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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵酪農の歴史 30 人工授精の歩み 松本功 1990年

2010-01-31 06:01:45 | 嵐山地域

   人工授精の歩み
             松本功
 人工授精も普及され始めたのが昭和23年(1948)頃からではあったが、まだまだ雌牛を近くの授精所まで引いていき、直交させた。この辺でも菅谷の木村牛舎、玉川の田中牛舎、唐子の野原牛舎等々、旧町村に1~2軒位づつ牡牛舎があったが直交での利点もあったが弊害も多かった。武蔵酪農創立の昭和24年(1949)頃は食糧難、就職難で敗戦による経済恐慌で米麦中心の農業から毎月現金収入の得られる酪農をとり入れる人が多くなり1~2頭の軒下酪農ではあったが、毎日の乳量、毎月の乳代の自慢話しで「お早う千両」と云う言葉も出て、正に酪農は楽農であった。人工授精の普及率はS25年(1950)頃は50%強で1頭当りの年間乳量は3300㎏位、その後人工授精も急速に普及されS30年(1955)頃は普及率90%乳量4500㎏位となり組合員としても少しでも乳量の多い牛を求めるようになり雌牛の選択には基より種雄牛についても強い関心を持つようになり授精についても種雄牛を指名するようになった。
 昭和34年(1959)先輩の加藤授精師が退職したので後任として勤めてくれと云われ人工授精担当として奉職することとなる。当時は激動の酪農界ではあったが、大先輩及び諸先輩の寝食を忘れてのご努力とご活躍により創立10年にして県下屈指の組合となっていた。
 私の入ったS34年(1959)は組合員630名位乳牛頭数800頭位で組合長藤野喜十氏、専務山田巌氏、参事田村孝一先生、獣医井上、西川、小鷹の諸先生、事務員と牛乳処理系の諸先輩で全員15~6名で毎日活気に満ちていた。
 当時は授精も茶壷の様な形態魔法瓶に氷を入れ生の精液を運搬したが夏場など特に氷を切らさないようにするのに苦労した。
 当初の乗物は組合より貸与のオートバイ、メグロ350㏄で廻ったが何しろ半年位は道も又組合員宅も仲々みつからず道路も未舗装が多く砂塵が上がり厳寒の雪の日や雨の日のオートバイは身に応えた。でもS36年(1961)頃より乗用車も流行りだし組合でも役員の方々等の深いご理解で中古車ながらも名車のヒルマンを買って頂き先生方共、たまには乗せて貰ったが私も勇躍小型自動車の免許をとり、スバル360で廻れるようになり雨の日も風の日も苦にならなくなった。
 酪農組合も発展を重ね霞ヶ関の鋼管牧場のキングドンとキーノーターと云う種雄牛では間に合わなくなっがS37年(1962)頃より凍結精液が叫ばれ、我々授精師も度々講習会に参加、県の山下、入江、大竹の諸先生のご指導を受け、始めは4?のジャアーにドライアイス(-75℃)を入れ、グロンサン位の錠剤の凍結精液による受胎率試験を1年位行い、その後細ストロー式の試験も行い結局現在のストロー式となり保存も液体窒素(-196℃)となり半永久的となり、S43年(1968)より実用化となった。従って国内はもとより諸外国の名牛の種まで容易に手に入るようになり改良も一段と進んだ。
 その頃より日本経済も安定し工業立国へと進み始め第二種兼業農家も増え、酪農が落農となり立派なサラリーマンに転向する人も出るようになり、又楽農家は多頭飼育となり健全な酪農経営をめざして専業化して行った。
 S43年(1968)頃より優秀な遺伝子の固定化を図るため種雄牛の後代検定制度が始まり酪農家の血統書付きの牛に厳選された後代検定候補牛の種を授精し1候補牛に対し30頭位の娘牛を国が買い上げ2産程度まで飼育検定し基準点に合格した候補牛だけ後代検定済種雄牛として供用する制度に当組合でもS47年(1972)頃よりS60年(1985)まで大勢の組合員の皆さんにご協力を得てこの事業にも参加して頂き徐々にではあるが、この辺の搾乳地帯の目標である豊乳性、連産性、強健性に富んだ牛作りに励み、40年前より可成良い牛群となり1頭当り年乳量も6000㎏近くまで上昇してきた。
 これからは尚進んだ雌牛側からの改良技術も取り上げられ授精卵の移植に依って、めざましい改良が進められる事と思います。
 最後になりましたが創立40周年記念誠にめでたい極みでございます。組合及び皆さんの益々の繁栄をお祈り申し上げます。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)123頁~124頁


