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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

町の今昔 狂歌師元の杢網のこと 長島喜平 1968年

2010-12-15 17:49:00 | 杉山

 天正軍記という古い記録に、大和郡山城主筒井順昭が病死して、嗣子の順慶が幼少だったので、遺言により順昭と声のよく似た木阿弥(もくあみ)という盲人を、薄暗い寝所において、順昭の病気と見せかけ、順慶が成長ののち、木阿弥は元の一盲人の身になったという故事より、元の木阿弥とは、一度は素性に似つかわぬほどの栄革の身となった者が、もとの素寒貧になってしまうことで、元通り無一物になることをさしていう。
 もとより狂歌師や川柳師は、諧謔なペンネーム(作名)をつけたもので、元杢網(もとのもくあみ)も、またその例にもれない。
 彼は江戸末期(天明~文化)の狂歌師にて、杉山の金子氏の出である。
 文学辞典などによると、本名は渡辺正雄とあるが、郷里では金子喜三郎といい、杉山の金子長吉氏の三代前であるという。
 屋号は大野屋と称し、別号落栗庵、画号は嵩松とも言った。
 享保九年(1724)に生れ、文化八年九月二十八日(1811)八八才にて歿した。
 江戸京橋北紺屋町の湯屋の主人で、画を高嵩谷(こうすうこく)に学び、杉山の薬師堂等にその絵を残した。
 天明の頃、四方赤良(よもあから)等と狂歌をはじめ、狂歌堂真顔、蜀山人、宿屋飯盛等と共に有名を馳せ、その道の大家となる。
 門人には裏堀蟹子丸、馬場金埒などをはじめ多くいた。
 寛政三年(1791)、発心して藤沢遊行上人の弟子となり、珠阿弥と号し、京都・摂津に遊歴し、大和吉野に仮住いしたこともあった。
 老後、芝久保神谷町に転居し、更に向島水神の森に閑居したこともある。
 とにかく三昧の生活をすごせたのは、湯屋を経営し経済的にはめぐまれていたのであろう。
 妻は本名すめといい、知恵内子(ちえのないし)と号し、知恵のないこであるというような意味があるらしい。共に狂歌をなす。
 墓は金子家近くの墓地にあり墓石の表面に
  落栗庵元木網
  芳春院円誉妙栄大師(妻)
とあり、墓石の右側に、
  あな涼し浮世のあかをぬぎすてて 西へ行く身は元のもくあみ
と言う辞世が刻んである。
 元木網の狂歌には、
  筒いつついつも風あり原や はひにけらしなちと見ざるまに
 なを、徳和歌後方載集の中に、
  又ひとつ年はよるとも玉手箱 あけてうれしき今朝のはつ春
  きさらぎも杉菜まじりの菜の花の さきてはくはぬ口なしの花
などと数歌がある。
 また同じ狂歌集に、知恵内子は
  通りますと岩戸の関のこなたより 春へふみ出すけさの日の足
  さほ姫の霞の衣ぬひたてに かゝるしつけのをがわ町哉
と、これまた数歌ある。
 天明新鐫五十人一首吾妻曲狂歌文庫の補遺として古今狂袋がありその中に、もとの木網と知恵内子がのっている。
 もとの木網は、また元黙網とも杢網ともかき、新古今狂歌集、狂歌師細見、浜のきさご(まさごではない)などに多くの狂歌や狂歌集を残し、狂歌によると国学の素養が、非常に深かったようである。
 墓はまた、東京深川万年町正覚寺にあり、心性院琢誉珠阿弥陀仏の法名であり、実はここへ葬られたという。

