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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

簡易水道完成で婦人を水汲み労働から解放 平沢・山田巌 1958年

2009-06-20 21:56:00 | 平沢

   水汲みの重労働からの婦人の解放
 平沢といえば「水無し」で通っていた。この「水無し」に一ヵ所清水のわきでる「赤井の井戸」があった。干ばつ時には、六〇戸の中、四〇戸以上がこの井戸水を利用した。もちろんこの井戸はの管理下にあり、春の衛生、秋の衛生の二回、を二分して「井戸かえ」をやり衛生面にも注意されていた。この井戸を利用しない残り世帯とて決してきれいな水ではなかった。井戸のわきを排水が通ったり、田圃の湧水が侵入したりして夏季伝染病も後を断たなかった。
 そこで思いついたのが「文化農村建設は水資源の解決から」ということでこの井戸を利用して簡易水道を建設することであった。役場の係を訪ね、いろいろ補助事業を拾いだしてみたところ新農村建設事業の中に、農村の環境整備事業として簡易水道の敷設のあることが確認できた。
 一九五五年(昭和三〇)を頂点として日本食糧事情は安定需給の方向に向いていたのである。日本農政を左右するケインズ経済学の農業学者、大河一司、川野重任等は、「農協基本法」の地ならしとして農村の環境整備を打ちだしていた。
 さっそくに帰り奥平美太郎君と相談し、「できることならやろう」ということに一決。
 元老格の内田実氏、西光慶氏、内田保治氏らにも話をかけてみんなで協力し完成させようということになり、翌日私の家でその相談をし、内田保治氏を建設委員長として利用者全員に協議してもらうことになった。
 何百年か苦しんでいる問題であり、話はとんとん拍子に進められた。総工費は試算して一二〇万円位、雑費十万円としても一三〇万円であり、一世帯当たり自己負担金は一万二〇〇〇円程度であった。当時農村の労働力は十分あった。自己負担金を水道敷設人夫として一日三百円で労力出費できるものはそれでもよいということにして出費者の便宜ヲはかった。みんな喜んで、労力出費し残額を現金出費とした。
 毎日の監督は、建設委員の輪番制でやった工事は順調に進んだのだがちょうど台風で水源地工事は難航をきわめた。
 請負業者は東村山市の堀田工務店であった。
 堀田工務店も現在では手広く工事をやっているが、そのときはまだ県の指名業者になっておらず平沢の水道工事をきっかけに県の指名業者の資格をとった。まだ当時とすれば水道工事としては大きい事業だったのである。
 平沢の水道完成後大字菅谷地区でも簡易水道工事の話がもちあがり、簡易水道の実現をみたのであり、現在の上水道の前身なのである。平沢の簡易水道工事の成功が本町の全水道の端緒を開いたといってもあながちいいすぎではないだろう。