武蔵酪農の歴史 29 酪農獣医師として33年間の変遷 小鷹隆夫 1990年

2010-01-30 05:59:00 | 嵐山地域

   酪農獣医師として33年間の変遷
             小鷹隆夫
 酪農40周年に当り衷心よりお祝い申し上げます。記念誌発行に際し、私の武蔵酪農での生活を記してみたいと思います。
 私は、山間の村鳩山町(旧亀井村)の農家の4男として生を受け、戦時中の少労力の中で、兄弟協力農作業を手伝いながら成長。戦後29年(1954)酪農振興法が制定され、食物増産(動物性蛋白脂肪の摂取)が不可欠というので畜産が奨励され始めた時、動物愛護が社会に役立つ事に人生の生き甲斐を感じ獣医科に進学、農業と酪農の複合経営の中で、兄夫婦の家業を手伝いながら30年卒業。
 当時は就職難の時代で、先輩の西川奨先生を尋ね武蔵酪農を訪問。伊東勝太郎先生、田村孝一先生と出逢い、それが、その後33年間酪農にお世話になるきっかけとなりました。そして30年(1955)5月より就職の見つかるまで、技術見習として、大きな診療カバンを抱えて田村先生の単車の後に乗り、酪農家を訪問、乳牛に接し、獣医師としての自覚と責任が培われ教育されました。当時は組合員数611戸、毎日10軒からの往診で、夜は小島屋(旅館)さんに宿って廃用診断書の整理を手伝い、報酬3000円を藤野専務さんより頂いた事は今でも忘れる事は出来ません。
 4ヶ月の見習期間後、30年(1955)9月岐阜県恵那郡畜産連合会勤務(長野県境の観光地木曽谷馬籠の近く)。動物全てを対象に、自然と素朴な人情にふれながら一年一ヶ月。若林進先生転職により、武蔵酪農に招請されて31年(1956)11月奉職。
 当時、浜中組合長、藤野専務の管理体制のもとに、組合獣医師としての使命感が強調され、田村、西川両先生の技術指導に基づき、受精、診療に従事、疾病は単純で管理の失宜が多く、抗生物質などの科学療法剤の発達は、病気を容易にしてくれました。
 32年(1957)には、田村先生が健康を害され技術的に惜しまれながら組合参事に就任、以後、役職員の信頼のもとに、酪農振興、組合発展に尽力なされた功績は、まことに大きなものがありました。田村先生の代りに、家畜保健所より井上久雄先生が就任、主任となって、酪農経営改善指導、診療にと大いに努力され、酪農発展に貢献なされたことは承知の通りであります。
 この頃から、漸次、治療技術も進歩して、内科的な治療から外科療法が普及し、帝王切開手術(小見野高橋正照さん所有牛)を始め、盗食鼓張症による第一胃開腹手術が試みられ、充実した技術者のもとで診療に専念出来ました事を誇に思って居ります。
 33年(1958)12月には、長い間乳牛の改良増殖に尽くされた加藤留平受精師さんが転職。翌年1月松本功受精師さんが担当、多忙な時代を生産向上に献身的に尽され、43年(1968)より田辺郁彦受精師さんと共に協力、資質向上に努力されて現在に至って居ります。
 この時代は、機械器具が普及、生産基盤の確立、畜舎の造成も図られ、月輪、太郎丸には共同経営事業も始まり合理的な生産向上を目指して夢と希望に燃えた時代でした。指導部としても念願の診療自動車が購入され、獣医、受精師共に陣容も整い、酪農家の庭先には乳牛が悠然と草を食み、日光浴をし、反芻をしている姿を眺めながら、安定した酪農情勢の中で青春時代を過した懐かしい思い出も多い時でもありました。
 酪農はなやかなりし36年(1961)6月、技術的にも精神的にも大変お世話になり尊敬して居りました西川先生が転職。大山通夫先生が嘱託獣医として診療の一翼を担い、外科手術を得意として活躍することになりました。
 所が、全国的に30年後半より飼養戸数の減少が始まり、武蔵酪農に於いても47年(1972)には顕著となり、35年(1960)658戸、乳牛頭数1021頭数えた生産者も、47年(1972)145戸、乳牛頭数1539頭と戸数が極度に減少、これは小規模層の経営離脱によるもので、内部問題としては、生産性の低さ、所得規模の小ささ、労働周年拘束性が強い事等、外部問題としては、他産業の雇用機会増大が原因と考えられます。反面、規模拡大の動きも見られ、生産向上と一定所得額確保を目的として努力する様にもなって来ました。指導部に於いても、35年度より乳牛資質の改善と、基礎牛確保生産態勢確立のため、計画的に北海道導入が実施され、生産確保に全力を投球する事になりました。
 その間、井上先生が受乳場に転属、二人で苦労を共にした事もある大山先生も、45年(1970)12月小動物に専念のため転職。その後、井上先生と二人で診療、多忙の折には藤田利雄先生の御協力を頂き今日に至って居ります。
 47年(1972)以降は、徐々に戸数減少、多頭飼育という生産性収益性の高い経営形態へと著しく変化し、利益優先の時代へと変貌。51年(1976)にはオイルショック後の景気低迷の中、酪農経営の安定化が叫ばれ、更にその後も、生産調整、環境整備問題等、荒波にもまれつづけて来ました。
 一方疾病も、多頭飼育、省力管理という畜産経営形態の変化に伴い、粗飼料、運動不足による顕性的急性病から、陰性的慢性病へと変化。従来の単純な運動器病、消化器病に比べると大変複雑化して来ました。例えば、第4胃変位、産後起立不能、極度の運動器病、過肥による繁殖障碍、いわゆる代謝病中毒性疾患(ストレス病)等、新しいタイプの疾病へと移行し現在に至って居ります。58年(1983)には、異常産が発生(アカバネウイルスが原因)、難産による切胎、帝王切開手術が夜半に迄及ぶ事もありました。
 この様にして臨床生活33年を経て、今日、振り返って見ますと難産後の出生の喜び、子宮脱、開腹手術後の全快の安堵、又、加療の甲斐もなく廃用・死亡の苦い思い等、どの生産者の家にも、脳裏に刻まれ、決して忘れる事の出来ない思い出が、枚挙にいとまがない程でございます。
 現在、酪農界に於てもここ数年、畜産状況も厳しくなる一方で、農産物の自由化、生産調整下に於ける乳量、乳質問題、飼育者の高齢化、後継者問題、畜舎の環境による公害問題等、畜産経営のむずかしさが問われて来ております。
 この様な酪農形態変遷の中で、生産向上に試行錯誤、勤勉努力なされました生産者の皆様、又、技術的にも精神的にも御指導頂きました多くの先輩諸先生方、職員の皆様方に深甚なる敬意と感謝を表わすと共に、今後もますます酪農発展に御尽力下さいます事を御祈念申し上げます。
 ここに、酪農発足40周年を迎え、多くの先人の築いた偉大なる功績とご苦労を偲び、武蔵酪農発展を心から念願すると共に、今後共微力ながらも出来る限り尽力させて頂きたいと思っております。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)120頁~122頁


