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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古里に「観光果樹園」が設置される 1992年

2010-08-23 21:19:40 | 古里

   「観光果樹園」設置 農政課・小林治光
 今農村に何が求めれれているか。それは今まで私達が築いて来た集落を中心とした農村生活だけでなく都市と農村、農民と都市市民、お互いに交流を図りながら農村地域の活性化を図りだれもが行ってみたい、住んでみたいと言うような、村づくりが大切であると言われております。
 町ではこうした考えから養蚕の低迷により利用されていない桑園の有効利用を図る為、又都市の人達に農業の良さを知ってもらうことを目的として、古里地区*に観光果樹園を設置しました。
 観光果樹園は、未利用桑園を抜根した二〇アールの傾斜地を利用し一区画を五〇平方メートルとして四十区画設置しました*。
 農園の利用料金は一区画年間五千円とし貸し出した所多勢の皆様から申込みをいただきお陰様でほぼ満杯の状況です。
 現在利用されている人達はほとんど町内の人達ですが、町外の方からも問い合わせが有りますので今後は増設して町外の人達にも貸し出して行きたいと思います。
 利用者のほとんどの人達がすでに思い思いの果樹苗を植付けておりますが一年目ということで果樹のあいだに野菜を栽培しており収穫した新鮮な野菜を自分達の食生活に利用しておるとのことです。
 観光果樹園を時折り訪ねて見ますと利用者の皆さんが汗を流しながら一生懸命作業に取組んでいる所に出合います。話しかけてみますとこんな景色のよい自然にめぐまれた場所で土を耕し作物を作ることが出来てほんとうによかったと言う言葉がかえってきてほんとうによかったと思っております。
 利用者の皆さんに大変よろこばれておりますので、今後も果樹園の増設、又市民農園等の開設も考えて行きたいと思います。

   『嵐山町農業委員会報』24号 1993年12月25日

 *:古里岩根沢に1992年度43アール37区画、1994年度16区画10アールが設置され、ゆず、くり、みかん等が植えられた。


明治・大正期の葬式

2010-03-27 06:42:00 | 古里

 埋葬の仕方は、土葬から戦後になって火葬へと大きく変わってきたが、葬式の仕方も次第に変化してきている。村に残されている史料を基にまだ土葬であった明治期・大正期の葬式の様子を見てみよう。

  ご不幸がおこると
 ご不幸が起ると、まず近所に通知して集まってもらう。一家の人びとも集合して、ここで施主(せしゅ)を加えて葬式の相談をする。葬式の仕事は隣組が主になって執り行った。ご不幸を伝える「告げ人」、これは必ず二人組。役場、買い物、家まわりの諸雑用、穴掘りなどの分担が決まる(『嵐山町史』)。こんな様子が,現在残っている史料からうかがうことが出来る。ただし通夜(つや)【死者を葬(ほうむ)る前に、家族や親しい人たちが棺(ひつぎ)の前で一晩過ごす】のことはわからない。役場に行った人は埋葬許可証をもらう。これは役場の記録として年ごとに残されている(『埋葬許可証交付帳』)。大正時代は、遠隔地での死亡、伝染病以外は土葬であった。埋葬地は共有墓地が多い。悔香料控簿には香典(こうでん)・病気見舞い・忌明け(いみあけ)【喪の期間が終わって普通の生活に戻ること】参加者の氏名が記され、後の付き合いの参考にもする。親戚筋は香典の額が多い。家の財力によるのか、時代の風潮かわからないが大正期には、香典の額、振る舞いの費用が多い.蒔銭(まきせん)【葬儀のときに参列者にまく銭】も行なわれている。

  葬式の役割分担
 O家の場合
  1883年(明治16)6月 
  寺      2名
  触れ(10地区) 17名
  米搗き    2名
  勝手     1名
  竹細工    2名
  蓮台     2名
  幕張     2名
  箱作     1名
  寺の供    1名
  松明(たいまつ)1名
  札      1名
  板切     1名
  庶務     7名
  膳方     1名
  穴      6名
         47名

  1903年(明治36)11月
  小川買い物行き 2名
  触れ      4名
  米搗き     3名
  勝手係     1名
  竹細工     2名
  幕張・蓮台
  ・六地蔵・松明 4名
  寺の供     1名
  机持役     1名
  祓切掛     1名
  小持一切    2名
  穴       4名
          25名

  野辺の送りの役割
 N家の場合
  1910年(明治43)2月
   (死者:戸主の母)
   高張提灯   2名
   松明     2名
   位牌(いはい) 1名
   霊膳(れいぜん)1名
   棺掛     4名
   花籠     2名
   花      4名
   香炉(こうろ) 1名
   幡(のぼり)  5名
          21名

