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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

里やまのくらし 12 志賀

2008-12-27 00:11:58 | 志賀

 庭先でのこぎりの目立てをしている人に、「彦三さんはいらっしゃいますか」と声をかけたら、「おれだよ」と返事がありました。おもわず「若い」と声が出た90歳の根岸彦三さん(大正4年生まれ)と、85歳のときさんに2006年春、取材した話です。
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  ちっとんべいの百姓
 「ちっとんべいの百姓だったから、おやじもおれもいろいろなことをやったんだよ」、彦三さんの言葉です。宅地以外は田んぼも畑も全部借りて耕作している小作農でした。学校をさがる(卒業する)と、よその農家の仕事も手伝いながら一生懸命農業をしました。冬場の農閑期には近くの材木屋さんで働きました。山からまきを背負(しょ)い出すことからはじめ、枝まるき、材木の伐採までできるようになりました。高橋材木店には戦後も長く勤め、フォークリフトの免許もとりました。1935年(昭和10)頃には牛を買い、父親の福平さんが東上線の線路工夫を辞めた時に牛車(うしぐるま)を作りました。馬力(ばりき)にまじって日傭取(ひようとり)に運送の仕事にもでました。都幾川で採取した砂利を駅まで運び貨車に積み込む仕事です。力のある雌(めす)牛で、川原から武蔵嵐山駅まで一回におよそ1トンの砂利を運びました。
 戦争が長期化すると徴兵や徴用で離村者が増えました。農家は手間不足になり、それまでは頼んで小作させてもらっていたのが今度は逆に頼まれるようになり、耕作面積が増えました。背が小さい彦三さんは徴兵検査で丙種合格となり第二国民兵役に編入されていましたが、戦争が激化した1945年(昭和20)5月、横須賀海兵団に召集されました。その頃、田んぼだけでもやたら増えて6反以上作くるようになってたそうです。戦後の農地改革で彦三さんは自作農になりました。戦時中の小作地拡大を反映して、解放された農地も増えていました。
 彦三さんはこれまで約4反の田んぼを作ってきました。でも、「今年は米作りをほとんどやめようと思っている。去年までの十分の一位かな。辻(つじ)の区画整理した田んぼは営農集団に委託したんだけれども、津金澤(つがんざわ)の谷津(やつ)の奥にある棚田には大型の50馬力のトラクターでは入れないんで頼めないんだ。機械も年をとってしまった。人間も年をとってしまった。何もかも年をとってしまって疲れて動けなくなりそうだから」と語る彦三さんは少し寂しそうでした。
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  スマシ
 農家の夕食といえばうどんです。煮込んで食べたり、ゆでて水にさらしシタジにつけて食べます。みそは買わずに作っていました。みそをなべで煮ほぐして液状にして木綿の袋に入れ、流しのわきに掛けてポタポタと垂れ落ちる汁を貯めて使いました。このみそをこした汁をスマシといい、うどんのシタジに使いました。醤油も自宅で作っていましたが、麹(こうじ)作りから仕込み、搾(しぼ)り、仕上げの火入れまで醤油屋さんを頼まなければならないので経費がかかります。スマシは醤油の節約にもなったのです。シタジにはカテと薬味を添えます。カテにはホウレンソウ、ナス、インゲンなど季節の野菜をゆでました。薬味はすりゴマ、刻みネギ、ミョウガ、ユズの皮をおろしたものでした。
「手間ひまをかけることは何でもなく、あるものを無駄なく工夫して使い切るのが当たり前だったんだよ。買うものは少なかったよ」と、ときさんは言います。よく耳にする言葉です。手間(労力)とひま(時間)をおしんで、商品やサービスを買ってすますことができる時代ではありませんでした。


観音堂議定書 1874年

2008-09-18 11:20:00 | 志賀

  明治七年五月十七日
    観音堂議定連印証券
              熊谷県管下
               南六大区四小区
                武州比企郡菅谷村
                        志賀村

   多田山千日堂寄付之証
中畠境内成五畝拾三歩 東裏寺分
山四反五畝拾弐分   裏山
 右二口志賀村多田亀三郎先祖多田弾右衛門代寄付
中畠九畝拾歩     東裏改東側
 是ハ菅谷村より寄付地ニ御座候
 三口〆六反五歩
右之通リ菅谷村役場庶帳簿江記載候也