武蔵酪農の歴史 28 乳牛導入についての思い出 井上久雄 1990年

2010-01-29 05:57:00 | 嵐山地域

   乳牛導入についての思い出
             井上 久雄
 武蔵酪農の北海道乳牛導入事業は、昭和35年(1960)夏より第1回が実施され、約40回位総頭数1500頭以上の初妊牛、経産牛、優良牝牛が導入されました。
 始めの頃は貨車輸送で、ワム(8頭載)、ワ(6頭載)の貨車で1回に3~4頭位が到着しました。嵐山駅では貨車扱いが出来ないために小川町の貨車ホームで牛の引き取りを行いました。又当時は牛専用トラック等もなく普通2tトラックに三角枠を組み2頭の牛を乗せて配送したものです。こんな簡単な枠のため途中でトラックから転落した事故もありましたが大事に至らなかったと思います。又貨車の到着時間が夜のことが多く翌日午前十時頃までに清掃し返還する事は大変忙しいことでした。その後嵐山駅でも貨車到着が出来るようになり牛の配送も便利となりました。
 上乗りさん(貨車1~2両を受け持ち牛の乾草給与給水等をする人)について。津軽の東海林牧場の牧夫だと思いましたが結婚し新婚旅行に熱海温泉に行くのに東京まで二人で上乗り、その間の旅費は只その上、上乗り料金を貰ひ旅行の費用にしたときの事を聞き微笑ましく思ったものです。二人で貨車に乗車中ベッドが頑丈に出来ていなかったのか?二人の愛が強かったのか?牛の背中の上に落ちてしまい元通り直すのに大変苦労したとのこともあり上乗り仲間より大笑いされたそうです。
 夏は非常に暑く、冬は牛いきれと、貨車の中の環境は最悪です。馴れないと食事、トイレに行くのにも大変なことだと上乗りさんに苦労話を聞かされたものです。或る秋の輸送の時、台風のために函館で一週間も連絡線待ちをしたので乾草も殆んど無く、水だけで来たこともあったそうです。こんな時は牛を貨車積みしてから10日間もたって到着したのだと思います。貨車より降りてからも体がふらついているような事が有ったように思いました。購買時の面影もなく巻き腹となりみすぼらしい姿でした。牛の疲労度は最高だった事でしょう。
 その後、東北自動車道が仙台まで開通するようになり、大型トラック輸送が実施され輸送機関も短縮され3日位にて到着出来るようになりました。牛の疲労度も格段に改善されて現在に至っている状態です。
 稚内市勇知地区について、ホルスタイン農協の購買担当の木伏技師より遠くて不便な所だが小型で胃腸の丈夫な牛が居るとの事で早速田村参事と二人で、札幌発午前十時頃の急行に乗り午後五時頃稚内市に到着、市内より内陸部に35㎞位はいった所に、勇知農協があり、阿部さんと云ふ購買係により管内農家を巡回して、購買に当りました。道南の牛と比較して、足が短く、背が低く、粗飼料を多く喰っているためか胸囲は充分あり被毛も長く一見して粗野に見える牛でしたが丈夫であり基礎飼料も少なくてすむ経済効率の良い牛で武蔵の組合員に合ったような牛でした。1車購入するのに2日間位掛かったものです。その後この宗谷地方でも牛の購買に慣れて、こちらの要望を満たすようになってくれたと思います。
 阿部さんの後任の吉田さんですが、ユニークな人で、ポーラー化粧品のセールスマンで札幌より当地に来て農協職員として奉職するようになった方です。スマートで顔面の彫り深い人で宗谷地方に居ないような、そしてユーモアのある人で農家の信頼度の厚い購買担当者でした。組合にも牛の追跡調査のために来たこともあり、玉川支部に行ってもらったと思います。後年稚内支所の参事として勤務されて居たと思います。
 豊富農協管内の購買時であったと思いますが、放牧場でヒ熊に襲われて尻に熊の爪跡をつけた牛も購買したこともあります。多分唐子地区の組合員に抽選されたと思います。
 勇知抜海駅近くの西岡牧場でエコーランド系の2産目の牛を購買しました。この牧場の親父が特別の変り者であり農協の組合員にもならず、息子さんのみ組合に加入すると云った牧場であり借り入れ金など全くなく特別扱いされていた人と聞きました。此の時は経産牛の希望者は無くて初妊牛のみでありました。小型で黒い皮膚のよい牛であり、抽選会で町田さんに希望を曲げて取ってもらいました。この牛の系統が川島の町田さんで増えた、エコーランド系で現在も飼育されている牛です。
 2月購買では羽田沖で全日空機の墜落の残骸を見ながらの飛行は気持の良いものではありませんでした。千歳空港着陸前に田村参事はビールを注文するような事があり内心気持ち良くなかった事だったのでしょう。私も同感でした。
 勇知、厳冬2月購買の馬橇について、此の時期、除雪した道路以外はジープでも動く事は不可能なので馬橇で購買に当りました。元気の良いアングロノルマンの4才馬に箱付馬橇を引かせて4人乗りで約14㎞位の雪道山道を巡りました。この箱の中には品川アンカ2ケ毛布2枚で足を暖めながらですが寒くて手足が痛くなり橇より降りて雪道を走りやっと寒さに耐える事が出来た始末です。北国の冬の日は雲が来るとすぐ吹雪となり寒さが一段と厳しく感じられます。歩くと長靴の下の雪が、キュキュと鳴くのです。本当に雪国の生活は大変だとつくづく思いました。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)118頁~119頁