  1912年(明治45)3月
   高張提灯  2名
   松明    1名
   位牌    1名
   霊膳    1名
   棺掛    4名
   花籠    2名
   花     3名
   香炉    1名
   天外幡   2名
   幡掛    4名
   墓標    1名
         22名

  葬式の規模と費用
 O家の場合
  1903年(明治36)
   参加者 66名
   香典  30円50銭
   支出  26円66銭
   残    3円84銭
  【支出先】
   小川買物・かごや
   管理者・油揚・寺・役僧
   寺供・川島・酒・酢
   こんにゃく・穴
   米搗き・きよめ料
   玉砂糖・はらい色紙
   (寺社関係費用約半分)

 N家の場合
  1921年(大正10)
   参加者 77名
   香典  126円30銭
   支出  119円22銭
   残    7円08銭
  【支出先】
   饅頭(まんじゅう)580個46円40銭など引物が多い
   50人の人に食事を用意(スシ・煮物・すまし汁・酒)
   寺納め関係

参考資料
 安藤武家文書 1072番  大野益一家文書6,16,23番
 多田一男家文書12番   中村常男家文書786,896,977番
 根岸茂夫家文書215番  大野浩家文書 家計詳細録


古里「鎌倉稲荷」について 中村常男 1992年

2010-03-26 08:37:22 | 古里

 嵐山町の北端に位置する古里は、其の地名に相応(ふさわ)しく、相当古代から人文・政治・経済の拠点として、近郷近在の中心的な役割を果たしつつ栄えて来たものと考える。
 地形について見ても、古里の略々(ほぼ)中央の東西に集落を形成し、背後に山林沼沢を控え、前面等に豊沃(ほうよく)な水田地帯を有する一箇の別天地の様相を見る事ができる。
 又相当古代から拓かれた地域として、埋蔵された遺跡、古文書等、既に先人の指摘によって私達の知るところである。
 私達の今尚安住の地である古里に、幾多の先人達がどの様な日々のたたかいと、くらしのいきざまを展開して来たのか、現在に伝承された資料等によって、其の一部たりともあきらかにすることができれば幸いとするところである。今回は其の史実の一つである「鎌倉稲荷」について記したいと思う。
 明治三十九年(1906)頃からの国の施策によって、大字古里に現存し古里全体の氏神として、尊崇(そんすう)されて居た兵執神社と、それと同一の氏子を有していた、数多くの社祠が其の境内に移転合祀されたのである。
 「鎌倉稲荷」も現在、兵執神社の右方に移転され祀られている。本地は北方約一キロ、小字清水の山中にある、見上げるばかりの大鳥居、壮麗なる社殿と広大な境内を誇る、大社であった。鎌倉稲荷の起源・沿革等については今の処、確たる証拠となるものを発見し得ない。然し往事を知る二、三の推定を下す事はできる。
 其の一つは中村家に現存する絵図面によってである。此の絵図面は畳一枚程の和紙に、当時の古里の全戸、社寺、屋敷林等の大小、遠近、構成等が手に取る様に描かれているものである。文政十二年八月(1829)の検地による作成である。当時の古里は寺二、堂一、人家八十二、計八十六軒であった。此の古里全部を次に掲げる九人の旗本が、分割知行していた。

   知行所別一覧
長井又右衛門  名主 伴七
森本惣兵衛   名主 茂右衛門
有賀滋之丞   名主 仙蔵
内藤熊太郎   名主 弥十郎
林内蔵助    名主 清兵衛
           伊右衛門
市川伝八郞   名主 徳次郎
横田三四郎   名主 市兵衛
松崎藤十郎   名主 長左衛門
松崎弥兵衛   名主 仝人

