目次
一 沿革
(一)白百合会以前
(二)白百合会の発足
(三)嵐山支部に改組
(四)連合会に改組
二 運営の実際
(一)連合会の現況
(二)五十三年度実施計画
三 結び
一 沿革
(一)白百合会以前
嵐山町修養団の産みの親は、何といっても越畑金泉寺住職塚本智導師である。氏が故小林慈海師に師事して小僧時代から全国を行脚し、特に人の道について講演を続けられた。金泉寺の住職になってからも慈海師をしばしば招いて講演会を主催し、師の名講演を聴く機会をつくられた。
塚本氏は華道、茶道にも秀で、昭和二十四、五年(1949、1950)の頃当時の女子青年有志を集め得意の未生流生花を伝え、茶道の極意を教授された。また本部発刊の白百合を奨めてその輪読会を重ねられた。
このことが「白百合会」を組織した発端となったのである。
(二)白百合会の発足
昭和二十六年(1951)四月一日、婦人会の有志及び女子青年有志約四〇名を会員として白百合会を組織することができた。
会を発足するため各地区婦人幹部を訪ね東奔西走趣旨説明に当ったのはもちろん塚本氏であるが、本部講師菅野辰三郎先生のご努力もまた発足を見る大きな力となったわけである。
白百合会は七か年続き、会長は次の方々である。
初代会長 藤野小松
昭二六年(1951)四月~二九年(1954)三月 三か年
二代〃 青木きよ
昭二九年(1954)四月~三一年(1956)三月 二か年
三代〃 金子ひさ
昭和三一年(1956)四月~三三年(1958)三月 二か年
事業として取上げた主なもの
白百合輪読会
講習会―指圧、着付、料理、生花等
講演会―主として本部講師
(三)嵐山支部に改組
昭和三十三年(1958)四月一日、白百合会を解散して、男女有志を会員とする嵐山支部に発展的改組をなした。男子有志の入団希望も相当数できたため、婦人幹部との協議を重ね改組に踏み切ったのである。
各地区の連絡統一を図り協力一致愛汗精神を普及徹底せしめると共に、総親和総努力の■をあげることを目的に掲げて再発足したものである。
支部の役員として会長一、副会長若干名、理事若干名、監事二名とし、会費は年一六〇円(誌代は別)として最近まで来た。昭和五〇年(1975)四月より年二〇〇円に引上げたのであるが、当支部が農村部を主体としている関係で、会費を上げることは会員数に影響を持つため、むやみに増額することはできない。
支部時代が昭和三十三年(1958)度より同四十九年(1974)度まで十七年間続いた。この間の会長は次の方々である。
初代 馬場覚嗣
昭和三十三年(1959)度 一か年
二代 安藤義雄
昭和三十四年(1959)度~四十四年(1969)度 十一か年
三代 飯島文八
昭和四十五年(1970)度 一か年
四代 安藤専一
昭和四十六年(1971)度~四十九年(1974)度 四か年
【以下、1978年1月以降、加筆されたもの】
五代 瀬山修治
昭和五十年(1975)度~五十六年(1981)度 六か年
六代 塚本智導
昭和五十六年(1981)四月~平成三年(1991)七月まで 九か年
七代 高木正好
平成三年(1991)七月より平成十三年(2001)
八代 市川昭二
平成十三年(2001)~平成十八年(2006)
九代 安藤欣男
平成十八年(2006)五月九日就任
県連会長大塚喜太郎氏平成参年(1991)七月辞任により
〃 〃 塚本智導
平成参年(1991)七月就任
塚本智導
平成十三年(2001)七月辞任
高木正好
同年(2001)七月三日就任
【ここまでは、1978年1月以降、加筆されたもの】
