千手堂から遠山へ抜ける旧道の道端に高さ五十センチほどの道標があった。大正八年(1919)十二月に千手堂青年部の建てたものである。一面には「西五丁トンネルアリ大字遠山ヲ経テ小川町下里二至ル」と「東十丁大字菅谷ニ接シ松山小川間ノ県道ニ通ズ」とニ行に書かれ、他の一面には「東約ニ丁ニシテ左方大字平沢志賀ノ間道ヲ経テ七郷八和田村ニ至ル」と「南当大字ヲ経テ大字鎌形玉川村ニ至リ西平越生方面」とある。そして正面には「不知己分則言行多過(己の分を知らざればすなわち言行あやまち多し)」と刻まれてあった。道しるべに自らの身を修める言葉を書き記した当時の青年の心意気に思わず感動を覚えた。今ではこのねずみ色の道標に歩みを止める人は居ないであろう。
道標の文字を書き写していると近所のおばさんが出てきて「寄ってお茶でも飲んでいきませんか」と言葉をかけてきた。時は正午、しかも暗い空からは雨がぽつんぽつんと降ってきたので遠慮した。田舎の人は親切だと思った。
千手堂から遠山への道は道標の示すとおりトンネルをくぐる細い道だった。これを平沢から遠山へ通ずる道路として完成したのは昭和四十七年(1972)である。その折、この道の両側にさくらを植えた。道に沿って山ざくらの葉が赤褐色に芽ぶいている。
遠山は盆地の中にある。盆地を囲む山々に点々とさくらの花の白く咲くのが見える。
遠山への道がさくらの花でトンネルをつくるのはそんなに先のことではないだろう。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
普門山千手院(嵐山町千手堂759)の本堂は赤い屋根で県道からも緑の中に見える。山ざくらと吉野ざくらの二本の老木が境内にある。庫裡は新築中だがほとんど出来上っていた。
最近駐車場をつくるために整地したところ、いちょうの木の傍からカナ物の位牌が発掘された。それには「沢山頼国大居士」とあり、鎌倉時代頃のものだろうという。
千手院は「応和二年(962)慈恵大師の開基になり、村上天皇勅願の道場にして、天皇御自作の千手観音を安置せりと伝える」と「嵐山探訪」には誌されている。
また「嵐山町誌」は次のように述べている。
村名の起原については伝説として「沿革」に「村上天皇の天暦三年(949)に千手観音堂を造営され、武蔵国比企郡に土地を給与された。それでその土地を千手堂村と名づけ、寺を千手院といった。その後、文治建久の頃(1185~1198)に兵火にかかって、この建物は焼失した。そして更に数代を経て天文年間(1532~1554)に幻室伊芳という住職の時再建した。ところが又々享保元年(一七一六年、徳川吉宗の時代)に火災にあって鳥有に帰した。然し観音像は無事であったという。又、菅谷の館に重忠がいた頃その家来がこの村に居住し、そこに塚が三つあって鎧塚といっている」と。
これに対し「風土記稿」では千手院の解説で「千手観音を安置する当院は昔、わづかの堂なりしを幻室伊芳という僧を開山とす。」とあり。入間郡黒須村の蓮華院の観音堂に掛けてあるワニ口の銘に「武州比企郡千手堂……」とあるから「このワニ口は千手院のものであり、寛正の頃(1461)はいまだ堂であったことがわかるといっている。
そして「嵐山町誌」はワニ口の銘文からして千手堂が村の名前になったのであり、それは千手観音があったからだと結論している。とに角由緒のある古い寺の一つである。
すぐ近くの森に春日神社がある。珍らしいかやぶきの屋根が古さを物語っている。みかげ石の鳥居の上にさくらの花が両側から枝を伸ばして咲いていた。森閑とした山中にうぐいすの声が時をり聞かれた。お宮の左右に掲げられた額の文字は風雨に打たれて見えなくなっている。
花は石のきざはしに散っていた。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
千手堂の内田寅吉氏の屋敷前、県道に沿った畑の西南部に、熊野神社が祀られてある。宮のたたずまい、鳥居社碑等にかりそめならぬ信仰の深さを感じて、行人の足は自らここにとまる。
この神社の祭りが、毎年三月三日、西沢富次郎さんによって行なはれ、御神酒酒を上げ近所の子供達に団子を呉れて終っている。これはもと、旧正月十七日に行わはれ、村内の信者が、うるち牡丹餅を奉納して、祭典を行なっていたが、時代の移りと共にいつかこの習慣も薄れて、現在の形に簡素化された。