 右に掲げた各九人の名主によって年貢の取立、上納、紛争の解決等、一切を取りしきって居た様である。鎌倉稲荷の社趾は現在コロニー「嵐山郷」の中にある。当時の絵図面にも其の箇所に、稲荷社の模様が描かれている。是に依ると先ず第門の長さは約六十間、道幅約五間に及び、社殿の境内には約五反歩を有したと伝えられている。
 更に第門の両側には亭々(ていてい)たる杉の巨木があった。又社殿の後方にも数本の杉の大木を主体とした森があった。飯島正治氏が小学生当時、祖父の福次郎氏と共に見た是等の木の切株は、其の周囲優に一丈を超えて居たと云う。此の杉は日露戦争の為に明治三十七、八年頃に伐採された。当時此の「鎌倉稲荷」の神木は遠く熊谷宿からも望見し得たと伝えられている。
 社殿は本殿のほかに、神楽殿、社務所等があり、丈余の朱塗りの大鳥居とともに、煌々と輝く灯火に映えて、実に壮観であったとの事である。
 又稲荷社から数百米南方に熊谷-小川往還が東西に走って居り、其処(現在の飯島信子氏宅付近)から、社に至る約六百米の参道があった。縁日に当る巳の番にはこの参道に、数限りない灯籠が灯(とぼ)された。
 又第門【?】の両側には、常時、酒、だんご、いなりずし其他もろもろの物を商なう、五、六軒の店があり、其他多数の出店が立並び実に賑やかであった。参道入口から社殿に至る間を、数多くの善男善女が列をなして参詣(さんけい)したという。
 関根長治郎氏宅の祖母の叔父に当る竹次郎氏は、門前に店を構えて居り、新井勘重氏の祖父に当る伊之助氏は、縁日等には必ず店を出して、酒、だんご、おでん等を売って居たとの事である。更に伊之助氏は本業である炭屋をやめて、門前前の商売の面白さにつられて、家を移転、店を構えようと計ったが家内に反対され、是を果し得なかった。お陰で新井家は今日あるものと思うとは、当主勘重氏(八十四才)の述懐であった。
 毎月、縁日の度毎に賭場が開かれた。胴元は熊谷駅の枡屋一家であった。はなやかな祭りの蔭に悲喜交々(ひきこもごも)の人生が展開された事であろう。明治三十九年(1906)移転合祀の際、共に運ばれて来た手洗い場の台石に、寄進は明治十五年七月吉日と記されている。更に近郷近在の奉納者三十九名の中に熊谷駅の枡屋一家五人の名が刻まれている事によっても、右の枡屋が賭場を取りしきって居たものと推定される。
 更に現在の処に祀られた「鎌倉稲荷神社」の側に、恐らく同時に運ばれて来たのであろう。旧社屋の鬼瓦数基が保存されている。是に刻まれている、交差する矢羽の紋様は実に珍しいものと思う。この鬼瓦が作られた時代についてもいつかは解明したいものである。
 後一件つけ加えると、中村家にはつい最近まで「稲荷社」と大書した「額」と燈籠(祭の時に新に紙を張り替え当時の風俗等を模写して、建て並べたもの)が数十基あったが、是は合祀された当時氏子総代であった為、私の家に預り置いたものと思われる。尚当時は既に社運も傾きつつあり、兵執神社の総代が併せて祭典を執行したいた。
 さて問題の一つは「鎌倉稲荷」の創設の時期である。大正末期頃確認された周囲丈余に及ぶ杉の切り株(推定約三〇〇年位)、絵図面に見る文政十二年(1829)当時既に亭々たる大樹であった事、其他古老の言を勘案するに、鎌倉の名を冠する社名と共に、鎌倉時代末期頃の創見にかかるものと思われる。
 問題の二は然らば最も隆盛を極めた時はいつの頃か、云い伝えによれば幾度か大火によって盛衰を繰り返した様である。史書にもあるように、文政七年(1824)、関東大水害、同八年、諸国に一揆起る。文政十一年、諸国に大洪水り、同年、越後大地震、同十二年、江戸大火、同十三年、京都大地震等々。打続く大乱のため、鎌倉稲荷も衰退した時期にあったものと思われる。前述の絵図面にも、大社の様相が判然とされて居ない事と併せて考えると、壮麗な社殿は其後再建されたものであろう。それから明治初期に至る、四、五十年間が最も隆盛を極めた時期であったものと推考される。慶応三年(1867)生れの飯島福次郎、十四、五才の頃は未だ祭りは盛大であったと、祖父から聞いた飯島正治氏の言である。
 最後に問題の三は、何故此処(当時交通の要路であった)に創建されたのか、又年久しく庶民の信仰の対象として隆盛を誇ったが、いかなる事態によって、いつしか凋落(ちょうらく)し来って崩壊の一途を辿(たど)らざるを得なかったのか、きらびやかに着飾った善男善女が列をなしたという、縁日の光景を脳裡(のうり)に描きつつも、此の事ばかりは私達凡人の到底窺(うかが)い知る処ではない。
 兵執神社境内に合祀された当時、既に社殿の傷みは相当進んでいたが、其後も尚神楽殿は何年か残り、遂に崩れ去ったとの事である。社殿の跡の近傍に二つの塚があるが、是も何かの関連があったのではないか、更にその一つに小さな鳥居を立て、参詣する何人かがある様だが、何か不思議の感を覚えた次第である。
 附記
 「鎌倉稲荷」についての記事を構成するに当り、飯島正治氏、吉場雅美氏、飯島文八氏、新井勘重氏等の方々の多大の協力を得ました事を特に記して、感謝申し上げたい。

