  亡人の在すが如し霊祭り    露琴
  雉子啼くや旭の届く山の腰   宗和
  絵団扇や裏は広野の夕景色   梅窓

     大集所扱
  師の恩は正しき二字や筆始め  亀遊

     分巻選者
  寺の秋木魚の音に暮れにけり  如昮
  当山の汁物重し鉄火鉢     一心
  追善に筆子の寄りて角力哉   如柳
  蓮を見て悟る仏の教へ哉    畔哉

     通巻選者
  古池の皆教い子か啼く蛙    かしく
  迎火や亡師光りを筆子中    可及

     『菅谷村報道』164号・165号 1966年(昭和41)1月20日・3月20日
*司召(つかさめし):官吏を任命すること。
**千五百(ちいほ):ちいお。数が非常に多いこと。数限りないこと。


参照:久保茂男「俳句を始めた頃の思い出」


俳句と私 越畑・久保茂男 1983年

2009-08-25 16:48:00 | 俳諧・俳句

 俳句の好き嫌いは大体その人の素質であろうか。私の兄弟でも俳句を作ったのは私だけで近所にも居なかった。尤も血統から言えば吉田から婿に来た祖父が俳句が好きだったそうである。不思議なことに私は学校が嫌いで小学校も満足に行かず終わったので字も碌(ろく)に知らず、迚(とて)も俳句など作れる訳はなかったのであるが、何となく俳句に魅力を感じて、自然に作って見たくなったのである。
 今顧れば感じはやっと十文字か十五文字位しか知らなかったと思う。俳句を始めてから文字の必要を感じ、それから文字の勉強を始め、字引を頼りに猛烈な向学心に燃えた。始めの内は近所の幾人かを誘って作らして纏(まと)め、それを先生に見て貰った。その頃は一般に俳句が流行っていて、学校の先生に迚も俳句の好きなのがいて、職員同士の小句会をしばしばやって居たようだが、村全体へ呼びかけての俳句募集があった。私も勿論応募して、優秀な成績であったと記憶する。
 その時の句会に出席したのだが、句会といふことに出たのがこれが最初であった。教わる人もなく、何しろ初めてで日も浅かったので、俳句の規則も佳否(よしあし)も全く知らず、殆ど夢中で盲蛇の度胸であった。
 昔の句会は現在のように出席者の互選ではなく、題が出て、それを力紙と云って十枚十銭位で買って、その紙に書いて出し、それを係りの人が纏めて、書いて先生に見て貰ふ。つまり選をして貰ふ方式であった。
 その時の、春雨に結ぶ手という題で、次のような句が出来た。
   春雨(はるさめ)や手の先仕事眠気さす
   春雨や蛇の目片手に端折(はしょ)る裾(すそ)
 この句が三光と秀逸に入選したので自分ながら驚いた。何んにも知らないで、こうした句が出来たのは、今考えて見ても上出来である。これが十九の歳である。大袈裟に言えば彗星の如く現れて俳句の脚光を浴びたのだから大した訳である。
 幸か不幸か、私はこれをスタートに、俳句に没頭するようになった。私の人生に於て俳句がよかったか、どうか分らないが、好きなことをやり通したという点ではよかったように思う。何しろ私の素養や教養は極めて乏しく、殆ど俳句を素として、取入れた知識であり、教養であるからである。殊(こと)に文字に於ては特別の自信があり、どんな字でも知らない字はないと思ふ位で、便利をしているのは有難く思ふ。歳をとると、字を忘れるというが、余り忘れて居ないのは、自分ながら不思議に思ふ位である。これも俳句をやって来たお蔭ではないかと思う。俳句は私の実生活には必ずしもプラスではなかったと思ふが、私の人間形成、精神生活の上には大いに役立ったと自負するのである。私は三十五歳の時、二児を残されて妻に死別した。その不幸を契機に仏教に這入(はい)れたのも、俳句をやっていて文字の知識があったからこそである。
 私の七十六才の喜寿に至らんとする人生は短いようで永かった。俳句を始めてから撓(たゆ)まぬ人生勉強は、或程度成功し、物の観方、考え方に於て、自信を得、そこに満足と安心を得られるようになったのは、俳句と仏教の勉強による、成果であったと思う。殊に一昨年の病気の時の不思議な経験により、観音様の霊験とも思はれる現象に、自分の命の顕現を確認出来たのは観音信仰の利益とは言い稀有(けう)なこととして感謝し、生命の活気躍進を感ずる。
   雪の夜の明るき庭の広さかな
 俳句を始めて、何も分らず、夢中で作って居た頃、福田から来て居た、井上牛円という学校の先生に俳句を教わっていた。
 その頃よい句だと言って先生が短冊へ書いて呉れたのが右の句である。
   梅雨晴れや天気予報の旗白し
 恩師初雁利一先生(故人)が補習学校の席上で「私が棺を覆うまで忘れないだろう。」とほめて呉れた句である。
   妻葬り車窓の紅葉血を流す
   今朝の霜妻の墓にも白からめ
 私は生活の都合上、横須賀の海軍工厰へ在職中、大東亜戦争へ突入する前の昭和十五年(1940)十一月に突然妻に亡くなられた。二児を残されて……。これは私の人生航路に於て、最大の躓(つまず)きであり大きな不幸であった。
 思えばこれも戦争の犠牲に類するものであって、多くの家庭が少なからぬ犠牲を払っているのに、私は応召を免れたのだから、その代りとして仕方ないことだと思った。
 妻を故郷へ仮埋葬して再び勤務地へ戻らなければならなかった。東上線の車中で眺めた窓外の紅葉は涙で曇った眼に一とべったに見えて、まるで血河の流れを見るようであった。一人になった仮寓(かぐう)からの勤めは淋しく悲しかった。砂漠のような世の中に、冬の訪れは早く、孤独の勤めに見る、朝の霜は殊更身に沁(し)みた。この朝の霜も、はかなく世をさった、ささやかな妻の墓にも白いことであろう。