  湧水に喜ぶ婦人達
 夕方になると幾組かの水汲みの婦人たちが顔をあわす。夕方の水汲みは婦人のその日の日課となっていたのである。
 農業労働にいくら疲れていようと水を汲んできておかなければ明日の朝食が炊けないのである。雨が降ればミノやカッパを来て水を肩で運んだのである。
 水源工事が終わり、ある日の夕方通水試験をおこなった。私たち建設委員は各戸通水状況を見てまわった。各戸とも完全通水。各家庭に喜びの歓声が挙がった。どこの家庭でもご婦人方が「ありがとうございました」と深々と頭を下げるのである。文化農村の建設も水からである。通水のしばらくの茶飲み話は簡易水道の話でもちきりだった。
 近隣町村で「水無し平沢へは嫁にくれるな」ということが長いあいだささやかれていたのである。
 水にまつわる逸話はいくつでもあり、話に事欠かない。赤井の井戸に遠い家では、屋根に降った雨水は全部井戸か池に貯水するようになっていた。
 「ある家で奉公人を二階に寝かせたら下の便所までおりるのが厄介で二階の窓から小便していたので一年中雨水が樋(とい)を通り小便水といっしょに井戸のなかに流れこんでおり、奉公人の小便で食品を洗い、お風呂を湧かしていた」という笑話もある。
 「ある家で草葺屋根職人を頼み、先に風呂にはいってもらったら垢(あか)が体に真黒につき、いくら洗ってもきれいにならなかった」とか。
 「風呂の水は、箸を風呂に立てて倒れるうちは水を換えない」とか。節水にかかわる話はいくらでもある。それだけ水が貴重な存在だったのである。これだけ貴重な水が蛇口一つひねれば自由にでるのであるから、過去を考えれば嘘(うそ)のような話である。
 現在では水は蛇口をひねってだすもののように思われているが、当時の家庭の主婦のほとんどが赤井の井戸から飲料水は肩で運んでくるもの…というのが常識だった。
 この赤水の起源はおそらく平沢寺の全盛時代の閼伽水に起因していると思われる。閼伽水とは(広辞苑によれば)朝、仏前に供える清水のことであり、おそらく井戸の平石等からしても若き僧の寒水の令水をかぶっての修業のための、清水であったにちがいない。
 この清水(赤水)が蛇口一つで全部落にゆきわたるとはいかに賢人といえども予想だにしなかったことであろうと思われる。
 私が水道建設の話で谷の家(やごう)の村田勇太郎さんを訪ねた。相手もその話を察していたのか、勇太郎さんは、「いくらお前が頭がよくも俺の家まで水道は持ってこらねべい」というのである。
 「親爺それは簡単だよ、必ずもってきてみせる。工事はやらせてもらうぜ、もし水がこない場合は工事費はもらわないよ」
 「よし…それならよかろう」というのである。
 「そのかわり水がくれば即金で金はもらうぜ」と冗談をとばした。
 通水試験の日、谷の家を訪ねた。「どうだ俺の勝ちだろう」というと、「たまげた、たまげた」の連発だけだった。
 「とても明治生まれの俺たちには考えられないことだな」と感心するだけだった。
     『山田巌遺稿集』1987年(昭和62)12月 90頁~95頁。新農村建設事業で平沢地区に共同給水施設(簡易水道)完成(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/weblog/2008/08/19583310_bbd3.html)参照。


新農村建設事業で平沢地区に共同給水施設(簡易水道)完成 1958年(昭和33)10月 

2009-06-19 19:29:00 | 平沢

Web

   水なし村に待望の水

     菅谷村平沢で喜びの水道通水式

昔から水なし村といわれ嫁のきてもなく、三十三戸がただ一つの泉の水を使っていた比企郡菅谷村平沢が新農村建設事業のおかげで、一足飛びに簡易水道施ができあがり、二十五日朝からこぞって喜びの通水式を行なった。

同は東上線武蔵嵐山駅から約四キロ、山あいの純農村地帯で、このあたりはどこを掘っても井戸は赤い水で使えず、祖先伝承赤井の池(泉の名)が生活のすべてだった。

水口から一番遠い家は千六百メートルもあり、一日三回木のオケを天ビンにかけての水くみはほとんど女の仕事だった。

“なんとか給水施設を作ろう”との山田村議ら地元民の切なる願いは役場を通じ県、農林省にも届き、県下初の特殊事情が認められて新農村建設事業のワクが取れ、去る九月三日から地元民協力による簡易水道工事に着手、待望の水がこのほどビニールの配水管を伝わって出た。

総工費は百九万三千八百円、一戸あたりの分担金は一万四千三百三十円、あとは村と国庫補助である。

これで平沢の人たちはいままでの水くみの重労働から開放され、若者たちは“嫁さんのきても多くなるから大いばりだ”と冗談を飛ばし合い、八十二才の老婆は“長生きはするものだ、赤井の水で毎日フロにはいれる”と喜び合っている。
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  毎日新聞(埼玉版)1958年(昭和33)10月26日掲載記事


