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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷中学校新校舎建築功労者に感謝状 1950年7月

2009-10-16 22:14:00 | 1950年

   建築功労の三氏に感謝状授与
 中学校舎落成祝賀式に建築に際し特に功績のあった高橋重蔵、的野哲四郎、中島照三の三氏に次の如き感謝状並びに記念品として大火鉢が村長より授与された。

    感謝状
       文教施設株式会社
         社長   高橋重蔵
 貴社は菅谷中学校並附属建築工事に当り、犠牲的価格を以て請負ひ、然も工事施工に際しては極めて良心的にして工事に附随して起る種々の支障に対しては常に沈着勇敢に之を克服し、立派に本工事を完成したことは社長始め貴社関係職員の協力一致の結果であつて、其の心労と努力に対し金一封を贈呈し感謝の意を表する
  昭和二十五年七月二十一日
     埼玉県比企郡菅谷村長 高崎達蔵

    感謝状
              的野哲四郎
 菅谷中学校敷地拡張に当り率先土地を無償提供したことは誠に奇特の行為にして、感謝に堪へない、依つて記念品を贈呈し感謝の意を表する
  昭和二十五年七月二十一日
           菅谷村長 高崎達蔵

    感謝状
                中島照三
 菅谷中学校並附属建築工事に当り専門委員として終始工事の監督に当り本工事完成に寄与した功績は極めて大きく、村民の等しく感謝してゐる処である、依つて記念品を贈呈し深甚なる謝意を表する
  昭和二十五年七月二十一日
           菅谷村長 高崎達蔵

   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学校舎建築費収支概要 1950年7月

2009-10-15 14:59:32 | 1950年

   中学校建築費収支の概要(七月二十一日現在)▼収入の部 総額          321万5568円24銭  内訳 ○国庫補助金       30万0500円 ○村有財産売却代金    97万2500円   村有林立木      95万4000円   青年学校々舎     1万8500円 ○寄付金         77万6657円77銭   菅谷         12万3286円   川島         3万2598円70   志賀         12万6314円   平沢         6万3746円50銭   遠山         2万8010円   千手堂        5万3724円   鎌形         17万6326円57銭   大蔵         7万3315円   根岸         2万1271円   将軍沢        4万3066円   法人         3万5000円 ○繰入金        116万3500円47銭   廿二年度中学校施設費残金              1万3500円47銭   廿三年度中学増設積立金              40万円   廿四年度 同     15万円   廿四年度一般会計より支出              60万円○雑収入(預金利子)      2410円

▼支出の部 総額          308万6709円75銭  内訳○建築費         288万9925円50銭  1.工事費      283万8888円50銭    請負者に渡せる分             238万9117円    村で直営せる分   38万4063円50銭    設計報酬      6万5708円  2.敷地買収費     2万2965円     関根清一     1万円     中島仙太郎      2000円     根岸宇平       2600円     中島喜一郎      2000円     奥野喜蔵       2000円     道路敷地       4365円  3.整地作業費     2万8072円     甘藷代      1万5972円     車代         4600円     人夫代        7500円○事務費          4万3223円  1.委員手当      3万7900円     吉野         8700円     米山         9900円     加藤         7800円     中島       1万0500円     長野         1000円  2.出張旅費        5323円○雑費           15万3561円25銭  1.落成式費用     7万8798円     酒代       4万2000円     赤飯、餅加工賃    1400円     肴折         9800円     するめ        8000円     湯呑み      1万3800円     火鉢         2600円     人夫賃、燃料、其の他 1198円  2.雑支出       7万4763円25銭     委員懇親会費   1万1390円     接待費      1万1324円     地鎮祭上棟式費  1万6966円75銭     現場従業者慰労費 2万3451円     その他      1万1631円50銭