   【中略】

     あと書き
 句集の上梓を計画して久しかったが、仲中その機会を得ず、今日に至ってしまった。
 来る五月十七日が丁度七十七才の喜の寿に当るので、それを契機に今度はどうしても出そうと思って、ずっと前計画して書き始めたのを元に、大急ぎで書きまとめて、どうやら一冊の本が出来そうになった。私のは一般の句集とは違い、『俳句自叙伝』と銘打って、過去六十年に亘る、生活の記録として詠んだ、俳句の中から集録した。それが夥(おびただ)しい数に上るので迚(とて)も全部といふ訳にはゆかないので、その中の一部を集録した。採録の標準は、初めて村の句会に出た時の作品から、中央の俳誌、島田青峰の主宰した『土上』を皮切りに、渡辺水己の『曲水』、最后には仏教俳句を志向した関係で松野自得の『さいかち』に二十七年所属した経過である。
 これがささやかながら私の俳句遍歴である。この中から選らんだものであるが、何しろ戦争がからんだ悪い時代の作品だから、何れも貧しい悲しい感覚のものが多い。それに六十年を隔てる感覚の推移は随分変化している。
 戦前私達がよかったものは、今は影も形もない。殊に自然のよさは殆ど失なわれてしまった。特に淋しく思うのは燕(つばめ)の居なくなったこと、その他蜻蛉(トンボ)や蝉(セミ)の少なくなったこと、野山の草花がなくなったことなどである。
 そうした比較を知らないものは何とも思はないが、私達のように知っている者には驚異的淋しさである。そうした自然の豊かだった時代の作品は、懐かしく楽しい。その今はないもの、今は行なわれないようなことの作品を選らんで注釈を加えて見た。
 謂はば七十七才の郷愁である。
 今后世の中はどんな風に変って行くのだろう。この分では、恐らく無味乾燥な機械時代になるであろうが、昔こんなこともあったのかと見て呉れる人があったら幸である。
 作品の年代順も考慮したのであるが、心に浮ぶものを手当り次第書いたような訳で、それも前后したり、季の順序も乱れてしまって遺憾であるが、何しろ大変な仕事なので、いい加減になってしまった。
 終りに町長や、六十年の俳友木村さんからの句集を出すようにと慫慂(しょうよう)の言葉は励ましになって嬉しかった。感謝する。
   昭和五十八年 三月十一日
   五月十七日を以て七十七才の誕生日を迎えんとする。

