往時足利のを懐古すると関東管領時代の名将に太田道灌と云う人があった当時都に上ぼり時の帝に「武蔵野は。」と問われて、「露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原」と答え「武蔵はかるかやのみと思ひしにかゝることばの花や咲くらん」と帝を感嘆久しうさせたと云うこの名将道灌は関東の地に江戸城等を築城した。昨年はその五百年祭が東京で行われた事は記憶に新らたである。当時関東管領は扇谷上杉と山内上杉の両上杉にわかれていたが道灌は名実共に両上杉の棟梁であった。この道灌が糟谷の館に五十五才を一期に讒死(ざんし)したあとの両上杉は相共に兵をあつめてその覇を争い武蔵、相模の間に小合戦を現出した。この合戦の中にこゝ菅谷の原の合戦がある。即ち扇谷定正の嫡子朝良、相模扇谷を本拠とし江戸河越岩槻を従え道灌の家臣であった斉藤加賀守を軍奉行として長享元年(1487)十一月武蔵菅谷の原に山内上杉顕定と対陣したその時戦乱の巷に諸将の陣営を廻った漆桶万里の詩文集である「梅花無尽蔵」には、菅谷に扇谷上杉方の武将太田源六資康の陣営があり長享二年(1488)六月十八日には両軍大合戦あり戦死者七百余人、馬たおれるもの数百と書いてある。
こゝに書かれた武将太田資康が道灌の一子で菅谷城はすでにこの時資康の手で改築されていたものと思われる。こゝに見えし武蔵武士は戦場の閑に詩歌念に身を寄せて武夫のおくゆかしさを歌に託す色も香もある風雅の人であった。
この武人も合戦にあっては「恥かしからん敵ござんなれ」とその武勇を競う人となったのである。そしてこの仰ぎ見た大手門を馬に打ちまたがって討って出たものと思われる。
菅谷原の戦は先に家職の事により両上杉に反抗した長尾景春が扇谷定正に附属して働いている。朝良が一時敵襲に敗れて退く際山内顕定父子の軍再び横より攻め立て将に危ぶない時、父定正左右に命じて朝良を援けさせた程で非常に接戦であったといわれている。
治乱興亡は夢ににて世は一局の碁の如く*この両上杉も小田原北条氏の為に衰亡し武蔵の国は世変り人変り早雲謙信、信玄の戦場となった。私の生地信濃も謙信、信玄の川中島の決戦の歴史を刻んだ。後北條氏は秀吉の征服する所となり浪花の夢は二代にして消え德川氏十五代の基礎、江戸城に築かれた。「功名なんぞ夢のあと」はたして人の世で消えることのないものは何であったろうか?
懐古は無限に続く。地球には年令はないが人の世は刻々とその歴史を語っている。
菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月
*:三上卓(1905-1971)の『昭和維新の歌』(別名・日本青年の歌)(1930)の一節か。
汨羅の渕に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
権門上に傲れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷を思う心なし
ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶の桜花