▼差引残額         12万8858円49銭◎支払未済額        15万1885円

▼予算に対する関係  予算総額       324万7800円  収入未済額       3万2231円76銭  予算残額        1万6109円25銭

   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学、新校舎落成へ 1950年5月

2009-10-14 11:53:00 | 1950年

   県下有数の新制中学校舎落成近し
 二六〇万円の巨費を投じて昨年十一月起工した菅谷新制中学校舎は7ケ月間の日子を費して愈々落成の運びをみるに至つた。この校舎が出来上れば新制中学校舎としては県下でも屈指なものとなり、その偉容はわが村の誇りとなることであろう。
 この校舎が優秀なる点は、県の設計者が称讃した様に、骨組みの材料が特別なものを使用してあることで、柱を筋交ひに組み、組合せ点はすべてクランプを用いて、堅固を極め、地震や暴風雨からの災害を防いでいる。トラス張り(合成張り)は平行トラスと共に更に強固なものにしてゐる。耐火設備には仕切りにプラトン、天井にプラスター・ボードを用ゐてゐる。屋根瓦は三州焼の一級品を使つてゐるがこれは小学校舎の屋根瓦と一見似ているが、より強固なもので県下でもこの種瓦を使用している所は殆どないであろうし、東京でも僅に最近出来上つた法務府ぐらいのものである。床板はすべて楢のフローリングを以て作り、室の仕切りには、この附近では使われない三分のベニヤ板で張られ各教室には全部電燈がつくことになる。又各教室の廊下側に壁があるのは黒板の字が光線の具合で光るのを防ぐと共に、廊下を通る人に気を奪われないためのもので、これ亦最新の設備である。以上の観点よりしてこの校舎が完成の暁は県下稀にみる立派なものとなるであろうと思われる。

〔吉野建築委員談〕 予定の竣工期日より遅くれたことは誠に申訳ないと思つております。江部組が設計の割には比較的安い建築費で請負つて努力してゐる点は認めてもいいのではないかと思ひます。この学校が出来上つた場合には県下に於ても有数の学校となると思います。
〔江部組社長高橋重蔵氏談〕 完成期日が大変おくれて村民の皆様方に対し誠に申訳がないと思つております。私としましては初志の希望をこの学校に生かして最後まで努力を続けるつもりでおります。学校が完成した時に村の皆様方からいい学校が出来てよかつたと云われる様に誠意を以てやる覚悟です。尚私の方で建築の際苦心しましたことは設計図面を短時日の間しか見なかつた為予想以上に木材を使用したこと、更に木材の等級を厳密に検査されたことであります。