   久保茂男『俳句自叙伝』(1983年5月)より、巻頭、巻末を掲載

参照:久保茂男「俳句を始めた頃の思い出」宮田珪一郎「茶友会と会員俳句」


武蔵野話 笛吹峠・将軍沢村 1815年

2009-08-20 02:15:25 | 将軍沢

Web
太平記、武蔵野合戦の章に「笛吹峠又竿吹峠(さほふきとうげ)」と書てうすひと訓(よみ)、上野信濃の界」とあるは記録者のあやまれるなり。此峠は文字の通(とほり)ふえふき峠なり。今宿(いましゅく)といへる地(ところ)に西北にあたり将軍澤といふ地あり。此村中の峠をふえふき峠といふ。入間川村より上野への通道(みちすじ)にて入間川村の四里西北にあたれり。新田左中将、多摩郡分敗河原(ぶばいがわら)の戦にやぶれて久米川村へ陣を引(ひき)また入間川へ陣を引(ひき)、其夜笛吹峠へ落(おち)しとあれば上信の界にあらず。上信の界は行程(みちのり)遙なる里数にて凡二十里もあるべし。其夜陣を引とる事なかなかかなふべからず、入間川より笛吹嶺(とうげ)までは行程漸(やうやく)四里餘もあれば其夜陣を引とりし地(ところ)は将軍澤村の嶺(とうげ)に疑ひなき事分明なり。此村にすこしの澤あり、水西より東へながれ将軍権現の小祠の在(ある)所を過るゆへ将軍澤の名あり。昔時(むかし)田村将軍東征の時、陣を暫くとどめ旌旗(はた)を立させられし処の塚を即将軍大権現と崇(まつり)しといふ。土人(ところのもの)は此祠を将軍様と稱す。此村いたりて僻地にして他国のものの往来(ゆきき)もなき所なれども大倉、菅谷其外上州への街道にして小荷駄の往来のみあるやうすなり。人の知ざる程の地(ところ)なるゆへ太平記の誤ももっともにあらんか。
     齊藤鶴磯『武蔵野話』(武蔵野話刊行会、1950年3月)125頁

※江戸時代の地誌の古典『武蔵野話』(むさしのばなし)が発刊されたのは1815年(文化12)、著者は齊藤鶴磯(さいとうかっき)(1752-1828)である。齊藤の墓は、現在東京都豊島区巣鴨5-37-1、慈眼寺墓地にあり、東京都の旧跡に指定されている。東京都教育員会が1993年(平成5)に建てた解説板には次のように書かれている。

   齊藤鶴磯墓(さいとうかっきはか)
江戸時代後期の儒学者。地誌研究家。宝暦二年(1752)水戸藩士の子として江戸に生まれた。通称宇八郎、諱(いみな)は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。寛政八、九年(1796~1797)から文化十三年(1816)頃までの約二十年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之(すずきぼくし)(秋月庵)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』や赤松宗旦(あかまつそうたん)(義和)の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化十二年(1815)に完成させた。翌年筆禍事件により所沢を去って江戸に移った。続編は門人の校訂によって文政十年【1827】に刊行された。他の著作に『女孝教補注(おんなこうきょうほちゅう)『干支考(かんしこう)』『?玉斎漫筆(たくぎょくさいまんぴつ)』などがある。文化十一年(1828)2月7日七七歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。

※笛吹峠、将軍沢については、以下も参照。
峠のロマン“論争”尾を引く笛吹峠 1978年」「雪見峠は笛吹峠」 「嵐山町誌128 将軍沢」「昔を今に・めぐりあるき 将軍沢の巻(その1) 関根昭二 1950年」「昔を今に・めぐりあるき 将軍沢の巻(その2) 関根昭二 1950年」「町の今昔 史蹟・笛吹峠 安藤専一 1968年」「町の今昔 ケツあぶり 長島喜平 1968年」「桜の花を訪ねて7 将軍沢のさくら 関根昭二 1981年」「古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作 1962年
参照:埼玉県内の近世の地誌については、『新編埼玉県史 資料編10 近世1・地誌』1頁~44頁「解説」。


昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その2) 関根昭二 1950年

2009-08-19 00:09:00 | 1950年

 将軍沢といふ地名は如何なる起原をもってゐるのであらうか。この土地の人々が一般に知ってゐることは、坂上田村麻呂将軍がこの地に留ったからだといふことである。然し、新編武蔵風土記によると「村内二利仁将軍ノ霊ヲ祭リシ大宮権現ノ社アルヲモテ将軍沢ノ名アリト伝」とある。利仁将軍といふのは藤原利仁のことで比企年鑑(松山町比企文化社出版、一九五〇年版)によると西暦九一五年(醍醐天皇、延喜十五年)従四位で武蔵守に任じられ、比企郡の郡家(野本村古凍に居住し、一年置いて九一七年(延喜十七年)には勅命の依り郡家より出兵して下野(栃木縣)の賊徒、蔵宗、蔵安を討伐したが、九二一年(延長元年)-最新世界年表(三省堂発兌、昭和六年発行)によると九二一年は延喜二一年であり、延長元年は九二三である。比企年鑑の年代は多分間違いであらう-比企郡家に歿したので、里人は相寄って此れを将軍塚利仁社に祠った。延長五年(九二七年)、比企年鑑(九二五年)に醍醐天皇麻疹に悩ませられた時この利仁社に奉幣勅願し平癒を祈られた。翌六年に癒ったので利仁社に利仁大権現の勅称を賜った。さうして次の朱雀天皇の承平元年(西紀九三一年)には藤原利仁の館跡に里人が集まって「利仁山野本寺」を創建した。従って比企年鑑によれば藤原利仁将軍は将軍沢とは殆ど関係ないし、土地の人も利仁将軍については何も知ってゐない。又大宮権現社もないから新編武蔵風土記の地名説は疑はしくなる。然し比企年鑑の町村名勝旧蹟めぐり菅谷村の巻には大宮大権現(将軍沢)として「高さ三尺程の塚上にあり、往昔武蔵守藤原利仁此地を巡視の砌(みぎり)此塚に腰掛けて憩しを記念し里人相寄りて権現に祀ると云ひ傳ふとある」が、これは新編武蔵風土記の記事と同じである。私の考へでは恐らくこの大宮権現社は現在の根岸の権現様のことではなからうかと思ふのである。将軍沢には田村将軍社といふのがあるから、土地の人々が信じてゐる口碑の方が正しいのであらう。比企年鑑にも恒武天皇の延暦十六年(西暦七九七年、年鑑に七九八年とあるは誤り)坂上田村麻呂征夷大将軍として第二次蝦夷征伐の途次須江峠北方の沢地に軍兵を駐屯せしめ、此より将軍沢の地名起るとあるからである。この時田村麻呂は塩山八幡に詣でて戦勝の祈願をした。さうして翌延暦十七年(西暦七九八年)蝦夷平定の帰途再び塩山に登って戦勝を報告し、奉礼として壮麗なる社殿を建ててゐる。この塩山八幡は延暦十二年(西暦七九三年)に田村麻呂が征夷副将軍として蝦夷征伐の途次塩山々上に宇佐八幡を勧請したものである。これが後の鎌形八幡となるのである。毒蛇退治の話は第三次蝦夷征伐の帰途(延暦二一年、西暦八〇二年)のことで毒蛇は兇賊の首長だと云はれてゐる。嘗(かつ)て我々の國史にあった須佐の男の命の八俣の大蛇退治も乱暴な兇賊が古代には横行して居たのを英雄が退治して姫を助けたといふ武勇談と考へられてゐる。この当時岩殿山にどんな賊が居たか知る由もないが、岩殿山には不鳴の池軍陣弁財天、物見山雪見峠、龍堂六面憧など田村麻呂に関係する史蹟があり、亀井村にはシトメ山と云って大蛇をしとめた所だと云はれてゐる山などあるからし何かあったことだけは事実であらう。然し笛吹峠の由来は大蛇を退治するために笛を吹いたからだと云ふ説は比企年鑑を見て全く否定された。これによると最初はスエ峠又はウスエ峠と呼ばれてゐた。スエといふ名の起りは現在亀井村に須江といふ地名があるが、その昔(奈良時代今から千二百六十年前)この附近に新羅(朝鮮)から帰化して韓奈末許等十二人が居住し、新羅焼傳へて須恵器(土器)を焼いたことによるらしい。今でも須江、泉井、大橋にはそのかまどの跡があり須江窯跡として縣の史跡に指定されてゐる。最初にこの峠を通ったのは西紀一一〇年(今から千八百四〇年前)で日本武尊が蝦夷征伐に行く時此処から菅谷・八和田を通り児玉に向かってゐる。その後坂上田村麻呂が蝦夷征伐で通り、大同二年(西暦八〇九年)この地の人々は田村麻呂の仮営地を記念して、将軍社を建てた。その後かなり長い間歴史はこの峠を無視し舞台は鎌形、大蔵に移り源氏の兵士達が登場して最も華やかな歴史の一こまを演ずるのであるが、それらのことに就ては後に譲りたい。だがこの間、この峠が全く棄てて顧みられなかったとは思はれない。既に西暦六六九年(天智天皇八年)に慈光老翁は平村都幾山に弟子慈訓、小角と謀って恩師追福もために一宇を建て都幾山慈光寺と名づけ、六七五年(天武天皇三年)には弟子慈訓は恩師の遺訓を奉じ、慈光の悌を模した千手観音像を自ら刻んで都幾山内に観音堂を建ててゐる。大宝二年(西紀七〇二年)に小角は岩殿山に正存院を創り、坂上田村麻呂は延暦二五年(西紀八〇六年、大同元年)に蝦夷征伐戦勝の奉礼として岩殿山に正法寺を再建(養老元年、西紀七一七年、逸海上人が佛法修行の為窓庵を結び正法庵と名づけてゐた)して観音堂以下諸堂外坊六十余院を奉献してゐる。従ってあの巡礼街道は岩殿から慈光寺へ行き来する人でにぎわったことだらうと思うふのである。正安元年(西紀一二九九年)将軍沢三段田が上州長楽寺領となった。かくして将軍社が建てられてから五百三十年の歳月が流れて歴史は再びこの須江峠をクローズアップしたのである。
     『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日


昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その1) 関根昭二 1950年

2009-08-18 00:06:00 | 1950年

 菅谷村の北海道と云はれる将軍沢は千手堂、遠山と共に菅谷村で最も自然的環境に恵まれた土地であらう。四方山に囲まれてゐるだけに冬の陽ざしも暖かく、何か文化的に遠い匂ひも感ずるし、それだけに一見おだやかなひとざとにも思はれた。されでも終戦直後は赤旗が大部気焔を挙げたといふことである。戸数は四十三戸、人口は二百五十二人で、菅谷村では少い方から三位、田は十二町、畑は二十四町の耕地面積である【10号の訂正により、田は166町を12町に、畑は378町を24町に、山林原野は667町を、「今のところ不明なるため」削除】。この土地の小字名は中山、西方、八反田、一町田、丸山、三段田、田向、中町、稲荷林、大平、鶴巻、南鶴、高代、上大谷、下大谷、東方、坂上と十七字あることが明治九年(1876)十一月二六日、土地丈量御検査済(小久保恭之介氏蔵)に記されてゐる。その当時の土地測量には縄や紐では伸び縮みがあるといふので、竹を細くけづって間数をとったのださうである。十七の小字にもそれぞれのいわれがあるのであらうが誰も知ってゐそうもない。新編武蔵風土記には小字名としてヲウス塚(茶臼塚ともいへり)といふのがあることを記してゐるが土地の人に聞いても知らないという。ただカネ塚(大蔵地内)というのが山王様(日吉神社)の側にあり、明治時代にこの塚を発掘したところ石碑が出てきたので富士権現を信仰する大蔵の人たちがそこへお宮を建てて祭ったそうである。今カネ塚の由来も石碑の文字も知ることができない。
 大蔵から将軍沢へ行く道にちょっとした橋があるが、これを縁切り橋(大蔵地内)といふ。この附近にはまことに不吉な名が多い。この橋の両側の原(今は畑になってゐるが昔は原であったのだろう)を不逢(アワズ)が原(大蔵地内)と云い、橋を渡って不動坂を上ると将軍沢で、すぐ山王社がある。これを縁切山王と呼ぶ。さうしてこの附近の山林を不添の森と称する。一たん結んだ縁を切るのは難しいがこの縁切山王にお願ひするとうまく縁が切れるといふ話が傳ってゐる。そのため遠く秩父郡の方からも千本旗をあげに来る人もあるという。又、将軍沢への縁談には一切この橋を渡らないことにしてゐるそうである。この地の名物はささら獅子舞であるが、何時代から行はれどうした起原をもってゐるのか不明である。太鼓の張替をする時に皮の裏側に「江戸太鼓師」と書いてあったことから、明治以前から既に行はれてゐたのではないかと推測されるだけである。そのいわれはどうであれ、村の年中行事として伝統的に毎年行はれて来てゐるが、それでも戦争中は二年ほど休んださうである。この地にまつはる伝説として笛吹峠がある。その昔、坂上田村麻呂といふ将軍がエゾ征伐の途次、この地に立ち寄り岩殿山の大蛇を退治したといふ話は私たちが幼少の頃よく聞かされた話である。大蛇を退治するにはどうしたらよいかいろいろ考へたがそれにはまづ大蛇を見つけださねばならない。九十九谷もある谷間のことである。さう簡単に探し出せるものではない。然し蛇は笛の音が好きだということが分ったので、峠に上って笛を吹くことにした。だが笛の音だけではよく分らないだらう、雪を降らせれば蛇の跡がつくから分るだらうといふ今から思へば全くナンセンスな考へが湧いたのである。時は六月一日夏である。将軍の祈りによって朝から雪が降り出した。ために目出度く大蛇を退治することができたという。この物語は真実でないかも知れない。然し今でもこの土地の人たちは旧六月一日の朝には門先で小麦のカラを焚き雪の日の将軍の寒さを暖めてやり、マンヂュウをこしらへて大蛇退治のお祝いをしてゐる事実は見逃してはならないことである。又笛吹峠といふ名の起りも右の様な傅説に基いてゐるのであらう。
