goo blog サービス終了のお知らせ 

里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵酪農の歴史 30 人工授精の歩み 松本功 1990年

2010-01-31 06:01:45 | 嵐山地域

   人工授精の歩み
             松本功
 人工授精も普及され始めたのが昭和23年(1948)頃からではあったが、まだまだ雌牛を近くの授精所まで引いていき、直交させた。この辺でも菅谷の木村牛舎、玉川の田中牛舎、唐子の野原牛舎等々、旧町村に1~2軒位づつ牡牛舎があったが直交での利点もあったが弊害も多かった。武蔵酪農創立の昭和24年(1949)頃は食糧難、就職難で敗戦による経済恐慌で米麦中心の農業から毎月現金収入の得られる酪農をとり入れる人が多くなり1~2頭の軒下酪農ではあったが、毎日の乳量、毎月の乳代の自慢話しで「お早う千両」と云う言葉も出て、正に酪農は楽農であった。人工授精の普及率はS25年(1950)頃は50%強で1頭当りの年間乳量は3300㎏位、その後人工授精も急速に普及されS30年(1955)頃は普及率90%乳量4500㎏位となり組合員としても少しでも乳量の多い牛を求めるようになり雌牛の選択には基より種雄牛についても強い関心を持つようになり授精についても種雄牛を指名するようになった。
 昭和34年(1959)先輩の加藤授精師が退職したので後任として勤めてくれと云われ人工授精担当として奉職することとなる。当時は激動の酪農界ではあったが、大先輩及び諸先輩の寝食を忘れてのご努力とご活躍により創立10年にして県下屈指の組合となっていた。
 私の入ったS34年(1959)は組合員630名位乳牛頭数800頭位で組合長藤野喜十氏、専務山田巌氏、参事田村孝一先生、獣医井上、西川、小鷹の諸先生、事務員と牛乳処理系の諸先輩で全員15~6名で毎日活気に満ちていた。
 当時は授精も茶壷の様な形態魔法瓶に氷を入れ生の精液を運搬したが夏場など特に氷を切らさないようにするのに苦労した。
 当初の乗物は組合より貸与のオートバイ、メグロ350㏄で廻ったが何しろ半年位は道も又組合員宅も仲々みつからず道路も未舗装が多く砂塵が上がり厳寒の雪の日や雨の日のオートバイは身に応えた。でもS36年(1961)頃より乗用車も流行りだし組合でも役員の方々等の深いご理解で中古車ながらも名車のヒルマンを買って頂き先生方共、たまには乗せて貰ったが私も勇躍小型自動車の免許をとり、スバル360で廻れるようになり雨の日も風の日も苦にならなくなった。
 酪農組合も発展を重ね霞ヶ関の鋼管牧場のキングドンとキーノーターと云う種雄牛では間に合わなくなっがS37年(1962)頃より凍結精液が叫ばれ、我々授精師も度々講習会に参加、県の山下、入江、大竹の諸先生のご指導を受け、始めは4?のジャアーにドライアイス(-75℃)を入れ、グロンサン位の錠剤の凍結精液による受胎率試験を1年位行い、その後細ストロー式の試験も行い結局現在のストロー式となり保存も液体窒素(-196℃)となり半永久的となり、S43年(1968)より実用化となった。従って国内はもとより諸外国の名牛の種まで容易に手に入るようになり改良も一段と進んだ。
 その頃より日本経済も安定し工業立国へと進み始め第二種兼業農家も増え、酪農が落農となり立派なサラリーマンに転向する人も出るようになり、又楽農家は多頭飼育となり健全な酪農経営をめざして専業化して行った。
 S43年(1968)頃より優秀な遺伝子の固定化を図るため種雄牛の後代検定制度が始まり酪農家の血統書付きの牛に厳選された後代検定候補牛の種を授精し1候補牛に対し30頭位の娘牛を国が買い上げ2産程度まで飼育検定し基準点に合格した候補牛だけ後代検定済種雄牛として供用する制度に当組合でもS47年(1972)頃よりS60年(1985)まで大勢の組合員の皆さんにご協力を得てこの事業にも参加して頂き徐々にではあるが、この辺の搾乳地帯の目標である豊乳性、連産性、強健性に富んだ牛作りに励み、40年前より可成良い牛群となり1頭当り年乳量も6000㎏近くまで上昇してきた。
 これからは尚進んだ雌牛側からの改良技術も取り上げられ授精卵の移植に依って、めざましい改良が進められる事と思います。
 最後になりましたが創立40周年記念誠にめでたい極みでございます。組合及び皆さんの益々の繁栄をお祈り申し上げます。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)123頁~124頁