   嵐山町教育委員会編集『嵐山町の研究』(一) 1992年3月発行

※鎌倉稲荷については、『新編武蔵風土記稿』、『武蔵国郡村誌』、『七郷村誌原稿』、『七郷村誌原稿(社寺明細帳)』、『神社明細帳』に記述がある。


武蔵酪農の歴史 26 酪農20余年の歩み 嵐山町・吉場雅美 1990年

2010-01-27 05:46:57 | 古里

   酪農20余年の歩み
          嵐山町 吉場雅美
 時は激動化した、昭和の真只中、酪農家として発足したのは、27年人生男さかり30才の時であった。
 私の営みを酪農に決定づけたのは、自然条件に恵まれた町の片隅の林野に囲まれた地形に、土と闘い、酪農に生き20数年を返り見て、此の度、武蔵酪農40周年誌発刊に際し、想いでを記する機会を得ましたことは、誠に、感謝にたえません。
 戦後も10年余も過ぎ去った頃、日本は経済大国として、造船ブームも世界一として、高度成長を世界に誇り示した頃であった。
 乳量需要も活気を呈し、明治や森永の乳業会社も乳量確保に争奪に及んだこの頃は、我々生産者にも張りのある時代であった。
 酪農家も、次第に増して、武蔵酪農も、頭数は、益々拡大し、各町村にも、畜産共進会が盛んに施行される。昭和32年(1957)秋の比企郡市育成共進会が開かれ、時の組合長浜中東重郎会長より優賞に召されたこともございます。その翌年の頃かと思いますが、本年(1989)誕生した天皇陛下は美智子妃殿下と結婚した頃、県の畜産共進会が深谷市で開催され、武蔵酪農一組合員として入賞出来たのも、時の組合員各位の御支援の賜ものと深く感謝申し上げます。然し、その後の事である。人生には浮き沈みもございます。期待した二産目の成牛が、突然病み出し、食慾もなくなり激しい疲憊その極に達し、田村、井上、小鷹三先生には深夜まで治療に当られ、小鷹先生には夜を徹して看病に付いて頂いたが、悔も空しく遂に、私の不注意怠慢から、手遅れとなり帰らぬ牛となった事も、心に残る深い思い出として、三先生には、本誌をもって、厚く御礼申し上げる次第であります。
 此の様な強打も受けて、又波を越えて、私達、班のグループ7名は、月に1回の乳代精算に、各家庭を廻って、楽しく話合に花咲く夜の交流に生きがいを感じ、大型酪農をめざして、夢と、希望に、躍進した時もあった。
 尚、39年(1964)東京には、オリンピックが開かれ、一大人類の祭典として、乳量需要も増えてか、各メーカーは、色物乳製品が、多量に出廻り、生産者にもピンチが来た。でも我が組合は、益々繁栄し、或る時の通常総会に、議長として就任した時の思い出は、500人もの組合員と記憶しているが、この頃は、玉川地区や、江南地区からも新加入者が増えて、堅実に、組合は、昇る朝日の如く運営されたのである。
 併し、時代の変革の中で、牛と別れる時が来た。49年(1974)成牛7頭、育成3頭、長年愛育した牛も目頭うるむ涙で見送ったのであった。
 でも之を資本として、植木の生産に切り替え、今や会社として造園業に導いて下さったのも酪農のお蔭と信じ、幸せを求めて、今尚、健全な老後の日々が送れる事は、人生の最大の幸福と思い、今後とも、何分よろしく、御支援賜りたく、心より御願い申し上げます。
 武蔵酪農の御繁栄を、お祈り申し上げます。

  武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(1990年1月)108頁~109頁

吉場雅美「菅谷村畜産と自給飼料」(1958)「戦後五十年に思う」(1995)


こんやぐんじろおのはなし 杉山文悟 1884年

2009-07-07 16:45:50 | 古里

   勉強忍耐の人能く身を起す
 左に掲けたる紺屋軍次郎の話は杉山文悟(本会特別会員)君の作りし所なり。頗る教育上に裨益(ひえき)あるへき事実なれば掲げて修身口授の一助に供せんとするなり。