 私はある晴れた晩秋の一日この笛吹峠を訪れてみた。将軍沢から亀井村須江に通ずる幅二間ほどの林道は松葉がこぼれ、くぬぎの枯葉が散って歩く度にかさかさと鳴った。焚木でも取ってゐるのか枯枝を折る音が聞える。松とくぬぎの山が幾重にもかさなり、その谷間は田圃になって稲が掛けてあった。松林を抜け坂を上ると道は平になり、行手に石碑が見えた。高さ一米五十糎ほどのこの石碑の表には「史蹟笛吹峠埼玉縣」とあり、裏面を見ると「笛吹峠ハ正平年間ノ戦績ニシテ建武中興関係遺跡トシテ名アリ今回埼玉縣ノ指定ニ基キ菅谷亀井ノ両村之ガ保存ヲ協議シ当所ヲ選ム時恰モ建武中興六百年ニ際ス即チ記念保存ノ為ニ之ヲ建ツ 昭和十年三月 笛吹峠保存会」と記されてあった。私は枯れた草むらに腰を下してこの文の意味を考へてみた。これによると笛吹峠は前の坂上田村麻呂とは何の関係もないからである。正平年間(1346-1369)の戦績であり、建武中興関係の遺跡だとあるが、建武中興は後醍醐天皇の御代(1318-1339)であり、正平といふ年は次の後村上天皇の御代である。従って正平年間の戦が建武中興に関係あるとは思はれないのである。然し吉野町時代にこの峠が戦場になった頃もあったのであらうか。千軍万馬の関東武士達が鎧甲に身を固め、白刃をひらめかして戦ったのであらうか。どよめく人声、乱れる馬の足音、鬨(かちどき)の声、太鼓の音、鐘の響、ほら貝の音、そして劒撃の響と人のうめき声 - それらはこの谷々に轟き渡ったことであらう。だが今聞くべくもなくしのぶよすがすらない。たゞ颯々たる松籟の音とささたるすゝきの揺ぎとちゝたる小鳥の囀りのみである。この峠に生ひ繁ってゐる松やくぬぎはそして道端の小草は古き日の面影を語ることができるであらうか。
 その昔、どこからともなく聞こえてきた笛の音を今も猶秋風の中にささやくことができるというのであらうか。坂上田村麻呂の生きた平安時代は今から千百年の昔であり、正平の代も今から六百年の昔である。樹齢それ程の樹木を見ることができないのは寂しい限である。
 笛吹峠の歴史的意義は更に今後の研究によって明かにされなければならないであらう。この碑の建ってある所は私の今上って来た道ともう一本の道とが交錯してゐる四辻になっている。この道は岩殿観音から平村慈光寺観音へ通ずる道で巡礼街道と呼ばれてゐる。白い脚絆にわらぢを履き遍路笠をかぶった巡礼達が鈴を鳴らしながらこの道を通って行ったことであらう。この道を少し行くと学有林があるが私は亀井村の方へ下りていった。目の前が急に明るくなると、よく開けた田圃が見え稲はすっかり刈りとられてきれいに掛けてあった。藁屋根の人家からは炊煙が上り、大きな沼が鈍く光ってゐた。さうして銀色の鉄柱が果しもなく小春日和の中に続いてゐた。遠く秩父の山波は薄紫に煙り、近くの山は青く或は紅葉に色とられてゐた。日だまりに腰かけてこれらの景にみとれてゐた私は正午近いのを感じて峠を下ることにした。同じ道を帰るのも愚だと思ひ途中の別れ道から左へ降りて行った。もとの上り口へ出ると思ってゐた私は全く見られない光景に出逢ってしまった。左手は丘ですゝきが一面に白くほゝけ右手は松林でその谷間に田圃があり、その向うはスロープをなした畑が続き更に笠山が見えるまことにおだやかな自然の美景である。それは嵐山の如くはなやかではない。云ってみれば素朴の美景とでも云のであらうか。然しこゝは一体どこであらう。田圃に稲を刈ってゐる人に尋ねたらオオガヒだという。オオガヒとは何村ですかと更に尋ねたら菅谷村の鎌形だという。私は驚いて今一度この景を見直してみた。菅谷村にもこんな平和な美しい地があったのかと思はずにはゐられなかったのである。   (報道委員S記)
     『菅谷村報道』9号 1950年(昭和25)11月25日