武蔵酪農の歴史 29 酪農獣医師として33年間の変遷 小鷹隆夫 1990年

2010-01-30 05:59:00 | 嵐山地域

   酪農獣医師として33年間の変遷
             小鷹隆夫
 酪農40周年に当り衷心よりお祝い申し上げます。記念誌発行に際し、私の武蔵酪農での生活を記してみたいと思います。
 私は、山間の村鳩山町(旧亀井村)の農家の4男として生を受け、戦時中の少労力の中で、兄弟協力農作業を手伝いながら成長。戦後29年(1954)酪農振興法が制定され、食物増産(動物性蛋白脂肪の摂取)が不可欠というので畜産が奨励され始めた時、動物愛護が社会に役立つ事に人生の生き甲斐を感じ獣医科に進学、農業と酪農の複合経営の中で、兄夫婦の家業を手伝いながら30年卒業。
 当時は就職難の時代で、先輩の西川奨先生を尋ね武蔵酪農を訪問。伊東勝太郎先生、田村孝一先生と出逢い、それが、その後33年間酪農にお世話になるきっかけとなりました。そして30年(1955)5月より就職の見つかるまで、技術見習として、大きな診療カバンを抱えて田村先生の単車の後に乗り、酪農家を訪問、乳牛に接し、獣医師としての自覚と責任が培われ教育されました。当時は組合員数611戸、毎日10軒からの往診で、夜は小島屋(旅館)さんに宿って廃用診断書の整理を手伝い、報酬3000円を藤野専務さんより頂いた事は今でも忘れる事は出来ません。
 4ヶ月の見習期間後、30年(1955)9月岐阜県恵那郡畜産連合会勤務(長野県境の観光地木曽谷馬籠の近く)。動物全てを対象に、自然と素朴な人情にふれながら一年一ヶ月。若林進先生転職により、武蔵酪農に招請されて31年(1956)11月奉職。
 当時、浜中組合長、藤野専務の管理体制のもとに、組合獣医師としての使命感が強調され、田村、西川両先生の技術指導に基づき、受精、診療に従事、疾病は単純で管理の失宜が多く、抗生物質などの科学療法剤の発達は、病気を容易にしてくれました。
 32年(1957)には、田村先生が健康を害され技術的に惜しまれながら組合参事に就任、以後、役職員の信頼のもとに、酪農振興、組合発展に尽力なされた功績は、まことに大きなものがありました。田村先生の代りに、家畜保健所より井上久雄先生が就任、主任となって、酪農経営改善指導、診療にと大いに努力され、酪農発展に貢献なされたことは承知の通りであります。
 この頃から、漸次、治療技術も進歩して、内科的な治療から外科療法が普及し、帝王切開手術(小見野高橋正照さん所有牛)を始め、盗食鼓張症による第一胃開腹手術が試みられ、充実した技術者のもとで診療に専念出来ました事を誇に思って居ります。
 33年(1958)12月には、長い間乳牛の改良増殖に尽くされた加藤留平受精師さんが転職。翌年1月松本功受精師さんが担当、多忙な時代を生産向上に献身的に尽され、43年(1968)より田辺郁彦受精師さんと共に協力、資質向上に努力されて現在に至って居ります。
 この時代は、機械器具が普及、生産基盤の確立、畜舎の造成も図られ、月輪、太郎丸には共同経営事業も始まり合理的な生産向上を目指して夢と希望に燃えた時代でした。指導部としても念願の診療自動車が購入され、獣医、受精師共に陣容も整い、酪農家の庭先には乳牛が悠然と草を食み、日光浴をし、反芻をしている姿を眺めながら、安定した酪農情勢の中で青春時代を過した懐かしい思い出も多い時でもありました。
 酪農はなやかなりし36年(1961)6月、技術的にも精神的にも大変お世話になり尊敬して居りました西川先生が転職。大山通夫先生が嘱託獣医として診療の一翼を担い、外科手術を得意として活躍することになりました。
 所が、全国的に30年後半より飼養戸数の減少が始まり、武蔵酪農に於いても47年(1972)には顕著となり、35年(1960)658戸、乳牛頭数1021頭数えた生産者も、47年(1972)145戸、乳牛頭数1539頭と戸数が極度に減少、これは小規模層の経営離脱によるもので、内部問題としては、生産性の低さ、所得規模の小ささ、労働周年拘束性が強い事等、外部問題としては、他産業の雇用機会増大が原因と考えられます。反面、規模拡大の動きも見られ、生産向上と一定所得額確保を目的として努力する様にもなって来ました。指導部に於いても、35年度より乳牛資質の改善と、基礎牛確保生産態勢確立のため、計画的に北海道導入が実施され、生産確保に全力を投球する事になりました。
 その間、井上先生が受乳場に転属、二人で苦労を共にした事もある大山先生も、45年(1970)12月小動物に専念のため転職。その後、井上先生と二人で診療、多忙の折には藤田利雄先生の御協力を頂き今日に至って居ります。
 47年(1972)以降は、徐々に戸数減少、多頭飼育という生産性収益性の高い経営形態へと著しく変化し、利益優先の時代へと変貌。51年(1976)にはオイルショック後の景気低迷の中、酪農経営の安定化が叫ばれ、更にその後も、生産調整、環境整備問題等、荒波にもまれつづけて来ました。
 一方疾病も、多頭飼育、省力管理という畜産経営形態の変化に伴い、粗飼料、運動不足による顕性的急性病から、陰性的慢性病へと変化。従来の単純な運動器病、消化器病に比べると大変複雑化して来ました。例えば、第4胃変位、産後起立不能、極度の運動器病、過肥による繁殖障碍、いわゆる代謝病中毒性疾患(ストレス病)等、新しいタイプの疾病へと移行し現在に至って居ります。58年(1983)には、異常産が発生(アカバネウイルスが原因)、難産による切胎、帝王切開手術が夜半に迄及ぶ事もありました。
 この様にして臨床生活33年を経て、今日、振り返って見ますと難産後の出生の喜び、子宮脱、開腹手術後の全快の安堵、又、加療の甲斐もなく廃用・死亡の苦い思い等、どの生産者の家にも、脳裏に刻まれ、決して忘れる事の出来ない思い出が、枚挙にいとまがない程でございます。
 現在、酪農界に於てもここ数年、畜産状況も厳しくなる一方で、農産物の自由化、生産調整下に於ける乳量、乳質問題、飼育者の高齢化、後継者問題、畜舎の環境による公害問題等、畜産経営のむずかしさが問われて来ております。
 この様な酪農形態変遷の中で、生産向上に試行錯誤、勤勉努力なされました生産者の皆様、又、技術的にも精神的にも御指導頂きました多くの先輩諸先生方、職員の皆様方に深甚なる敬意と感謝を表わすと共に、今後もますます酪農発展に御尽力下さいます事を御祈念申し上げます。
 ここに、酪農発足40周年を迎え、多くの先人の築いた偉大なる功績とご苦労を偲び、武蔵酪農発展を心から念願すると共に、今後共微力ながらも出来る限り尽力させて頂きたいと思っております。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)120頁~122頁