武蔵酪農の歴史 27 牛の流行性感冒発生に懐う 田村孝一 1990年

2010-01-28 05:55:00 | 嵐山地域

   牛の流行性感冒発生に懐う
              田村孝一
 組合発足して間もない昭和25年(1950)9月、突如として牛の流行性感冒が発生した。初発10日位にして埼玉県内全域に発生をみた。
 私の診療した初発牛は、菅谷村遠山地域が最初で9月の10日頃と記憶しているが、それから関係組合員の飼育する乳牛は殆んど全頭罹患し、体温上昇、呼吸困難、皮温不整、流涎、流涙、茫然起立、食慾不振、食慾廃絶等、呼吸器型、神経型、胃腸型の症状を呈し、軽症のものは一回の治療で回復したが、重症のものは数回の治療を要し、妊娠中のものは流産、早産も発生した。
 最盛期の9月中旬から下旬にかけて一週間~10日位は、伊東所長と共に夜も寝かせてもらえず診療活動も大変でした。
 薬品についても、当時は大動物専用薬は少なく、人医用薬を使用し、人間の10倍以上使用するため、菅谷の島本薬局、松山の辻薬局にお願いし薬品の調達も大変に苦労した。
 その当時、往診は自転車(西、竹沢約15㎞ 東、八ツ保約25㎞)だったので、初発後数日は間に合わせたが、罹患牛の増加が激しくなり集乳車を運転手つきで用意してもらい、東部は木村さんの小型トラック、西部は長谷川さんのオート三輪車をお願いした。
 オート三輪車の長谷部正ちゃんには随分と苦労をかけました。オート三輪車の助手席に乗せてもらい、膝に毛布を掛け夜になると私が居眠りをするので片手で私をささえ片手で運転をしたり大変だった。
 又治療の時、ブドウ糖やリンゲル液に、消炎鎮痛剤等アンプルをカットし混合する作業も手伝い、静脈注射の時、ブドウ糖を持つ手伝い、その時私は又注射針を持ち乍ら居眠りをするので、注射が終るのを確かめて合図をしてくれる等、手際よく助手の役割を果してくれて大変助かりました。
 長谷部さんも不眠不休が続いているので、そのうちに私が治療している時間にオート三輪車のボデーで仮眠する様になり、尚その後は長谷部さんの近所の古谷さんを頼み昼夜交替で運転してくれることになりました。
 或る時、松山から八ツ保小見野の地区【現・川島町】の診療を終え、木村さんの車で松山の駅まで送ってもらい、東上線の終車で嵐山駅におりると長谷部さんが駅前に待って居て、これから未だ数件往診を頼まれているということで早速竹沢方面にいくことになり、途中小川の町外れで、タイヤがパンクして雨の中2人は困惑したが、道路の端の親切な家の軒下をかり、10数ヶ所チューブに穴があいて仕舞ったところを根気よく直してくれた長谷部さんには頭が下がりました。
 結局この日も診療が終ると夜が明けて、私を下宿(月輪六軒、長谷部恭太様宅離れ家二階)に送って長谷部さんは雨の中集乳に出かけました。
 集乳の時間が私の仮眠の時間で、下宿に帰った朝、“おばさん”は集乳が終る時間頃まで私を起こさずに気をつかってくれ、組合員の方も朝早く往診の依頼に来ても大部待たされた様子でした。
 診療の時間も頼まれた順序でなく、地理的にコースを組んで往診するので朝早く頼まれても途中で隣の家の牛が発病したり、罹患牛が蔓延し計画した時間より次々遅れて夕方になっても未だ診てもらえないと云うことで、生産者には心配かけたり苛立たせたり大変迷惑をかけました。又怒られもしました。
 この様な状態が1週間から10日続き、最盛期は9月下旬頃で、猛威をふるった流感も1ヶ月余にして終息した。
 私の治療した頭数は約300頭に達し、流産した牛は数頭発生したが。斃死牛の発生をみなかったことは、組合員の皆様の協力によって若輩で未熟な私に幸運を与えてくれたものと感謝して居ます。
 この1ヶ月余にして300頭に及ぶ貴重な治療の体験が、私の将来の臨床生活に於ける大きな源となり、基盤となり、40年に亘ってお世話になるスタートでもありました。
 翌26年には、咽喉頭麻痺が散発し玉置獣医師と治療に当り大事に至らなかった。
 流感大発生の往時を偲び、その一駒を記しました。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)116頁~117頁


武蔵酪農の歴史 18 酪農の思い出 平沢・奥平武治 1990年

2010-01-19 04:54:34 | 嵐山地域

   酪農の思い出
          嵐山町 奥平武治
 私が酪農について関心をもったのは戦後まもなくの事でした。その頃の農地は地力が使い果たされてしまい作物の成育などはほんとうに悪く惨めな有様でした。これを見た時に農業の将来には農地の地力増進が急務で有りこれを解決しなければ農業の発展は有り得ないと思い、酪農をやり地力増進を計るしか他に方法がないと気付きました。そして昭和22年(1947)に初めて千葉県から成牛一頭導入して私の酪農第一歩が始まったのです。当時の乳牛の価格は一頭当り7万円か8万円位でした。当時の状況は埼玉酪農と比企酪農と二つの組合があったのです。尚埼玉酪農は駅前に集乳所を持っており名実共にりっぱな組合でした。私は縁あって同志二人と一緒に比企酪農に加入したのであります。それから半年ばかり過ぎての事でした。当時は牛乳が不足して参りましたので酪農界にも新風が巻き起こったのであります。それは新しい組合を作って東京乳業と云う会社と取引をしようと云う呼び掛けが埼酪菅谷支部長であった山田眞平さんからあり、その時のお話で森永乳業は加工が主体であって高乳価は望めないとの事、それに比べて東京乳業は飲用牛乳が主体であるから高乳価で取引出来るし希望がもてる会社とのことでした。私も大いに賛同しまして組合作りに一生懸命に取組んで参ったのであります。
 当時を思うと組合は素より集乳所もなく、何もかも無いから厳しい出発でした。集乳所については菅谷の中島長太郎さんの所をお借りして細々と出荷を始めた訳です。その時の会社側の責任者は伊東勝太郎さんであり、尚運輸関係は横塚さんが引受けていただいたのでありますが、こうした方々は日夜分かたず組合作りに御協力を戴いたのであります。改めて心より感謝申し上げます。そして僅かの月日で苦労の甲斐あって現在地に組合が出発したわけであります。我々の望みが達成出来てほんとによかったと当時が偲ばれてなりません。その後職員と組合員の御努力によりまして現在の様な立派な組合になり発展を遂げられたのであります。終りに組合の発展と組合員の御繁栄を御祈り申し上げます。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)87頁