嵐山町の歴史散歩 その5 大沢喜一 1968年

2009-05-12 00:30:00 | 平沢

   菅谷館と太田六郎資康の菅谷陣営 (続き)
 鎌倉時代の名将、平家物語、源平盛衰記、曽我物語などに、板東武士の典型として描かれているが戦後の歴史からはほとんどその名を消してしまっている。
  朽ち果てぬ名のみ残りて恋が窪 今は問ふもちぎりならずや
 この歌碑は熾仁親王の筆で、恋が窪の熊野神社にある。私はかって(昭和二十四年当時)鎌倉街道筋の歴史と伝説をたずね歩いたことがある。その折りに武州国分寺(現東京都国分寺市の恋が窪の傾城歌碑と一葉松に残る、重忠の恋物語に関する伝説を、土地の古老に聞いたことがあるが、いずれ改めて紹介することにする。現在の菅谷城は、後に修築されたため、重忠の菅谷館当時の遺構はわずかで、館址の鬼門にあたる長慶寺跡は、現在の長慶寺山東昌寺であり、寛文年中(1661-1672)に現在地へ移ったと伝えられる。
 太田源六郎資康の菅谷陣営「梅花無尽蔵」に「長享戌申(二年)八月十七日入須加谷(菅谷之地平沢山門太田源六郎資康之軍営」とされている。城主太田源六郎資康は、太田道潅の家督で、道潅の死後扇谷定正の陣営を去り、両上杉の争った長享年中の大乱に鉢形城の前線基地たる菅谷城を預かっていた山内顕定方の武将である。
 その際古い菅谷館址は修築拡大されて、戦後城郭としての型式を備えたものと考えられ、太田源六郎資康が戦国期における最大の築城家太田道潅の息子であったという事実からも考えられることである。長享二年(1488)六月十八日、扇谷定正と養子の朝良の軍勢七百余騎は山内顕定と養子の憲房の軍勢二千余騎と武蔵国須賀谷(菅谷)に対陣して激戦を展開した。須賀谷原が現在の菅谷であることは、鎌倉九代記、北条五代記、太平記などにより明らかである。
 前述の通り菅谷は当時の鎌倉街道の要衝で、武蔵府中、所沢、入間川、坂戸、と北上する鎌倉街道は大蔵、菅谷、平沢を通って奈良梨、高見、用土、児玉を経て藤岡、倉賀野と上野国に達していた。
 鉢形城の顕定は、小川を通って菅谷に出陣してきたのであろう。河越城についた扇谷定正は、北進して伊草坂戸方面より六月十七日には勝呂(坂戸町)の陣に入った。
この須賀谷原の合戦を、膝桶万里(集九)の「梅花無尽蔵」には太田源六郎資康の陣営あり。二年六月十六日には両軍の大合戦がありて戦死者七百余人馬の斃るもの数百}とあるから相当激しい合戦であったろうと思われる。
 万里は資康の父太田道潅の親友で、八月十六日入間郡越生町の龍穏寺(梅園)に道潅の父道真を訪ずねている。須賀谷原の合戦は長尾左衛門入道伊玄の活躍により扇谷定正方の勝利となったが、合戦場となった菅谷は顕定方によって占領されていた。太田源六郎資康はこの前線基地を守る顕定方の武将で、万里は次のように資康の陣営を書き遺している。
 「十七日須賀谷の北、平沢山に入り太田源六資康の軍営を明王堂の畔に問う。今また深泥の中に鞍を解く。各々その面を拝し資康の恙なきを賀す。余すでに暫く寓して去る。明王堂の畔に君の軍を問ふ雨後の深泥雲を度ねるに似たり馬足いまだ臨まず草血を吹く。細看すれば戦場の文を作るを要す」と(「梅花無尽蔵」)。
 雨後の深泥も加わって今だ決戦の余燼生々しい菅谷の地で、親友道潅の子資康の元気な姿を目の前にして、万里は感無量であったのであろう。
 明王堂は、不動明王を本尊とする不動堂のことで、新篇武蔵風土記稿巻之一九四比企郡の九平沢村の条に不動堂、不動は伝教大師作、此像古は平沢寺の本尊と伝えば、当時此地もかの寺の境内なるべしとある。
 万里は太田資康の陣営に、三十六日余り泊っていたらしく、資康は詩客万里と袂別の前夜、九月二十五日には万里送別のために、鉢形城の山内顕定を招き、平沢寺の鎮守白山社の境内で詩歌の会を催うした。(県指定史蹟の碑あり)
 この詩歌会に感激した万里は、「梅花無尽蔵」に曰く、「社頭の月 九月二十五日 太田源五平沢寺鎮守白山の廟に於て詩歌会。敵塁と相対し風雑を講ず。ああ西俗この様なし」と。
 関東武士が敵前で風流をたしなむことに感激しつつ、関西武士にはないことだと万里はいっている。
 菅谷はその後、小田原北条時代に北条方の小泉掃部助が城代となっている。したがって武州松山城関係の支城と考えられるが、明らかでない。菅谷城が前哨的な位置を占めたのは、両上杉の対立時代に重要性があったからで、北条氏の関東制圧の頃は、その価値を失っていたものと考えられる。   嵐山町文化財保護委員・日本歴史研究会理事
     『嵐山町報道』184号 1968年(昭和43)5月25日