古老に聞く 笛吹峠の記念碑 福島愛作 1962年

2009-08-17 16:36:00 | 古老に聞く

 「君のため世のためなにかおしからん、すててかひある命なりせば」(新葉和歌集)

 正平七年(1352)閏二月二八日新田、足利の会戦が小手指原に展開された。征夷大将軍宗良親王(むねよししんのう)は親しく、官軍将兵の部署を定め、この歌を作って、全軍を鼓舞し、為に官軍の志気は大いに振ったといふ。笛吹峠は、時の官軍の本陣である。即ち太平記笛吹峠の軍の条に「小松生ひ茂りて、前に小河流れたる山の南を陣に取りて、峰には錦の御旗を打立て、麓には白旗(しらはた)・中黒(なかぐろ)・棕櫚葉(しゅろのは)・梶葉(かじのは)の紋書きたる旗共其の数満々たり…」とあるここは往昔、鎌倉往還の大道であり、南は今宿、苦林、入間川を経て、武蔵府中から鎌倉に通じ、北は将軍沢、大蔵より菅谷に至り、上州の児玉、勅使河原を通って前橋近くの府中に達するもので、鎌倉と上野、信濃、越後地方を結ぶ主要交通路であった。新田義貞の鎌倉攻めも大体に於て、この通路のよったものとされており、宗良親王も又、この峠に錦旗を立てられたのである。