婦人部組織は白百合会当初から自ら備わり部長は塚本智導氏が兼職の形で長く勤続されてきた。
青年部組織を持つことは当支部の誇りの一つである。青年部事業として毎年継続されているものは次の通り。
1、少年少女キャンプ参加
2、少年少女一夜講習会
3、沖縄キャラバン参加
4、郡内キャラバン
5、集会 毎月一回
青年部発足は昭和四十三年(1968)四月で、部長は次の通りである。
初代部長 高木正好
昭和四十三年(1968)四月~四十八年(1973)三月 五か年
二代〃 根岸幸雄
昭和四十八年(1973)四月~五十年(1975)三月 二か年
三代〃 小林秀雄
昭和五十年(1975)四月~五十一年(1976)三月 一か年
四代〃 持田導雄
昭和五十一年(1976)四月~現在に至る
(四)連合会に改組
昭和四十九年(1974)九月十八日、嵐山支部創立二十周年記念事業として「洗心と演芸のつどい」を開催したのであるが(八百余名参加)、この大会を契機として一挙に六〇〇余の会員を得ることができた。各地区幹部役員から現支部を発展的解消して連合体を再組織しようではないかという声が興った。そこで再三の理事会を開催し、
来春四月総会に諮って連合会に改組する。
総会までを改組の研究期間として、種々研究討議する。
ということに一決した。
五〇年(1975)四月十五日定例総会の結果、嵐山町連合会に改組することが決定し、連合会則、各支部規約等も決定して四月一日にさかのぼり施行することとなった。
連合会長には安藤支部長が推され、管下に十五の支部が新たに生れそれぞれの支部長も決定された。
連合会役員 次の通り
会長 安藤専一
副〃 小沢文定、飯島文八、福島市平、瀬山修治、関根天津
監事 市川源三、清水重平、坂本幸三郎
庶務 会計 藤田正作
書記 高木正好
事務局長 塚本智導
組織部 部長 飯島文八
副〃 島田忠治、市川美智子
青年部 部長 持田導雄
副〃 中島 穣、権田寿美子
婦人部 部長 滝沢ちよ
副〃 市川博子、飯島い志、権田達子、強瀬松子
根岸マサ子、大塚満津、高橋らく、船戸きく
理事 古里 ○飯島文八
飯島竹吉、大塚はる
吉田 ○小沢文定
島田忠治、藤田正作、松本芳治
越畑 ○福島市平
強瀬喜平、土橋きぬ、船戸きく、市川博子
市川美智子、強瀬松子、持田とし子
勝田 ○大野友次
広野 ○高木正好 永島彦次郎
杉山 ○阿部やす 内田実男
太郎丸 ○田幡文雄
菅谷第一 ○根岸マサ子 内田忠治、根岸福寿
〃 第二 ○関根天津
川島 ○権田達子 篠崎ふく
志賀 ○清水重平
平沢 ○神村貞雄 内田義雄
千手堂 ○瀬山修治 瀬山よし
遠山 ○大須賀たつ
鎌形 ○中島文恵 長島 嵩
大蔵 ○金井当恒 新藤唯一
連合会の活動面については省略し、別項の運営の実際(二)を参照されたい。
二、運営の実際
(一)連合会の近況
○年間予算
昭和五一年(1976)度 一三五、〇〇〇円 誌代加味 二五三、〇〇〇円
〃 五二年(1977)度 二八五、〇〇〇円 〃 四五三、〇〇〇円
○傘下組織
支部 一五 会員計約三〇〇
青年部 部員数 約三〇
婦人部 〃 約二〇〇(三〇〇の内)
○団員数
旧永生 三五 新永生 八〇 計一一〇
普通団員 向上 〇
〃新聞 一五〇
愛 二四三
延 五〇三
実 約三〇〇
(一)活動組織
【別表1】
(二)昭和53年(1978)度実施計画
【別表2】
三.結び
今年は昭和五十三年戊午年である。今年こそ心を引き締めて修養団本来の正しき道を外れることなく愛汗一如の姿を胸に抱いて大きく突進せねばと固く天地神明に誓った。
鐙締め軌道進まん
午の春
昭和五十三(1978)年一月
連合会長 安藤専一 記