   議定証券之事
武蔵国比企郡菅谷村地内建築
罷在候堂宇之義従来菅谷村
帳冊ニハ千日堂ト記載有之志賀村
施主人方ニテハ多田堂ト称シ何レモ区
分判然不致因テ此度改正之上観
音堂ト改定候事
一 右堂地券状ハ三枚共持主観音堂
  未換候事節ト地券表ニ書載候事
一 券状預リ場ハ境内壱枚ハ志賀村
  施主人所持畠山弐枚ハ其村役場江備
  置大切ニ所持可致事
    但別段券状預リ番ニ取引致スニ及ズ
一 地租納帳ハ其村并施主人共双方ニテ
  帳簿相仕立年々晩歳ニ至り施主人
  立合之上決算仕払相立双方ニテ所持
  可致事
    但双方江備置候帳冊江役場之用印并施
     主ノ用印共合算之処江刻印可致置事
一 地租相納候而残徳ハ其堂守有之ハ
  其堂守江手当不在之節ハ其地徳
  積立置堂宇破損之節修覆手当ニ
  相廻し可申事
    但堂守不在之節積立金ハ年々決
     算之上其村役場江預リ置可申候
一 右堂地之地所堂守自作候ハヽ格別不
  在之節ハ小作人何之誰ト確定候事
    但小作麦■或ハ金貨取極之事
一 右小作納期限ハ其年限リ日限ヲ定メ
  双方立会之上取立候事
一 堂守永年在住ニテ積立金無之候テ
  修覆いたし候節ハ双方尽力出金可致事
    但大破ニテ自力ニ及兼候ハヽ地中立木
     売木致し修繕之足合ニ可致事
一 先前ヨリ備置候修覆手当祠堂金
  之儀ハ堂宇堂宇修繕之節出金取立方
  其村役人上ニテ精々取立之上入費ニ充
  可申事
一 堂守等死去ハ勿論進退ニモ渾(すべ)テ施
  主并其村役人立会談判之上可取
  計事
    但堂宇修繕方法も同断之事
一 是迄堂中ニ設立候其村墓所之義
  従前之通無別条埋葬可致事
一 右堂施主方ニテ新喪出来葬式執
  行罷成候節ハ先規ニ任セ其村方ヨリ
  堂中世話役無差支様可致事
    但葬式ノ節其人数ニ飲食等施主ヨリ相賄ル事
右之条件双方熟諒之上示談納
得取究候上ハ相互ニ違反無之
一同連印仕後年之確証トシテ双
方江一冊ツヽ所持申処相違
無之候因テ如件
 明治七年
  五月十七日
    比企郡菅谷村
      戸長  関根伊左衛門 印
  書記人 副戸長 根岸与兵衛  印
      立会人 中嶋理平   印
    同郡志賀村
      施主  多田亀三郎  印
      同戸長 水野年連   印

     志賀・多田一男家文書29


境外仏堂類焼御届 1935年12月

2008-09-18 11:15:00 | 志賀

    比企郡菅谷村大字菅谷九番地
     曹洞宗東昌寺境外仏堂千日堂
一 仏堂 木造瓦葺、間口二間四尺奥行三間四尺向背付
一 所在地 比企郡菅谷村大字菅谷字東側百五拾四番地
右ハ昭和十年十二月三日午前一時民家ヨリ発火折柄烈風ニテ防火ノ功ナク遂ニ類焼仕候ニ付此段及御届候也
昭和十年十二月十八日
         右東昌寺住職
     管理者  中島信龍 印
     信徒惣代 根岸久一郎 印
     信徒惣代 山岸徳太郎 印
          多田豊作 印
          関根正作 印
 埼玉県知事 斎藤樹殿


菅谷の千手観音について 浅見覚堂

2008-09-18 10:10:00 | 志賀

 昭和53年(1978)12月、享年80歳で亡くなった中島喜市郎氏の遺構を、編集したものです。

  菅谷の千手観音について
 
比企郡嵐山町大字菅谷、曹洞宗東昌寺に、多田山千日堂があります。

①千日堂の由来
 千日堂の本尊は、千手観世音菩薩であります。嵐山町大字志賀の「陣屋」と土地の人たちに呼ばれている、多田米三郎氏の先祖【主君が正しい】岡部主水(もんど)もしくは玄蕃守(げんばのかみ)の母は慶長年間(1596~1615)、徳川二代将軍秀忠公の乳母【秀忠誕生は1576年(天正4)】をなされ、正心院さまと申されておりました。正心院さまがお亡くなりになりましてから、正心院様のお位牌は国許の志賀の陣屋、多田家に送り届けられました。法名を正心院殿日幸大姉と申します。そのため当主の多田平馬は正心院様の位牌堂建立を計画し、宝暦年間(1751~1763)、多田一角が完成したものが多田山千日堂であります。