この熊野信仰は、もと御岳講から始まったもので、御岳講が崩れて遂に解散したあと、講人の西沢富太郎、父の男女吉、関口吉蔵(現利重)、関口福次郎(現幸衛)、内田為五郎(現豊三郎)、内田新五郎(現正作)、内田虎吉(現明成 )さん達が集って、この熊野講を結成した。
出雲の熊野神社は、すさのをの尊を祀り、出雲大社と併称された有名な神社で地方では、火難・盗難除けの神徳に関するもので、この行事によって熊野神社のお札に火ぶせ・やく除けの神威がこもり、近隣から集る信者が争ってこのお札を受けて帰るのである。
さて、火渡りの神事とはその行者・西沢さんによれば、松薪百本を積み並べてこれに火をかける。中座と称する行者を中心に講人がこれを囲んで坐し祈祷をはじめる。
「オンサンバタラヤシリソワカ」呪文が繰り返され祈祷が最高調に達すると、中座に神がのり移る。中座の手にある大きな幣束の紙が風もなしに急に逆立つのである。そして両足を堅く縛って胡座した行者がそのまま、二三尺の高さに跳び上るという。これは関根茂良氏も目の当り見たと語った。かくして神がのりうつり、精神の統一が出来た行者はやおら立って、燃えしきる猛火の中を真跣足で歩き渡るのである。勿論本人は熱さを感じないし、火傷もしない。
刃渡りの神事は、剣の刃を上に向けて、梯子の如く組み立て、垂直に立てて、これを昇り且つ降りるのである。西沢さんは十三段の剣の梯子を昇降したという。これも全然けがをしないのである。精神統一が出来ると炎の色はカニ色に映り、つるぎの刃元から白い御光が謝するように見えるという。
完全に精神統一が出来たかどうかは、前述のように行者の手にある幣束が大きく上下するので分る、不十分の時はこれが動かない。神がのりうつらないのである。精神統一不十分の時は危険であるから勿論行は出来ないし、又剣や火に穢れがあると間違いが起りやすい。
鎌形の長島一郎氏から借りた名刀を使った時、刀をふみかけてどうも気持ちが悪い電気にかかったような感じをうけた、後で長島氏にこのことを話すと、それはおそらくこの刀で野犬二頭を切ったことがあるが、それを清めてなかった為だろうと答えたという。
又ある時、玉川の田中文治氏の〝村正〟借りたことがあったが、流石に抜けば血を見る村正だった。梯子の昇降中腕を刃の先にぶっつけて怪我をした人があったという。又ある火渡りの時、火を渡って内田虎吉氏の庭の東端に達した時、二歩ばかり熱さを感じた。あとで聞くと、そこは堆肥をかたづけたあとの汚れが残っていた為だという。
西沢さんは、小川警察へ二度も呼びつけられ、この神事が人体に危険であり、且つ、人心を惑わすものとして、警告を受けた。又、玉川の巡査部長の臨検もあったが、部長はこの神事の崇高な空気にうたれ、却って感心して帰ったという。
これは世間一般常識の及ばぬ世界である。而して、それが現実に存するのである。
『菅谷村報道』135号(1962年7月5日)
小柳通義氏が本村を訪れたのは昭和三年(1928)初夏の候。六十歳の頃である。
小柳氏は明治の漢学者根本道明博士の弟子で、漢学の権威として当時の学界に重きをなし、一高、慶応等の講師に聘されたが、辞して受けず、専ら野に在つて、漢学の研究に一生を委ねた。
この小柳氏がある日、浄瑠璃、鎌倉三代記(紀海音作)を読んで、畠山重忠の行跡と武蔵国小衾郡菅谷の館の件りに逢着。懐旧の念禁じ難く、その遺蹟を探ねて、本村を訪れた。 駅頭に立った小柳氏は、先ず、畠山館蹟を訪ねて、山王沼を経、現小学校敷地を貫く村道から城に入ったらしい。この時沼に辺りで現村議根岸巷作氏の家人に道を問うたことが、後日明らかになった。根岸氏の家人が沼で養具を洗っていたというから、小柳氏の来村は、丁度今頃若葉の薫五月の初めであったと思われる。
その当時、武蔵嵐山は、根津嘉一郎氏により「新長瀞」の名で、漸くその風趣が、都人に宣伝され出した頃、小柳氏は、更に新長瀞探勝を思いついたのであろう。ここにゆくりなくも、小柳氏と関根茂良氏の邂逅が起った。
昭和六年(1931)、庄田友彦氏が現在の嵐山道路を開くまで六角堂下の川沿いに僅かに魚とりの通う仄路が新長瀞に続いていた。これを辿るには関根氏の前庭を過りその西側の谷から川岸の道に出る外はない。小柳氏は剌を通じて関根氏邸内通過の許可を求め、恰も在宅の関根氏に、菅谷村探訪の意を語った。斯うして、小柳関根両氏の交りが始ったのだという。
この年(1928)十一月十日、今上天皇御即位の大礼が行われた。当時在郷軍人分会長であった関根氏は上京してその式典に参列し、その帰路、日暮里の宿に小柳氏を訪ね、ここで、重忠像建立の議が決したのだという。