嵐山町の歴史散歩 その4 大沢喜一 1968年

2009-05-11 22:45:24 | 平沢

   菅谷館と太田源六郎資康の菅谷陣営
 菅谷城は、鎌倉街道に面し、南は槻川の断崖に接する要害景勝の地である。本条の本丸は、古くは畠山重忠の居城であったが、長亨年間(1487-1489)に大田源六資康によって改修された戦国時代の城郭と化したため、鎌倉期の遺構は一部を遺すのみである。
 形状は平城で、東西は谷を深く区画し、北方は台地に続いている。東より本丸、二の丸、三の丸を配し、東北西の三面は土塁がめぐり、南西の二面と北面の西半分は、土塁の外方に並走する空堀で、東面は自然の浸蝕谷によって固められている。更にその外方の東西二面は槻川に開く内外二条の浸蝕谷により限られている。外側のものは東西両面に対する防禦性を意味し、内側のものは複雑な築城土木工事により本丸北方を三重に、東よりの部分は二重に土塁と空堀で本丸を固めている。
 二の丸と三の丸は東西二郭から形成されていたと考えられ、台地内方に対する防禦性を完全に発揮している。この郭配置が示すものは中世前期の館址でなく、そのグランドプランが単郭、単堀方形館の古い館址を中核として、自然の地形條件を最高度に活用し、時代の要求に対応して各時期の支配者により、改変拡大されて、現存遺構の型式に発展した戦国時代の多郭式平城である。
 城地はほぼ方形で、その面積は十町六反九畝(約107ヘクタール)で、一辺は472メートル程である。大部分は山野水田畑となっているが、遺構はほぼ完全に保たれており、築城史上貴重な城阯として高く評価されている。菅谷城が存する嵐山町は、所謂鎌倉街道の要衝で古くより東国武士団の一拠点として、重要な位置にあった。本城より望む都幾川の対岸、大蔵の地には平安末期における大蔵源氏の棟梁、帯刀先生源義賢(菅谷村の歴史散歩その一)の居館大蔵の館があった。
 菅谷城の歴史も当然鎌倉時代にさかのぼり、本丸の一部は関東の名族として北武蔵の地に威を誇った板東八平氏(畠山、土肥、上総千葉、三浦、大廃、梶原、長田)の一たる畠山庄司重忠の菅谷館として知られた。
 畠山氏は桓武平氏、武蔵守村岡五郎良文の子忠頼を祖として、秩父郡中村郷(現秩父市)に館を構えて秩父氏を名乗り、武蔵総検校職を世襲していた。
 重忠の父は、秩父庄司重能と称したが、畠山の荘司となるにおよんで武蔵国大里郡畠山(現川本村)に館を構えて畠山氏を名乗った。重忠は長寛二年(1164)に畠山の館において三浦半島の豪族、三浦大介義明の女を母として生まれている。治承四年(1180)源頼朝挙兵に際して、父重能が平家に仕えていたために、頼朝攻略に立ち上がった。時に重忠十七才のときである。八月二十六日、一族の河越太郎重頼、江戸太郎重長、村山、山口、児玉、横山、丹綴の諸党三千余騎で、相模国の豪族三浦大介義明(重忠の祖父)を衣笠城に討つ悲劇を演じた。
 重忠の菅谷館を知る資料としては「吾妻鏡」がある。重忠は源家の重心であるから、鎌倉街道の要衝である菅谷の地に館を構えたことは当然であるとしても、その時期は詳でない。
 吾妻鏡文治三年(1187)十一月十五日の条に畠山次郎重忠武蔵国菅谷の館に引きこもり…とあるから 文治三年(1187)には、既に菅谷館の存在は明らかである。又「元久二年(1205)六月十九日小衾郡菅谷の館で」もある。いずれも幕府方の策謀略のためで、この日菅谷の館を出発し、武蔵国都築郡(神奈川県)二俣村に達したとき、即ち六月二十一日の明け方にいたり、重忠の子六郎重保が鎌倉で謀殺されたことが知れた。そのうえに重忠追討の軍勢、北条義時を大将とする葛西清重、千葉一族、足利義氏、小山朝政、三浦一族、河越次郎重時、和田義盛などの大軍が自分に向けられたことを知った重忠は、覚悟を決めて二俣川(現横浜市保土谷区二俣川町)鶴ヶ峰に対陣した。
 この時重忠に従うものは、弟の長野三郎重清は信濃に、六郎重宗は奥州にあったので、二男小次郎重秀、本田次郎近常、榛沢六郎成清以下百三十四騎と言われている。
 両軍火花を散らして戦うこと数刻、豪勇をほこる重忠も遂に申の刻(午後五時頃)に至り、愛甲三郎季隆の矢を受けて、北条時政の陰謀のもとに四十二才の惜しい生涯を閉じたのである。(以下次号)
     『嵐山町報道』182号 1968年(昭和43)3月25日


