大蔵の戦いで敗死した義賢の子に駒王丸というのがいた。後の木曽義仲であるが、この義仲が、この地(嵐山町)のどこで生れたかについては、はっきりしない。
ある者は、大蔵の館であるとか、鎌形の班渓寺付近であるとか、また、多胡の庄(現群馬県吉井町)であろうという。(『吾妻鏡』などから考察すれば、多胡庄が妥当であろう。)
班渓寺そのものは、当時まだ創建されていなかったであろう。
また、班渓寺の地続きに、木曽殿という伝承の地があるが、どうして木曽殿と言われたかについても、わからない。
或る人は、義仲が生まれた処だといい、ある人は、ここに義仲が住んでいたのだといい、いずれも後世、英雄を思慕する作りごとの伝承であろうが、住民の感情は、そう簡単に処理するわけにはいかないだろう。
『吾妻鏡』の治承四年(1180)九月七日の項に、久寿二年(1155)八月、大倉の館にて源義賢が討たれた時、義仲三才にて、乳母の夫、中原兼遠が抱いて信濃国木曽にのがれて養育したとある(長野県には日義村があって、義仲に関する伝承の遺蹟が多い)。(大倉の倉は『吾妻鏡』による。)
また、班渓寺にもどるが、この寺の墓地には、古い寄せ集めの五輪塔があって、これを義仲の妻班渓尼(山吹姫)、または、義仲の母小枝御前の墓であるというが、決定すべきものではない。
五輪塔そのものは、室町時代以後の供養塔であるが、山吹姫や小枝御前のために供養をしたのかどうかについては、はっきりしない。
なお、班渓寺に現存する山吹姫の位牌「威徳院殿班渓妙虎大姉」なるものは、江戸時代中後期に、心ある人により、山吹姫を追憶し、供養のために作られたものであり、戒名の形式からいって、更に位牌の作り方からして、江戸時代のものであることは論をまたない。
また、鎌形には、台地の突端に各所に湧水がある。(これは東京都の国分寺市から小金井市にかけて、台地の突端に湧水があって、はけというのと同じである。)
この湧水が、鎌形には七か所あって、古来より鎌形の七清水と呼び、その一つが鎌形八幡神社の清水である。
これを「木曽義仲の産湯の清水」と呼んでいる。
この産湯の清水と称するものが、かつて県指定史跡であったが、戦後指定を解除された。
町では町民の民情と要望に答え、町指定にすることにしたが、しかし、信憑性に欠け伝説的なので、「伝」をつけることにし、「伝木曽義仲産湯の清水」とした。
その清水の段上に「木曽義仲産湯の清水」と、緑泥変岩に刻まれた碑が建てられているが、これは江戸時代末期に、修験桜井坊の簾藤盈恭(えいきょう)なるものが、建立したものであると伝えられ、産湯の清水というのは、多分これよりはじまったと考えられる。
碑に限らず、後世に残るものについては、慎重になすべきであろう。
なお、「ふるさと歩道」に「木曽殿屋敷跡」の標識を建てることについては、町の文化財委員会では賛成しなかったが、観光的な意味を含め、「ふるさと歩道」の道筋に、県観光課と嵐山町観光係では、案内板を建立することにしたので、敢て「伝」をつけることを要望して、建てることに不本意ながら「伝木曽殿館跡」とすることにさせた。
今後、こうしたものを建立する時は、慎重に検討し、各方面の関係者と充分に連絡や意見を徴してから碑や標識は建てるべきであることを書き添えて強調しておく。
『嵐山町史』1983年(昭和58)9月発行 221頁~223頁
▽清水 「日本は水の豊かな国、そうして水の恩恵を深く仰ぐ国であた。田植に雨を待ち雨を喜ぶものが三千万人もある上に、物をすすぎ浄めると称して、ただ洗うというだけでは気がすまず、ザアザアと水に流すことが国民一同の好みであって、よほどたっぷり水がないと、どんな静かな土地にも落着いて永く住み得なかった」これも学者の説である。
川の水を汲んだり、谷川の水を寛(かけい)で引いてきたり、或は岡の側面に横穴を穿(うが)って水を導き出したり、井戸を掘ったり、様々な苦心と方法で水を求め、そこに人々の聚落(しゅうらく)、村々が発生した。だから地表の割れ目、崖の下などから自然に噴出する淸冷(せいりょう)の清水(しみず)は、天与の恩恵と考えられた。清水は村人にとって貴い天然の資源であり関心の焦点であった。それで清水のある場所は期せずして、忽(たちま)ち清水という地名となって伝ったのである。従って清水の地名は甚だ多い。字名(あざめい)として残っているものだけでも、菅谷、鎌形、大蔵、将軍沢、古里、吉田、越畑、川島等、全村にわたっており、清水とは呼ばないでも、平沢の赤井に類する地下水の露頭が各地に多数存在している。それぞれ水に関係のある名で呼ばれている。
清水の地名は清水のために起こった地名である。だからこの地名には別に問題はない。然し清水が人生に多くの恩恵を与えたことから、清水の地名には、いろいろの伝説がからまっていることが多い。単に水ではないかといって「水に流してしまう」ことは、日本人の感覚に合わなかったのである。
その一つが鎌形の木曽義仲産湯清水である。由来、鎌形は良質の清水に恵まれていた。鎌形の自然を説明するのに「七清水、三ガイト」の言葉で、代表させたということは前述した。