   『嵐山町報道』190号 1968年(昭和43)12月5日


菅谷村の歴史散歩 その3 大沢喜一 1967年

2009-05-10 22:40:00 | 杉山

   杉山城 (杉山)
 吉見丘陵の一角、幅広い二つの谷に挟まれて、細長く延びる台地の中ほどを、さらに自然の谷によって前後を断ち切られ、独立丘となった小高い丘にこの城は築かれている。
 南西面は戦国史上に名高い松山城の外郭を流れる市野川上流が、裾を洗って急坂絶壁となる自然の要害地で、その形が雁の飛ぶように見えるところから、雁城の名がある。
 杉山城主については、金子十郎家定、あるいは庄(杉山)主人(もんど)といわれ、『新編武蔵風土記稿』にもその二人をあげている。
 ただ現在見る遺構は明らかに戦国期、それもだいぶ末期のもので、かなり近世的な要素の含まれた中世城郭といえよう*。
 金子十郎家定は、武蔵七党中、村山党に属した人で保延四年(1138)、入間郡金子郷(元武蔵町金子)に生まれ、保元平治の両乱、また源頼朝の挙兵に際しては畠山重忠に従い、それぞれ勇名をはせている。
 庄(杉山)主人は、松山城主上田氏の臣と伝えるのみで詳細は不明だが、武蔵七党中、児玉党に庄氏が見え、『小田原役帳』にも庄式部大輔などが記されているので、その一族中の者かと推定される。
 城は、丘陵の最高所に本丸を置き、それを中心として十個余りの曲輪が取り巻く多郭式の城郭で、面積は二万五千坪に及火、その非常によく発達した縄張りが中世城郭においてはこれ以上望みえないという程の完璧な状態で現存する。真に貴重な遺跡である。
 一方整然と見える曲輪が、実は細心の注意を払った複雑な形で現存し、ヨコヤ等を見事に備えたその曲輪の周囲には、おのおの土塁と空堀がきれいにめぐりそれぞれの虎口(入口)は空堀を土塁によって渡し、しかも食違いなどにより、すべて一直線に入ることなできない等々、まるで軍学書でも見るようで全く興味の尽きない城である。
 大手は東西に開け、そこから内郭部に至る途中には木橋を仮定すると見事な枡形を現出する小郭があり、興味深い。
 城の南側、市の川に面した部分には水の手と言われる泉があり、そのあたりから幾つかの立堀が急斜面を貫いているのが見られる。以上のような要害の適地であるから、鎌倉期に、金子十郎家定がこの地に城を構えたとしても不思議はなくそれは畠山氏との関係からも当然考えられることだがいずれにしても現在の遺構とは全く関係なく、現在見られる極度に発達した近世城郭への過度期のものと見られる杉山城は、その地理的條件(寄居、秩父方面へ通じる街道の押え)からも松山城の支城として、戦国末期に構築され、天正十八年(1590)、松山城の落城と共に運命をともにしたものとみていいだろう。 なおこの城の根小屋的な位置に現在住んでおられる初雁不二彦氏宅には、明治の初めごろまで杉山城の大手門といわれるものが存在したという。(昭和41年7月20日稿)   菅谷村文化財保護委員・日本歴史研究会理事
     『菅谷村報道』171号 1967年(昭和42)3月10日

*杉山城の築城年代については、その後の研究成果を参照のこと。
参照:HP『~未知なる城を求めて~城郭研究ノート』の「★ 城郭探訪 杉山城3(埼玉県嵐山町) 杉山城問題について ★


里やまのくらし 20 杉山

2009-03-04 08:47:00 | 杉山

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  小学校の思い出
 1940年(昭和15)、内田艶子さんは七郷尋常高等小学校に入学しました。一年東組の写真を見ると、おかっぱ頭、いがぐり頭、着物の子、洋服の子、ズックの子、下駄を履いた子、ランドセルの子、肩掛けかばんの子、そしておかけを掛けた子と様々です。三年生まで組替えはなく、四年生から男女別の組になりました。
 1941年(昭和16)、小学校は国民学校になり、太平洋戦争が始まりました。毎月一日・十五日は神社清掃です。登校前、杉山の八宮神社に集まり、石段の下から掃き始めます。神社は兵隊さんが出征時に参拝するので、何時もきれいになっていました。1944年(昭和19)秋、学校で兵隊さんのベッド用に使うためと、ススキの穂を集め、本庄の上武航空機材製作所に送りました。戦争末期には、空襲があったら直ぐに避難できるようにと、廊下や東と西の昇降口で勉強しました。サイレンが鳴ると学校の裏山へ避難しました。戦争が終わり、国民学校初等科から高等科に進みましたが、1947年(昭和22)3月、六・三制の新制中学が誕生し七郷中学校二年生になりました。