   『菅谷村報道』2号 1950年(昭和25)5月20日


昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その2) 関根昭二 1950年

2009-08-19 00:09:00 | 1950年

 将軍沢といふ地名は如何なる起原をもってゐるのであらうか。この土地の人々が一般に知ってゐることは、坂上田村麻呂将軍がこの地に留ったからだといふことである。然し、新編武蔵風土記によると「村内二利仁将軍ノ霊ヲ祭リシ大宮権現ノ社アルヲモテ将軍沢ノ名アリト伝」とある。利仁将軍といふのは藤原利仁のことで比企年鑑(松山町比企文化社出版、一九五〇年版)によると西暦九一五年(醍醐天皇、延喜十五年)従四位で武蔵守に任じられ、比企郡の郡家(野本村古凍に居住し、一年置いて九一七年(延喜十七年)には勅命の依り郡家より出兵して下野(栃木縣)の賊徒、蔵宗、蔵安を討伐したが、九二一年(延長元年)-最新世界年表(三省堂発兌、昭和六年発行)によると九二一年は延喜二一年であり、延長元年は九二三である。比企年鑑の年代は多分間違いであらう-比企郡家に歿したので、里人は相寄って此れを将軍塚利仁社に祠った。延長五年(九二七年)、比企年鑑(九二五年)に醍醐天皇麻疹に悩ませられた時この利仁社に奉幣勅願し平癒を祈られた。翌六年に癒ったので利仁社に利仁大権現の勅称を賜った。さうして次の朱雀天皇の承平元年(西紀九三一年)には藤原利仁の館跡に里人が集まって「利仁山野本寺」を創建した。従って比企年鑑によれば藤原利仁将軍は将軍沢とは殆ど関係ないし、土地の人も利仁将軍については何も知ってゐない。又大宮権現社もないから新編武蔵風土記の地名説は疑はしくなる。然し比企年鑑の町村名勝旧蹟めぐり菅谷村の巻には大宮大権現(将軍沢)として「高さ三尺程の塚上にあり、往昔武蔵守藤原利仁此地を巡視の砌(みぎり)此塚に腰掛けて憩しを記念し里人相寄りて権現に祀ると云ひ傳ふとある」が、これは新編武蔵風土記の記事と同じである。私の考へでは恐らくこの大宮権現社は現在の根岸の権現様のことではなからうかと思ふのである。将軍沢には田村将軍社といふのがあるから、土地の人々が信じてゐる口碑の方が正しいのであらう。比企年鑑にも恒武天皇の延暦十六年(西暦七九七年、年鑑に七九八年とあるは誤り)坂上田村麻呂征夷大将軍として第二次蝦夷征伐の途次須江峠北方の沢地に軍兵を駐屯せしめ、此より将軍沢の地名起るとあるからである。この時田村麻呂は塩山八幡に詣でて戦勝の祈願をした。さうして翌延暦十七年(西暦七九八年)蝦夷平定の帰途再び塩山に登って戦勝を報告し、奉礼として壮麗なる社殿を建ててゐる。この塩山八幡は延暦十二年(西暦七九三年)に田村麻呂が征夷副将軍として蝦夷征伐の途次塩山々上に宇佐八幡を勧請したものである。これが後の鎌形八幡となるのである。毒蛇退治の話は第三次蝦夷征伐の帰途(延暦二一年、西暦八〇二年)のことで毒蛇は兇賊の首長だと云はれてゐる。嘗(かつ)て我々の國史にあった須佐の男の命の八俣の大蛇退治も乱暴な兇賊が古代には横行して居たのを英雄が退治して姫を助けたといふ武勇談と考へられてゐる。この当時岩殿山にどんな賊が居たか知る由もないが、岩殿山には不鳴の池軍陣弁財天、物見山雪見峠、龍堂六面憧など田村麻呂に関係する史蹟があり、亀井村にはシトメ山と云って大蛇をしとめた所だと云はれてゐる山などあるからし何かあったことだけは事実であらう。然し笛吹峠の由来は大蛇を退治するために笛を吹いたからだと云ふ説は比企年鑑を見て全く否定された。これによると最初はスエ峠又はウスエ峠と呼ばれてゐた。スエといふ名の起りは現在亀井村に須江といふ地名があるが、その昔(奈良時代今から千二百六十年前)この附近に新羅(朝鮮)から帰化して韓奈末許等十二人が居住し、新羅焼傳へて須恵器(土器)を焼いたことによるらしい。今でも須江、泉井、大橋にはそのかまどの跡があり須江窯跡として縣の史跡に指定されてゐる。最初にこの峠を通ったのは西紀一一〇年(今から千八百四〇年前)で日本武尊が蝦夷征伐に行く時此処から菅谷・八和田を通り児玉に向かってゐる。その後坂上田村麻呂が蝦夷征伐で通り、大同二年(西暦八〇九年)この地の人々は田村麻呂の仮営地を記念して、将軍社を建てた。その後かなり長い間歴史はこの峠を無視し舞台は鎌形、大蔵に移り源氏の兵士達が登場して最も華やかな歴史の一こまを演ずるのであるが、それらのことに就ては後に譲りたい。だがこの間、この峠が全く棄てて顧みられなかったとは思はれない。既に西暦六六九年(天智天皇八年)に慈光老翁は平村都幾山に弟子慈訓、小角と謀って恩師追福もために一宇を建て都幾山慈光寺と名づけ、六七五年(天武天皇三年)には弟子慈訓は恩師の遺訓を奉じ、慈光の悌を模した千手観音像を自ら刻んで都幾山内に観音堂を建ててゐる。大宝二年(西紀七〇二年)に小角は岩殿山に正存院を創り、坂上田村麻呂は延暦二五年(西紀八〇六年、大同元年)に蝦夷征伐戦勝の奉礼として岩殿山に正法寺を再建(養老元年、西紀七一七年、逸海上人が佛法修行の為窓庵を結び正法庵と名づけてゐた)して観音堂以下諸堂外坊六十余院を奉献してゐる。従ってあの巡礼街道は岩殿から慈光寺へ行き来する人でにぎわったことだらうと思うふのである。正安元年(西紀一二九九年)将軍沢三段田が上州長楽寺領となった。かくして将軍社が建てられてから五百三十年の歳月が流れて歴史は再びこの須江峠をクローズアップしたのである。
     『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日