ところで義仲の産湯清水の伝説は、「埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告 第四輯」に、
「此の清水は郷社八幡神社境内にありて、其拝殿の北の石崖の中より湧出しつゝあり……この水を筧(かけい)にて水盤に入れて、参詣のものこれを漱水の用となすと云ふ。此の清水の傍に木曽義仲産湯清水と彫せる碑石あり。年号を記せず。この水を入れる水盤には享保十五年(1730)正月と記しあり。故にこの建石も、これと同時に建設せしものならんか…… 義賢(よしかた)の住みし大蔵館は、この都幾川の南岸に在り。然してこの鎌形の地に別墅(べつしょ)を設け、夫人山吹姫を住居せしめたるを以て、義賢の長子義仲はこの地に生る。その時この八幡神社境内の清水を汲みて産湯に用ひたるによりて、斯く木曽義仲産湯清水と称するに至れりと云ふ……」と記されてある。これが義仲産湯清水の筋である。大部分の人がこう考えているのである。昭和三十七年(1962)九月、菅谷村では、文化財保護委員会の議に基いてこれを村指定の文化財として村の管理に定めた。
ところがここに全く同じ話があり、産湯の主は義仲ではなく、その子の義高となっている。これを伝えているのは前掲の「鎌形八幡神宮縁起」であって、これによると、
「其南(海道馬場)を木曽殿屋敷と云。左馬頭義仲の長男、清水ノ冠者義高此所にて誕生ましましけるに、七箇所の水をとりて、産湯に進らせしとて、あたり近き此面彼面(このもかのも)に木曽殿清水、岩清水、天水、照井清水、塩沢清水、此外二ヶ所の名水八幡の社地に在り……」といっている。
義高が産湯を使う時に、父義仲と全く同じ例に従ったと考えれば、同じ話が二つあっても差支えはない。尚、義仲は八幡神社境内の清水と書いてあるだけで、七ヶ所の清水とはいっていない。八幡神社境内一ヶ所だけの水かもしれない。似てはいるが細い点でちがっているといえばそれも尤(もっとも)である。
まあ然しそれにしても、父子とはいえ話があまり一致しすぎているので、唯御尤様では引き下がれない気がするわけである。大体、日本には偉人や英雄といはれる人たちの誕生井とか産湯水とかいうものが各地に沢山ある。滋賀県の三井寺はもと御井寺で、境内の井戸水は、天智、天武、持統三帝の産湯に使われたといい、その他弁慶だの良経だのという歴史上、伝説上の人物の産湯井などが各地に残っているという。これは産湯の水が単に赤ん坊の身体を洗うだけの意味でなく、その一生を支配する神秘的な行事と考えられていたからである。昔江戸っ子の要件は水道の水で産湯を使うことであった。江戸っ子気質は、水道の水で産湯を使うことから出発したのである。
こんなわけで、鎌形の清水も、義仲に結びついたり、義高に結びついたりしたものと思われるのである。別に歴史上の事実として主張しようというわけではない。ただ由緒ある高名な人物に結びつけば満足なのである。それで義仲といってみたり、義高といってみたり、一つの話が二様に伝ったりする。実はどちらでもよいのであった。
前掲の「埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告」では、この二つの伝えの矛盾に気がついて、木曽殿屋敷に義賢夫人の別荘があって、義高もここで生れたのでこの清水(八幡神社)を用いて産湯に供し、産児の前途を祝ったのだといって、辻つまを合せている。父と子が同じような産湯の使い方をしたというのである。私たちは義仲にしろ、義高にしろ産湯に結びつけた伝説にすぎないと思うが、別に事実無根の作りばなしだといって葬り去ろうという訳ではない。歴史事実として信ずるだけの根拠に接し得ないというだけである。
それからもう一つ言っておきたいのは、前掲の木曽義仲産湯清水の石碑であるが、水屋の水盤と共に享保十五年(1730)に建設したものだろうといっているが、これは全然見当ちがいの想像であって、極く近年のものである。この建碑の真相を聞いて記憶している古老がまだ生存している。幕末か明治初年のことらしい。木曽義仲産湯の清水の伝説が、大分地方に喧伝(けんでん)されて有名になって来た頃ある時、村の有志二、三名で相談し、この清水を義仲の産湯清水ということにしようではないかということになり、ふるめいた石を探し出して、木曽義仲産湯清水と彫刻、態々(わざわざ)建碑の年号も、建設者の名もきざまずに立てたのだという。この揮毫は、簾藤某氏であると聞いている。この話によれば八幡神社の清水が義仲産湯と確定したのはこの建碑から始ったのであって、産湯清水の伝説は勿論、早くからあったのであるが、それがどこのどの清水であったかは確定していなかったのではないか。それ故にこそ、七ヶ所の清水などという話も生れて来たのであると思われるのである。前掲の諸記録や、伝説によっても、八幡神社の位置が塩山であるか、現在地であるか明らかになっていないこの点からも、右のことが考えられるのではないだろうか。