武蔵酪農の歴史 28 乳牛導入についての思い出 井上久雄 1990年

2010-01-29 05:57:00 | 嵐山地域

   乳牛導入についての思い出
             井上 久雄
 武蔵酪農の北海道乳牛導入事業は、昭和35年(1960)夏より第1回が実施され、約40回位総頭数1500頭以上の初妊牛、経産牛、優良牝牛が導入されました。
 始めの頃は貨車輸送で、ワム(8頭載)、ワ(6頭載)の貨車で1回に3~4頭位が到着しました。嵐山駅では貨車扱いが出来ないために小川町の貨車ホームで牛の引き取りを行いました。又当時は牛専用トラック等もなく普通2tトラックに三角枠を組み2頭の牛を乗せて配送したものです。こんな簡単な枠のため途中でトラックから転落した事故もありましたが大事に至らなかったと思います。又貨車の到着時間が夜のことが多く翌日午前十時頃までに清掃し返還する事は大変忙しいことでした。その後嵐山駅でも貨車到着が出来るようになり牛の配送も便利となりました。
 上乗りさん(貨車1~2両を受け持ち牛の乾草給与給水等をする人)について。津軽の東海林牧場の牧夫だと思いましたが結婚し新婚旅行に熱海温泉に行くのに東京まで二人で上乗り、その間の旅費は只その上、上乗り料金を貰ひ旅行の費用にしたときの事を聞き微笑ましく思ったものです。二人で貨車に乗車中ベッドが頑丈に出来ていなかったのか?二人の愛が強かったのか?牛の背中の上に落ちてしまい元通り直すのに大変苦労したとのこともあり上乗り仲間より大笑いされたそうです。
 夏は非常に暑く、冬は牛いきれと、貨車の中の環境は最悪です。馴れないと食事、トイレに行くのにも大変なことだと上乗りさんに苦労話を聞かされたものです。或る秋の輸送の時、台風のために函館で一週間も連絡線待ちをしたので乾草も殆んど無く、水だけで来たこともあったそうです。こんな時は牛を貨車積みしてから10日間もたって到着したのだと思います。貨車より降りてからも体がふらついているような事が有ったように思いました。購買時の面影もなく巻き腹となりみすぼらしい姿でした。牛の疲労度は最高だった事でしょう。
 その後、東北自動車道が仙台まで開通するようになり、大型トラック輸送が実施され輸送機関も短縮され3日位にて到着出来るようになりました。牛の疲労度も格段に改善されて現在に至っている状態です。
 稚内市勇知地区について、ホルスタイン農協の購買担当の木伏技師より遠くて不便な所だが小型で胃腸の丈夫な牛が居るとの事で早速田村参事と二人で、札幌発午前十時頃の急行に乗り午後五時頃稚内市に到着、市内より内陸部に35㎞位はいった所に、勇知農協があり、阿部さんと云ふ購買係により管内農家を巡回して、購買に当りました。道南の牛と比較して、足が短く、背が低く、粗飼料を多く喰っているためか胸囲は充分あり被毛も長く一見して粗野に見える牛でしたが丈夫であり基礎飼料も少なくてすむ経済効率の良い牛で武蔵の組合員に合ったような牛でした。1車購入するのに2日間位掛かったものです。その後この宗谷地方でも牛の購買に慣れて、こちらの要望を満たすようになってくれたと思います。
 阿部さんの後任の吉田さんですが、ユニークな人で、ポーラー化粧品のセールスマンで札幌より当地に来て農協職員として奉職するようになった方です。スマートで顔面の彫り深い人で宗谷地方に居ないような、そしてユーモアのある人で農家の信頼度の厚い購買担当者でした。組合にも牛の追跡調査のために来たこともあり、玉川支部に行ってもらったと思います。後年稚内支所の参事として勤務されて居たと思います。
 豊富農協管内の購買時であったと思いますが、放牧場でヒ熊に襲われて尻に熊の爪跡をつけた牛も購買したこともあります。多分唐子地区の組合員に抽選されたと思います。
 勇知抜海駅近くの西岡牧場でエコーランド系の2産目の牛を購買しました。この牧場の親父が特別の変り者であり農協の組合員にもならず、息子さんのみ組合に加入すると云った牧場であり借り入れ金など全くなく特別扱いされていた人と聞きました。此の時は経産牛の希望者は無くて初妊牛のみでありました。小型で黒い皮膚のよい牛であり、抽選会で町田さんに希望を曲げて取ってもらいました。この牛の系統が川島の町田さんで増えた、エコーランド系で現在も飼育されている牛です。
 2月購買では羽田沖で全日空機の墜落の残骸を見ながらの飛行は気持の良いものではありませんでした。千歳空港着陸前に田村参事はビールを注文するような事があり内心気持ち良くなかった事だったのでしょう。私も同感でした。
 勇知、厳冬2月購買の馬橇について、此の時期、除雪した道路以外はジープでも動く事は不可能なので馬橇で購買に当りました。元気の良いアングロノルマンの4才馬に箱付馬橇を引かせて4人乗りで約14㎞位の雪道山道を巡りました。この箱の中には品川アンカ2ケ毛布2枚で足を暖めながらですが寒くて手足が痛くなり橇より降りて雪道を走りやっと寒さに耐える事が出来た始末です。北国の冬の日は雲が来るとすぐ吹雪となり寒さが一段と厳しく感じられます。歩くと長靴の下の雪が、キュキュと鳴くのです。本当に雪国の生活は大変だとつくづく思いました。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)118頁~119頁


武蔵酪農の歴史 27 牛の流行性感冒発生に懐う 田村孝一 1990年

2010-01-28 05:55:00 | 嵐山地域

   牛の流行性感冒発生に懐う
              田村孝一
 組合発足して間もない昭和25年(1950)9月、突如として牛の流行性感冒が発生した。初発10日位にして埼玉県内全域に発生をみた。
 私の診療した初発牛は、菅谷村遠山地域が最初で9月の10日頃と記憶しているが、それから関係組合員の飼育する乳牛は殆んど全頭罹患し、体温上昇、呼吸困難、皮温不整、流涎、流涙、茫然起立、食慾不振、食慾廃絶等、呼吸器型、神経型、胃腸型の症状を呈し、軽症のものは一回の治療で回復したが、重症のものは数回の治療を要し、妊娠中のものは流産、早産も発生した。
 最盛期の9月中旬から下旬にかけて一週間~10日位は、伊東所長と共に夜も寝かせてもらえず診療活動も大変でした。
 薬品についても、当時は大動物専用薬は少なく、人医用薬を使用し、人間の10倍以上使用するため、菅谷の島本薬局、松山の辻薬局にお願いし薬品の調達も大変に苦労した。
 その当時、往診は自転車(西、竹沢約15㎞ 東、八ツ保約25㎞)だったので、初発後数日は間に合わせたが、罹患牛の増加が激しくなり集乳車を運転手つきで用意してもらい、東部は木村さんの小型トラック、西部は長谷川さんのオート三輪車をお願いした。
 オート三輪車の長谷部正ちゃんには随分と苦労をかけました。オート三輪車の助手席に乗せてもらい、膝に毛布を掛け夜になると私が居眠りをするので片手で私をささえ片手で運転をしたり大変だった。
 又治療の時、ブドウ糖やリンゲル液に、消炎鎮痛剤等アンプルをカットし混合する作業も手伝い、静脈注射の時、ブドウ糖を持つ手伝い、その時私は又注射針を持ち乍ら居眠りをするので、注射が終るのを確かめて合図をしてくれる等、手際よく助手の役割を果してくれて大変助かりました。
 長谷部さんも不眠不休が続いているので、そのうちに私が治療している時間にオート三輪車のボデーで仮眠する様になり、尚その後は長谷部さんの近所の古谷さんを頼み昼夜交替で運転してくれることになりました。
 或る時、松山から八ツ保小見野の地区【現・川島町】の診療を終え、木村さんの車で松山の駅まで送ってもらい、東上線の終車で嵐山駅におりると長谷部さんが駅前に待って居て、これから未だ数件往診を頼まれているということで早速竹沢方面にいくことになり、途中小川の町外れで、タイヤがパンクして雨の中2人は困惑したが、道路の端の親切な家の軒下をかり、10数ヶ所チューブに穴があいて仕舞ったところを根気よく直してくれた長谷部さんには頭が下がりました。
 結局この日も診療が終ると夜が明けて、私を下宿(月輪六軒、長谷部恭太様宅離れ家二階)に送って長谷部さんは雨の中集乳に出かけました。
 集乳の時間が私の仮眠の時間で、下宿に帰った朝、“おばさん”は集乳が終る時間頃まで私を起こさずに気をつかってくれ、組合員の方も朝早く往診の依頼に来ても大部待たされた様子でした。
 診療の時間も頼まれた順序でなく、地理的にコースを組んで往診するので朝早く頼まれても途中で隣の家の牛が発病したり、罹患牛が蔓延し計画した時間より次々遅れて夕方になっても未だ診てもらえないと云うことで、生産者には心配かけたり苛立たせたり大変迷惑をかけました。又怒られもしました。
 この様な状態が1週間から10日続き、最盛期は9月下旬頃で、猛威をふるった流感も1ヶ月余にして終息した。
 私の治療した頭数は約300頭に達し、流産した牛は数頭発生したが。斃死牛の発生をみなかったことは、組合員の皆様の協力によって若輩で未熟な私に幸運を与えてくれたものと感謝して居ます。
 この1ヶ月余にして300頭に及ぶ貴重な治療の体験が、私の将来の臨床生活に於ける大きな源となり、基盤となり、40年に亘ってお世話になるスタートでもありました。
 翌26年には、咽喉頭麻痺が散発し玉置獣医師と治療に当り大事に至らなかった。
 流感大発生の往時を偲び、その一駒を記しました。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)116頁~117頁