   こんやぐんじろおのはなし
ぐんじろお わ せい なかむら ちちお ばんしちと いひ ぶんか 十二ねん 十二ぐわつ 七にち むさし ひきごおり ふるさとむら に うまる いへ だいだい のお お なりわい と せり ぐんじろお うまれつき ごおき にして ちち の ろく お しょくするおこころよし と せず つね に ひとりだち の こころざし あり 十七さい の とき いへお いで しょしょ の こんや に いたり みづから その やとい と なり べんきょお すること 五六ねん まったく いとそむわざ お おぼへたり よって いへ に かへり みうち の たすけ お えて こんや お はじめたり されど いろいろ の ふべん ありて もおけ も こころ の ごとく ならず ふたたび いへ お いで おおく の くにぐに お へめぐり そのあいだ あきびと となり また ひと の めしつかい と なり よろづ からき わざ お なし よおやく のんど お うるおし たり されば とき に よりて わ のやま に ねふし また あるとき わ ふつかのあいだ しょくもつ お ゑざる こと も ありたり ついに めぐりて むさし こだま ごおり ほんじょお に いたり うおるい お あきない たり されど いわし 二十四五ひき の あたい わづか 二三せん ほど のことなれば なかなか これにて もとで お うる に たらず こども わ うゑ て ひざ に なき つま わ つかれ て とこ に ふし さらに せんすべ も なかりしが さいわい ひとの たすけ ありて えき の みなみ しんでん に いへ お かまへ ここ に こんや お はじめ はたらく こと 一ねん ばかり やや にちょお のどおぐ もそなわり たり しかるに たまたま ひのえむま の とし くわさい あり かざい のこらず はいけむり と なしたり もとより ほそき もとで なれば いま わ いかんとも なす あたわず しかれども みづから おもえらく われ とし すで に 三十 に あまれり しかして その すぐるところ おおむね ひと に つかわれ たり いま にして たつ あたわず ば しょおがい また やすむとき なかるべし いのち の あらんかぎり わが こころざし わ かゆまじ と こころ に ちかい ふたたび ところところ の みうち に たすけ お こひ 八りょお の かね お えたり これにて かれこれ のにゅうひ お すまし やけのこり のかめなど あつめ わづか に いぜん の しょくぎょお お つげり のち しんく すること 二三ねん すこし も りえき なく かへって 五十りょお ばかり の かりきん お しょおじ たり されど なお くっせず ひめもす いと お しぼり かたわら あいだま の あきない おも なしたれば 五六ねん に して かりきん も すみ やや もおけ お みる に いたれり これより ちからづき ひるよる おこたらず はたらき ければ しだい に りえき も おおきく なり いま かさん の たかわ すうじゅうまん に のぼりたり おきな わ ことし 七十二さい こども 六にん まご 十一にん ひこ 二にん あるもの わ ほか に ゆき あるもの わ いへ に おれり また はしため しもべ あわせて 八にん あり しだい にしょくぎょお も はんじょお なし かくて いまの しんだい に いたり たる わ ただ しょおじき お まもり て はたらき たる のみなり と いふ
     『埼玉教育雑誌』7号 1884年(明治17)4月5日

※埼玉私立教育会発行の雑誌に『埼玉教育雑誌』に掲載されたこの話については、「立身出世のモデルとなった紺屋軍次郎」を参照。「こんやぐんじろおのはなし」を漢字かな交じり文にすると、次のようになる。

   紺屋軍次郎の話
 軍次郎は、姓中村、父を伴七と言ひ、文化十二年(1815)十二月七日、武蔵比企郡古里村に生まる。家代々、農を生業(なりわい)とせり。軍次郎生まれつき剛毅(ごうき)にして、父の禄を食するを心よしとせず、常に独立(ひとりだち)の志あり。十七才の時、家を出で、所々の紺屋に至り、自らその雇いとなり、勉強する五、六年。全く糸染むわざを覚へたり。よって、家へ帰り、身内の助けを得て、紺屋を始めたり。されど、色々の不便ありて、儲けも心の如くならず、再び家を出で、多くの国々を経巡り、あおの間、商人(あきびと)となり、また人の召仕となり、万(よろづ)辛き業をなし、漸く喉を潤したり。されば、時によりては、野山に寝臥し、またある時は、二日の間、食物を得ざる事もありたり。ついに巡りて、武蔵児玉郡本庄に至り、魚類を商いたり。されど、鰯(いわし)二十四、五匹の値、僅か二、三銭程の事なれば、なかなか、これにて元手を得るにたらず。子供は飢えて膝に泣き、妻は疲れて床に臥し、更にせん術(すべ)も無かりしが、幸い、人の援(たすけ)ありて、駅の南、新田に家を構へ、ここに紺屋を始め、働くこと一年ばかり、やや二挺の道具も備わりたり。しかるに偶々(たまたま)丙午(ひのえうま)の年(弘化三年、1846)、火災あり、家財残らず灰煙となしたり。元より細き元手なれば、今は如何とも為す能わず。しかれども自ら思へらく、我、歳既に三十に余れり。而して、その過ぐるところ、概(おおむ)ね、人に使われたり。今にして立つ能わずば、生涯また安(やす)む時無かるべし。命のあらん限り、我が志は変(か)ゆまじと心に誓い、再び所々の身内に援(たすけ)を乞ひ、八両の金を得たり。これにて、かれこれの入費を済まし、焼け残りの甕(かめ)など集め、僅かに以前の職業を継げり。後、辛苦すること二、三年、少しも利益なく、却って五十両ばかりの借金を生じたり。されどなお屈せず、終日、糸を絞り、旁ら藍玉の商いをも為したれば、五、六年にして、借金も済み、やや儲けを見るに至れり。これより力付き、昼夜、怠らず働きければ、次第に利益も大きくなり、今、家産の額は数十万に上りたり。翁は今年、七十二才、子供六人、孫十一人、曾孫二人。ある者は他所に行き、ある者は家に居れり。また、婢(はしため)、僕(しもべ)あわせて八人あり。次第に職業も繁盛をなし、些(いささ)かの不足もあることなし。かくて、今の身代に至りたるは、正直を守りて働きたるのみなりと云う。