武士が館を構える土地の必須要件として、その付近に、清浄な飲用水があることがあげられている。水の手を絶ち切られて、遂に落城の悲運を招いたという話は、戦記物語に数が多い。近くの松山城は、土中から焼米が出る。これは昔籠城の時、水源を切られて、致命的な打撃をうけたが、これを寄手にさとられぬため、城内の白米を使って馬の体を洗いそれを水と見せかけて敵を欺いたのだという。白米は貯蔵してあっても、水の手を切られては、せんすべもなかった。焼米はその米が落城と共に焼けて埋もれたのである。
本町の清水の地名も武士の館に関係あると思われるものがある。鎌形は前述のように木曽義仲の伝説があるし、大蔵には大蔵館がある。菅谷も又同じでいづれもその例と見てよいであろう。
『嵐山町誌』1968年(昭和43)8月発行 553頁~557頁
発刊に際して
本小冊子を発刊するにあたり、【埼玉】師範学校の村本・高崎両先生をはじめ、本校の郷土班員、又多くの人々のご協力に対して深甚なる敬意を表する次第であります。
印刷につきましては、自分で本年六月頃着手しましたが多忙のため中止し、十月に入って謄写の印刷所へ依頼して発刊することとし、それにつきましても又有志の方々には心よく御賛助して下され、草案としてのまゝ印刷して御分ちする次第であ[り]ます。
印刷には経費の関係上相当思切って原稿を捨て殆んど半分位にしました。出来上ったものを見ると、そのため意味の不関連な所も見受けられて、御分ちするには堪へられぬ程になりましたが、これ以上如何とも出来ません。
又写真は皆手形にしようと思ひましたが経費の関係上御赦し下さいませ。
昭和十六年十一月二十日夜
(第七回県下連合演習後三日)
寄宿舎にて
長島喜平
研究草案目次
一、緒論
二、武蔵武士と源氏の東方勢力
三、源義賢の概説の研究
四、大蔵の戦の史蹟をめぐっての研究論文
1.大蔵の館跡の現場
2.大蔵の戦史
3.木曽引畧記
4.大蔵館跡と源義賢墓の二論説
五、班渓寺開基山吹姫
六、木曽義仲の概説
七、木曽義仲についての生立の論説
八、土地の名前
九、巴御前義仲の子孫及び関係名
奥付
昭和十六年十一月三日印刷着手
昭和十六年十一月二十一日修了 (非売品)
昭和十六年十一月二十三日製本
研究者 長島喜平
(埼玉県比企郡菅谷村鎌形六五三)
賛助者 村本達郎教諭
柳沢栄吉
外郷土班員
特別賛助者(順序不同 敬称略)
齋藤熊谷市長 新藤延平 平村日吉神社社掌
班渓寺伊藤禅師 故根岸【山岸徳太郎?】郵便局長
世田谷永安寺(東京) 外十数名
埼玉県郷土文化会会長、嵐山町博物誌編さん委員長をつとめた長島喜平氏の郷土史研究最初の著作。埼玉師範学校在学中のガリ版刷りの冊子。「曽て関東に於ける源氏の興亡について、研究を企てたのは昭和十二年(1937)七月頃のこと。その一部なる源(木曽)義仲についての研究は既に諸紙に発表し又その父義賢について発表したが、それ等が連絡もなく、又不徹底であったので、此の度出来るだけ、補正して、関東に於ける源氏の一端なる義賢、義仲を中心として不束な論説をかゝげやう。」と緒論にある。半世紀後の1991年(平成3)12月、『朝日将軍木曽義仲―史実と小説の間』(国書刊行会)が出版されている。
文化ともしび賞の人々〈24〉長島喜平さん
伝統文化の保存に貢献
真実求め科学的に研究
県文化団体連合会郷土文化部長、武蔵野郷土史研究会会長、嵐山町文化財保護委員長、歴史研究会埼玉県支部長など肩書は十指に余る。長い間、郷土の歴史などを研究、伝統文化保存に貢献してきた証(あかし)だ。
子供のころより歴史に興味を持った。。旧制松山中学時代は、畠山重忠、木曽義仲などの武蔵武士を研究。当時、表彰規定がなかったにもかかわらず「貴重な研究」と当時の【山本洋一】校長から特別表彰も。埼玉師範を卒業して教壇に。小・中学校の教員を経て、昭和二十二年(1947)、第一回県外派遣生として東大で一年学ぶ。その後、高校へ。もちろん専門は歴史。そのころ、「埼玉古代史概説という論文を埼玉新聞に上中下で掲載したこともある」という。
四十八年(1973)には、「修験文書集」をまとめ、翌年、県文化団体連合会より表彰されて高い評価を得た。数年前は、三体揃った円空仏(役行者像、前鬼像、後鬼像)を発見、話題に。これまでを振り返り、「歴史は真実を求めて科学的に研究することが必要。『…だろう』と歴史を作ってはいけない」と語る。昨年、中国へ行ってきた。「歴史も含めてスケールの大きさにビックリしてきた」という。[略]
『埼玉新聞』1985年(昭和60)3月17日
埼玉県史蹟名勝天然記念物調査委員
官幣中社金讃神社宮司 金讃宮守調査
一、名勝
義仲産湯清水
一、所在地
比企郡菅谷村大字鎌形字清水
一、現況
此の清水は郷社八幡神社境内にありて、其拝殿の北の石崖の中より湧出しつゝあり。往時より常に絶えし事なしと云ふ。この水を筧(かけい)にて水盤に入れて、参詣のものこれを漱水の用となすと云ふ。此の清水の傍に木曽義仲産湯清水と彫せる碑石あり。年号を記せず。この水を入れる水盤には享保十五年(1730)正月と記しあり。故にこの建石も、これと同時に建設せしものならんか。
一、面積地種目
神社境内地参千参百九拾参坪の内官有地第二種
一、管理者