武蔵酪農の歴史 26 酪農20余年の歩み 嵐山町・吉場雅美 1990年

2010-01-27 05:46:57 | 古里

   酪農20余年の歩み
          嵐山町 吉場雅美
 時は激動化した、昭和の真只中、酪農家として発足したのは、27年人生男さかり30才の時であった。
 私の営みを酪農に決定づけたのは、自然条件に恵まれた町の片隅の林野に囲まれた地形に、土と闘い、酪農に生き20数年を返り見て、此の度、武蔵酪農40周年誌発刊に際し、想いでを記する機会を得ましたことは、誠に、感謝にたえません。
 戦後も10年余も過ぎ去った頃、日本は経済大国として、造船ブームも世界一として、高度成長を世界に誇り示した頃であった。
 乳量需要も活気を呈し、明治や森永の乳業会社も乳量確保に争奪に及んだこの頃は、我々生産者にも張りのある時代であった。
 酪農家も、次第に増して、武蔵酪農も、頭数は、益々拡大し、各町村にも、畜産共進会が盛んに施行される。昭和32年(1957)秋の比企郡市育成共進会が開かれ、時の組合長浜中東重郎会長より優賞に召されたこともございます。その翌年の頃かと思いますが、本年(1989)誕生した天皇陛下は美智子妃殿下と結婚した頃、県の畜産共進会が深谷市で開催され、武蔵酪農一組合員として入賞出来たのも、時の組合員各位の御支援の賜ものと深く感謝申し上げます。然し、その後の事である。人生には浮き沈みもございます。期待した二産目の成牛が、突然病み出し、食慾もなくなり激しい疲憊その極に達し、田村、井上、小鷹三先生には深夜まで治療に当られ、小鷹先生には夜を徹して看病に付いて頂いたが、悔も空しく遂に、私の不注意怠慢から、手遅れとなり帰らぬ牛となった事も、心に残る深い思い出として、三先生には、本誌をもって、厚く御礼申し上げる次第であります。
 此の様な強打も受けて、又波を越えて、私達、班のグループ7名は、月に1回の乳代精算に、各家庭を廻って、楽しく話合に花咲く夜の交流に生きがいを感じ、大型酪農をめざして、夢と、希望に、躍進した時もあった。
 尚、39年(1964)東京には、オリンピックが開かれ、一大人類の祭典として、乳量需要も増えてか、各メーカーは、色物乳製品が、多量に出廻り、生産者にもピンチが来た。でも我が組合は、益々繁栄し、或る時の通常総会に、議長として就任した時の思い出は、500人もの組合員と記憶しているが、この頃は、玉川地区や、江南地区からも新加入者が増えて、堅実に、組合は、昇る朝日の如く運営されたのである。
 併し、時代の変革の中で、牛と別れる時が来た。49年(1974)成牛7頭、育成3頭、長年愛育した牛も目頭うるむ涙で見送ったのであった。
 でも之を資本として、植木の生産に切り替え、今や会社として造園業に導いて下さったのも酪農のお蔭と信じ、幸せを求めて、今尚、健全な老後の日々が送れる事は、人生の最大の幸福と思い、今後とも、何分よろしく、御支援賜りたく、心より御願い申し上げます。
 武蔵酪農の御繁栄を、お祈り申し上げます。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)108頁~109頁

吉場雅美「菅谷村畜産と自給飼料」(1958)「戦後五十年に思う」(1995)


武蔵酪農の歴史 25 酪農の思い出 嵐山町・杉田善作 1990年

2010-01-26 07:05:07 | 太郎丸

   武蔵酪農40周年を迎えて
          嵐山町 杉田善作
 組合40周年を迎えお目出度う御座居ます。
 かえり見れば私達は埼玉酪農組合より菅谷支部の山田、奥平、鯨井氏等の日夜を分たぬ勧めに依りまして、武蔵酪農組合第2支部としてお世話に成りました。明治乳業からは伊東所長、昭和31年でした。この当時は各組合とも組合員獲得に熾烈を極めた時代。菅谷第二部内でも100頭を数える様に成り、酪農なくして農家経営なしと云う様な農村事情でした。
 菅谷第1、第2支部は組合の指導的立場にありました。村当局も酪農協会にも理解を示され仔牛の無償買付も行われました。私も福島、藤野両組合長さんと一緒に役員としてお世話になりました。山田専務役員等の計らいに依り飼料倉庫の増設、配合飼料等の機械設備を備え、健全な組合活動を続けて参りました。
 各集乳所へのクーラーの設備も会社の援助を戴き乳質の改善にと取りくんで参りました。
 昭和38年(1963)5月には日産100石を集乳処理するまでに組合員も努力致しました。
 経営形態も少数から多頭飼育へと変り、規模拡大される様に成って参りました。太郎丸地区、月輪地区に於ては、飼育の共同経営も実施されました。当時は現在と違い牧草畑も少なく山林を利用しての経営でした。協同経営にもなかなかむずかしく。相手は動物、計画通りには行かなかった様で大変苦労された様でした。
 十年一昔と云えますが多頭化経営に付いて行けなく成り、一人二人と組合を脱退するものが出る様になり、出稼あるいは会社にと転向する社会情勢と移って参りました。幾歳月の過るのも早いもので組合から離れて20年夢の様です。
 平安の時代農産物も自由化となりまして大変とは思いますが、残って居ります皆様、若い力と経営努力に依りまして健全なる酪農業に邁進して下さい。必ず立派な業績が上がると信じて居ります。
 益々組合も発展致す事を希望致して居ります。私も早70才、30年前思い出し懐かしくペンを走らせて戴きました。当時一緒にお世話になりました役員さんも何人か他界された方も在る様に伺って居ります。こうした方々の御冥福をお祈り申し上げると同時に、組合員職員の皆様方の御健康と御多幸を御祈念申し上げまして、過ぎし日を想い出し終りと致します。失礼致しました。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)101頁~102頁