昔を今に・部落めぐりあるき 将軍沢の巻(その1) 関根昭二 1950年

2009-08-18 00:06:00 | 1950年

 菅谷村の北海道と云はれる将軍沢は千手堂、遠山と共に菅谷村で最も自然的環境に恵まれた土地であらう。四方山に囲まれてゐるだけに冬の陽ざしも暖かく、何か文化的に遠い匂ひも感ずるし、それだけに一見おだやかなひとざとにも思はれた。されでも終戦直後は赤旗が大部気焔を挙げたといふことである。戸数は四十三戸、人口は二百五十二人で、菅谷村では少い方から三位、田は十二町、畑は二十四町の耕地面積である【10号の訂正により、田は166町を12町に、畑は378町を24町に、山林原野は667町を、「今のところ不明なるため」削除】。この土地の小字名は中山、西方、八反田、一町田、丸山、三段田、田向、中町、稲荷林、大平、鶴巻、南鶴、高代、上大谷、下大谷、東方、坂上と十七字あることが明治九年(1876)十一月二六日、土地丈量御検査済(小久保恭之介氏蔵)に記されてゐる。その当時の土地測量には縄や紐では伸び縮みがあるといふので、竹を細くけづって間数をとったのださうである。十七の小字にもそれぞれのいわれがあるのであらうが誰も知ってゐそうもない。新編武蔵風土記には小字名としてヲウス塚(茶臼塚ともいへり)といふのがあることを記してゐるが土地の人に聞いても知らないという。ただカネ塚(大蔵地内)というのが山王様(日吉神社)の側にあり、明治時代にこの塚を発掘したところ石碑が出てきたので富士権現を信仰する大蔵の人たちがそこへお宮を建てて祭ったそうである。今カネ塚の由来も石碑の文字も知ることができない。
 大蔵から将軍沢へ行く道にちょっとした橋があるが、これを縁切り橋(大蔵地内)といふ。この附近にはまことに不吉な名が多い。この橋の両側の原(今は畑になってゐるが昔は原であったのだろう)を不逢(アワズ)が原(大蔵地内)と云い、橋を渡って不動坂を上ると将軍沢で、すぐ山王社がある。これを縁切山王と呼ぶ。さうしてこの附近の山林を不添の森と称する。一たん結んだ縁を切るのは難しいがこの縁切山王にお願ひするとうまく縁が切れるといふ話が傳ってゐる。そのため遠く秩父郡の方からも千本旗をあげに来る人もあるという。又、将軍沢への縁談には一切この橋を渡らないことにしてゐるそうである。この地の名物はささら獅子舞であるが、何時代から行はれどうした起原をもってゐるのか不明である。太鼓の張替をする時に皮の裏側に「江戸太鼓師」と書いてあったことから、明治以前から既に行はれてゐたのではないかと推測されるだけである。そのいわれはどうであれ、村の年中行事として伝統的に毎年行はれて来てゐるが、それでも戦争中は二年ほど休んださうである。この地にまつはる伝説として笛吹峠がある。その昔、坂上田村麻呂といふ将軍がエゾ征伐の途次、この地に立ち寄り岩殿山の大蛇を退治したといふ話は私たちが幼少の頃よく聞かされた話である。大蛇を退治するにはどうしたらよいかいろいろ考へたがそれにはまづ大蛇を見つけださねばならない。九十九谷もある谷間のことである。さう簡単に探し出せるものではない。然し蛇は笛の音が好きだということが分ったので、峠に上って笛を吹くことにした。だが笛の音だけではよく分らないだらう、雪を降らせれば蛇の跡がつくから分るだらうといふ今から思へば全くナンセンスな考へが湧いたのである。時は六月一日夏である。将軍の祈りによって朝から雪が降り出した。ために目出度く大蛇を退治することができたという。この物語は真実でないかも知れない。然し今でもこの土地の人たちは旧六月一日の朝には門先で小麦のカラを焚き雪の日の将軍の寒さを暖めてやり、マンヂュウをこしらへて大蛇退治のお祝いをしてゐる事実は見逃してはならないことである。又笛吹峠といふ名の起りも右の様な傅説に基いてゐるのであらう。