比企郡菅谷村大字鎌形 郷社八幡神社々社掌 齋藤竹次
一、創造沿革
此の菅谷村鎌形の地は都幾川の流に沿ひて、後に塩山の景を負ひたる勝地なり。往昔久寿(きゅうじゅ)の頃帯刀先生義賢(たてわきせんじょうよしかた)の住みし大蔵館は、この都幾川の南岸に在り。然してこの鎌形の地に別墅(べつしょ)を設け、夫人山吹姫を住居せしめたるを以て、義賢の長子義仲はこの地に生る。その時この八幡神社境内の清水を汲みて産湯に用ひたるによりて、斯く木曽義仲産湯清水と称するに至れりと云ふ。この神社の西南二町余の所に、木曽殿屋敷と唱ふる地あり。この隣接地に班渓寺の古刹あり。これは義賢の夫人山吹姫が、義賢戦死の後尼となり妙虎と号し、こゝに庵室を設け、夫先生義賢の菩提を弔ひたりと云ひ伝ふ。因てこの班渓寺の開基と称して、古き位牌を伝へあり。
開基威徳院殿班渓妙虎大姉淑霊
この位牌に年号なし。寺の過去帳は、建久元年(1190)十一月二十二日と記しあり。この木曽殿屋敷と称する所が夫人の住したる別墅にして、義仲の子木曽冠者義高もこゝに生れしによりて、この清水を用ひて産湯に供し、産児の生先の幸福を祈りたりとも云ひ伝ふ。
一、引証及参考資料
新編武蔵風土記、埼玉県誌、武蔵武士、八幡神社由来記
一、図解 別紙を添付す
木曽義仲産湯ノ清水畧図
比企郡菅谷村大字鎌形
『埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第四輯 1928年(昭和3)12月 83頁~85頁
鎌形八幡神社の手水石
嵐山町鎌形の八幡神社には木曽義仲の産湯につかわれたといわれている清水があり、嵐山音頭に、「ハアー 八幡の/森にだかれて義仲どのが/産湯つかいし清水は今も/ホイサ 昔のおもかげ残す/残す情の七清水/ランラン嵐山 愛の町」と歌われています。
こんこんとわきでる清らかな水をたたえる手水石(ちょうずいし)にまつわる話を長島正一郎さん(大正9年生まれ)からうかがいました。昔、田黒(たぐろ)の山から切り出した大石を川越に運ぶ荷車が八幡様の南側の道を通りかかると不思議なことがおこりました。下り坂なのに車がピタリと止まって動きません。「八幡様がこの石を欲しいということなのだろうか。それなら八幡様にさしあげよう」ということになり、代官をしていた長島家の先祖が五両で買い取って、八幡様に奉納したという伝承です。
手水石には「享保一五歳(1730年)/庚戌(かのえいぬ)正月吉日/川越南町西村多右門」の文字があるだけで、ほかには何も刻まれていません。長島家では、子供三人が兵隊に取られた1941年(昭和16)まで、年末になると必ず手水石を掃除し、竹を切って清水の樋(ひ)を取り替え、手を洗い口をすすぐ柄杓(ひしゃく)を新調していました。
上に掲載した戦前の写真から、当時は手水舎はなく雨に打たれていたこと、手洗石は現在の場所よりも本殿へ上がる石段よりに据えられていたことなどがわかります。段上にある「木曽義仲産湯清水」の石碑は、いつ、だれが建てたのか記されていませんが、江戸末期から明治初めの頃、修験(しゅげん)桜井坊の簾藤盈恭(えいきょう)が建立したと伝えられています。
買い納めの木
天保年間(1830年~1844年)八幡宮社殿の改築が行われることになりました。境内にある大木を用材として売ったのでは伐採されてしまいます。別当斉藤周庭(しゅうてい)は百五十両の資金調達のために、氏子有志に「買い納め」を提案しました。境内の立木を買い代金を納める時に、「家内安全子孫長久」の永代祈祷と切ることは決してしないという約束で、その木を神社に奉納するという方法です。境内の数十本の巨木が買い納められ、神社の森は保全されました。
その後も祈願記念の買い納めや苗木の奉納などが続き、昼なお暗く鬱蒼(うっそう)とした社叢林(しゃそうりん)が作られていきました。大正初期まで、祭礼の時には境内の買い納めの木一本一本に奉納者の名札がつけられ、お代官杉、惣左衛門欅(けやき)、万右衛門杉などの名前が氏子や参拝の人々に語り伝えられました。
下の写真は1953年(昭和28)頃の八幡橋で、鎌形小学校の児童が映っています。1959年(昭和34)の伊勢湾台風、1966年(昭和41)の台風26号の猛威により、巨木のほとんどが倒され、荘厳といわれた境内林は失われました。現在、大木は本殿周辺にわずかに残っているだけです。
沼の中の川嶌上下講中の弁財天を見ながら、天沼(あまぬま)のほとりを奥(おくり)まで入って行くと、安政二卯年九月吉日/願主権田喜藤次と刻まれた弁財天の石碑がたっています。そのいわれを権田本之(もとゆき)さん(大正12年生まれ)とケイさん(大正14年生まれ)が話してくれました。
天沼の悲恋
鬼鎮神社が参詣人でにぎわっていたころのことです。お参りに来る人たちが泊まる旅籠(はたご)に、東北の方から奉公に出されて来た娘が働いておりました。この娘を見初めた若者がいて、二人は互いに好意を持つようになりましたが、結婚することはかないません。親が許さないのです。思い余った二人はとうとう天沼で心中してしまいました。若者は18才でした。死を選んだ二人をふびんに思い、若者の父親は供養のために沼のほとりに弁財天を建てたのでした。