 作者の杉山文悟は嵐山町杉山出身。本庄町で郡立中学校の教員をしていた。その後、1889年(明治22)、東京に出て普及社に入社、教科書の編さんにあたる。1896年(明治29)埼玉県視学となる。その後、台湾総督府、日本共同火災などに勤める。1927年(昭和2)11月没。
 「こんやぐんじろおのはなし」は1984年(明治27)3月に目黒書店から出版された、石井了一・石井福太郎偏『家庭教育 修身亀鑑』の第12章に掲載されている。そこでは軍治郎の父の名前が「番七」となっているが、古文書などから、「伴七」を使っていたようだ。「老いて安楽の生活をせんには、如何して可なるや」を参照。


里やまのくらし 27 古里 2007年

2009-06-28 15:32:41 | 古里

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 古里、兵執神社(へとりじんじゃ)の秋の祭日は原則10月19日前の日曜日で、獅子舞が毎年奉納されています。
 2001年(平成13)7月、夏祭り準備の日、今年は獅子舞が中止になったと聞かされました。この年は獅子と棒司(つか)い役が交替する新稽古(しんげいこ)の年でしたが、後継の役者となる子どもたちを集める事が難航したのが中止の理由です。秋祭りには現役の役者と代役により奉納をすませ、町の無形文化財の獅子舞を絶やすなと古里獅子舞保存会がつくられ、翌春、新稽古を実施しました。会長は飯島竹吉、飯島孝夫、武井康さんと引き継がれ、現在、小中学生を対象に「伝統文化こども教室」を開催して、獅子舞の体験学習と後継者の育成に努めています。

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  獅子舞の稽古
 2007年(平成19)、嵐山町議選で一週遅れの10月21日の本番を前に、10月6日、7日、13日、14日、兵執神社の社務所で獅子舞の練習が行われました。練習の日程を土曜日、日曜日の夕刻に選らんでも役者が定時に揃わず、電話連絡や子ども教室の生徒の世話で飯島守さんは大忙しです。
 獅子舞の役者は、仲立(なかだ)ち1人、獅子3人、棒司い4人、笛吹き7人~10人で、先達(せんだつ)の飯島孝夫さんの拍子木の合図で演じ始めます。
 中立ちは獅子役の経験者で、ヒョットコの面をつけ、法眼(ほうがん)獅子、雌(め)獅子、雄獅子を先導して舞います。中立(なかだ)ちの吉場健一さんは1958年(昭和33)、雄獅子の稽古を始めました。「獅子舞が最優先。三人揃わないと舞えないので稽古は休めません。所作(しょさ)が違うと、回りで見ている先輩達に厳しく注意されました」と回想しています。代役で法眼獅子を舞っている安藤正人さんは1985年(昭和60)3月、新稽古でした。「小学4年生でしたが、雌獅子に選ばれたことを誇りに思って練習しました」と語り、役者にお願いしても辞退されることの多い現状を危惧しています。

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 舞に先立ち4人の棒司いが棒術を行い舞う場を祓(はら)い清めます。掛け声が出ないと相手との呼吸が合わず六尺棒が打ち合えません。代役の飯島一郎さん、舎利弗孝幸(とどろきたかゆき)さんが元気に汗を流していました。
 先達は舞い歌を歌い、笛吹も歌います。笛吹きは譜面がないので、師匠格の熟練者と向き合い、指使いを真似ることから修行を始めます。修得に時間がかかるので任期はありません。始めはなかなか音が出ず、続かない人が多いそうです。現在、笛を取り仕切る親笛は横瀬秀男さんが務めています。
 日曜日の稽古終了後、神社の用番が米1升に醤油1合の割合で炊いた醤油飯(しょいめし)と豆腐のすまし汁が出されました。奉納前日の足揃(あしぞろ)いの日の万灯(まんどう)作りや、神社に向かう街道下(くだ)りの行列先頭の万灯担(かつ)ぎ、露払(つゆはら)いの金棒(かなぼう)2人、舞の庭で竹のササラを擦(す)る花笠ッ子4人は、毎年交替する当番郭(とうばんくるわ)から出場します。2007年(平成19)は第3支部の担当です。