武蔵酪農の歴史 24 酪農の思い出 滑川町・江森重良 1990年

2010-01-25 07:02:00 | 比企地方

   酪農の思い出
          滑川町 江森重良
 武蔵酪農と云えば名前を聞いただけでも懐かしい。昔の彼女に再会したような感がする。其の組合が四十周年を迎えたとは長いこと忘れていて申し訳ない次第です。組合発足間もなく御世話になった三十有余年前だ。旭運輸に木炭車一台。毎日修理をしていたようだった。福田地区方面の集乳は長谷部輪店の社長正ちゃんだった。これもやっぱり中古車でやっと廻って来た。たまには後押もさせられたのをおぼえています。今は当時の苦労が実を結び共に大社長になって居られる。
 獣医陣も田村さん一人で広範囲をかけめぐっていた。その頃乳牛の流感が出てたちまち蔓延してしまった。当時細かった田村さんは寝食を忘れて治療に当たったのを良くおぼえています。今の時代のように自動車でもあればよかったがその後やっとオートバイが購入され井上さん、小鷹さんと入って来た。
 組合長も初代吉田さん温厚な人でした。川島町の福島さんも長く組合長をやって下さって、歴代立派な組合長のもとで十石、二十石、五十石、百石祝いが出来たものです。専務も大塚、山田と立派な実績を上げられました。同年代の鯨井君も武蔵酪農協の為に貢献した人です。酪農不況の中良く努力されました。
 酪農も貿易自由化と後継者の問題で苦しい立場になっていることで、現役の武蔵酪農の皆様、新鮮な牛乳を十二分呑んで武蔵酪農農業協同組合を永く持続させて下さい。
 武蔵酪農農業協同組合の発足四十周年を迎えるに当り唯思いのままあの頃の牛乳はおいしかった、もう一度ゲートボールをやめて乳牛を飼育しようと思う時もある。然し俺の人生に余力は少ない。現在の組合員の皆様が大いに頑張って頂き度い、そして長く武蔵酪農を存続させて下さい。益々発展を祈ります。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)98頁


武蔵酪農の歴史 23 創立40周年の懐古 滑川町・篠崎高一 1990年

2010-01-24 19:34:18 | 比企地方

   創立40周年の懐古
          滑川町 篠崎高一
 武蔵酪農協発足40周年おめでとうございます。昭和25年(1950)春組合設立、半世紀に近い足跡をのこし歴史を生んだ組合に今新たな感慨を覚えるものであります。当時私は23才酪農をはじめて3年半、まだすべての面で初心者でありました。地域の先輩達になにも知らず従って秋深い24年11月嵐山町の中島精米所の庭先が初出荷でありました。
 そして翌春埼玉へ初進出した明治乳業系酪農協として産声をあげたのでありました。当時の先輩指導者達の決断と御苦労大変だったろうといつも考えお察ししております。当時埼玉酪農といえば森永系酪農協として埼玉に並ぶものなしの大組織でありその圧力やいかばかりだったかと察するにあまりありますが、屈せず決断し独立した先輩に今更乍ら敬意と感謝を表するものでございます。そして誕生がきびしい程仲間意識が強くなるものと思います。武蔵酪農の伝統である同志結合の所以はその辺に根ざしたものと考えます。私も常にそうした誇り高き武蔵の一員として恥じない組合員たるべくつとめたものでありました。
 しかしその後の組合は平坦な道ばかりでなく幾多の苦難な道が待ちうけておりました。小川プラントの問題、比企酪農協の拾円牛乳にからんだ問題、いつも続いている他酪農協との組合員の争奪戦、これには夜がけ朝がけ夜明かしの晩もしばしばあり役員はもとより参事、獣医の先生方こぞって奮斗した事は特に思い出深いものでございます。又組合内部の意見対立も数年続いた。思想的背影もあるやに感じられたが一時は組合を二分する恐れすら心配したものでした。そうしたさまざまな事件の背影にある時代の流れ。その時々の役員、参事等ご苦労が偲ばれよくぞここまで来たものだと実感するものでございます。
 私もその頃地域の同志の結合による協業酪農に夢をのせ希望をふくらませておりました。昭和35年(1960)から約5年間楽しみも苦しみも味わい時代の変転に対応出来ずはかない夢と消え去った訳でありますが、今当時を回顧してやはり素晴らしいころだったと自負しております。その頃私は酪農に休日を、とか、企業的酪農をと云った思想と、果ては自由社会の中の集団農業は協業だと地域の農地を含めて法人化し、企業的農業の楽園をと……。しかし時代は益々変化成長し経済発展を進めていました。追いつけない経済成長でありました。あの手この手と対策に必至になったがついに夢破れ消え去る運命にありましたが、武蔵酪農あればこそ画けた夢であり指導陣の充実がたよりの計画でありました。お世話になった事に感謝し乍ら若さあればこそのえがけた夢だったかと懐かしみ大事にしまっております。
 その後組合は多頭化、専業化の時代を迎えたのでございます。年々組合員の減少が続きその分組合は飼養頭数がふえていきました。玉川地区の組合加入も組合に大きな希望をあたえました。日産2万kg達成祝も組合の全盛期として懐かしく思い出されます。そしていつかは来る組合員百名時代にそなえたのでございます。及ばず乍ら私も組合指導陣と共に安定した専業経営のため微力をつくし共に勉強したものでありました。しかし酪農業をとりまく社会情勢の変化即ち押し寄せる都市化の現象は畜産公害をもたらし、規模拡大の阻害となっていったのでございます。組合も主生産地だった嵐山、滑川地区がますます減少し、玉川、川島地区へと移行していったのでございますが、それは組合指導部の一貫した施策の成果であり、ここにめでたく40周年を迎えられる大いなる力であったと信じるものでございます。
 不幸にして私は酪農歴33年、昭和53年(1978)末を最後に時代の流れに抗しきれず、幾多の夢と生涯をかけた希望を捨て転業の止むなきに至りましたが、拾年たった現在も目を輝かしひたむきに生きた頃の自分を懐かしみ乍ら時折テレビに移る乳牛を、牧場を、そして搾乳をしたしんでおります。
 組合発足当時お世話になった先輩の方々も今は数少なくなりました。他界された方々には只々御冥福をお祈りするのみでございます。そして今は退職されたと聞く田村参事、井上先生本当にお世話になりました。特に田村先生には創立と同時に組合職員として活躍され今もあの目黒500の音が忘れられず耳に残っております。あの時伊東先生と共に明治に戻れば輝ける将来が待っていたろうにと、武蔵のために一生をかけてくれた先生に深甚の敬意を表すものでございます。
 40周年記念誌に寄稿をお許しいただき思い出す儘に書いてまいりました。若しも失礼な点ありましたらお許し下さい。私も今は新たな人生の中で再び希望をもってそれなりに働いております。組合員の皆々様、益々御精進され御繁栄の程お祈り申し上げます。そして末ながくおつきあい御指導の程宜しくお願い申し上げます。終りになりましたが寄稿の栄を与へて戴いた役員の皆々様に厚く御礼申し上げまして粗文を終りといたします。有難うございました。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)94頁~95頁


