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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

修養団嵐山町連合会の沿革と運営の実際 安藤専一 1978年

2010-01-01 13:33:35 | 修養団

目次
一 沿革
 (一)白百合会以前
 (二)白百合会の発足
 (三)嵐山支部に改組
 (四)連合会に改組
二 運営の実際
 (一)連合会の現況
 (二)五十三年度実施計画
三 結び

一 沿革
(一)白百合会以前
 嵐山町修養団の産みの親は、何といっても越畑金泉寺住職塚本智導師である。氏が故小林慈海師に師事して小僧時代から全国を行脚し、特に人の道について講演を続けられた。金泉寺の住職になってからも慈海師をしばしば招いて講演会を主催し、師の名講演を聴く機会をつくられた。
 塚本氏は華道、茶道にも秀で、昭和二十四、五年(1949、1950)の頃当時の女子青年有志を集め得意の未生流生花を伝え、茶道の極意を教授された。また本部発刊の白百合を奨めてその輪読会を重ねられた。
 このことが「白百合会」を組織した発端となったのである。

(二)白百合会の発足
 昭和二十六年(1951)四月一日、婦人会の有志及び女子青年有志約四〇名を会員として白百合会を組織することができた。
 会を発足するため各地区婦人幹部を訪ね東奔西走趣旨説明に当ったのはもちろん塚本氏であるが、本部講師菅野辰三郎先生のご努力もまた発足を見る大きな力となったわけである。
 白百合会は七か年続き、会長は次の方々である。
  初代会長  藤野小松
         昭二六年(1951)四月~二九年(1954)三月 三か年
  二代〃   青木きよ
         昭二九年(1954)四月~三一年(1956)三月 二か年
  三代〃   金子ひさ
         昭和三一年(1956)四月~三三年(1958)三月 二か年

 事業として取上げた主なもの
  白百合輪読会
  講習会―指圧、着付、料理、生花等
  講演会―主として本部講師

(三)嵐山支部に改組
 昭和三十三年(1958)四月一日、白百合会を解散して、男女有志を会員とする嵐山支部に発展的改組をなした。男子有志の入団希望も相当数できたため、婦人幹部との協議を重ね改組に踏み切ったのである。
 各地区の連絡統一を図り協力一致愛汗精神を普及徹底せしめると共に、総親和総努力の■をあげることを目的に掲げて再発足したものである。
 支部の役員として会長一、副会長若干名、理事若干名、監事二名とし、会費は年一六〇円(誌代は別)として最近まで来た。昭和五〇年(1975)四月より年二〇〇円に引上げたのであるが、当支部が農村部を主体としている関係で、会費を上げることは会員数に影響を持つため、むやみに増額することはできない。
 支部時代が昭和三十三年(1958)度より同四十九年(1974)度まで十七年間続いた。この間の会長は次の方々である。
  初代 馬場覚嗣
      昭和三十三年(1959)度 一か年
  二代 安藤義雄
      昭和三十四年(1959)度~四十四年(1969)度 十一か年
  三代 飯島文八
      昭和四十五年(1970)度 一か年
  四代 安藤専一
      昭和四十六年(1971)度~四十九年(1974)度 四か年

【以下、1978年1月以降、加筆されたもの】
  五代 瀬山修治
      昭和五十年(1975)度~五十六年(1981)度 六か年
  六代 塚本智導
      昭和五十六年(1981)四月~平成三年(1991)七月まで 九か年
  七代 高木正好
      平成三年(1991)七月より平成十三年(2001)
  八代 市川昭二
      平成十三年(2001)~平成十八年(2006)
  九代 安藤欣男
      平成十八年(2006)五月九日就任

 県連会長大塚喜太郎氏平成参年(1991)七月辞任により
 〃 〃 塚本智導
      平成参年(1991)七月就任
     塚本智導
      平成十三年(2001)七月辞任
     高木正好
      同年(2001)七月三日就任
【ここまでは、1978年1月以降、加筆されたもの】

 婦人部組織は白百合会当初から自ら備わり部長は塚本智導氏が兼職の形で長く勤続されてきた。
 青年部組織を持つことは当支部の誇りの一つである。青年部事業として毎年継続されているものは次の通り。
  1、少年少女キャンプ参加
  2、少年少女一夜講習会
  3、沖縄キャラバン参加
  4、郡内キャラバン
  5、集会 毎月一回