武蔵酪農の歴史 17 組合発足の想い出 菅谷・中島長太郎 1990年

2010-01-18 04:52:00 | 嵐山地域

   組合発足の想い出
          嵐山町 中島長太郎
 私の酪農に関しては戦中九年間の軍人生活のため中断して居たので途中の空白はお許し願いたい、農業の傍ら昭和の初期に精米業を営み生業として居たが、弟、徳三郎が、埼玉酪農に職員として勤めて居た事が、酪農への一歩であろうと思う、寄居の方から成牛を買い求め酪農はもっぱら妻が行なって居たようである。
 当時私は昭和十四年(1939)五月二十六日召集されて以後の事である。その後弟は召集され中支方面に出征した。戦争終了まで妻と酪農とのつながりが続いた。私は昭和二十三年(1948)七月一日に家に帰ったのである。当時駅前(嵐山駅)に牛乳処理場があり、弟も復員後、再び処理場に勤務して居たが結婚のため退職した。当時マッカーサーの占領下に有り埼玉酪農組合長松崎孝了氏が長期間勤務して居たが、組合内の事柄に一部不満が起こったようであり、特に比企地区の生産者に多かったようである。
 当時役員、松山地区・田中盈氏、野本地区・市川仙之助氏、菅谷地区・山田眞平氏、小川地区・吉田龍次郎氏等々の人達が中心となり米山料理屋に集合して対策を協議したようである。その結果埼玉酪農から、はなれる事は出荷先の森永乳業とはなれることにもつながるので出荷先の問題、新しく生れる組合員の参加等、未知数が非常な問題で設立に踏み切るに非常な決断が必要であった。然し時至り昭和二十四年(1949)仮事務所に拙宅の一部を提供、第一回の出荷を横塚氏の拂下げの木炭車で出荷先の明治乳業に出荷の運びとなった。組合参加者の数が出荷乳量を決める事であり、役員の心配は計り知れぬものがあったようである。第一回の出荷量は決して多いとは云えなかったがその時の喜びは、初代組合長吉田龍次郎氏他組合設立のために努力した人達の喜びの顔が目に浮かぶ。私は精米業に専念して居たので実感は薄いが陰ながら喜んで居た。将来が未知数な新組合の輸送を担当に踏み切ってくれた横塚氏に感謝し敬意を表したい。
 あの時の英知が今日の旭運輸に結びついたのではなかったか。さて組合は出来たものの乳牛は、生きものである。獣医が必要である組合からの要請で明治乳業より伊東獣医が組合専属となり伊東さんの人柄の良さと技術の優れて居た事が組合発展に役立った事は事実である。組合の非常な発展に伴い処理場の建設、獣医陣の拡大と授精師の確保等により組合発展にめざましいものがあった。組合長も非常勤が常勤になり専務の他、参事制が行われ当時獣医として勤務して居た田村氏を参事に迎え県下最大の組合になった。今かえり見て歴代の組合長以下各役員、組合員の皆様のそれぞれの立場の人々と故人をも含めて心からなる感謝を捧げ組合のかわりゆく社会の中での発展を祈って止まない。
 追伸 拙宅が仮事務所の時私が工場で作業中右手薬指切断の事故に遭い事務所に居た伊藤獣医に応急処置をして戴いた事です。組合設立四十周年を迎え薬指のない右手を眺め新ためて当時を想い出すのも、私の組合とのつながりかな、と手を見るたびに想い出す今日この頃です。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)85頁~86頁


武蔵酪農の歴史 16 40年前の思い出 横塚元吉 1990年

2010-01-17 08:27:45 | 嵐山地域

   40年前の思い出
          旭運輸株式会社 会長 横塚元吉
 滑川、市野川、都幾川の清流を囲む丘陵地帯に広がる森と田や畑、点在する農家の姿は、私の生れ育った頃の東京郊外、大井町や大森の山の手に良く似ています。私が終戦直後この地に永住することになったのも、その辺にあるかも知れません。又、東京で運送屋だった父の実家は、栃木県小山市の在で水田地帯ですが、田作りの外に、水車と牛舎で、当時小山町へ牛乳を売りに行っていたという。私がこの土地に住んで酪農家の牛乳を輸送することになったのも、全くの偶然ではなかったのかも知れません。
 終戦の際部隊長から、家業が運送屋だから運送業で日本の復興に寄与せよ、とトラックの払い下げを受けたけれど、運ぶ物のない農村地帯で、どうしたら良いのか途方に暮れていた時、この地方は酪農地帯なので、これから牛乳の輸送にトラックが必要なので、我々の仕事を手伝ってくれと、当時菅谷駅前に有った埼玉酪農比企集乳所の保泉所長さんから言われてこの道に入ったのです。でも牛乳は二斗缶で六本位しか集まって来ない。リヤカーに積んで東上線の電車の運転室に乗せて、寄居の森永工場に送っていたので、私のトラックでは飼料の配給があった時運ぶ位でした。
 トラックは持っていても収入にならず、然し世の中はうまく出来ていて、東京に帰る疎開の人達の引越荷物を頼まれて忙しく、収入も安定して生活できました。一カ年程経ち牛乳も大分増え、トラックで輸送するようになりましたが、それでもボデーの半分位でした。ボデー一杯になったら直接東京送りにするというので、楽しみに頑張りました。それから三年忘れもしません、昭和二十四年(1949)の春でした、東京直送が実現しました。
 その年の秋、埼酪から分かれて比企郡の酪農家が、明治乳業に出荷しようと同志が集まり武蔵酪農が設立され、当然私も明治の乳を運ぶ事に成りました。埼玉県最大にして唯一の埼玉酪農、そして森永から明治へと変る事は、当時の酪農界にとって大変な事でしたが、心を同じにする人達の固い団結と熱血溢れる努力で、偉大な事業を成し遂げました。
 自来三十数年の今日に至る迄、日本のいや世界経済の変動、農政農業の曲り角を幾つも潜り抜け、県下でも有数な立派な組合に成長されました。然し往時活躍された諸先輩も既に亡き方も多く、思い出すと涙を禁じ得ません。私の今日あるのも、武蔵酪農の皆様のお陰であります。茲に厚く御礼を申し上げます。
 ありがとうございました。私事のみの記事、お許し下さい。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)83頁~84頁

※旭運輸株式会社は、現・アサヒロジスティクス株式会社


武蔵酪農の歴史 15 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-16 08:22:00 | 嵐山地域