武蔵酪農の歴史 22 私と酪農 小川町・成川昇兵 1990年

2010-01-23 21:29:00 | 比企地方

   私と酪農
          小川町 成川昇兵
 私が酪農を始めたのは、昭和22年(1947)8月の事でした。嵐山町広野の杉田重次さんから1万3千円で1頭の仔牛を購入致しました。それは。非常に暑い日でした。リヤカーに仔牛を乗せ、徒歩で自宅まで引いて来ましたが、朝から夕方までかかり大変な作業でした。昭和23年(1948)に埼玉酪農に入りまして、2年間総会にも出席しましたが脱退し、昭和25年(1950)に武蔵北部酪農設立と同時に入会致しました。同年3月初めて仔牛が出産し、原乳は東京乳業へ出荷しまして、出荷場所は、竹沢村下勝呂の宮沢辰平氏宅まで出荷し、必ず朝6時までには、横塚元吉さんが集乳に来ました。
 昭和26年(1951)11月23日に2回目の出産の時の事です。非常に難産で、集乳所所長伊東先生の出向を願い、6時間がかりで出産しましたが、仔牛は助かりましたが、親牛は残念ながら死んでしまいました。この時力が落ち、酪農をやめようかと思いましたが諦めきれず、親戚の群馬県松井田町の藤巻さんから初産の牛を購入し、酪農を続けました。昭和29年(1954)に搾乳牛3頭になり、同年度夏に行われた夏乳増産共励会に於いて一等賞になる事ができました。組合長浜中東重郎さんの時でした。昭和30年(1955)頃組合理事になりました。その頃組合長が決まらず、5日間もの間役員会を開催し、藤野組合長、鯨井副組合長が決まりました。その頃、わが家の経済状態は悪く、農業近代化資金を借り、経済の立て直し及び乳牛の増頭を計る事ができました。その借金も昭和40年(1965)には、返済が完了する事ができました。昭和43年(1968)12月23日に力士男山應輔の記念碑を立てる際には、組合の協力もいただきました。昭和55年(1980)家の新築もできましたが、これも酪農を続けてやっていたからです。酪農をやっていて本当に良かったと思います。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)93頁


武蔵酪農の歴史 21 四十周年によせて 滑川町・横田隆吉 1990年

2010-01-22 21:27:00 | 比企地方

   酪農と私
          滑川町 横田隆吉
 やっと終戦となり幸、生命あって、20年(1945)の12月生れ故郷の土を踏むことが出来た。喜んで家を見ると変わっていた。屋根は朽ちて数條の筋がついていた。周りの木の幹が想像以上の成育を見せていた。顧みると家を出てから8年もなんなんとしている。勿論必死で東京周辺を飛び廻っていたのだった。月日のたつのは早い。復員して10日目に父を亡くし、途方にくれて何も考えられないで、年の暮れを迎えざるを得なかった。教職にも戻れないし、公職はつけない運命である。悲しい田や畑はどうなっているだろう。然しこんなことでくじけてはいけない。こと戦争で生命財産を失った不幸の人が幾人いるかしれない。勇気をだそうと思ったのが酪農である。早速仔牛2頭を買い受け、厩舎で飼育が始まった。飼料に乏しく、冬枯の草を集めたり、山から青い葉を取ったり、僅かな稲藁を切ったり、飼料集めに懸命の日々を過ごした。春より秋にかけては、野草の刈取りで忙しかった、1年たっても成育は悪い。どうしたらよいか。思案にくれてあちらこちらを廻って、見たり、聞いたりしたやっぱり、麩糠等濃厚飼料の不足である、買うなら少しはあると云う人があったが、金は人間生活にあてて仔牛の飼料にはまわらない。軍隊でも1年半は無給、帰る電車賃は借りて帰る始末、戦争の苦しみが未だ続いているのだ。それから1年余り後、2頭を基として成牛を購入した。1年過ぎてやっと仔牛が誕生して搾乳が始まった。乳の出荷になり、先輩各位の指導を受け、1人前の牛飼いとなったのだ。
 其の頃は六軒の高坂清一さん、加田の小高睦治さん、新井実三郎さんはベテランの酪農人であった。乳は其の頃嵐山駅前の集乳所へ運んだ。自転車がリヤカーとなって、数人一組となって当番制で運んだのを思い出す。埼玉酪農の松崎孝了さんと話をして離別し、独立したのが昭和25年(1950)1月だった。交渉が難航したことを記憶に残る。当時伊東さんが指導者で信頼性厚く、多くの搾乳者は集団化し、明治乳業と契約し、現在の武蔵酪農の源泉となったのだ。それから組合長も藤野喜十さん、福島敬三さんとなり、事務所、倉庫の拡張と配合飼料機の導入、配合飼料の製造等、数多くの事業を時代の流れと共に遂行し、組合員の数乳量も多くなり、乳の処理場の増築、改築と並んで、小型ロリー車の設備等、活気に満ちた運営が続いた。私も全盛時代の理事或いは監事とお世話になって、昭和46年(1971)5月16日総会に於いて役員を引退させてもらい、昭和50年(1975)滑川村の公人となったので暇がなくなり酪農と別れを告げた。
 大変関係者並びに先輩各位等に御世話様になり、この期を借りてお礼申し上げます。組合の増々発展をお祈り致します。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)91頁~92頁