 青年部発足は昭和四十三年(1968)四月で、部長は次の通りである。
  初代部長 高木正好
        昭和四十三年(1968)四月~四十八年(1973)三月 五か年
  二代〃  根岸幸雄
        昭和四十八年(1973)四月~五十年(1975)三月  二か年
  三代〃  小林秀雄
        昭和五十年(1975)四月~五十一年(1976)三月  一か年
  四代〃  持田導雄
        昭和五十一年(1976)四月~現在に至る

(四)連合会に改組
 昭和四十九年(1974)九月十八日、嵐山支部創立二十周年記念事業として「洗心と演芸のつどい」を開催したのであるが(八百余名参加)、この大会を契機として一挙に六〇〇余の会員を得ることができた。各地区幹部役員から現支部を発展的解消して連合体を再組織しようではないかという声が興った。そこで再三の理事会を開催し、
  来春四月総会に諮って連合会に改組する。
  総会までを改組の研究期間として、種々研究討議する。
ということに一決した。
 五〇年(1975)四月十五日定例総会の結果、嵐山町連合会に改組することが決定し、連合会則、各支部規約等も決定して四月一日にさかのぼり施行することとなった。
 連合会長には安藤支部長が推され、管下に十五の支部が新たに生れそれぞれの支部長も決定された。
  連合会役員 次の通り
  会長  安藤専一
  副〃  小沢文定、飯島文八、福島市平、瀬山修治、関根天津
  監事  市川源三、清水重平、坂本幸三郎
  庶務  会計 藤田正作
      書記 高木正好
  事務局長  塚本智導
  組織部 部長  飯島文八
      副〃  島田忠治、市川美智子
  青年部 部長  持田導雄
      副〃  中島 穣、権田寿美子
  婦人部 部長  滝沢ちよ
      副〃  市川博子、飯島い志、権田達子、強瀬松子
          根岸マサ子、大塚満津、高橋らく、船戸きく
  理事  古里  ○飯島文八
           飯島竹吉、大塚はる
      吉田  ○小沢文定
           島田忠治、藤田正作、松本芳治
      越畑  ○福島市平
           強瀬喜平、土橋きぬ、船戸きく、市川博子
           市川美智子、強瀬松子、持田とし子
      勝田  ○大野友次
      広野  ○高木正好 永島彦次郎
      杉山  ○阿部やす 内田実男
      太郎丸 ○田幡文雄
      菅谷第一 ○根岸マサ子 内田忠治、根岸福寿
      〃 第二 ○関根天津
      川島  ○権田達子 篠崎ふく
      志賀  ○清水重平
      平沢  ○神村貞雄 内田義雄
      千手堂 ○瀬山修治 瀬山よし
      遠山  ○大須賀たつ
      鎌形  ○中島文恵 長島 嵩
      大蔵  ○金井当恒 新藤唯一
 連合会の活動面については省略し、別項の運営の実際(二)を参照されたい。

二、運営の実際
(一)連合会の近況
 ○年間予算
  昭和五一年(1976)度 一三五、〇〇〇円 誌代加味 二五三、〇〇〇円
  〃 五二年(1977)度 二八五、〇〇〇円  〃   四五三、〇〇〇円
○傘下組織
支部 一五  会員計約三〇〇
 青年部 部員数 約三〇
 婦人部  〃  約二〇〇(三〇〇の内)
○団員数
旧永生  三五   新永生  八〇  計一一〇
普通団員 向上    〇
     〃新聞 一五〇
     愛   二四三
      延  五〇三
      実 約三〇〇

(一)活動組織
   【別表1】

(二)昭和53年(1978)度実施計画
  【別表2】

三.結び
 今年は昭和五十三年戊午年である。今年こそ心を引き締めて修養団本来の正しき道を外れることなく愛汗一如の姿を胸に抱いて大きく突進せねばと固く天地神明に誓った。
       鐙締め軌道進まん
             午の春
   昭和五十三(1978)年一月
          連合会長 安藤専一 記