 私はある晴れた晩秋の一日この笛吹峠を訪れてみた。将軍沢から亀井村須江に通ずる幅二間ほどの林道は松葉がこぼれ、くぬぎの枯葉が散って歩く度にかさかさと鳴った。焚木でも取ってゐるのか枯枝を折る音が聞える。松とくぬぎの山が幾重にもかさなり、その谷間は田圃になって稲が掛けてあった。松林を抜け坂を上ると道は平になり、行手に石碑が見えた。高さ一米五十糎ほどのこの石碑の表には「史蹟笛吹峠埼玉縣」とあり、裏面を見ると「笛吹峠ハ正平年間ノ戦績ニシテ建武中興関係遺跡トシテ名アリ今回埼玉縣ノ指定ニ基キ菅谷亀井ノ両村之ガ保存ヲ協議シ当所ヲ選ム時恰モ建武中興六百年ニ際ス即チ記念保存ノ為ニ之ヲ建ツ 昭和十年三月 笛吹峠保存会」と記されてあった。私は枯れた草むらに腰を下してこの文の意味を考へてみた。これによると笛吹峠は前の坂上田村麻呂とは何の関係もないからである。正平年間(1346-1369)の戦績であり、建武中興関係の遺跡だとあるが、建武中興は後醍醐天皇の御代(1318-1339)であり、正平といふ年は次の後村上天皇の御代である。従って正平年間の戦が建武中興に関係あるとは思はれないのである。然し吉野町時代にこの峠が戦場になった頃もあったのであらうか。千軍万馬の関東武士達が鎧甲に身を固め、白刃をひらめかして戦ったのであらうか。どよめく人声、乱れる馬の足音、鬨(かちどき)の声、太鼓の音、鐘の響、ほら貝の音、そして劒撃の響と人のうめき声 - それらはこの谷々に轟き渡ったことであらう。だが今聞くべくもなくしのぶよすがすらない。たゞ颯々たる松籟の音とささたるすゝきの揺ぎとちゝたる小鳥の囀りのみである。この峠に生ひ繁ってゐる松やくぬぎはそして道端の小草は古き日の面影を語ることができるであらうか。
 その昔、どこからともなく聞こえてきた笛の音を今も猶秋風の中にささやくことができるというのであらうか。坂上田村麻呂の生きた平安時代は今から千百年の昔であり、正平の代も今から六百年の昔である。樹齢それ程の樹木を見ることができないのは寂しい限である。
 笛吹峠の歴史的意義は更に今後の研究によって明かにされなければならないであらう。この碑の建ってある所は私の今上って来た道ともう一本の道とが交錯してゐる四辻になっている。この道は岩殿観音から平村慈光寺観音へ通ずる道で巡礼街道と呼ばれてゐる。白い脚絆にわらぢを履き遍路笠をかぶった巡礼達が鈴を鳴らしながらこの道を通って行ったことであらう。この道を少し行くと学有林があるが私は亀井村の方へ下りていった。目の前が急に明るくなると、よく開けた田圃が見え稲はすっかり刈りとられてきれいに掛けてあった。藁屋根の人家からは炊煙が上り、大きな沼が鈍く光ってゐた。さうして銀色の鉄柱が果しもなく小春日和の中に続いてゐた。遠く秩父の山波は薄紫に煙り、近くの山は青く或は紅葉に色とられてゐた。日だまりに腰かけてこれらの景にみとれてゐた私は正午近いのを感じて峠を下ることにした。同じ道を帰るのも愚だと思ひ途中の別れ道から左へ降りて行った。もとの上り口へ出ると思ってゐた私は全く見られない光景に出逢ってしまった。左手は丘ですゝきが一面に白くほゝけ右手は松林でその谷間に田圃があり、その向うはスロープをなした畑が続き更に笠山が見えるまことにおだやかな自然の美景である。それは嵐山の如くはなやかではない。云ってみれば素朴の美景とでも云のであらうか。然しこゝは一体どこであらう。田圃に稲を刈ってゐる人に尋ねたらオオガヒだという。オオガヒとは何村ですかと更に尋ねたら菅谷村の鎌形だという。私は驚いて今一度この景を見直してみた。菅谷村にもこんな平和な美しい地があったのかと思はずにはゐられなかったのである。   (報道委員S記)
     『菅谷村報道』9号 1950年(昭和25)11月25日