武蔵酪農の歴史 20 四十周年によせて 東松山市・大塚賢一 1990年

2010-01-21 21:25:00 | 比企地方

   四十周年によせて
          東松山市 大塚賢一
 戦後食べ物であれば何でも金に成る時代から、そろそろ安定の兆しが見えて一定収入が欲しいという事が考えられる様に成り、酪農を取り入れることにより、給与所得者の一ヶ月分位の現金収入が得られる事で、急速に当時の若者の間に広まったように思います。
 私も今振り返って見ると、何の事前勉強もせず白黒の牛を飼えば良いものと思い、人に進められるままにこの道にいとも簡単に飛びこんでしまった訳ですが、これも一つには若さ故に出来た事だったと思っております。爾来幾多の試行錯誤の繰り返しで中々実績が上がらなかった記憶があります。
 酪農が盛んになればなる、程当然のことの様に組合員の争奪の問題も、色々の内容を含んで繰り返された訳でありますが、私共の班でも他の組合から加入したいとの事で或る種の制約をしながら組合員に成っていただいた事が昭和三十一年(1956)から三年位に渡っての日記からも発見されます。そして当時は娯楽らしい娯楽もない時代であり乳代清算が楽しみの一つでもあった訳であります。
 僅かな会費で懇親会を持ち、明日の酪農についてよく語り合った訳でありますが、その事が又酪農振興の原動力にもなって居ります。班長宅では新年会を、唐子支部の総会は唐子小学校で開催され、同志的結合の輪を深めて行って黄金の武蔵酪農の時代を築いて行ったように感じております。
 歩けオリンピックの主催国オランダへ、東松山市の第一回派遣団の一員として丁度十年程前に視察に行って参りましたが、この国の面積は日本の九州とほぼ同じ位だそうですが、九十九パーセント平野と云われる様に見渡す限り平野であり、その大部分が牧草地であり、四、五十頭位づつの群れでのんびりと草を食べて居る様は、将に一幅の絵を見て居る様でありました。酪農の本場とは云え、一朝一夕にして現在の様に決して成ったのではなく、永い永い努力の結果であるとの話を伺いました。
 国においては国際競争に充分耐え得る様な体勢造りには強力な行政指導を行ったとの事、即ち意欲のある者には農地の移動等には積極的に指導もし、補助金等も優先し、反面乳価等には一切補助制度は認めなかったとの事です。今静かに日本の農政を振り返って見る時、深く反省させられる想いであります。
 幸いにして当組合には優秀な組合員が意欲を持って経営に精進されて居られる訳であり、40周年を期に尚一層の努力と飛躍を祈念致して筆を措きます。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)89頁~90頁


武蔵酪農の歴史 19 組合発足当時の思い出 小川町・島田俊雄 1990年

2010-01-20 21:36:00 | 比企地方

   組合発足当時の思い出
          小川町 島田俊雄
 当組合の創立当時は旧八和田村には乳牛を飼育して居る方が九十何人か居たが、搾乳をして居る者はごく少数で森永乳業会社の埼玉酪農に属し牛乳は大字中爪の村境で集め各人交替で「トンカー」に積んで菅谷の駅前迄運んで行った。その頃新しい組合を作ると云う気運がもりあがり能増の佐藤さんが来て一人でも多く仲間を集め実現しようと始まったのが武蔵酪農八和田支部の前身だと思う。仲間が力を合わせ集乳所を建てたが始めの内は水槽もないおそまつな物だったが段々と改善して行った。搾乳順で号数を定め、一斗缶に大きく印をし自転車で運搬すると云う程度だったが、集まると色々の話題が出て、乳運搬には相当な時間を費やしたが、給飼の話や搾乳の自慢話作物の作り方などが出て、大へん役立つことが多かったと思う。
 最初の頃は毎月の十一日が乳代精算の日で支部長が組合から現金で受けとって来て支部員が集合して各人の計算をし、お金を分配し終わると順番で会場の家で御馳走を出しお酒をくみ交わし、他の農家では見られない交友を深めて居たと思われる。
 時には計算が合わないで随分と遅くまでかかった事もあった。それから忘れられない事は殆どの方が牛は飼ったが後の事はお先無暗であったが、幸い能増に牛乳屋をして経験豊富な増田重作さんが居たのでお世話にならない人は居なかったと思う。
 今でも思い出すのはやっとの事で組織が出来組合員がぼつぼつ増えて来た小川町の井上某と云う方がプラントを経営すると云う事で組合員の切り崩しに会って、増田さんと私の父親で最後迄残るのは二人だけかなと話した事が今でも忘れる事が出来ない。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)88頁


武蔵酪農の歴史 18 酪農の思い出 平沢・奥平武治 1990年

2010-01-19 04:54:34 | 嵐山地域

   酪農の思い出
          嵐山町 奥平武治
 私が酪農について関心をもったのは戦後まもなくの事でした。その頃の農地は地力が使い果たされてしまい作物の成育などはほんとうに悪く惨めな有様でした。これを見た時に農業の将来には農地の地力増進が急務で有りこれを解決しなければ農業の発展は有り得ないと思い、酪農をやり地力増進を計るしか他に方法がないと気付きました。そして昭和22年(1947)に初めて千葉県から成牛一頭導入して私の酪農第一歩が始まったのです。当時の乳牛の価格は一頭当り7万円か8万円位でした。当時の状況は埼玉酪農と比企酪農と二つの組合があったのです。尚埼玉酪農は駅前に集乳所を持っており名実共にりっぱな組合でした。私は縁あって同志二人と一緒に比企酪農に加入したのであります。それから半年ばかり過ぎての事でした。当時は牛乳が不足して参りましたので酪農界にも新風が巻き起こったのであります。それは新しい組合を作って東京乳業と云う会社と取引をしようと云う呼び掛けが埼酪菅谷支部長であった山田眞平さんからあり、その時のお話で森永乳業は加工が主体であって高乳価は望めないとの事、それに比べて東京乳業は飲用牛乳が主体であるから高乳価で取引出来るし希望がもてる会社とのことでした。私も大いに賛同しまして組合作りに一生懸命に取組んで参ったのであります。
 当時を思うと組合は素より集乳所もなく、何もかも無いから厳しい出発でした。集乳所については菅谷の中島長太郎さんの所をお借りして細々と出荷を始めた訳です。その時の会社側の責任者は伊東勝太郎さんであり、尚運輸関係は横塚さんが引受けていただいたのでありますが、こうした方々は日夜分かたず組合作りに御協力を戴いたのであります。改めて心より感謝申し上げます。そして僅かの月日で苦労の甲斐あって現在地に組合が出発したわけであります。我々の望みが達成出来てほんとによかったと当時が偲ばれてなりません。その後職員と組合員の御努力によりまして現在の様な立派な組合になり発展を遂げられたのであります。終りに組合の発展と組合員の御繁栄を御祈り申し上げます。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)87頁