母に導かれて仏門へ 修養団・塚本智導さん 1997年

2009-12-30 07:07:00 | 修養団

   幸せの種まきの仲間たち
     埼玉県連合会会長  塚本智導さん 1
          『向上』1024号 1997年(平成9)6月

   母に導かれて仏門の道へ
 昨年(1996)二月十一日に創立九十周年を迎えた財団法人修養団は、十一月十八日に秋篠宮、同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、文部大臣はじめ多くのご来賓、社会教育団体や青少年団体の代表、さらには日本全国の会員やブラジルからの会員など千五百人余の参加を得て、九十周年記念大会を開催した。
 参加者の三分の一を越える五百人余は、埼玉県連合会の会員であった。確かに、地の利という便もあったが、埼玉からこんなに多くの人が参加したということは、埼玉県連合会が活発な活動をしている証しでもある。が、なんといっても、先頭に立って人集めに協力してくれたのが、ここに登場する塚本智導さんである。
 塚本さんは、父親・佐助、母親・豊(とよ)夫妻の長男として、大正四年(1915)一月十二日、現在の岐阜県高山市に生まれた。幼名を定次(さだじ)といい、妹・文子との四人家族に育った。塚本家は、雑貨店を生業としていた。
 一般的にいって、こうした書き出しで始まると、すぐに本人のことについて書き始めなくてはならないのだけれど、塚本さんの場合、どうしても、お母さんのことについて触れないでは、前にすすめない。
 冒頭にも触れたように、塚本さんの母親の名は豊というが、その後、仏門に入り豊光(ほうこう)と改名した。
 父親・佐助さんは、大正十四年三月四日、四十二歳でこの世を去る。塚本さん十歳のときのことである。まだ小学校在学中のことでもあり、悲しかったという思い出はあるが、佐助さんのことについてはあまり記憶にない。やはりなんといっても、豊さんにまつわる思い出のほうが鮮烈であり、強い印象として残っている。
 後になって聞いたことだが豊さんが当時のことを振り返って、塚本さんに話している。
 「夢枕に一人の黒い服を着た僧侶が現れて、お前の寿命は三十四歳までだが、お前を生まれかえらせてやる。お前の体を借りて、世のため人のためになってもらいたいからだ」と。
 びっくりした豊さんは、近隣の人に呼びかけて集まってもらったら、夕方六時頃、白装束の豊さんが、バッタリとたおれ、約二時間ほど呼吸がとまっていたという。
 「私がたおれていたとき、美しいお花畑を歩いていると、白髪の方が手招きして『お前はまだこっちにきてはいけない。元の世界に帰りなさい。二十一人の人がお前を待っているから。そして、和歌山の高野山へいきなさい。なにかが掴めるはずだから』とおっしゃって、帰してくれたんだよ」と。
 豊さんは、二時間ほど呼吸が止まり、医者からも臨終の宣言がなされたが、息を吹き返したとき、豊さんを見守っていたのは、予言どおり二十一人の人だったと言う。
 あの世にいくことを拒絶された豊さんは、佐助さんの四十九日法要が終わると、高野山詣でのため行脚に旅立った。後に触れるのだが、塚本さんをお寺に預け妹の文子さんだけを連れて行った。
 またまた不思議な話だが、高野山へ行くように夢枕で指示された豊さんは、高野山に赴くが、どこへ行けばいいのかわからない。苦労に苦労を重ねたずね歩いているとき、ふと、あるお寺の前で足が止まり、足の赴くままにそのお寺の門をくぐると、その住職が、またまた不思議なことをおっしゃったという。
 「昨夜、私の枕元に仏さんがお立ちになり、こうおっしゃったんだよ。『いいか。明日、子どもを連れた女性が、お前をたずねてくる。その女性は私の名代だから、ていねいに応対しなさい』と。なるほど、あなただったのか。不思議に思いながらも、待っていたのだよ。よく来た。よく来た」と招いてくれた。
 こうして高野山に滞在した豊さんは、修業を重ねハッキリと霊感を得るようになる。いわゆる神憑りの道を歩むようになる。
 豊さんの自伝ではないので詳しい紹介はひかえるが、豊さんの風聞はアッというまに各地に広まり、多くの信者を得るようになる。北陸地方、東海地方の各寺院などに招かれて布教した。その効用は、
  一、足腰の起たなかった人が歩けるようになる
  一、豊さんが触れただけでイボがとれる
  一、内臓に苦しんでいた人が全快する
 などなど、枚挙にいとまがないほどであった。
 塚本さんに「お母さんにお世話になった。今日の私があるのはすべておかあさんのお陰である」などと具体的に話してくれる人も一人や二人ではなかったことからも信憑性は高い。そうして恩を感じた人達が、霊泉寺(愛染堂)というお寺へ迎えてくれた。現在でも境内に、昭和十三年(1938)建立された信者たちによる碑が立っている。お供え物などがあると、貧しい人々に施したりしたので多くの人から慕われていたと言う。そうした豊さんは、昭和三十二年(1987)八月十六日逝去する。
 一介の雑貨店のおかみさんが、神憑りの人になったのが、塚本さんを仏門の道へ歩ませることとなる。