もと重忠館趾については大正十二年(1923)県知事から百三十円の助成を受けて畠山重忠菅谷館趾史跡保存会(会長山岸徳太郎氏)が結成され、その保存に務めていたことは、重忠像下の碑文で明かであるが、像建立の趣意を述べたものは、像近辺の碑文に残されていない。
像落成の昭和四年(1929)の秋日、「忠魂義胆懐武士道」の頌德詩一篇が小柳通義氏の手に成り、銅板に刻まれて、像の傍に建立されたが、戦後心なき輩により、この銅板は盗み去られた。然し幸にその詩文の原文は、中島喜一郎氏が蔵せられ現存している。(本誌[菅谷村報道]第八十五号所掲)
農士学校を相して、東方主事長の一行が来村したのはこの昭和五年(1930)の夏、(前号で四年の秋としたのは誤り)これ又、中島喜一郎氏の蔵する「日本農士学校建設秘誌」によれば、「昭和五年七月十三日、菅原茂次郎を伴い……味爽萬居出て、東上線を武州松山駅に下車し……転じて菅谷駅に下車し……遠山越の隧道上高地に立って東方を瞰下すれば図上旧城址と思しき辺りに白紗の衣を干したるが如く見ゆるものあり、夫れと相距る程遠からぬ地点に、又真白で切り立てたる石塔様のものが見えた。伝々」とある。今、廃懐し去った忠霊塔である。
こうして前号でのべた関根茂良氏の語る、農士学校用地選定の端緒は、秘誌の筆者、東方・氏によって、明かにその裏付けがなされ、紛れない史実として、後世に伝えられるべきものとなるのである。
『菅谷村報道』133号(1962年5月15日)
菅谷地内の、字城と呼ばれる地帯が、鎌倉初期の畠山館址であり、戦国末の菅谷城址である。今その本丸址の中心地点に丈余の角柱が聳え、その正面には「雲山層々、緑水汪々、先賢之風、山髙水長」の墨蹟が、永く風雪の患に耐えて、人間精神の淸深を象徴している。ここはもと日本農士学校・金鶏神社の遺蹟で、学校は終戦に際し、占領軍の接収にあい、次いで国有に転じ、解かれて同窓会の手に移り、日本農士学校の発足となった。この標柱は、その頃解体した金鶏神社の遺材で建設されたものだという。
昭和二十七年(1952)、学校は、県有に移り、県立興農研修所となり、学生は高い教養、美しい品格、広い見識を養い、農業経営の新しい知識技術を習得して、県内各地で農村の指導的人材となって活動し、又、南米の天地に雄飛した。然るに、近事著しい経済発展に伴う、農業構造の改善に即応して、研修所は更に農業研修センターに改組され、昭和六年(1931)日本農士学校創立以来三十年の道業は、ここに大きく改変されるという。
「時は過ぐ、歴史は移る人の世に」而して「真理を究め技を磨き、正義を執りて国のため、世の為に尽くす誠こそ、これぞ宇宙を開く力である」と、農士学校創立者安岡正篤氏が諭し、在野の碩学小柳通義氏は「人道の起点・菅谷城」を説いたという。
高い理想精神に導かれて、重忠の菅谷荘が新しい歴史の上に、どのような歩みを進めるか。これは一切、経世の先覚に委ねて、いまは暫く目を過去に集め、農士学校用地選定の事情を視い、これを記録に留めて村誌編纂の資料に備えんと希う。
さて、農士学校に道縁深い関根茂良氏の談話によれば農士学校の創立は昭六年(1931)これに先立つ四年(1929)の秋[次号で昭和五年の夏に訂正]、元乃木軍参謀で陸軍大佐、当時金鶏学院の主事長であった東方寿氏が学校建設の地を相して本村を訪れた。比企郡内に三ヶ所位候補地があったという。本村ではたまたま遠山地内に山林の売り物があったらしい。一行は、遠山に入り目的の土地を検分したが、ここは険しい傾斜地で、とても、学校敷地の用に適さない。落胆した一行は、空しく帰路につき、道を大平山の山道にとり、やがてその山頂に辿りついた。ここは村内でも有数の、眺望絶景の場所で、眼下には槻・都幾の清流が田野をうるほして遠く地平に消え、森と林に包まれた平和な山村が 眠っている。ふと、目をやると、槻川に沿う緑の木立の中に何やら白いものがひらめいている。はて何ものかと、案内の村人に聞くとこれぞ、新建成った畠山重忠公の像だという。この時像はまだ除幕式が行なわれず、像を包む白の白帛が風にはためいて、東方氏一行の目をとらえたのだという。
東方氏一行は、ここで忽ち重忠公の像を中心とする、菅谷城址の地相に心をうばわれた。何しろ重忠以来の勝地である。東方氏一行が期せずしてこの地に惚れ込んだのも、むべなる哉である。暫くして農士学校の敷地は決定したのだという。日本農士学校を、菅谷之荘に導いた畠山重忠像建立の由来については、明治の碩学小柳通義氏について筆をすすめなければならない。
『菅谷村報道』132号(1962年4月15日)