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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

桑園反収埼玉県一の吉田・藤野守一さん 1968年

2009-12-07 16:53:00 | 1968年

   研究心と努力の桑作り
     比企郡嵐山町大字吉田 藤野守一(38歳)

 ○藤野さんの住むところ
 比企郡嵐山町七郷地区に入ると周囲の山の状況が急に変ってくるのがひと目でわかる。丘陵といっても山は高く、傾斜は強い。そしてくずれ落ちた山肌の色は赤い。この地方特有の粘土質が露出しているからである。
 昭和42年(1967)度、県養連主催第20回桑園多収穫競技会で1等1席に選ばれた藤野守一さんの家はこんな地形のまんなかに建てられている。この辺には谷が多い。谷にそって人家が立ち並んでいるのだが、藤野さんの家も山ふところに抱かれるように母屋、蚕室、納屋、ビニールハウスなど、見るからに大養蚕家らしい風貌をととのえ丘陵高台にある。
 家族は藤野さん夫婦、70歳の坂を越した両親、こども4人の8人である。家族の人たちは山村に住む人のよさ、温和さという印象が訪ねる人たちの肌に感じられるのが第一印象で、山村比企丘陵にはぐくまれた鷹揚さに溢れていて気持が良い。

 ○悪条件のなかの多収穫者
 1等1席の養蚕成績は10アール当り230.32キロで、条件の悪い土地、複雑な地形を克服した桑園多収穫者として注目された。と云うのは今まで競技会の上位を占めた人達は土壌の肥沃な地方に限られ、家の周囲に大部分の桑園を持っていると云う好条件がその成績を大きく左右していた。養蚕の移り変りは養蚕意欲の程度によって規模拡大へと多収穫好成績者が変化したものの、土壌条件は決して悪くはなかった。藤野さんが1等1席を獲得したのは、こうした意味で意義深い。

 ○守一さんのおいたち
 藤野守一さんは、今働き盛りの専業養蚕家である。
 守一さんが本格的に養蚕に取りくんだのは、家の経営をまかされた、昭和38年(1963)からだから、まだ6年しか経ていない。この間に繭生産量を倍以上にふやし反収埼玉県一、村内多収繭者の第2位に到達したのである。この事だけでも守一さんの努力がうかがわれよう。
 守一さんは村の国民学校を卒業するとすぐ、入間郡鶴ヶ島村の農事講習所(現在の農業経営伝習場)に入所した。昭和20年(1945)のことで1年間の講習生活は、殆んど実習、勤労奉仕で、みっちりと農業の実際をたたきこまれ、帰村後は、父母をたすけて農業を行なうことになったのである。

 ○蚕業青年研究会と藤野さん
 しかし守一さんの家の経営面積は決して広いほうでなく、代々が建具職と兼業であったから、守一さんも10年ほどは、冬期間大工やら建具製作に従事して農業は繁忙期の手伝い位であった。しかし蚕業青年研修や村の農事研究会に参加して研修をおこたらなかった。蚕業青年研究会に入会した守一さんは先づ養蚕簿記の記帳、村の中堅青年として、村の産業である養蚕をどのようにして発展させるかなど、研究会員として種々なプロジェクトをつくって研究した。研究会員として栃木、福島など養蚕の先進地といわれる地方を、また県内養蚕篤農家など訪問して桑園づくり、省力養蚕など視察した。現在藤野さんの桑園の中で最も能率的な主力桑園も栃木式の無挙中刈桑園を応用したものである。

 ○寡黙の人、守一さん
 守一さんは極めて温厚、篤実で寡黙の人であるが、その意見は実際の経験をもとにしているだけに体験発表会等では人をして耳をかたむけさせる力が強いし、蚕業青年研究会等の中心として会の運営にも他の人の信頼を得て地区の発展に大きく寄与しているのである。
 守一さんが一家の中心となってから、経営を切りかえ、木工関係を余技とし、すべてを養蚕の拡大にふりむけてきた。すなわち桑園の改植、中刈多挙仕立の採用、専用桑園の設置、落葉利用による土壌改良などによる生産力の増加につとめており、地味ではあるが着々と効果をあげている。

 ○努力で生産をあげる
 藤野さんの経営は決して派手ではない。大面積に新植して一挙にのびようとするのではなく、土地の生産力を最大に発揮させるゆき方である。
 これは藤野さんの住む嵐山町吉田の地域にもう桑園造成の余地が少ないことにもよるのであるが、面積当りの多収穫を上げて行く経営方針は土地の広さに制限のある多くの農家の場合にも容易にとり入れることの出来るごく基本的な方策である。
 ただ、多くの場合色々の対策が継続して行なわれなかったり、又は色々の技術が総合的に行なわれないのであるが、藤野さんは着実に、地道に各種の技術のつみかさねを行ってきたのである。平凡な技術のつみかさねで非凡な経営にしたのが、特色なのである。
 しかし面積あたりの収量増加もやはり限度があるため、すでに幾人かの仲間と共に所有山林を開こんして集団桑園を造成するよう話合いが進んでおり、共同飼育所の建設と共にさらに養蚕の拡大を行ない、次は1,500kg収繭を目標として努力してゆきたいと語っていた。地域青年農家の推進者として活躍され1日も早く目標を達成されるよう期待している。

 ○経営の概況
   1.家族構成と農業従事者
   2.耕地
   3.主な農業施設(含農機具)
   4.作付面積、家畜の飼養頭羽数
   5.農業所得の概要

   埼玉県農業祭開催委員会『若い農業経営者の群像』1968年12月 89頁~90頁


酪農の生きる鎌形・長島崇さん 1968年

2009-12-06 16:02:00 | 1968年

   酪農に生きる
     比企郡嵐山町大字鎌形 長島崇(31歳)