先年、沼堤の道路舗装の際、過去帳の名前から、篠藪(しのやぶ)の中に埋もれていた弁財天が権田さんの家に言い伝えられてきたものであることがわかりました。その後、沼へ通ずる排水溝が整備された時、石碑に台座が作られ、現在は四季の花に囲まれて祀られています。
昭和20年代の川島
川島の全戸数は約40戸でしたが、現在は800戸を超えています。権田さんの家のある字(あざ)花見堂にはきかず薬師があり、少し離れた字天沼に鬼鎮神社があります。隣組は絵馬屋(いまやんち)、脇家(わきんち)、小間物屋(こまもんち)、新聞屋(しんぶんやんち)、新井屋(あらいや)の屋号で呼ばれる6軒で、周りは畑と松ヤマと雑木林でした。住宅が増えた今でも、昔からの仲間で川島2区12班として隣組を続けています。
秋の薬師様の縁日は大層な人出でした。芝居小屋がかかり、演芸があり、露店が並びにぎやかでした。ほっかぶりして、はんてんを着て、ふろしき包みを背負(しょ)った人たちが大勢来て、薬師様に泊まり、おこもりをしました。
5月8日のお釈迦様もにぎわいました。おじいさんが山から取ってきたヤマツツジの花を花御堂(はなみどう)に飾り、松山で買ってきた甘茶を作ってだしました。昭和50年代に薬師様とお釈迦様の誕生仏が一緒に盗まれ、祭りは絶えました。
働いて働いて
働き者の娘だからと請(こ)われてケイさんは1945年(昭和20)12月に嫁いで来ました。実家もよく働く人達でしたが、川島の人たちはそれ以上でした。姑について朝から晩まで働きました。麦まきの頃には朝4時ごろから、カッチン、カッチンと畑を耕す音が聞こえてきます。人の姿は分からず、星が見えるだけでした。獣医さんの世話で志賀の農家から乳牛を買い、家の廻りを牧草地としました。一番多いときは12頭にもなり、搾った乳は耕運機で駅前の全比酪農組合へ運びました。養蚕は、春蚕、夏蚕、初秋蚕、晩秋蚕、晩々秋蚕、初冬蚕と年六回出した時もあり、休む暇はありませんでした。
年老いて来た道ふりむく飛行雲
自分のこれまでの人生を振り返ってみると一生懸命してきた事でも、記憶は飛行雲のように遠くの方から消えていってしまっている。それなら忘れないうちに文章にしておこうと、本之さんは自分史を書き始めました。体をこわして何回か中断しましたが、最近、どうしても続きを書かなければと思うようになったと、力強く語っています。
庭先でのこぎりの目立てをしている人に、「彦三さんはいらっしゃいますか」と声をかけたら、「おれだよ」と返事がありました。おもわず「若い」と声が出た90歳の根岸彦三さん(大正4年生まれ)と、85歳のときさんに2006年春、取材した話です。
ちっとんべいの百姓
「ちっとんべいの百姓だったから、おやじもおれもいろいろなことをやったんだよ」、彦三さんの言葉です。宅地以外は田んぼも畑も全部借りて耕作している小作農でした。学校をさがる(卒業する)と、よその農家の仕事も手伝いながら一生懸命農業をしました。冬場の農閑期には近くの材木屋さんで働きました。山からまきを背負(しょ)い出すことからはじめ、枝まるき、材木の伐採までできるようになりました。高橋材木店には戦後も長く勤め、フォークリフトの免許もとりました。1935年(昭和10)頃には牛を買い、父親の福平さんが東上線の線路工夫を辞めた時に牛車(うしぐるま)を作りました。馬力(ばりき)にまじって日傭取(ひようとり)に運送の仕事にもでました。都幾川で採取した砂利を駅まで運び貨車に積み込む仕事です。力のある雌(めす)牛で、川原から武蔵嵐山駅まで一回におよそ1トンの砂利を運びました。
戦争が長期化すると徴兵や徴用で離村者が増えました。農家は手間不足になり、それまでは頼んで小作させてもらっていたのが今度は逆に頼まれるようになり、耕作面積が増えました。背が小さい彦三さんは徴兵検査で丙種合格となり第二国民兵役に編入されていましたが、戦争が激化した1945年(昭和20)5月、横須賀海兵団に召集されました。その頃、田んぼだけでもやたら増えて6反以上作くるようになってたそうです。戦後の農地改革で彦三さんは自作農になりました。戦時中の小作地拡大を反映して、解放された農地も増えていました。
彦三さんはこれまで約4反の田んぼを作ってきました。でも、「今年は米作りをほとんどやめようと思っている。去年までの十分の一位かな。辻(つじ)の区画整理した田んぼは営農集団に委託したんだけれども、津金澤(つがんざわ)の谷津(やつ)の奥にある棚田には大型の50馬力のトラクターでは入れないんで頼めないんだ。機械も年をとってしまった。人間も年をとってしまった。何もかも年をとってしまって疲れて動けなくなりそうだから」と語る彦三さんは少し寂しそうでした。
スマシ