閑話休題〕前にも触れたように、父親・佐助さんの四十九日法要を済ませ、母親・豊さんが妹・文子を連れて高野山に向かって旅立ったのと同時に、塚本さんはお寺(久唱寺)に小坊主として預けられる。まだ十歳のときのことである。
 いくら父親がなくなり、母親に命じられたとはいえ十歳の子どもにとってはつらい修行生活だったに違いない。早朝起床、床掃除などの朝の行事などは、腕白で気ままに育ったいたずら盛りの少年にとっては、耐えられぬ苦労だった。半年あまりで母の元へもどった。
 大正末期から昭和初期の古きよき時代に少年時代を過ごした塚本さんは、世間一般の少年がそうであったようにのびのびと育った。どちらかと言えば、大柄だった塚本さんはガキ大将であった。仲間のなかではいつも親分であり、慕われていたと言う。
 当時の高山には、自然がいっぱいあり、野山を走りまわったり、動植物と戯れたり、相撲をとったり、三角ベースの野球をしたり、運動会の騎馬戦ではいつも乗り手になったりして少年期をのびのびと送り、尋常小学校六年、高等小学校二年を過ごした。

     『向上』1024号 1997年(平成9)6月


小林慈海さんとの出会い 修養団・塚本智導さん 1997年

2009-12-30 07:02:00 | 修養団

   幸せの種まきの仲間たち
     埼玉県連合会会長  塚本智導さん 2
          『向上』1025号 1997年(平成9)7月

   母に導かれて仏門の道へ
 前回触れたように、神憑りになった豊さんの噂は広まり、その噂を聞きつけて、多くの人が高山にくるようになった。その中の一人が塚本さんの生涯の師となる小林慈海(じかい)さんである。
 可愛い子には旅をさせろ、の格言にもあるように、自分の手元におくのではなく、誰かに面倒を見てもらおう、と考えていた豊さんは、渡りに船のように、小林さんに塚本さんをゆだねた。十四歳の頃のことである。
 十歳の頃のお寺でのつらい修行生活とは異なり、分別もついていた塚本さんは、素直に豊さんの指示どおりに小林さんにしたがった。小林さんのお供をするということは、全国行脚をすることであり、汽車に乗れることもうれしいことだった。小林さんには、いつも二~三人のお供がついており、身の回りの面倒を見ていた。塚本さんは最年少のおつきだった。身の回りのことをするとはなっていたが、小林さんは何でも自分でする人であり、楽なものだった。
 小林さんのお供の時代に忘れられない事が二つある。
 小林さんは、多くの会社などから社員教育の一環として講演を頼まれていたが、姫路市の東洋紡績での講演中に最前列の椅子に座っていた塚本さんは、不覚にも居眠りをして、椅子から転げ落ちてしまった。無論、講演を聞いていた女工さんたちは大爆笑。
 しばらくたって、「この子は疲れているんですよ」と言葉をかけてくれた。その一言で女工さんたちは静かになり、講演は無事終了した。
 控え室に戻った塚本さんは、ひら謝りに謝ったが、小林さんは一言もそれには触れず、「疲れていたんでしょうね。今後はお互いに気をつけましょうね」とやさしく諭すだけだったと言う。
 もう一つは、明石の海岸沿いの旅館に宿泊したときのこと。前夜来の大雨も上がり、夜が明けて海を見た塚本さんは、大きな声で「先生、大雨で水があふれています」と言い、爆笑を買った。満潮時でもあったこともあり、海を生まれて初めて見た塚本さんの目にはそう見えたのだった。
 やさしい小林さんについていては、自分自身が成長しない、と判断した塚本さんは、十七歳になったのを機に、自分の進むべき道を真剣に考え、小林さんと相談し、お別れした。
 昭和七年(1932)、鳥取で別れた塚本さんは、豊さんの紹介で岐阜県の板取村(長水寺)に一人で向かった。