昔を今に・部落めぐりあるき 序 関根昭二 1950年

2009-05-23 00:03:00 | 1950年

 「國敗れて山河あり」とは東洋の詩人の言葉であるが、げにとこしへに変らざるものは自然の姿のみであろう。清らかな川や美しい山に囲まれた私たちの郷土に過去何千年の間、いかに多くの人々が生き且死んでいったことであらう。さうした人々の生活記録、云はば民衆の歴史は華やかな戦場の武士達の影に消え失せてしまってしのぶことさえもできない。私たちの祖先が、名もなき人々が、この土地で如何に生活し、如何に働いてきたか、さうしてそのやうな時代とはどんな風土であたかは、僅かに年老いた人々の口に語り草として傳へられてゐるだけであり、然も遠い日のことは知るべくもない。だが私たちのささやかな生活の端々に、なにげない言葉の一片に、或はさりげない日常の慣習に、地名や呼名に、年中行事に、更には自然の一木一草に、私たちの遠い祖先の血が脈々と流れてゐるのである。
 今日生きてゐる年老いた人々は、明治の代に生まれた人々ばかりである。でもそれらの人々に私たちはありし日の私たちの村の姿を尋ねることができるであらう。更にはそれらの人々が遠い日のこととして語り傳へられてきた数々の物語を聞くことが出来るであらう。さうして私たちは、私たちの郷土の歩みを云はば歴史の影の部分を知ることができるであらう。かうした歴史の影の部分を記録に留め更にその生活史的意義を解明してみたい念願でこの「めぐりあるき」の企てを起こしたのである。これは一つの「思ひ出の記」である。村人の心の奥底に秘められたささやかな懐古録である。さうして菅谷村の現代的風土記である私たちの郷土の史蹟はすでに多くの研究家によって記録に留められてゐる。だが民衆の歎きや、喜びや、苦悩やがて時の流れという懐古のベエールを通して眺められた時、ただ懐かしい思いを以て甦ってくる民衆の生活史、民俗史は何等残されてはゐない。私たちはかうした私たちの歴史を自らの手によって書き綴って置く必要があるであらう。それは私たち祖先へとつながるものであり、更に私たちの子孫への贈り物ともなるからである。
 私たちは、私たちが、現在生き且(かつ)働いてゐるこの土地を「ふるさと」としてこよなく愛するものである。今回、報道委員会の編輯部がこのやうな企画を建てたのも実に愛郷の心から他ならない。我々は多くの人々がこの企てに廣く協力され、進んで資料と意見を提供して下さることを心から願って止まない。
   一九五〇年十一月二十日   菅谷村報道委員会編輯部
     『菅谷村報道』9号 1950年(昭和25)11月25日


社会教育委員会菅谷部会発足 1950年9月

2009-05-03 13:09:00 | 1950年

   社会教育委員会菅谷部会発足
     結成総会 九月十八日
 「真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじ、個人の価値を尊重すると共に自主的精神にみちた心身共に健康なる国民となる。」ことは、「民主的で文化的な国家を建設し、世界の平和と人類の福祉に貢献」せんとする日本人の大理想実現のために吾々に課せられた不可欠の要件である。そしてこのやうな国民の育成には単に学校学園に於てのみならず、家庭でも社会でも、凡そあらゆる機会に於て、努力が傾けられなければならない。本村では昨年十一月社会教育法に基いて社会教育委員会が設置されたが、まだ研究の段階にあって具体的な活動に移って居ない。そこで今度福田、宮前、七郷の三ヶ村と提携し、大いに此の委員会の活動を促進、強化することになったから今後の活動は期して俟つべきものがあると思ふ。
 四ヶ村連合会結成総会は秋晴れの九月十八日菅谷中学で開催された。四ヶ村委員は、来賓に村長、議長、比企郡連合会長、教育委員会出張所長、教育委員会社会教育課長等を迎へ、会則の議定、会長及び役職員の選任等の日程を終り、夕刻より懇談会に移って盛会裡に散会した。因に本村の社会教育委員は次の諸氏である。