 ここで、武蔵酪農発足当時の理想について2点の目標について述べたい。

1 処理場(クーラーステーション)の自主運営
 処理場の自主運営は最大の目標であったが、この問題については、先ず自己資金の確保に重点をおかなければならない為、伊東所長の協力指導を受けながら移管の交渉を進め、自己資金確保についても年々準備を重ね、漸く期も熱し処理場移管促進委員会が発足し具体化の段階に入った。(後述)

2 指導体制の確立、獣医師、人工授精師の確保
 戦後、乳牛を購入飼育することは、経済的にも非常に貴重な財産で、一旦事故が発生すると再起不能の様な環境にあった。
 そこで、組合員が安心して酪農経営を継続するには、獣医師を確保して何時でも現地指導が出来又急患に対応出来る体制が必要であり、尚他組合と対抗するためにもその必要性を感じ、当組合の役員会は逸早く若手獣医師の確保につとめた。次に簡単に獣医師、人工授精師の経緯を記しておくことにする。
 牛乳出荷と同時に会社の伊東獣医師が24年(1949)10月着任、続いて組合の獣医師として田村獣医師が25年(1950)2月着任し診療を開始した。伊東獣医師は所長としての業務が次第に多忙となり、組合側としては組合員の増加と共に組合の獣医師の増員が必要となり、26年(1951)7月玉置源吉獣医師が採用され診療に従事した。故あって玉置獣医師(後に明治乳業へ入社、現和光畜産社長)が退職。28年(1953)6月若林進獣医師採用、29年(1954)7月西川奨獣医師採用、31年(1956)7月若林獣医師は雪印問題で退職。
 直ちに当組合で実習勉強し岐阜に就職している小鷹隆夫獣医師に連絡、同意を得、31年(1956)11月採用、着任した。
 32年(1957)春、田村獣医師は、事務系にまわり(後、惨事就任)、井上久男獣医師が県畜産課を退職し、32年(1957)4月採用、勤務した。
 西川、小鷹、井上獣医師により万全の指導体制が出来上り、組合員600名の信頼を得、組合発展充実の基盤を成したのである。
 36年(1961)西川獣医師は新事業を志し、惜しまれて退職した。
 この時、組合の役員会は将来の組合員の構成等について検討し、組合の職員獣医師は井上、小鷹両獣医師を主体とし、地元関係の大山通夫獣医師を36年(1961)8月嘱託として採用し応援を求めた。10年後、45年(1970)12月大山獣医師は小動物の診療が多忙となり退職した。その後は嵐山町の藤田利雄獣医師の応援を得て今日に至っている。
 人工授精師については、加藤留平人工授精師が25年(1950)12月嘱託として勤務し、激動の時期を過ごし、32年(1957)4月職員に採用されたが、33年(1958)12月牛乳販売店開業のため退職。
 34年(1959)1月松本人工授精師を嘱託として採用。仕事に対する献身的な姿勢が認められ、36年(1961)4月職員に採用。田辺郁彦人工授精師の協力を得て、人工受精事業の充実に共々貢献された。
 特に井上獣医師、小鷹獣医師、松本人工授精師の各技術者については、30数年に亘り組合員の経営指導に又診療人工受精事業に永い間貢献され、尚今後共継続貢献されますことに感謝と敬意を表すると共に、他の関係技術者についても又同様であり、組合の発展に対する功績は大であった。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)23頁~24頁


武蔵酪農の歴史 14 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-15 08:19:00 | 嵐山地域

   武蔵酪農誕生(名称変更)
昭和31年(1956)5月5日 第六回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 611名
            出席者数 376名(内委任状68名)
           理事欠員につき選任  理事 松田 林造 選任
 第6回通常総会に於て緊急動議が出され、菅谷支部中島長吉氏より組合も益々発展し亦将来も規模拡大を実施してゆくためにも武蔵北部の北部を削除し、設立当初の理想であった武蔵酪農にしてほしい旨の発言あり。議長はこの動議を議案としての成立を議場に諮ったところ賛成を得、北部を削除することに挙手にて全員異議なく賛成し議決した。

昭和31年5月23日
     定款変更認可申請
       1 事務所 比企郡菅谷村大字菅谷234番地の4
       2 名 称 武蔵酪農農業協同組合
 他に数件の定款変更もあったが、同時に埼玉県知事大沢雄一氏に定款変更認可申請書を提出した。この件については福島敬三理事の並々ならぬ努力もあった。

   31指令農政収第1261号
     比企郡菅谷村
     武蔵北部酪農農業協同組合
 昭和31年5月23日申請の定款変更については、農業協同組合法第44条第3項の規定により認可する。
     昭和31年7月27日
                埼玉県知事 栗原 浩 印

昭和31年8月11日登記完了(浦和地方法務局小川出張所)
昭和31年10月9日 埼玉県知事 栗原 浩氏に登記完了報告を提出した。

    7月31日 獣医師 若林進 退職
    11月1日 獣医師 小鷹隆夫 採用
    12月31日     内田千鶴子 退職
  32年1月5日     小原洋子 採用
    2月19日     石川 友一 採用

○夏乳増産共励会開催
○家畜共済制度の改正により診療業務は共済制度に従った収入とし、家畜共済加入を推進する。
○野幌学園分校設置
○32年3月 倉庫増築 3.75坪 増築資金19万2610円

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)21頁~23頁


武蔵酪農の歴史 11 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-12 22:38:00 | 嵐山地域

○昭和29年(1954)度
昭和29年(1954)5月5日 第四回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 438名
            出席者数 330名(内委任状14名)
     7月1日 獣医師 西川奨 採用
     11月8日     内田千鶴子 採用
 乳質指導も段々と強化され、牛乳検査は県衛生部松山保健所の管轄で器具の取扱い、その他搾乳衛生等について秋池春雄技師が指導されると共に酪農家に対し食品衛生の理念についての教育もなされた。
○三保谷、高坂支部加入
○夏乳増産共励会実施 
○酪農振興法の施行により生乳取引き契約締結
○獣医専用オートバイ購入。
 前年の酪農ブームの喜びも、今年度は一転して乳価値下げ(1升7円)となり、酪農経営に多大の不安を与え、酪農ブームに乗って始めた酪農家、三保谷、高坂の生産者は乳牛価格の最高時に購入し、これから酪農の第一歩を踏み出す出ばなを挫かれ、苦境に追い込まれた。当組合獣医陣は飼育管理上の失敗なきよう、連日その指導に当り経営の安定に努めた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)19頁~20頁