②千日堂の焼失
 この千日堂は昭和10年(1935)、大字菅谷の大家にあい、本尊・位牌・堂宇共に焼失しました。

③本尊千手観世音菩薩新造祭祠の縁起
 昭和18年(1943)10月下旬のある日の夕方、日本農士学校農場長、長野県出身の酒井利晴先生が我が家を訪れまして、「中島君、サツマのふかしたのがあるかな」と云いました。その時あいにくサツマのふかしたのがなかったので、私は先生に「今晩、夕食を食べていませんね」と言いますと、先生は「見破られたかな、その通りです」と言うので、「それでは百姓の真の生活を味わってもらいましょう」と麦飯に白菜、自家製のおなめを出して食べてもらっていますと、隣家の関根正作さんが「今晩は」と言って入って来ました。食べ終わって参人でお茶を飲んでいましたが、酒井先生の言うことに、「俺はこの間、安岡先生のお供して、東京に石油会社を経営している松村善蔵さんという人のところに行きました。すると食事が出たので観音経を読み合掌しました。すると、松村さんは先生に、『あなたは観音信者か』と聞きましたので、先生は、『観音信者ではないけれど観音経を読んだのだから観音信者だ』と言った」のだそうです。「松村さんは、『観音信者なら観音様の軸物をあげる』と言った」という話をしました。
 この話を傍で聞いていた正作さんが独り言のように、「菅谷では観音様が焼けてないのだから、誰か観音様をくれる人があればいいなぁ」と言いました。酒井先生が「それでは私が話してみましょう」と言って帰りました。
 二、三日過ぎて松村宅に行き、その話をすると松村さんも快く受けてくれ、「それは何観音」と聞かれたので、「それはわからない」と言いますと、「聖観音ならすぐある」と言われたそうでが、わからないまま帰り又、正作さんに会いその話をしますと、「千手観音である」と言いました。先生は松村宅に行きその話をすると、「千手観音ならこれから半年後でなければ出来ない」ということでした。昭和19年(1944)7月になって「ご希望の千手観音像が出来上がった」という知らせがありました。

④観音像を迎えて
 昭和19年(1944)7月19日、当時観音さまの世話人であった根岸久一郎さん、関根正作さん二人と、観音さまの事につき非常に協力していた的野哲四郎さん(陣屋の血統を引いているという)と私と四人で行くことになりました。四人はまず東京の金鶏学院に着きました。休憩して昼食は学院に戻ってやることになっておりましたので、私は学院のコック飯野さんにおかずを頼んで学院を出発しました。安岡先生のお宅に立ち寄りましたが、先生も非常に多忙な方で、菅谷から来てくれたのでゆっくり話したいが、小磯君が帝国ホテルに待っているとのことで、先生と一緒に安岡先生宅を出まして松村氏宅に向かいました。その時は小磯内閣の組閣の時でした。松村氏の宅で、昼食としてあんこのない炭酸まんじゅうを頂きました。松村さんは観音像の前にて謡曲をやってくれました。そのあと松村さんの奥様と私二人で観音像を箱に入れ荷造りしました。それを頂いて金鶏学院に戻り、持参の弁当を食べました。
 東上線にて菅谷駅【1935年(昭和10)以降は武蔵嵐山駅】に着いたのですが、驚いたのは駅の玄関前には当時の東昌寺住職・中島信龍和尚、宝城寺住職・鷲峰玉堂和尚、他檀信徒三、四十人が出迎えに来ていたのであります。私は白布に包んだ観音像の箱を抱え、四人一行は迎の方々に護られて無事、東昌寺に着きました。

⑤正心院殿日幸大姉の位牌
 東京の実業家松村善蔵氏の篤志によって、多田山千日堂の本尊千手観音像が大字菅谷に寄進されましたので、多田家の当主多田浦吉氏に相談いたしましたところ、浦吉氏はもう全部焼失してしまったからと言って、相談に乗ってくれなかったので、多田家八代目豊吉氏の三男竜作氏(当時、東京深川清澄町に住す)に観音様の写真を持って行き相談しました。快く引き受けてくれまして、出来たのが現在の正心院殿日幸大師の位牌なのであります。

⑥奉安殿が観音堂に
 昭和20年(1945)8月15日大東亜戦争も終戦となり、その後はマッカーサー元帥の指令の許に我が大日本帝国は自由国家となり、天皇は帝国国王の位が無くなりましたので、日本国家の象徴となったのであります。そのため全国学校の奉安殿が廃止となり、菅谷小学校にても不必要となり、大字菅谷にては村会の議決を経て奉安殿を観音堂としてもらい受ける事になったのであります。そのため全国学校の奉安殿が廃止となり、菅谷小学校にても不必要となり、大字菅谷にては村会の議決を経て奉安殿を観音堂としてもらい受けることになったのであります。
 翌21年(1946)2月ある日の事、前夜の雪も止んで、快晴の日でありました。当時の区長中島勝哉さんと区長代理の石根丑三さんの二人が私宅に参りまして、この度大字菅谷にて奉安殿を観音堂としてもらい受ける事になったのでと言うことでありました。それからしばらくして三人で相談してから関根亀次郎さんを呼び、四人で相談してから奉安殿を見に行きました。私宅に戻って相談の結果、奉安殿を引く準備を亀次郎さんに任せました。亀次郎さんは志賀の斎藤与吉さんを相手に準備することに任せました。亀次郎さんは志賀の斎藤与吉さんを相手に準備することになり、基礎の方は石根丑造さんと私でやることになりました。
 奉安殿は菅谷丸通運送店のトラックに積まれ、エンジンをかけずに大勢の信徒の力引き綱によって観音堂の位置に着きました。その後入佛式を行い、供養を行っておりましたが、堂の痛みが激しくなり、中島操、中島正男、山岸一利氏三人の篤志金参拾万円にて、現在の位置(東昌寺境内】に「観音堂兼茶室」として移転したのが多田山千日堂であります。
 多田山千日堂(観音堂)解体は昭和52年5月頃で、その跡地には菅谷自治会館が建設され、同年八月十六日竣工式を行いました。
  『原っぱ比企』7号(1990年10月)の「街角の歴史散策」に掲載されたものを修正、補筆した。