 景勝地で知られている武蔵嵐山の清流槻川に沿って比企郡嵐山町大字鎌形のがある。付近の山々は紅葉で染まり美しい風景を槻川の流れにうつし都会では味わえない農村の良き風景をえがきだしている。
 この地方は山間山添地帯で比較的経営規模が小さく古くから養蚕の盛んな所である。米+養蚕の農家が多く、ついで酪農、養鶏が盛んである。近年畜産については専業化の傾向にあり飼育頭羽数も多く大型化してきている。
 ここで紹介する長島崇さんも酪農に情熱をもやし誇りをもって打込んでいる1人である。経営内容を紹介する前に彼長島崇さんの生いたちから記してみよう。

 ○蜂に刺され皆勤賞を逃す
 昭和12年(1937)4月22日比企郡嵐山町(当時菅谷村)大字鎌形に父実、母まんさんの農家の長男として生れる。昭和19年(1944)小学校入学、25年(1950)3月卒業。小学6年の夏、蜂に顔を刺され友達に顔をみられるのがはずかしく1日欠席する、その為皆勤賞をもらえず後で残念がる。その時中学では頑張ろうと心にきめる。25年4月中学に入学、級長になる。「まじめによく勉強するがおとなしすぎる」担任の先生のいつもの批評である。38年(1963)中学卒業、小学校で逸した皆勤賞をもらう。何事も努力である。

 ○農業に生きる喜こびを感じる
 高校卒業後農事にはげむ。農村に生れ土に生きる喜こびを感じ自分の生涯に一番幸福をもたらしてくれる職業は農業以外にないと心にきめる。昭和32年(1957)県外の酪農家に2ヶ月間研修にいく。この頃より農業に自信と喜こびを強く感じる様になる。33年(1958)成人式「ゆたかな農業生活をめざして」という題で未来の農業経営について発表。全国大会に出場する。
 34年(1959)12月NHK青年の主張に出場、関東甲信越大会に二位に入賞。この頃牛も4頭になり酪農経営に益々希望がわいてくる。

 ○経営の内容
 家族は8人(内子供3人)で労働人員は2夫婦であり、労力の基幹は長島さん若夫婦であるが、父親が昨年(1967)4月より町の農業協同組会長に就任され、現在は労働人員3人であり、労力換算にすると約2.5人である。酪農以外は水田13a、桑園20a耕作している。普通畑の200aは牧草の作付であり、若干自家用そさいを作付する程度である。桑園20aは年間養蚕80gの掃立で25~30万円の粗収入をあげている。養蚕経営については母親が中心である。
 経営の主体は酪農で別表の如く搾乳牛16頭、育成牛4頭を飼育し農業施設も、牛舎2棟、堆肥舎、収納舎、養蚕鉄骨ハウスと整っている。農業機械としては、20馬力のトラクター、運搬用自動車等があり、その外多くの農機具があり、近代的農業へと進みつつある。
 牛乳生産量は年間8万㎏から8万5千㎏だし200aの畑には計画的に牧草が栽培され、飼料の自給化がはかられている。
 昨年の酪農所得をみると約138万4千円であった。その外稲作、養蚕の所得を加えるならば150万円以上になるだろう。目標としている自立経営の代表的農家ともいえる。

 ○経営の概況
   1.家族構成と農業従事者
   2.耕地
   3.主な農業施設(含農機具)
   4.作付面積、家畜の飼養頭羽数
   5.農業所得の概要

 ○農事組合法人設立
 本年(1968)春、普及所より農事組合法人の話を聞き、酪農事業による法人化の必要性を知り、普及所、コンサルタント協会の指導及び役場の協力により資本金320万円で農事組合法人設立に踏切る。8月26日農事組合法人南原農場が誕生した。(南原とは現在地の地名である)
 組合員は5名で代表理事が長島さん、両親が理事、奥さんが監事に就任、妹さんも組合員である。搾乳牛は現在の倍の30頭を目標に飼料作物の計画的栽培、糞尿処理の問題等いくつか事業計画にのせ問題解決に努力している。

 ○農家に嫁いだよろこび
 一時はサラリーマンの奥さんを夢み、出来ればサラリーマンに嫁ぎたいと思った事もある。「自分の仕事に誠意をもって働ける人は幸せだ。どんな職業でもその仕事に心身共に打込んで努力すれば喜びは必ずその中に見出せる。与えられた道を精一ぱい生きる事が大切」。学生時代に読んだ本の一節であるが、その頃から心身共に打込んでやれる職業―農業をやろうと心にきめ農家に嫁いだと、その喜びを奥さんはこう語ってくれた。
 本年10月1ヶ月間、商工会青年婦人の船で東南アジアの視察に参加し大いに見聞を広めてくる。職業の違う人達と接しお互いの職業を理解し合い特に農業を他産業の若者達によく知ってもらうには良い機会と思い参加した。
 酪農を始めてから泊りがけで家をあけた事がなかった。1ヶ月牛からはなれるのはつらかっとと言う。しかしこの視察も何らかの形で今後の酪農経営にプラスになるであろう。
 又これ以上に大きな意味があったのは奥さんが長島さんの留守を守り、搾乳其の他、管理一切をやりとげた事であろう。長島家の一員となり数年、りっぱな酪農経営者になったことを示した事である。酪農経営も技術だけでは向上しない。よき片腕となって協力してくれた奥さんがあったからこそである。
 農事組合法人になってから3ヶ月家族全員いや組合員の活躍を期待してお別れする。  (村田記)

   埼玉県農業祭開催委員会『若い農業経営者の群像』1968年12月 31頁~32頁