待望の月田橋完成
本町の大字根岸と東松山市上唐子境界(県道大野東松山線)に、このほど月田橋が旧橋の五〇米下流にできあがり、九月二十八日その竣功式が行なわれた。
旧橋は、木橋でたびたび改修されたが年毎に老朽化甚しく、月田橋架替促進期成同盟会に於いて、昭和三十五年(1960)以来国県に対して陳情してきたが、公共事業により昭和四十年(1965)九月二十七日着工、昭和四十三年(1968)を目標に工事を進めてきたが、特に埼玉国体の堂平からの炬火通路として指定されたので工期を短縮、昭和四十二年(1967)九月七日完成した。
この橋は、鉄筋コンクリート橋、延長二〇〇・八米、巾員六・〇米、工事費四九九二万七千円、請負業者は関中組、住友建設である。
式は、午前十時に始り東松山市役所企画室長の開式、神事、東松山市長、知事代理の挨拶、国会議員、県会議長代理、町村会長、議長会長の祝辞の後、知事代理、東松山市長、嵐山町長によってテープが切られ盛大な渡り始めの式を終了した。祝賀会は、東昌寺会館で祝宴が開かれた。
『嵐山町報道』177号 1967年(昭和42)10月15日
荒川筋ぐんぐん増水 東松山は各所で増水
台風二十二号の影響によって早くも比企郡内の越辺、都幾、市の川の各河川は二十六日早朝から一斉に増水を始めた。
このため東松山土木事務所では危険箇所の視察を行うと共に、地元の水防団に対し厳重な警戒態勢をとるよう指令を出した。
同事務所の調べによると越辺川は三百ミリ、都幾川は二百五十ミリ、市の川は二百ミリで堤防決壊等の危険状態となるが、越辺川では東松山市宮鼻地先堤防、都幾川では東松山市早俣地内堤防、市の川は上流の滑川、菅谷村一帯が未改修のため特に決壊の危険があると警告している。
なお東松山署に入った連絡によると荒川筋の吉見、川島村も二十一号台風以上の増水を予想、二十六日夕刻から警戒態勢に入った。
(『東京新聞』埼玉版1958年9月27日)
台風22号 県下に大きなツメ跡 雨量21号台風の二倍 荒川警戒に二万五千人が出動
台風二十二号は大雨台風だった。雨量は二十一号台風の二倍で、河川の増水も激しく、荒川は二十六日夜半から二十七日午後二時すぎまで洪水の心配があって水防団員約二万五千人が警戒に動員され、自衛隊員など延べ三千人が土俵積みなど必死の水防作業を行った。家屋の浸水、道路橋梁の損壊、護岸堤防の崩落、通信黄通、農作物などの被害も二十一号台風のざっと三倍、大きなツメ跡が各地に残された。
運転手ら二人 トラックごと川に転落
東松山市唐子地先県道の月田橋の中央部十六メートルが流失、橋の上に小型トラックを止めて写真を撮っていた同市材木町、土建業関中組運転手【氏名略】(一九)と現場【氏名略】(二〇)の二人はトラックごと都幾川に転落したが約一キロ下流で付近の人に救助された。
このほか川島、吉見村などでガケくずれがあり、田畑約三百ヘクタールが冠水した。川島村中村地先の越辺川神明堤防が約二百メートルの長さにわたって地くずれを生じ決壊寸前にまでなったが地元水防団の補強工事で難をのがれた。
二十六日よる十時五十分ごろ、東松山市下押垂二十三戸百九十人は近くの都幾川早俣堤防が増水により危険状態になったため、同市災害救助本部では同十一時民に避難命令を出し、民は野本小学校に避難した。
(『産経新聞』埼玉版1958年9月28日)
月田橋上で写真を撮っていた東松山市材木町土建業関中組自動車運転手【氏名略】(一九)同組現場監督【氏名略】(二三)と付近の子供五人が一緒に流されたが、発見が早かったため奇跡的にも全員助け出された。
(『東京新聞』埼玉版1958年9月28日)