農家の夕食といえばうどんです。煮込んで食べたり、ゆでて水にさらしシタジにつけて食べます。みそは買わずに作っていました。みそをなべで煮ほぐして液状にして木綿の袋に入れ、流しのわきに掛けてポタポタと垂れ落ちる汁を貯めて使いました。このみそをこした汁をスマシといい、うどんのシタジに使いました。醤油も自宅で作っていましたが、麹(こうじ)作りから仕込み、搾(しぼ)り、仕上げの火入れまで醤油屋さんを頼まなければならないので経費がかかります。スマシは醤油の節約にもなったのです。シタジにはカテと薬味を添えます。カテにはホウレンソウ、ナス、インゲンなど季節の野菜をゆでました。薬味はすりゴマ、刻みネギ、ミョウガ、ユズの皮をおろしたものでした。
「手間ひまをかけることは何でもなく、あるものを無駄なく工夫して使い切るのが当たり前だったんだよ。買うものは少なかったよ」と、ときさんは言います。よく耳にする言葉です。手間(労力)とひま(時間)をおしんで、商品やサービスを買ってすますことができる時代ではありませんでした。
2005年12月初め、嵐山町の北端、古里の馬内(もうち)で庭先のムシロの上で作業をしている人に声をかけました。箕(み)作りに挑戦中の1926年(大正15)生まれの吉場幸次さんです。農家の庭は稲・麦・豆などを脱穀・調整する作業場であり、収穫したものをムシロに広げて干す乾燥場としても大事な場所だったと語ってくれました。
左から田島菊、大木久作、吉場ツル、田島定治さん。吉場幸次さんは故人となられました。
ノッペのタッペ
馬内の土壌は粘土(ねばつち)まじりのノッペです。冬になり地表が冷えて零度以下になるとよく霜柱がはりました。霜柱をタッペといいます。ノッペは粒の細かい火山灰土でタッペが10㎝も立つことがありました。馬内ではひと冬の間、束をほぐした稲ワラを庭中に散らして、タッペを防ぎました。この敷きワラは、春になるとサツマ床に使いました。古里地内の内出や尾根では土質が違うので、ワラを敷くことはしていません。
カシグネ
町内を歩くと母屋を隠すほどの高さの生け垣(クネ)を屋敷の北側にめぐらした農家がみられます。シラカシを主とするカシグネは冬の強い北風を避ける防風と類焼を防ぐ防火のために作られました。カシグネは新芽の出る前の3月~4月に手入をします。切り落とした枝は燃料に使われました。
ワラニュウとワラボッチ
一年中、ワラは利用されます。脱穀後のワラを冬季、戸外で保管するため、ワラニュウ、ワラボッチを作った家が町内にあります。
ワラの乾燥と防風を兼ねて12月頃、屋敷の北側にワラニュウが作られました。敷地内の立木を利用して桟(さん)を渡します。そこにワラ束をぎっしりとすき間なく掛けます。五段ぐらい積み上げると3メートル位の高さのワラニュウができました。天気のよい日にはワラニュウの前はうんと暖かくなり、ムシロを敷いてぬくとばっこ(日向ぼっこ)の場所にもなりました。暖かくなると外して、堆肥や、サツマ床、牛や馬の敷きワラに使いました。ワラニュウは火事になった時に危ないと、段々作られなくなっていきました。
また、立木を利用して庭の隅にワラボッチも作られました。余り太くない木の根元から一束のワラの先を二つにわり、木を挟んで結んでかけます。下から積み上げてゆき、高くなったら梯子をかけて積みました。ワラは段々に取りはずし、押し切りで3㎝位に切り、フスマと混ぜて牛馬の餌としました。ワラボッチを何本も立てる家では風よけにもなりました。
様々なワラ利用
屋外に保存したワラは燃料、肥料、飼料、敷きワラなどに利用しました。母屋や納屋など屋内に収納していたワラはよいので、わらぞうり・俵・ムシロ・カマス・縄などに加工されました。糯(もち)米のワラは柔らかくて丈が長かったので注連飾(しめかざ)りを作りました。
参考:根岸富雄『故きを温ねて 「ワラ」』
東上線・武蔵嵐山駅に盆栽の展示奉仕13年
1日も欠かさず、駅前の山岸宗朋さん(73)
東武東上線の武蔵嵐山駅(比企郡嵐山町菅谷)名勝地の嵐山渓谷を控え、国立婦人教育会館や県立歴史資料館の下車駅として十年ほどで乗降客が二・五倍の一日一万人平均になった。玄関口の駅ホームには四季折々の盆栽が展示され、利用客の目を奪っている。盆栽は駅前でタバコ商を営む山岸宗朋さん(七三)がたった一人で、一日も欠かさず展示奉仕を続けて十三年間。持木甲一駅長は「おかげで駅の美化に大きく役立ち、駅員も誇りに思っているほど」と感激。山岸さんの労苦に報いるため、近く東武鉄道本社に感謝状の贈呈を申請する。
殺風景な駅に潤い 「いつもきれいネ」と乗降客
「本社に感謝状の贈呈申請へ」持木駅長
武蔵嵐山駅の下りホームには、いま満開のサツキが二十ハチ。殺風景な駅に緑と赤、白の花がひときわ美しく見える。山岸さんが丹精込めた白、赤、ピンク、絞り模様……と一本の木に五種類の花がついた自慢のハチもある。乗降客が立ち止まって、しばらく鑑賞する姿も。
山岸さんは、嵐山町会議長をつとめ、いまも町観光協会長として「畠山重忠館跡」や「嵐山渓谷」の売り込みに一生懸命。盆栽を駅に展示するようになったのも「観光客はもちろん、日ごろ、駅を利用する地元の人や高校生などに楽しんでもらう」のが目的。四十三年(1968)から春はウメ、夏はサツキ、秋はモミジというように月に二回、展示替えをし、駅ホームに一日も欠かさず盆栽を飾り続けた。冬は大樹の風格をもち葉の落ちた木の"冬姿"を見てもらう。