武蔵酪農の歴史 17 組合発足の想い出 菅谷・中島長太郎 1990年

2010-01-18 04:52:00 | 嵐山地域

   組合発足の想い出
          嵐山町 中島長太郎
 私の酪農に関しては戦中九年間の軍人生活のため中断して居たので途中の空白はお許し願いたい、農業の傍ら昭和の初期に精米業を営み生業として居たが、弟、徳三郎が、埼玉酪農に職員として勤めて居た事が、酪農への一歩であろうと思う、寄居の方から成牛を買い求め酪農はもっぱら妻が行なって居たようである。
 当時私は昭和十四年(1939)五月二十六日召集されて以後の事である。その後弟は召集され中支方面に出征した。戦争終了まで妻と酪農とのつながりが続いた。私は昭和二十三年(1948)七月一日に家に帰ったのである。当時駅前(嵐山駅)に牛乳処理場があり、弟も復員後、再び処理場に勤務して居たが結婚のため退職した。当時マッカーサーの占領下に有り埼玉酪農組合長松崎孝了氏が長期間勤務して居たが、組合内の事柄に一部不満が起こったようであり、特に比企地区の生産者に多かったようである。
 当時役員、松山地区・田中盈氏、野本地区・市川仙之助氏、菅谷地区・山田眞平氏、小川地区・吉田龍次郎氏等々の人達が中心となり米山料理屋に集合して対策を協議したようである。その結果埼玉酪農から、はなれる事は出荷先の森永乳業とはなれることにもつながるので出荷先の問題、新しく生れる組合員の参加等、未知数が非常な問題で設立に踏み切るに非常な決断が必要であった。然し時至り昭和二十四年(1949)仮事務所に拙宅の一部を提供、第一回の出荷を横塚氏の拂下げの木炭車で出荷先の明治乳業に出荷の運びとなった。組合参加者の数が出荷乳量を決める事であり、役員の心配は計り知れぬものがあったようである。第一回の出荷量は決して多いとは云えなかったがその時の喜びは、初代組合長吉田龍次郎氏他組合設立のために努力した人達の喜びの顔が目に浮かぶ。私は精米業に専念して居たので実感は薄いが陰ながら喜んで居た。将来が未知数な新組合の輸送を担当に踏み切ってくれた横塚氏に感謝し敬意を表したい。
 あの時の英知が今日の旭運輸に結びついたのではなかったか。さて組合は出来たものの乳牛は、生きものである。獣医が必要である組合からの要請で明治乳業より伊東獣医が組合専属となり伊東さんの人柄の良さと技術の優れて居た事が組合発展に役立った事は事実である。組合の非常な発展に伴い処理場の建設、獣医陣の拡大と授精師の確保等により組合発展にめざましいものがあった。組合長も非常勤が常勤になり専務の他、参事制が行われ当時獣医として勤務して居た田村氏を参事に迎え県下最大の組合になった。今かえり見て歴代の組合長以下各役員、組合員の皆様のそれぞれの立場の人々と故人をも含めて心からなる感謝を捧げ組合のかわりゆく社会の中での発展を祈って止まない。
 追伸 拙宅が仮事務所の時私が工場で作業中右手薬指切断の事故に遭い事務所に居た伊藤獣医に応急処置をして戴いた事です。組合設立四十周年を迎え薬指のない右手を眺め新ためて当時を想い出すのも、私の組合とのつながりかな、と手を見るたびに想い出す今日この頃です。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)85頁~86頁


武蔵酪農の歴史 16 40年前の思い出 横塚元吉 1990年

2010-01-17 08:27:45 | 嵐山地域

   40年前の思い出
          旭運輸株式会社 会長 横塚元吉
 滑川、市野川、都幾川の清流を囲む丘陵地帯に広がる森と田や畑、点在する農家の姿は、私の生れ育った頃の東京郊外、大井町や大森の山の手に良く似ています。私が終戦直後この地に永住することになったのも、その辺にあるかも知れません。又、東京で運送屋だった父の実家は、栃木県小山市の在で水田地帯ですが、田作りの外に、水車と牛舎で、当時小山町へ牛乳を売りに行っていたという。私がこの土地に住んで酪農家の牛乳を輸送することになったのも、全くの偶然ではなかったのかも知れません。
 終戦の際部隊長から、家業が運送屋だから運送業で日本の復興に寄与せよ、とトラックの払い下げを受けたけれど、運ぶ物のない農村地帯で、どうしたら良いのか途方に暮れていた時、この地方は酪農地帯なので、これから牛乳の輸送にトラックが必要なので、我々の仕事を手伝ってくれと、当時菅谷駅前に有った埼玉酪農比企集乳所の保泉所長さんから言われてこの道に入ったのです。でも牛乳は二斗缶で六本位しか集まって来ない。リヤカーに積んで東上線の電車の運転室に乗せて、寄居の森永工場に送っていたので、私のトラックでは飼料の配給があった時運ぶ位でした。
 トラックは持っていても収入にならず、然し世の中はうまく出来ていて、東京に帰る疎開の人達の引越荷物を頼まれて忙しく、収入も安定して生活できました。一カ年程経ち牛乳も大分増え、トラックで輸送するようになりましたが、それでもボデーの半分位でした。ボデー一杯になったら直接東京送りにするというので、楽しみに頑張りました。それから三年忘れもしません、昭和二十四年(1949)の春でした、東京直送が実現しました。
 その年の秋、埼酪から分かれて比企郡の酪農家が、明治乳業に出荷しようと同志が集まり武蔵酪農が設立され、当然私も明治の乳を運ぶ事に成りました。埼玉県最大にして唯一の埼玉酪農、そして森永から明治へと変る事は、当時の酪農界にとって大変な事でしたが、心を同じにする人達の固い団結と熱血溢れる努力で、偉大な事業を成し遂げました。
 自来三十数年の今日に至る迄、日本のいや世界経済の変動、農政農業の曲り角を幾つも潜り抜け、県下でも有数な立派な組合に成長されました。然し往時活躍された諸先輩も既に亡き方も多く、思い出すと涙を禁じ得ません。私の今日あるのも、武蔵酪農の皆様のお陰であります。茲に厚く御礼を申し上げます。
 ありがとうございました。私事のみの記事、お許し下さい。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)83頁~84頁

※旭運輸株式会社は、現・アサヒロジスティクス株式会社