 田幡順一、新藤義治、番場高一、福島楽、高崎達蔵、吉野賢治、田幡林太郎、関根茂良、福島新三郎、内田喜雄、杉田寅造、松崎五郎、小高正文、吉田熊吉

     『菅谷村報道』6号 1950年(昭和25)9月20日
※社会教育委員は1949年(昭和24)6月に制定された社会教育法により、菅谷村では同年11月に委嘱された。松崎、小高、吉田各氏は村内小中学校長である。


鎌形の農事研究会「みつち会」結成 1950年

2009-05-01 09:29:00 | 1950年

   「みつち会」支部結成 -若い篤農家で-
 「農作物と話が出来るやうになった。」と説かれる土の人丸木長雄先生の主宰する「みつち会」の支部が村の若い篤農家によって結成された。メンバーは次の諸氏である。
 中島金吾、内田稔、中島一雄、簾藤甲子治、岩沢康雄、吉野勇作、岩沢茂雄
 中島金吾君はその抱負を語る。「戦後に於ける異常な経済情勢から農村にも種々農業経営説が流行し、色々の研究会などが出来たが余り永続しなかった。吾々は丸木先生の指導の下にあくまで土と取組んで、地味ではあるが極く着実な経営を続けて行きたい。そこに又経営の新境地が開けて来ると信ずるのである。」と
     『菅谷村報道』1号 1950年(昭和25)4月20日

※丸木長雄氏には『甘藷栽培精説』(八雲書店、1945年)、みつち叢書『馬鈴薯の高度栽培』(生田書房、1949年)、同『稲』(みつち出版部、1954年)等の著書がある。


比企郡下初の菅谷4Hクラブ発足 1950年1月

2009-04-21 14:28:00 | 1950年

   比企郡下初の菅谷4Hクラブ発足
      会長に長島宗作君
 「4Hクラブ」というのは、一般の人には耳新しい言葉だと思うが、此のクラブはアメリカで発達した農業普及制度の一部で、各の指導者が中心となって、青少年を指導する組織で、三十五年前から「スミスレバー法」に依りアメリカでは立派な成績を挙げてゐる。
 我が国でも昨年度から普及制度が始められ、十才から二十五才迄の青少年を対象として、改良普及員が中心となり、村長始め村の各種関係団体幹部、農業改良普及員が協力者となって、青少年の、男は農業、女は家事の年に一つ以上の課題を選んで研究し、社会のためになる様な事業のやり方を教へ、会合の運営方法、事業計画のたて方を訓練し、これ等の仕事を通じて共同精神を養ひ、責任観念植付けて、将来立派な社会人としての人格を涵養し、技術的にも教養を高めて行く、云はば社会教育を自主的訓練に依って行うことを本来の目的としてゐるもので、次代の民主的農村経営者を作る自己的訓練(ママ)の組織である。
 このクラブの信条は、

一、頭脳HEADの訓練をして、物事を考え計画し分別する力を養う。
二、心HEARTの訓練をして、親切で同情心に富み誠実なる人となる。
三、手HANDの訓練をして、他人に役立つ有用で優れたわざを磨く。
四、健康HEALTHの訓練をして、人生をたのしみ病気に打ち勝ちそして仕事の能率を上げる。

 4Hとはこの頭脳、心、手、健康の四つの英語の頭文字をとってつけられたものである。
 本村に於ては菅谷七郷地区が4Hクラブのモデル地区に選ばれた為に、岡部農業改良普及員及び農業改良委員等有志の援助に依り、比企郡下の町村に先んじて一月二十三日菅谷中学校庭に於て県農業改良課長出席の下盛大な発会式を挙行した。その組織及び役員は次の如くである。