一年中、展示を続けても困らないほど、山岸さんの自宅近くには二千平方メートルの広い敷地に約一千ハチの盆栽がある。若いころから好きな道で、本格的に始めたのは仕事や公私から離れた三十年ごろから。実生(みしょう)から育てたモミジ、ケヤキの寄せ植えなどは四十年から二十年間も育て守り続けた自慢もの。
「盆栽は十年を越させることが大変。一日でも放置すれば枯れたり姿が悪くなってしまう。一千ハチに朝夕二回、水をやり、せん定や施肥をするのが私の仕事。結構忙しいんです」。そのせいか、とても七十歳を越したお年寄りとは思えない。
同駅を利用する国立婦人教育会館の縫田曄子館長も「山岸さんは、会館にもサツキやキクを飾ってくれます。昨年(1980)十二月のユネスコ・セミナーに訪れたソ連代表が“日本にはボンサイというすばらしい芸術があると聞いた”と言うので、山岸さんにお話したら、すぐ十ハチほどの盆栽を届けて下さいました。ソ連代表は“日本人の客をもてなす心はすばらしい”と発言しましてね。山岸さんの好意は国際親善にもつながっています」と語る。
持木武蔵嵐山駅長の話 十三年間も欠かさず奉仕をするというのは、生半可な心では続けられない。山岸さんのおかげで私たちもホームや駅周辺の清掃に心がけ、“沿線で一番きれいな駅”と利用客やからほめられている。東武鉄道内部はもちろん、こんなに息の長い奉仕活動は全国でも珍しいと思う。
『毎日新聞』1981年(昭和56)6月12日
鬼神様の戦前・戦中の繁栄の様子は昔を知る人の語り草となっているが、そのにぎわいがいつの時代からなのかは定かではない。今に伝わる川島の各家の屋号は、神社参拝に訪れる人々を相手の商売や、農家のかたわらしていた職業を示していると思われる。
昔よりこの地は上(かみ)、下(しも)の川島で呼ばれ、鬼鎮神社西側、志賀新田境までを上組(かみぐみ)、鬼鎮神社の東側、月輪境までを下組(しもぐみ)とよんでいた。
上組の戦前は西側より、綿屋(わたや)【権田栄。綿打】、塗師屋・絵馬屋【田幡勇。鬼鎮神社絵馬師】、こまもん【権田本之。小間物商】、新聞屋【権田宗一】、籠屋(かごや)【権田。昭和初期他所へ移転】、新井屋(あらいや)【権田良一。穀屋】と六軒ならんでいる。薬師様北側の市野川沿いに下(した)の屋敷【古屋敷(ふるやしき)】の場所がある。その昔、権田宇多之守(うたのかみ)と呼ぶ刀鍛冶の屋敷があったと言い伝えがあり、昔話が残っている。
川島の権田、田幡、島崎、森田各家の菩提寺は広野の広正寺であり、薬師様のお堂と本尊様は現在、広正寺が管理している。薬師様は「きかず薬師」、「木掛り、つんぼう薬師」とも言われた。耳の病に御利益があると穴の開いた石がたくさん納められていた麦藁屋根の三間×三間位の大きさの本堂と八疊二間に土間の庫裡は改修されて新しい堂と公民館に変わっている。町一番のむくれんず(ムクロジ)の大木、入口にあった男松、女松の老木も枯れ果ててその姿はない。春の御釈迦様、旧暦の九月の晦日の薬師様の縁日には境内に売店が並び、夜には村芝居の興行があり、お籠もり(おこもり)をする信者や信者や参詣の人で薬師様はにぎわった。昔、洪水に流されて木に掛かっていた仏様を村人がお堂を建て安置した言い伝えのあるご本尊、花見堂に飾られ甘茶をかけて子供たちが親しんだ木彫りの小さなお釈迦様も戦後、朽ち果てていたお堂から盗まれ、行方不明となった。お堂の改築の際、本尊は新たに作られて安置されたが、お釈迦様は現在もない。
川島の中程にある鬼鎮神社は今から800年以上も前、1182年(寿永元)、畠山重忠が菅谷館築造のときに艮(うしとら)の方角に祀ったといわれているが、地元では川島の鎮守、鬼神鎮様として親しまれて来た。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』の広野村の項に「鬼神明神社 村民持」と書れている【その原稿にあたる、「村方古物改口上書」(広野・永島正彦家文書22)には、「飛地川嶋ニ鬼神明神一社四給入会川嶋氏子村持」とある。http://blog.livedoor.jp/rekisibukai/archives/408054.html】
江戸時代には現在の大字が村として存在しており、川島は太郎丸村を間に挟んだ、広野村の飛地であった。明治になって菅谷村が誕生するまでその状態が続き、地租改正時には、川島の土地には広野1470番~2265番の地番がふられた。広野1469番の土地は広野村大下(おおしも)地区にある。明治22年(1889)、菅谷村、七郷村ができた時、川島は菅谷村大字志賀に編入され、大字志賀元広野と称されたが、昭和16年(1941)9月、大字志賀から分離・独立して大字川島が誕生、地名が復活した。しかし、地番は従来の番号を引継ぎ、川島1470番~2265番である(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/rekisibukai/2008/07/post_5d95.html)。
