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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

関東大震災の思い出 鎌形・小林 1983年

2009-02-10 22:54:03 | 鎌形

 今から六十年前の大正十二年(1923)九月一日の関東大震災は、十三万五千戸の家を焼き、九万一千人余の人名を奪ったというが最近また、地震についての情報が多くなった。
 地殻変動、日本海中部地震、東海地震等は私達に何かの警告を示す思いがする。今の世の中の人口密度、建造物、交通網がもしあの時のような地震の為に寸断されたらどんな惨事が起こるか、思うだに身ぶるいする。
 ところで大正十二年(1923)といえば、この地方では(鎌形)電気関係のものは一切なく報道機関も日毎に配達される新聞のみ、それも僅かの家庭であった。交通も自動車の通るのは珍らしく一部の人が自転車、あとは徒歩であった。汽車に乗るには、熊谷、鴻巣又は坂戸まで行かねばならぬ。(嵐山駅は同年十一月【菅谷駅という駅名で】開業)

  東の空が真赤
 そんな時突然大地震が起きた。九月一日、昼ごろ風のない蒸し暑い日だった。何かにつかまらないと立ってはいられない。地面に座りこむ激しい揺れである。余震が何回もくり返す。その度に戸外に飛び出す。棚の物や家屋の壁、屋根瓦等が場所により落ちた。
 その夜、東の空一帯が真赤に染まった。何事だろうかと近所の人達が集まって騒いだ。
 三日ばかり新聞も来ない。翌日学校に行くと先生が新聞紙、半切の号外を手にして東京の大災害の話をしてくれた。幸いにしてこの地方には地震による被害はなかったがその後悪い色々な噂が各地に起こり、自警団まで組織して徹夜警備に当たった。何事もないのに警鐘を乱打して世間を騒がせたのであった。
 当時私は十五歳であったが縁故者が東京に居たもので叔父に連れられて、東京の焼野原も歩いたし浴衣一枚、素足のまま親戚に向かう人達とも会っている。裸になっても命だけ助かったことを喜んでいた。こうした悲惨な情景はいつになっても忘れられるものではない。六十年過ぎた私の頭にいまだに残る「関東大震災の歌」を記してこの稿を終る。

  関東大震災の歌
 1 天に自然の道理あり
   人に天賦のみ魂あり
   自然は人を制すれど
   人また自然を制すなり

 2 時これ大正十二年
   九月一日 正午ごろ
   大地俄に 揺ぎ出し
   縦また横に ゆすぶれて

 3 家は破壊し人潰れ
   山は崩れ 土地はさけ
   世の破滅かと思はれて
   人に生きたるここちなし

     『嵐山町報道』316号 1983年(昭和58)9月10日
     参照:関東大震災と菅谷村 1923年
        関東大震災下の七郷村被害調査と救援活動 1923年


木曽義仲産湯の清水は木曽殿坂の清水 長島喜平 1941年

2009-01-03 23:05:00 | 鎌形

七、木曽義仲についての生立の論説
(1) 出生
 山吹姫は班渓寺に穏栖し久寿元年(1154)駒王丸(義仲)が生れ、次の年即ち久寿二年(1155)に大蔵の戦に義賢が敗れ、山吹姫及駒王丸も捕へられしが、山吹姫はその後ゆるしを得て、班渓寺に一生を送り、此の寺の開基として往生をとげた。
 義平はその駒王丸をなきものにしゃうとし畠山庄司重能(重忠の父)に命ぜしが重能は流石に重忠の父だけあってどうかして助けてやらうと思て【斉藤】実盛に頼んだ。
 此のことは前の処でのべた。

(2) 木曽にて育成
 その後旗上までは木曽山中にて育ったことであらうが、長じて二十才の頃ひそかに関東の地にもどったと思はれる。
 これらは文献等には不明であるが、地方の伝説又木曽引畧記に依っても察せられる。
 木曽引畧記に妾は荻久保氏の女とある。その妾は多分関東へ戻りし時の妾なりと推論する。