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古里の今昔23 郷土の剣豪 中村清介

2009-06-18 06:40:00 | 古里

   十八、郷土の剣豪
  中村清介翁とその奉納額
 七郷村長船戸熊吉(越畑)は、第四代村長として明治二十八年七月より同二十九年十月まで就任し、更に第五代田中浪吉村長(勝田)の後を受けて明治三十二年七月再び第六代村長に就任したが、僅か三ヶ月で退任となった。当時村議として頭巾を現していた中村清介が、議会の推薦を得て第七代村長に就任したのは同三十二年十月で、議会の親任と村民の信望を得て三十六年四月まで三年六ヶ月勤続して、着実なる村政を執行することを得た。
 中村家は嵐山町大字古里七六六番地に在り、近世年間に名主を勤めた旧家で、地元では「後り中村」の通称で通っている。先年火災に遭い家財一切を消失したため、往時所蔵の諸資料を見ることができず誠に残念であるが、幸わい「小川地方武道史」の小誌を保管してあったので、これにより森吉・清介二代にわたる剣道一家の当時を忍ぶことができる。
 小川地方武道史のはしがきには、小川警察管内にあげる武道発表の歴史を永く後世に伝えるため編集する云々と記され、小川武道振興会田口勘造・同編集委員長山口麟三郎の銘があり、編集昭和四十六年(1971)九月十五日と記録されている。

○演武場長養館における指導歴
 明治二十年より昭和二年に至る四十一年間前後五七〇名に及ぶ門人の稽古に精魂を打ちこまれた。流派は甲源一刀流で、逸見武一らと同流である。
○小川警察署歴代嘱託教師
 初代 明治三十六年一月より  師範  小久保満尊 念流
 二代 同 三十八年十一月より 五段  中村 清介 甲源一刀流
 三代 昭和六年八月より    六段  小久保 麟 念流
 四代 同 三十年六月より   六段  千野 寿助 小野派一刀流
 五代 同 四十年八月より   七段  黒沢 利輔  〃
○剣道顕彰碑
 (1)中村清介翁顕彰碑
 所在地  嵐山町古里八二五
 碑 名  軍神の碑
 建立年月 明治二十九年十一月
  注 長養館有志の建立するもの
 (2)野口起翁寿蔵碑
 所在地  小川町青山八二七
 碑 名  野口愛之助先生碑
 建立年月 大正三年四月
  注 碑裏面に中村清介・小久保満尊の名あり
○剣道年表
 嘉永五年九月十五日 剣士中村森吉長男として古里に生れる。
 明治三十八年十一日 小川警察嘱託教師となる。
 昭和二年十二月十二日 七十五歳にて歿す
○奉納額
 小川地方武道史には、奉納年月日・掲額場所・所在地・願主(中村清介)流派甲源一刀流と簡単に記されているのみであるが、その詳細について次に記すこととする。

  (奉納額平面略図)

○額の大きさ 横九尺三寸(2.8m)
   縦七尺(2.1m)
○木刀の大きさ 長さ二尺五寸(0.75m)
  額中央部にあり 二振
○本文は九行となっているが、文字不鮮明のため読み取れない。
○奉納者と逸見家・中村家の代表者
 奉納者中村清介は大書して平面図の箇所を占め、その右下に逸見男として逸見武一、左下に中村男として、中村良資(長男)・中村文武 中村美明と記されている。
○額面には上段から師範・同代・目録・平席の順に書かれ、これらの氏名が八段に分けて記名されているが、年数が経過しているためその大部分が視読できない状態である。師範で読み取れた氏名は次の人達である。
 蛭川一、瀬川太郎左衛門、飯田源三郎、大塚奓恵八、岡田義太郎、鈴木勝四郎、青木進、江黒磯七、森田吹輝、外二十人余。
○同代は師範代理の人達で、榊原鎮吉を筆頭に四十人余連記されている。
○目録欄には文字薄れて不明であるが約二百人の氏名が書き連ねられている
○目録欄に続いて平席の氏名が約二百四十名登載され、地元古里を始めとして本畠・男衾・八和田・小川・菅谷・宮前・福田・小原等近隣より青荘年層の同好者計数百名が相前後してこの門を訪ずれ。日夜剣の道に精魂をこめた稽古が行われたと伝えられる。
○下欄に長養館幹事として、富岡賢三郎(板井)外五名が記され、続いて名誉員として倉内覚之亟を筆頭に地元有志等三十九名が連記され最終に幹事安藤貞良、中村国吉、千野房吉、飯島貴寿、神官篠場豊盛五名の名が連ねられている。
○奉納年月日
 左側端上部から明治二十七年(1984)一月十三日。橘堂客史謹書と記してある。
○道場
 道場は当家の裏手にあったが、現在は取り壊されて往時の面影は全滅してしまった。道場は長養館と称し門人一同のあこがれの道場であった。
 以上で稿を終わるが、この頃は明治二十七・八年戦役の直前で国を挙げて自国意識旺盛の時期であり、従って柔剣道熱も挙がり、何れの町村を問わず士道精神の溢れ満ちた時代であった。