  おしどり夫婦の戦後
 中学二年を終えた時、十人兄弟の末っ子の弟が生まれ、子守や家事手伝いのため退学しました。「あかっこがいるから学校に行けない」と、悔しくてなりません。
 十七歳の時ミシンの仕事がしたくて姉の紹介で上京し、縫製店で働きました。東京はまだ焼け野原で驚きました。毎朝、二百円預かり、お米を一升買いにヤミ屋のオバサンの所へ行きます。給金は月千円で、半分は貯金に引かれました。家を継ぐはずだった姉が嫁ぎ、呼び戻されました。その時、二年分の積立金で買ったオーバーコートは、地元ではとても手に入らない程の品で、自分で働いて買ったと思うと誇りに思えました。
 ミシンは使えても洋裁の型紙は作れないので、嵐山駅前の水野今子洋裁学校に通い、近所の人の洋服を仕立てました。杉山の女子青年団に入り傘踊りも踊りました。8月父親が亡くなり、竹沢村(現小川町)の吉田實さん(昭和7年生まれ)と結納を交わすまでの間、働き手は女だけになりました。1956年(昭和31)結婚しました。
 實さんは朝5時起きして、高田馬場駅前のコンクリート会社に十年通いました。浅草寺の屋根のコンクリートの垂木(たるき)は全部取り付けたそうです。家で商売を始めようと、隣組の全員から保証人の判をもらい、農協から五十万円を借りて、1967年(昭和42)内田コンクリートを設立し、万年塀と呼ぶ一間長さの薄いコンクリートの板作りを始めました。1970年代には嵐山町の公共工事を請け負いながら、建築の基礎工事から土建業を段々に拡げ、重機も揃えました。實さんは、仕事の付き合いの酒で体をこわすこともありましが、「やってみて、やらせて、評価する」を若い衆を育てる三原則として先頭にたって働いています。仕事を継いだ長男は、毎日朝食前に、今請けている工事現場を見まわり、その日の仕事の段取りをつけるのを日課としています。
 農業と養蚕に専念し、商売には手を出さなかった艶子さんは、今があるのは實さんと息子のお陰だと感謝しています。人生の試煉は人それぞれで他人にはわからぬものですが、おしどり夫婦のパワーに圧倒されました。
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里やまのくらし 8 杉山

2008-06-12 21:17:00 | 杉山

 杉山の傘踊り
 杉山といえば、傘踊りが有名でした。傘踊りは八木節の節まわしで唐傘や花笠を使った踊りです。八木節は明治から大正にかけて、群馬県太田市の木崎節を原形として堀込源太が完成した民謡です。源太ゆかりの栃木県足利市の八木宿から名前を取って八木節と命名されました。
 傘踊りは、杉山では1915年(大正4)に初演されました。1909年(明治42)、広野生まれの宮田金作さんは自分史『軌跡』(1995年刊)
で次のように回想しています。

川向いの杉山村の青年が、新しい出し物を、薬師様の縁日に奉納すると云う布令(ふれ)が廻ってきた。年寄りも若者もみんな心待ちに待っていた。……踊り子が造花のついた菅笠と唐傘をぐるぐる廻し始めると舞台が浮きあがってみえ全体が風車のようだった。初めてみた八木節踊りは子供心にこんなにも迫ってくるものがあって、今でもあの躍動感は脳裡に深く刻まれている。

 八木節がどこから杉山に入ってきたのかは不明ですが、この時、八木節を演じたのは明治30年代生まれの若者でした。内田菊次、内田金太郎、大野保一、金子長吉、小林年賀さんなどです。

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 この写真は1941~42年(昭和16、17)頃に撮られたものです。傘踊りが初演された年に生まれ、音頭取りで鳴らした内田広吉さんと二十歳前の踊り手たちが写っています。鼻筋におしろいを塗り、市松(いちまつ)模様の唐傘と花笠を持ち、女物の着物を片抜きに着て、たすき掛けの鉢巻き姿です。その後、4名が戦没しています。
 ショイダル(四斗入りの醤油の空き樽)を叩きながら歌う音頭取り、横笛やすり鉦(かね)をにぎやかに演奏する囃子方(はやしかた)、傘を自在に扱う踊り手たち。各パートは世代交代をしながら受け継がれ、「杉山踊連」は各地の演芸会で活躍しました。

 薬師様の縁日
 獅子舞や天王様の夏祭りもない娯楽の少ない杉山なので、毎年旧暦9月11日に行われる薬師様の縁日は大きな楽しみごとでした。その日は薬師堂の横に舞台が立ち、サントミセ(露店)が並び、境内から人が落ちる程、方々から人が集まって来ました。奉納する出し物は谷(やつ)組・上(かみ)組・城ヶ谷戸組・猿ヶ谷戸組・川袋組の五つの組からなる、灯籠組の灯籠番が決めます。浪花節や玉川千鳥(八木原儀三郎)一座の「ぎいさん芝居」が上演された年もありました。
 下は1947年(昭和22)に奉納された青年団演芸会の写真です。舞台には「杉山踊連」と染め抜かれた引幕があり、細い垂れ幕には「杉山演芸□(会カ)」の字が見えます。戦後の傘踊りでは女子団員が花笠の踊り手に加わり、傘はうずまき模様となりました。縁日が近くなると毎晩、積善寺で稽古をしました。

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 大正時代から受け継がれてきた杉山の傘踊りは昭和30年代には踊られなくなりました。杉山ゲートボール「みやま会」の皆さんの話から、八木節に杉山を読み込んだ歌詞があることが分かりました。一部を紹介します。

東は(ひかしゃ)粕川/西は(にしゃ)市野川/中にはさまる杉山村よ

八十ばあさん/豆かむように/ぽつりぽつりと/読み上げまするが/オーイサネ