里やまのくらし 15 平沢

2009-01-14 23:58:46 | 平沢

 今から約70年前の昭和十年頃、平沢でヨッチャン(奥平美太郎さん、大正12年生まれ)、ボウヤン(奥平武治さん、大正13年生まれ)、モリサン(山田森之助さん、昭和3年生まれ)と呼ばれていた子供たちの夏の遊びの回想です。
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  水浴びに行く
 お昼を食べて一休みすると、遊び仲間が集まり十三階段に向けて出発します。十三階段は谷川橋が架かる前にあった遠山と小倉をむすぶ季節橋の下流です。張り出した岩の上に着物を脱いで素っ裸になり、槻川の深みを対岸まで泳いで渡ります。そこには大きな岩があり、一段、一段と手をついてのぼると十三段目がてっぺんです。平沢の子供達はその岩を十三階段と名付けていました。ここから鼻を結んでふかんぼう目がけドボーンと飛び降ります。これが出来るとどんなものだと胸を張り、少し偉くなった気分でした。
 泳げない子は深みにはいらぬように注意して、浅瀬でパシャパシャと水浴びをします。犬かきを覚え、立ち泳ぎや抜き手ができるようになると、向こう岸までどれだけ真っ直ぐに泳げるか競います。川の流れが速いので、力がないとずっと下流まで流されてしまいました。泳ぎにあきると、むぐりっこや水中での鬼ごっこ、魚とりをします。岩の間に手を突っ込んでウロさぐりをしてギギュータ(ギバチ)をつかまえます。体が冷えると岩の上で甲羅干しをしました。少し離れた場所に水面には顔を出さない岩があり、大砲の砲身に見えたのでタイホウ岩と呼んで、またいで乗って遊びました。遠山では、ホウレキ岩、ノゾキ岩、フドウ岩などと名前がついた岩が槻川にありました。
 川で泳げるようになると、近くの大沼で泳ぎました。沼の縁を一周する時は、つかまるものがあるので安心ですが、横断するときは緊張しました。沼の水は重いといって川で水浴びする時より注意するようにいわれていました。

  お盆のころ
 平沢寺は無住だったので子供のよい遊び場でした。墓地のカシノキの張り出した太い枝にフジつるをゆわえて小さな子にブランコをさせたり、ぶら下がって飛び降りました。お盆の時は寺役の人が泊まるので、男の子は一緒に泊まり寺の上にある白山神社で度胸試しをします。寝ている子の腹にこっそり、へのへのもへじを書きました。翌朝、家に帰って朝食を食べ、すぐに川へ行って裸になるといたづらされているのがわかりました。本堂には子供の落書きがありました。
 ヨッチャンが二年生の時(昭和5年)の事です。お盆には小学校の校庭に盆櫓がたちます。夕食を早くすませ上の者と菅谷に出かけました。昼間の遊びの疲れがでて、一足先に一人で帰ることにしました。眠気と戦いながら延命橋まで戻って来ましたが、橋から落ちて足首をくじきました。トウモロコシの芯やヤナギを燃した灰に、うどん粉と卵と酢を交ぜてこねた家伝薬を患部に貼りました。よく効いたそうです。