広野と川島の間にある太郎丸村は水房村の分郷と言われており、『新編武蔵風土記稿』には、「古ハ水房村【現在は滑川町大字水房】ノ内ナリシガ、寛文(かんぶん)五年【1665】検地(けんち)アリシヨリ別レテ枝郷(えだごう)トナレリ。此(この)検地ノ時村民太郎丸トイヘルモノ案内セシヨシ『水帳(みずちょう)』ニシルシタレバ、当村ハ此太郎丸ガ開墾(かいこん)セシ地ニテ村名トハナレルニヤ」とある。水房庄(みずふさしょう)の属した村は、『新編武蔵風土記稿』では広野村・水房村枝郷太郎丸・福田村・伊子村・水房村・水房村枝郷中尾・野田村・岡郷・小江川村の九か村、現在の嵐山町・滑川町・東松山市・江南町にある村々であった。志賀の市野川沿いに莪田分の地名がある。中尾村の慶徳寺のある地名は加田であるがかかわりはないのだろうか。
現在、嵐山町大字川島地内の南東部から滑川町境には、明星食品を始め多数の工場が立ち並んでいる。また、西耕地(にしごうち)【川島地内の小字西耕地だけでなく、現在地産団地がある場所を川島の人たちは西耕地とよんでいた。川島では、上(かみ)の一部の人たち(三軒位)が耕作していた。】と呼ばれた薬師様裏の田園地帯は地産団地として開発されて住宅街となった。点在する農家周辺の土地も宅地化されて一戸建ての住宅やアパートが立ち並び、大きく変貌を見せている。夏には螢が飛び交い、秋には黄金色の田畑が続いた西耕地の風景、蛇行して流れていた市野川。わずかに残る農家の裏の屋敷林と薬師堂周辺の墓地、そして川北の御堂山の景色が思い出を残している。川島は、町内の大字の中では特に発展した地域と言われているが、昭和20年代まで川島の戸数は二十六、七軒【元禄の頃の絵図から筆者の子供の頃まで】、大字根岸、遠山とともに菅谷村内の小さなだった。市野川南側の台地に散在していた風景は、今や当時を知る人々の話に語られるのみである。
川島に花見堂という所があります。その中に薬師堂がありますが大分古いので今にも倒れそうなので、大きな木の「ツカエ棒」で、ささえています。目の病気のとき、この薬師様をおがむと、忽(たちま)ちなおってしまうといいます。
今から三百年も古い昔々のお話です。太郎兵衛さんが朝早く川の端を通りますと、「太郎兵衛…太郎兵衛…」と呼ぶ声がします。
太郎兵衛さんはまわりを見廻しましたが誰もおりません。おかしな事があるなあと思いながら歩き出すと、又「太郎兵衛、太郎兵衛」と声がします。太郎兵衛さんは今度は上の方を見ました。声が上から聞こえたような気がしたからです。その時、赤い朝日がサッと目の前の木を照らしました。太郎兵衛さんは、そこに金色に輝く薬師さまが木の枝にひっかかっているのを見ました。アッと思った瞬間、「太郎兵衛、助けて」と薬師様がいいました。「ああッ、薬師様あ、今おろしてあげます」と太郎兵衛さんは早速、枝にかかっている薬師様をおろし、大事に抱えてお家へ帰りました。そしてお座敷へ飾ってお線香をあげました。
太郎兵衛さんは、その日から、とても一生懸命働きました。朝は暗いうちから起き出して仕事をはじめ、夜はみんなが寝る頃まで働きました。おかげでたくさんお金がたまりました。そのお金で立派な薬師様のお堂が出来たのです。太郎兵衛さんは、毎日お堂へ行って、薬師様をおがみました。川島の人達も太郎兵衛さんにならって、薬師様をおがんだので、みんな丈夫で楽しいくらしをしたそうです。
薬師様を木の枝からおろし、太郎兵衛さんのお家はまつったのが、旧暦の九月みそか、その月の一番終りの日だったので、その日を縁日ときめ、今でもその日をお祭りの日にしています。
それから薬師様は木の枝にかかっていたので、「木がかり薬師」とみんなが言っていたのが、今ではどうしたことか、「きかず薬師」というようになりました。なお、太郎兵衛さんの薬師様を見つけたところを「古い薬師」といい、薬師様の別名を、「つんぼう薬師」「目の薬師」とも言っています。
解説 仏教の伝説には、私達の心にじっくり浸み込むようなものが多い。特に、木がかり薬師さまは長野の善光寺の伝説に似たところが、あるのに心打たれる。善光寺のことを簡単に記すと“なにわ”の堀江を通りかかった善光は、川の中から「善光、善光」と叫ぶ声に川の中をのぞくと金色に光るものがある。川の中に入って抱え出すと仏像だったので、善光はきれいな水で清め、まつる場所を探して長野まで来た時、重くて動けなくなって、そこにまつったと言われる。
田幡さんから、お話をきいてから丁度一年、今度は、この報道を見ながら子供に読んできかせられるように書いて見ました。従って田幡さんの話から少々ずれたかも知れないがお許しを願いたい。(藤野豊吉)
『嵐山町報道』262号 1976年(昭和51)10月20日掲載
この話は、嵐山町教育委員会編の小冊子『嵐山町の伝説』に「11.木がかり薬師」として収録された。その後、佐藤治さんが澤村厚夫さんの挿絵つきで再版、『嵐山町の伝説』は現在、HPで公開されている(http://www1.neweb.ne.jp/wb/satoh-osm/minwa/index.htm)。巻末の「この冊子について」「掲載にあたって」もご覧下さい。