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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

手白神社縁起(宗心寺蔵) 藤野豊吉 1976年

2009-07-14 00:14:00 | 1976年

 手白大明神は、人皇十七代仁徳天皇の御代、当村西南の方に大池あり。池中より夜毎に光を放ち異香紛々たり。村人深く是を怪しみ、池のあたりに来りて見れば、不思議なる哉(かな)、ひとりの神女池中より現れ給うを見る。人々小女郎弁財天と唱へ奉る。それより池のあたりに村民参詣の度、手の白き神女を見ること多し。依って小女郎弁天を改め、手白大明神と名づけ、その池のあたりより一丁ばかりを隔てた杉森の中に遷宮し、村の鎮守として崇敬し奉る。今に至って氏子十一軒、歴然たり。
 当村に、久安寺という寺あり。本尊阿弥陀如来にして、爰(ここ)に伝唱上人という念仏の行者あり。或る夜睡眠中、手白神社のお告げあり。曰(いわ)く「人手や腕の痛み諸病のある者は、我に平癒を祈らば、立ち処に其の痛みを去らすべし。又女人にして呉羽綾羽(くれはあやは)の業の秀達を我に誓はば、呉服の芸の秀達を得さすべし」と、その言葉、猶耳にあるが如く、夢は覚めて影は失せにけり。上人神女のお告げのありがたさを後人に知らせんがため、筆を執り記して本尊阿弥陀仏の御服の中に蔵め置きたり。その阿弥陀仏、今は宗心寺に安置すること年久し。嗚呼(ああ)、手白明神の神徳益々さかんにして、利益あること人の知る所なり。
 嵐山町の伝説、口碑等を記録にとどめ置くことを、今にして成さざればの感を持って折に触れ、古老に尋ねて、収録していた。今度報道の係からすすめられて記述を進めることにした。
 高崎市の南部から八王子市への山の続きは、地質学で昔の断層の時、関東平野は太平洋の中に没し、笠山、堂平に近く海が迫っていた。其の後の地殻変動で陸になったり、海になったりの変化を続けて、今日の地形をかたちづくった。
 日本海がまだ陸だった頃に、移動した動植物、十万年前に発達したと言われている人類も、関東地方に住むようになったのが約三万年位前からと、今の学説で説かれる。
 隆起した海岸で、貝を採って食べた原始人は貝塚をつくり、陸地深く入った人々は、石で色々の道具を作って狩もし、川で魚介類を漁った。その人々の恐れをなしたものは、蛇であったり、熊であったり、大木であったり、奇岩怪石であったりした。そこに、信仰が生れ、これが伝説のもととなった。
 近代科学は、分析の科学と言われる。伝説も一面信仰の部類があるので、それを分析したくないのであるが、現代人は、なかなか承諾出来ない。そこで僅かづつ、説明して行きたい。而し余白が少いので、順次述べていくが、今回は、私の産土神(うぶすながみ)手白神社の縁起について、宗心寺にある記録をお伝えした。比企の神社誌には近代的な縁起が記されているが、古代人に育くまれた素朴な姿に私はひかれて、民俗学的な内容をお伝えした。
 終りに、資料蒐集といってもほんのかけだし、お知りの方は教えて下さい。
     『嵐山町報道』254号 1976年(昭和51年)1月1日

※『柴田よしきの日記』さんの「手白神社」。神社がどこにあるかは、「手白神社のさくら」(関根昭二)のGoogleマップで確認して下さい。