 さて、世変り時移り、昭和十九年(1944)、戦争も末期的様相を呈し、敵機の本土上空に跳梁する漸く激化した頃だという。一日、東京尾久の産業報国会の一行が、嵐山で、練成会を開いた。
 この時、当時村の助役であった福島愛作氏は、この会の講師を委嘱され、この地方の歴史的伝説等について説明し、最後に笛吹峠の古戦場を紹介し前掲の宗良親王の和歌を朗唱して、講義を終った。戦、必ずしも利あらず、敵機の蹂躙下に祖国を死守せんと決意する当時の人々の胸に、この歌はひしひしと響くものがあったという。蓋し、南朝勤王将兵の心事に、思相通ずるものがあったのであろう。
 笛吹峠が文化財史蹟として県の指定をうけたのが、昭和十年(1935)。地元、菅谷、亀井両村により「笛吹峠保存会」が結成され、記念碑の建立が企画された。即ち、県助成金として、両村へ三十円宛、他に村からの補助もあったが、その額は明らかでない。この補助金については地元村議小久保代吉氏の画策するところ、与って大いに力あったという。菅谷村長は杉田富次氏、亀井は小峰寛一郎氏である。碑は、両々村境を東西に通ずる巡礼街道(慈光山が板東9番、岩殿観音が10番の札所に当る)と、南北に貫く鎌倉街道との交点、亀井村寄り村有地に建てられ、記念碑周辺の景観を守るため、特に須江の日野両氏に要請し、隣接同氏所有山林、松樹等の保存につとめらるべき旨了解を得た。

 記念碑は、表面に、「史蹟笛吹峠 埼玉県」を一行に刻み裏面には「正平年間の戦蹟にして、建武中興関係遺蹟として名あり、今回埼玉県の指定に基き、菅谷亀井の両村長が保存を協議し、当所を選び、時恰も建武中興六百年に際す。即ち記念保存の為に之を建つ。昭和十年参月。笛吹峠保存会」と記してある。撰文は県史編纂官稲村坦元氏、筆者は福島愛作氏である。福島氏は時に将軍沢区長であり記念碑建設委員長の任にあった。令正に四十才。男盛りの頃だという。表面史蹟笛吹峠の文字は、特に精魂を傾けて揮毫したものだと同氏は語った。福島氏の朗唱する宗良親王の和歌が聴衆の心魂をゆさぶったのも斯くして偶然ではないことを知るのである。 

        内田房男画 笛吹峠記念碑

       『菅谷村報道』134号(1962年6月10日)

  新葉和歌集(しんようわかしゅう) 南北朝時代の和歌集。後醍醐天皇の皇子宗良親王(1311-1385?)撰の準勅撰和歌集。吉野に戻った宗良親王が南朝側歌人の和歌だけを選び、1381年(弘和元)、南朝の長慶天皇に奏覧。

   故郷(ふるさと)は恋しくとてもみよしのの花の盛(り)をいかがみすてむ(94)

   いかてほす物ともしらすとまやかたかたしく袖(そで)のよるの浦浪(95)

   思ふにもなほ色浅き紅葉かなそなたの山はいかヾしぐるゝ(96)

   しげりあふさくらが下の夕すヾみ春はうかりし風ぞまたるゝ(98)

   君のため世のため何か惜からん捨てゝかひある命なりせば(1232)


地産団地の建設が始まる 1 1971年1月

2009-08-15 21:50:00 | 1971年

 地産団地の建設が始まった。48年(1973)までに873戸の家を建築分譲する。これが完成すると人口は3000人ぐらい増加し、新しい変化が嵐山町に起るだろう。
     『嵐山町報道』210号 1971年(昭和46)1月25日

197101241web
   撮影:1971年(昭和46)1月24日

参照:地産団地造成協議書が結ばれる 1970年11月
   「地産団地の建設が始まる 1971年1月」
   「9月入居を目指して突貫工事の地産団地 1971年6月」
   「入居者120世帯を超えた地産団地 1972年1月