武蔵酪農の歴史 10 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-11 21:02:58 | 嵐山地域

○昭和28年(1953)度
昭和28年5月10日 第三回通常総会開催 於菅谷村小学校
           総組合員数 398名
            出席者数 289名
            役員改選 理事 16名 監事 3名
     5月15日 組合長 濱中東重郎(非常勤)選任
           専務 大塚眞一(常勤) 選任
     6月1日  獣医師 若林進 採用

○6月第1回乳牛導入実施 導入頭数13頭 購買地 山形県 購買委員 山田、荒井、伊東他
○夏乳増産共励回実施
○第2回乳牛導入
 導入頭数20頭 購買地 山形県 購買委員 吉田、山下、荒井、山田、田村
○獣医用自動二輪車購
○育成牛共励会実施 菅谷会場50頭 小見野会場 50頭
 27年(1952)~28年(1953)にかけて生産量も上昇し、全国的に牛乳の争奪戦が展開され、乳業界は戦国時代となり、この近辺に於ての業界も農家に支払われる原料乳価は経済乳価から競争による乳価の上積みが行われるようになり、採算をこえての追従があった。所謂酪農ブームとなり有畜農家創設特別措置法制定と平行し農家は酪農へと転じ、自転車で手綱を持ち牛買いに歩く様があちこちに見られた。
 高坂村、三保谷村でも酪農の機運が高まり高坂では高坂農協が酪農部を作り、明治乳業と交渉が進み導入希望者は20数名に達し資金は農協が対応し、武蔵酪農に加入が決定し29年(1954)春山形導入を実施し田村獣医師が出張した。初妊牛価格15~18万。時を同じくして三保谷村に於ても12名酪農希望者が集まり岡野、石黒、関氏或いは三保谷村農務課の長沢氏等当組合の福島敬三理事の指導に依り武蔵酪農に加入が決定した。29年(1954)3月早速山形導入を実施し購買者4名、当局より1名、武蔵酪農から福島理事と田村獣医師が参加し11頭の初妊牛を導入した。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)18頁~19頁


武蔵酪農の歴史 9 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-10 21:33:46 | 嵐山地域

○昭和27年(1952)度
 昭和27年4月29日 第二回通常総会 於菅谷中学校
            総組合員数 383名
             出席者数 288名(内委任状65名)
 第二回通常総会に於て定款変更を上程し前定款を廃棄し、新定款に変更した。
 信用事業をとり入れられ貯金業務も開始された。
    5月12日 専務  山下武二(常勤)  辞任
    5月18日 専務  大塚眞一(常勤)  選任
    12月 1日 獣医師 玉置源吉退職
              (後に明治乳業入社現和光畜産KK社長)
 組合の運営も着々軌道に乗りつつあるも酪農戦国の世は厳しく近隣の小川に小川ミルプラントの設立計画(10円牛乳)が進み目先現乳の高買いが始まり、組合内部に於ても八和田、野本等の地域で蠢動的な様相が見えはじめ、数拾名の脱落者を出すに至った。(数年を待たずに乳代の遅延等が生じ崩壊し、出荷者は元の組合に戻るもの他の組合に出荷するもの等に別れた)
 かかるなかで、組合は着々事業を進め、当時は田畑は米麦主体の大切な財産であり飼料作物等普及については大変な苦労を費した。
 飼料作物指導圃設置について1支部5畝として種子を無償で交付し、推進に努めた。例1.2.3.の圃場設計を出し、各支部より希望を求め、次の通り野本例3、松山例1、大岡例1、西吉見例1、宮前例1、菅谷例3、八和田例1、福田例1、唐子例3、小見野例1、八ツ保例1、竹沢例1の圃場作付が実施され、これにより自給飼料普及推進が始まり、後に山林牧野等にイタリヤン等の牧草が播種されその推進が図られた。

○烏山工場(のちの東京工場)へ送乳
 大都市に於ける乳製品及び飲用牛乳の需要は年々増加の傾向にあり、この年の7月明治乳業は烏山工場(後の東京工場)を開設操業した。新烏山工場は、わが国で初めての高温短時間殺菌方式による市乳処理設備をもち、乳業界に大きな革新をもたらした工場で、当組合の原乳も新烏山工場へ送乳することになった。
 早速役員支部長会は全員新設操業した新烏山工場を見学した。
 玉置獣医師の退職により、獣医師の補充については伊東所長田村獣医師に一任し、当面手不足となった診療について自動二輪車の購入が検討された。
後に購入委員会に依り、メグロ500CCが獣医専用車として購入された。
 購入金額24万8000円資金は組合員の負担金によるものであった。
 この年度は小川プラント問題等もあり乳価問題について会社側貫当96円、組合側は100円で伊東所長と理事会に於て厳しい折衝が行なわれた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)17頁~18頁


武蔵酪農の歴史 8 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-09 06:51:55 | 嵐山地域

○昭和26年(1951)度
昭和26年5月3日 第一回通常総会 於菅谷小学校
           総組合員数 353名
            出席者数 299名(内委任状39名)
            役員改選 理事 16名  監事 3名
     5月8日 二代組合長 濱中東重郎(非常勤) 選任
            専務  山下武二(常勤)  〃
     7月4日 獣医師 玉置源吉 採用
     7月27日 理事会に於て事務所(会議室、宿直室を含む)
           建設が決定
           場所   集乳所の近辺  資金25万円以内
           建設委員 山田眞平 高坂清一 江野子吉
                (理事会で総て一任)
     8月1日 土地取得(中島照三氏より)
           菅谷村大字菅谷234番地の4
           面積30坪 取得価格1万円
     9月21日 事務所 木造平家 建坪15坪 建築価格23万円
            (宿直は獣医師に依頼)
○牛の流行性感冒について全頭予防施策を講じ、前任に比し発生は減少した。
○人工授精用二輪車購入(寄附金)
○乳質改善対策として落等乳防止等指導懇談会開催。
○興農資金貸付に依る乳牛導入。
○理事会内部に於て乳質問題に関連し集送乳事業の問題で討議がなされた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)17頁