 今年(1997)の四月、最高裁判所で愛媛県の靖国神社への玉串料訴訟の違憲判決が出て、世間はかまびすしい。板取村では、遺族会にたいして補助金を出すなどして知られているが、当時は米もとれない寒村だった。現在では人口二千人程度の村であるが、当時はサトイモが主食、和尚さんも副業の養蚕に力を入れるような貧しい村だった。
 ちょうど食べ盛りだった塚本さんは、ご飯のお代わりもままならぬ生活で身体も数キロ痩せ、ついには体調を崩し、わずか八ヶ月でまた母の元へ舞い戻った。
 その年(1932)の九月に名古屋市の明忠院に移り、伊藤玄竜師の徒弟となり、本格的に僧侶として曹洞宗の得度を受け、僧名を智導と改名した。
 この寺にはたくさんの檀家があり、檀家の子どもたちのリーダーをおおせつかった。蓮沼門三初代主幹が少年時代に仲間たちと氷を売って資金を得たように、塚本さんも子どもたちと一緒になって、新聞紙を集めて袋を作り、それを売って子供会の資金を捻出した。
 この時代に人を集める楽しさを味わったことが、修養団の人集めにもつながるのである。
 昭和十一年(1936)には、名古屋市の曹洞宗・瑞泉寺専門僧堂に安居し、住職としての資格を取得した。
 昭和十三年(1938)五月軍隊に入隊し、中支(中国)に派遣された。戦場では隣にいた戦友が鉄砲に撃たれるのも目の当たりに体験し、自らも銃弾が右腕を貫通して負傷し、十四年(1939)四月には名古屋の陸軍病院に転送された。入院中にお花やお茶の師範の免許を取得したり、小林さんを病院に招き、講演会を催したりもした。
 金泉寺の住職になったのは、昭和十八年(1943)のことである。檀信徒強化に努め、小林さんを始め修養団の講師を招き講演会を開いたり、昔とったきねずかでお茶の会、生け花の会などを開催した。これが修養団の白ゆり会結成になる。さらには早起き会、託児所、早朝坐禅会、子ども一泊講習会などありとあらゆる催しを開催した。これが修養団の支部へと発展していく。支部の設立は昭和三十三年(1958)三月のことである。
 支部の設立が『向上』に掲載されたのをご覧になったのだろう。突然、故野口仲治さんが尋ねて来られ、埼玉県連合会設立へと話は進んでいく。野口さんは、当時の野本村支部(現在の東松山支部)を昭和二年(1927)三月に結成し、昭和五十二年(1977)に名誉団員となった、埼玉県連合会設立の恩人の一人である。
 塚本さんは野口さんと呼吸を合わせて、県連合会創立へと力を注ぐ。
 爾来、塚本さんは意気天を衝く勢いで、八和田、小川、熊谷、寄居、江南各支部、嵐山町連合会などを相次いで設立していく。利根川惣平さん、大塚喜太郎さんの跡を継いで、現在は埼玉県連合会会長の要職にある。
 八十二歳となった今でも自らバイクに乗り、本部から送られてくる『向上』『愛』を一軒一軒配って歩き、会員との会話を重ねることを最大の楽しみにしている。
 また、長男・智雄(修養団講師・ばんだいふれあいぴあ所長)の熱心さに口説かれ、裏山にキャンプ場を作り、そこで開催される少年少女キャンプを楽しみにしている。金泉寺というお寺なのか修養団の道場なのかわからない「場」を提供し、一家総出で修養団運動の伸展に尽力しているのである。
 昭和六十一年には名誉団員を贈呈され、嵐山町では民生委員、社会教育委員の要職を三十年以上も歴任し、まだまだ老け込む余裕がないほどの多忙の毎日をすごしている。
「埼玉県連合会といっても、県西部の市町村が加盟しているだけです。今後は、県東部の浦和や大宮などにも支部を結成し、文字どおりの県連にしていきたい」と、塚本さんはすこぶる意気軒昂である。

     『向上』1025号 1997年(平成9)7月