・会長
・副会長
・支部委員
 川島、菅谷、平沢、千手堂、鎌形、遠山
・部長
 農業部長、文化部長、体育部長、家庭部長
 青年部長 クラブ会員(二十五才まで)
・書記
・会計
 中学部長 中学部 クラブ会員
 菅谷小学部長 菅谷小学部 クラブ会員(小学五、六年生)
 鎌形小学部長 鎌形小学部   〃      〃

 会長長島宗作、副会長大野角造、青年部長吉野栄一、農業部長儘田弘三、文化部長山下賢治、体育部長内田満、書記大野昌三。

 長島会長談=此のクラブは今迄の青年組織たる奉仕的青年団とは異なって総ての事業を自主的に運営し、男子は農業経営の改良に、女子は農村生活の改善に其の研究目標を選んでゐるのが特色であります。本年一月二十三日発足以来、数次の委員会を開催し、会の組織の強化並に食糧増産の方法、農業経営改善について討論を続けて今日に至りました。今後は尚一層会を強化して、皆様の御期待に添う様努力致します故、村民各位には「クラブ」の目的を好く御理解下され、御指導を御願致します。
     『菅谷村報道』1号 1950年(昭和25)4月20日


千手堂青年部、農産物品評会を開く 1950年12月

2009-04-19 00:20:00 | 1950年

   千手堂青年部
     農産物品評会開く
 十二月九・十・十一日の三日間にわたり、第三十七回農産物品評会並びに第一回児童学芸品展示会が千手堂青年部主催によって同里仁堂(公会堂)に於て催された。穀菽(こくしゅく)・蔬菜・園芸等各般にわたって二五〇点の出品を見、特に今年は白菜・甘薯の品質に飛躍的向上が見られたが、根菜類は昨年度に劣る傾向がうかがはれた。優良品二〇点を選び、夫々に実用的佳品(籠・熊手・笊)等を與へた。尚今年は同青年部試作地で落花生の新種八種を栽培し、種子用として驚異的廉価で販売し、民から心からの喜びと感謝とを受けた。児童学芸品の出品は一〇七点で金銀赤賞をえらび。各々に佳品を與へた。民、老も若きも、眼をほころばし、更に他からの参加者も加へて延八百人の盛況ぶりであった。尚此の品評会の運営資金は、一反歩の青年部試作地の農産物売上げ金を主とし、理髪其他青年部の奉仕的事業による収入によってまかなはれた。
 同青年部長瀬山節男君は次の如く語った。
 「大正二年(1913)以来、三十七回の回数を重ね、持続出来ましたことは、民の強い後援があったればこそです。若い青年達にとっては、他の青年達が自由に遊んでゐますのに、会場作り、受付け、審査、あとかたづけと仲々大変ですが。多くの人々に喜ばれたことは、やり甲斐を感じます。農産物の品質の改良と共に、青年の試練の行事として、漸進的に発展を期し度いと存じます。」
     『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日

※穀菽(こくしゅく):穀類と豆類。


菅谷村社会教育委員、高坂村公民館を視察 1950年10月

2009-04-18 23:26:00 | 1950年

   公民館設置運動具体化
 予(かね)て懸案中の本村公民館設置運動はいよいよ具体化して来た。村文化運動の一翼として公民館の設置は早くから村民の間に要望せられていたところであるが、これに呼応して本村社会教育委員は去る十月十二日、高坂村公民館を来観した。委員拾数名、あらゆる角度から同村の公民館を研究し、公民館の設置、運営等に関する基本的資料を得たので、これ等を参考として愈々本村の公民館設置に乗出すことになった。
 因(ちな)みに公民館といへば、誰でも一応独立の立派な建物を連想するが、建物は決して必須条件ではなく、役場の会議室のやうな所を利用しても、充分その機能を発揮出来るのである。即ち公民館の行ふ事業は定期的な講座を開設したり、討論会、講習会、実習会を催したり、図書等を備へたり、体育やリクリェーション等に関する集会を開くことなどであるから、村内に存在する集会場、広場、神社、寺院等を利用してうまく運営すれば、特定の建造物を設備しないでも、立派にその目的を達成することが出来るのである。
     『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日