武蔵酪農の歴史 7 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-08 06:48:00 | 嵐山地域

   その後の経過
○昭和25年(1950)度
 昭和25年7月東京乳業株式会社比企集乳所が新設され、伊東勝太郎氏が初代集乳所長に就任した。小松氏(現関東製酪KK社長)大貫、木下氏等受乳を担当し、小松氏は後に秩父(現全秩酪農)へ赴任した。
 武蔵北部酪農農業協同組合は、集乳所の一隅を借り発足した。
 組合事業については販売、購買、指導の諸事業が開始され、集送乳については横塚、長谷部、木村、志村の各氏が担当した。
 その頃の酪農家の乳牛の飼育頭数は一戸当り1~2頭で搾乳は1日3回搾った原乳は一斗缶又は冷し缶で井戸に吊して冷却保冷した。
 組合は各地域に集乳所の設置を計画していたが、菅谷村菅谷、平沢、千手堂、遠山、鎌形、宮前村月輪、伊古等、集乳所の近辺の組合員は自転車の荷台に一斗缶をつけ持ち込み、二本の持ち込みは稀であった。
元老の山田眞平氏関根茂良氏達は和服姿で姿勢よく自転車に乗り、原乳を運んだ姿も牛乳の争奪戦とは裏腹に一時代を憶わせる和やかな光景でもあった。
 東京の送乳については横塚氏(後の旭運輸社長)は木炭車のトラックの面倒をみながら二斗缶を荷台に積み二斗缶の間に氷を乗せシートを覆い乳質を気にしながら苦労して板橋工場へと送乳した。
 酪農の戦国時代の幕開けとでもいうべきか、各地域では隣の家はA組合、或いはB組合と複雑な環境のなかで引続き組合の支部長、役職員はメーカーと共に夜も休まず組合の理想をかかげながら、攻防戦を展開する長い道のりとなる訳である。
 牛乳の生産量も着々増量し夏期に於て日産10石を記録するに至った。
9月上旬~10月中旬にかけて突如、牛の流行性感冒が発生し猛威を振い殆んど全頭が罹患し、伊東所長、田村獣医師は昼夜にわたる診療活動に大変てあった。
 10月東京乳業KKは明治乳業KKと合併したので、原乳はそのまま明治乳業株式会社と取引きは継続された。

 生産態勢も着々軌道に乗り日産乳量も拾数石に達した。

○昭和25年(1950)12月17日
  拾石祝(日産)が菅谷中学校に於て盛大に行なわれた。

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)16頁


武蔵酪農の歴史 6 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-07 22:48:09 | 嵐山地域

   武蔵北部酪農組合の発足

○設立登記
 319名の同意者を得、組合員の協力と期待を担って1月22日創立総会を開催し、誕生した武蔵北部酪農農業協同組合は、2月19日付 定款その他必要書類を添え、設立許可申請書を発起人中島信治他15名により埼玉県知事大沢雄一氏に提出され次の通り許可された。

  25農協収160号
農業協同組合設立認可指令
    比企郡菅谷村
    武蔵北部酪農農業協同組合
               発起人 中島信治  他15名
昭和25年2月19日申請の武蔵北部酪農農業協同組合の設立について認可する
  昭和25年6月9日

                         埼玉県知事 印

 設立認可を受け8月18日出資の払込を完了した。
     総出資者数       327名
     総出資口数       1209口
     出資一口の金額     100円
     総出資金額      120900円
 昭和25年8月28日設立登記完了(浦和地方法務局小川出張所)
 昭和25年9月1日大沢雄一埼玉県知事に設立登記完了報告書を提出した。

○執行体制
 事務所を比企郡菅谷村大字菅谷232番地の3に置き武蔵北部酪農農業協同組合は発足した。
     (7月に新設された東京乳業比企集乳所の一隅を借用)

 理事会の互選により初代組合長専務が選出され
       組合長  吉田龍次郎(常勤)就任
       専務   山下 武二(常勤)就任

 昭和25年9月1日付で下記の者が職員に採用された。
  職員
       購買担当        荒井照雄
       診療〃    獣医師  田村孝一
       受乳〃         吉田愛子
(役職員共総立総会前後より業務を担当し、田村獣医師は2月1日着任2日より診療に従事した)
 昭和25年12月6日加藤留平人工授精師嘱託に採用。

○発足時の組合員名簿(327名)
菅谷村 45名
 武井與平 山田眞平 小林忠一 河合賢一 村田文作 内田時治
 西 忠一 奥平常太郎 内田喜雄 内田与市 内田惠一 山下武二
 関根茂良 関根金平 内田孫三郎 瀬山友治 簾藤庄治 根岸直次
 小沢庚一 小沢長助 川島重治 鯨井正作 根岸梅松 中島信治
 山岸一利 中島利恭 中島福治 関根常次郎 木村留造 根岸寅次
 中島年治 笠原傳吉 権田豊治 権田和重 権田昭三 島崎栄助
 島崎竹雄 高橋増三 根岸房吉 高瀬梅治 出野 好 侭田雪光
 深沢高義 武井治平 金子幾太郎
宮前村 60名 【氏名略】
唐子村 42名 【氏名略】
野本村 24名 【氏名略】
竹沢村 12名 【氏名略】
八和田村 18名 【氏名略】
松山町 21名 【氏名略】
大岡村 28名 【氏名略】
西吉見村 10名 【氏名略】
東吉見村 11名 【氏名略】
八ツ保村 30名 【氏名略】
小見野村 12名 【氏名略】
福田村 14名 【氏名略】

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)12頁~15頁