(3) 木曽義仲の産湯の清水について
 鎌形へ来て義仲の産湯を問ふるならば誰しも郷社八幡神社の境内に案内する。
 そしてその水壷は半石も水を貯へることが出来、又その傍に「木曽義仲産湯の清水」と刻んだ石碑が立って居て、それは誤りだと思ふ人はあるまい。しかし実はそれは誤りで当地の故簾藤左近氏が八幡神社の境内に石碑を立てれば人目につくと思ひ、自分で石に刻んで明治年間に建てたものである。
 そしてその石碑無名無年月日にした。かうして史蹟を人目につく様に郷社八幡神社に建てたことは賢明と云はねばならないと思ふ。
 又それを郷土史としても差つかへはないと思ふ。[ この部分は抜けている ]を始め郷土史の種々の本にあらはれて居るから此の論説をくつがへす必要はないと信ずる。
 而し私は此の問題について、いさゝか関心を持って居る。それ故私は此の郷社八幡神社の清水を否定すると同時に班渓寺の境内を西へ出て木曽殿坂にある清水をその真なるものと思ふからである。
 此の清水は寛で水を十数米位引へて来て甕の中へ落す。付近は一面竹林が茂り、自然当時様子がひしひしと身にせまってくる感がする。これも八幡神社の清水も鎌形の七清水の一に数へられて居る。
 これまでのべると此の二つの問題についてどうしてかと疑問になる者もあるだらうから此処に私の研究の一端を述べやう。
Img_7918
 ◎八幡神社の清水を使用しなかった理由
 (イ) 八幡神社は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に応神天皇を塩山(鎌形の小山)に祀ったので以後そのまゝそこに祀られてあったが約二、三百年前、此の地に遷されたものらしい。
 今日未だ塩山に大願成就の奉納旗を見ることがあるので遷されたことは古くない。
 (ロ) 今の神社と班渓寺の距離が相当に遠いので、若し今神社のある場所に清水があったとしても水汲みにわざわざ行かなかっただらう。
 (ハ) 若し神社があったら神の御利益を得る為に遠路をわざわざ行ったらうが、その当時神社はなかったことは前に推定して居る。
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 ◎班渓寺木曽殿坂の清水を利用した理由
 此の木曽殿坂の清水は平安朝頃からあったに相違なく、又班渓寺建築以後日用の飲料水として用ひられて居たと思はれる。それ故にこれがつかはれたことが察せられる。
私は以上の様なことを研究推考して見た。
     長島喜平『源義賢・義仲郷土史に関する研究』(1941)(http://blog.goo.ne.jp/satoyamanokai/d/20081228)


『埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第4集(1928年)の「木曽義仲産湯清水」報告

2008-12-27 18:55:21 | 鎌形

                    埼玉県史蹟名勝天然記念物調査委員
                         官幣中社金讃神社宮司 金讃宮守調査
一、名勝
 義仲産湯清水
一、所在地
 比企郡菅谷村大字鎌形字清水
一、現況
 此の清水は郷社八幡神社境内にありて、其拝殿の北の石崖の中より湧出しつゝあり。往時より常に絶えし事なしと云ふ。この水を筧(かけい)にて水盤に入れて、参詣のものこれを漱水の用となすと云ふ。此の清水の傍に木曽義仲産湯清水と彫せる碑石あり。年号を記せず。この水を入れる水盤には享保十五年(1730)正月と記しあり。故にこの建石も、これと同時に建設せしものならんか。
一、面積地種目
 神社境内地参千参百九拾参坪の内官有地第二種
一、管理者
 比企郡菅谷村大字鎌形 郷社八幡神社々社掌 齋藤竹次
一、創造沿革
 此の菅谷村鎌形の地は都幾川の流に沿ひて、後に塩山の景を負ひたる勝地なり。往昔久寿(きゅうじゅ)の頃帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)の住みし大蔵館は、この都幾川の南岸に在り。然してこの鎌形の地に別墅(べつしょ)を設け、夫人山吹姫を住居せしめたるを以て、義賢の長子義仲はこの地に生る。その時この八幡神社境内の清水を汲みて産湯に用ひたるによりて、斯く木曽義仲産湯清水と称するに至れりと云ふ。この神社の西南二町余の所に、木曽殿屋敷と唱ふる地あり。この隣接地に班渓寺の古刹あり。これは義賢の夫人山吹姫が、義賢戦死の後尼となり妙虎と号し、こゝに庵室を設け、夫先生義賢の菩提を弔ひたりと云ひ伝ふ。因てこの班渓寺の開基と称して、古き位牌を伝へあり。
     開基威徳院殿班渓妙虎大姉淑霊
 この位牌に年号なし。寺の過去帳は、建久元年(1190)十一月二十二日と記しあり。この木曽殿屋敷と称する所が夫人の住したる別墅にして、義仲の子木曽冠者義高もこゝに生れしによりて、この清水を用ひて産湯に供し、産児の生先の幸福を祈りたりとも云ひ伝ふ。
一、引証及参考資料
 新編武蔵風土記、埼玉県誌、武蔵武士、八幡神社由来記
一、図解 別紙を添付す
          木曽義仲産湯ノ清水畧図
               比企郡菅谷村大字鎌形

Photo_3

     『埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第四輯 1928年(昭和3)12月 83頁~85頁