菅谷村鬼神神社臨時大祭は十、十一、十二日の三日間武運長久祈願祭も行ひ十一日には境内で小川署管内武道奨励会主催の二千六百年記念奉祝奉納武道大会を挙行、種目は柔、剣、弓、銃剣、出場剣士約四百余名
『埼玉読売』 1940年(昭和15)4月28日
昭和十五年六月廿九日 菅谷小学校長石川逸郎
菅谷村長殿
苗代害虫駆除状況報告の件
標記の件本校尋常科第三学年以上二日間に亘り実施仕り別紙の成績を収め候段及報告候
記
第一回 六月廿日
第二回 六月廿八日
苗代害虫駆除状況
字別 監督 回数 児童数 駆除害虫数
菅谷 関根 第一回 八八 一八八六七
服部 第二回 八六 二九六〇四
計 四八四七一
川島 長島 一 一九 八六〇七
大谷 二 一九 二〇一二四
計 二八七三一
志賀 初雁・山下 一 九四 三〇一七〇
同 二 九〇 二〇七一七
計 五〇八八七
平澤 杉山 一 四五 一五二六〇
同 二 四四 一六八八二
計 三二一四二
千手堂 木村 一 二〇 三一一八
同 二 二二 六二七〇
計 九三八八
遠山 内田 一 一九 三九五八
同 二 一九 一五七七
計 五五三五
大蔵 服部 一 六八 二一〇三二
宮島 二 六七 三七六五一
計 五八六八三
根岸 本郷 一 二〇 九七二五
同 二 一九 一一二一五
計 二〇九四〇
将軍沢 下田 一 三〇 一二四七七
同 二 二八 一二九六六
計 二五四四三
合計 二〇 一 四〇三 一二三二一四
二 三九四 一五七〇〇六
計 七九七 二八〇二二〇
昭和十五年六月廿九日 菅谷小学校長石川逸郎
菅谷村長殿
麦刈勤労奉仕状況報告
標記ノ件別紙ノ通リ及報告候
奉仕児童 尋五以上男女児童
麦刈リ勤労奉仕 昭和十五年六月廿二日
名 奉仕先 反別 監督 奉仕児童数
菅谷 中島仙太郎 五段 長島 二七
同 中島サダ 三段 同 二二
川島 島崎國治 三段 杉山 一八
同 権田織之助 六段 同 一八
志賀 多田浦吉 二段 初雁 一七
同 栗原七五郎 二段七畝 同 二四
同 根岸甚太郎 二段 同 一七
平澤 内田倭三郎 七畝 本郷 一七
遠山 山下豊吉 七畝 同 一二
千手堂 内田茂作 四段 服部 二九
大蔵 金井小市 二段 宮島 四六
同 金井栄一 三段 同 四六
同 金井好吉 二段 同 四六
同 柴田藤五郎 二段 同 四六
同 山下仁三郎 五畝 同 四六
総計 三町八段六畝
東洋農道振興 農士学校で
比企郡菅谷農士学校(金鶏学院)では二千六百年並びに創立十周年記念に二本農道の振興を強調満、朝、台、支中堅農村青年に呼びかけ廿三日より二泊三日の東洋農道振興大会を開催する。参加者は付近農家に分宿、講演と実習、討論に新態勢下の農道精神と実践を昂揚、日本農人の本来の使命を具現する、参加者は二百五十名で講演は「世界文明における没落と農村文化」「日本農村の使命」
『東京日々新聞』埼玉版 1940年(昭和15)8月18日
東洋農道振興大会 きのふ菅谷農士学校で
四百五十余名出席
比企郡菅谷村農士学校(金鶏学院)では二千六百年、創立十周年記念に日本農道の昂揚東洋農業の確立を期し満、蒙、支、台農村中堅に呼びかけ廿三、四、五の三日間同校に東洋農道振興大会を開催。大会第一日廿三日午後一時、文部、農林、拓務三大臣代理、吉田前厚生大臣、土岐県知事外多数の来賓を初め満蒙支内地参加者四百五十余名出席、大会総裁酒井忠正伯司会で国家斉唱、詔書捧読後会長土岐章子爵の挨拶三大臣を初め来賓の祝辞、外地来賓の紹介あって日程入り。午後二時半より同校検校菅原兵治氏の「日本農村の使命」三時間に亘る講演あって第一日を盛会裡に終了、各参加者は村青年団員の案内で付近農家に分宿、夜は宿舎に班別の農本座談会を開いた。第二日は午前八時学監安岡正篤氏の「文明と農村」同十時よりは九大出身済南大学教授[空白(朱経古か)]氏の講演、午後一時より本部提出の「東洋農村指導人士の連契」「東洋農道振興の方策」に関する全員協議会を開催。第三日は外地関係者の隣村大岡村農業視察後午前十時より視察団の意見発表後午後一時午餐座談会を開き閉会する
『東京日々新聞』埼玉版 1940年(昭和15)8月24日
弔辞
野辺の千草の霜枯れて満目蕭條たる此の日本村出身二勇士の村葬を執行するに當り謹んで弔辞を述ぶ。故騎兵上等兵藤縄茂樹君は今事変勃発後の昭和十三(1938)年一月習志野騎兵第十六聯隊へ現役兵として入営し武を錬り文を錬り聖戦参加を鶴首して待つ中昭和十四年七月故国の山河を後に征途に上り朝鮮龍山より北支派遣となり勇戦奮闘中北支山西省臨汾陸軍病院に於て名誉の戦病死を遂げられたり
又故歩兵上等兵星野幸吉君は補充兵としての任務を帯び家事に精励中名誉の応召により昭和十三年(1938)三月歓呼の声と萬才の旗と波とに送られ歩兵第二十二聯隊留守隊第二機関銃中隊に所属し北支方面にて戦斗中病魔の冒す所となり伊豫松山陸軍病院に入院後引続き自宅にて療養中不幸にして昭和十五年(1940)十一月病没せられたり惟ふに両勇士の愛国の至誠勇戦奮闘其の勲功等はこゝに縷々申し述べるまでもないことなれども軍人の本文発揮のため臣道実践を文字通り遂行し困苦に耐へ欠乏を忍び硝煙弾雨の中を獅子奮迅不幸にして病に殪るゝまでの苦斗は想像以上にして忠烈なる両勇士の行動は新東亜共栄圏の確立に将又新世界体制の建設の礎石たるものと信ず。抑も身を殺して仁を成すは軍人の本分なり生きては即ち股肱の責を全うし死しては即ち後人に範を遺し皇威発揚因りて以て益々遠く志以て達すべきといふべきなり
即ち爾後靖国靖国の神となり国を護り忠魂は村民の心を励まし又家名を挙げて不朽の誉を子孫に伝ふべし。忠魂以て瞑すべきなり
嘆けども両君は遂に帰らず。嗚呼悲しい哉
昭和十五年(1940)十二月二十一日
比企郡菅谷村長 岩澤彌市
※1940年(昭和15)12月21日、大蔵安養寺で行われた戦没者(星野幸吉、藤縄茂樹)の合同村葬での岩沢弥市菅谷村長の弔辞である。
参照:冨岡寅吉日記 昭和15年(1940)12月