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔22 古沼再興工事記録を読む

2009-06-18 06:18:00 | 古里

   十七、字茨原古沼再興工事記録を視る
 日露交渉が決裂し、明治三十七年(1904)二月四日御前会議は対露開戦を決定し、六日ロシヤに対し国交断絶を通告した。ロシヤは同九日、日本は同十日に宣戦を布告した。翌三十八年(1905)旅順開城、奉天の会戦、日本海の戦等、陸海軍の奮戦が続き、お蔭で日本は完全に大勝して世界各国民の注目を集めた。その後日露講話条約が調印されて戦争は終止することとなった。
 戦役後の三十九年(1906)には鉄道国有法が公布され、満鉄会社が設立された。四十年(1907)には日本社会党が直接行動論を主唱し、結社禁止の処分を受けた。又小学校令改正により義務教育が六ヵ年に延長された。四十一年(1908)には赤旗事件で堺利彦らが検挙され、社会主義思想の流行と国民の奢侈の傾向をいましめるための戌申詔書が十月発布されるに至った。
 しかし右の傾向は国内の一般的風潮で、農山村の人たちは家業をなげうってまで遊び暮らすわけには参らず、年間を通じて農耕作業に専念ひたすら食糧増産を目途に窮々として生き抜く外はなかった。
 本題の池沼再興譜請を、沼下全員の協議を重ねた結果断行することになったのも。沼下全面積に比して余りに水源が小規模であるため、下沼の深渫と上沼を新規に興し水不足を解消して、稲作の増収を図るためのものであった。
 この普請に関係する帳簿として、「古沼下耕作者並耕作段別目録帳」、「古沼再興諸費人足帳」、「杭木モワコ及出金控帳」、「諸入費仕拂控帳」の四冊が拙宅に保存されている。以下右帳の記録を基として記して見ることとする。

  字茨原古沼再興目録帳
 本帳表紙には明治四拾壱年(1908)弐月六日委員長安藤金蔵と横書されており、記帳の内容は関係地主ごとに筆ごとの耕作段別が記るされている。筆頭は一町三段六畝歩の安藤寸介。八段四畝歩の飯島福次郎、八段一畝歩の安藤喜三郎、五段三畝十五歩の安藤金蔵等が主な地主層である。総計段別は十一町八段九畝十九歩で関係者は計四十三人。内、字内が三十五人、小原村大字板井関係者が八名となっている。
 古沼再興工事は二期に分けて計画され、第一期は上沼の一段三畝二十四歩の新規工事。第二期は一段三畝二十五歩の下沼深渫工事である。第一期上沼新規工事は明治四十一年(1908)二月より三月にかけて行われ、第二期下沼深渫工事は大正元年(1912)九月、十月に実施している。

  古沼再興諸費人足帳
 本帳は明治四十一年(1908)二月九日付となっており、始めに耕作面積と耕作者名が再記され、上沼再興工事開始の明治四十一年二月十六日より実施日毎に人足数何人と記され。三月二十六日で工事を竣工している。延日数二十日間、延人足数四百二十九人半を要している。
 因に上沼の地番は字新林1620-1の山林四畝歩、同1620-2の二山林一畝〇七歩、同1621-1の山林五畝十七歩、同1621-2の山林四畝歩の計一段三畝二十四歩であるが、山畝歩のため実面積は相当増歩があるように思う。当時はすべてもつこかつぎによる工事なので、意外の労力を費したわけである。
 なお、上沼堤防破損のため明治四十四年(1911)五月二日修理人足二人を要している。
 次に下沼深渫工事は大正元年(1912)九月初旬開始。耕作反別に応じて深渫坪数を割当て、同九月八日出来た者を皮切りに、逐次出来、同月十七日まで延計二百六十七人をかけて一応の工事を終了している。
 なお同九月十七日以降十月十七日の一ヶ月の予定で、役員を主として各種整理作業を行ない、この延人足は二十九人半と記してある。当下沼は字茨原1952番地、台帳面積は一段三畝二十五歩となっている。
 その後大正三年(1914)五月十六日提破損修理に三人、大正四年(1915)五月五日同じく堤破損修理に二人と追記されている。

  杭木モツコ及出金控帳
 本帳表紙左縦書に明治四十一年(1908)二月十六日付で、モツコ代、杭木代が各耕作者別に記帳され、更に燃料の松薪代、手間代等も記してある。モツコは現物出しと代金のもの、杭木、薪も現物のもの代金の者が詳細に記入してある。モツコは一枚十三銭~十五銭、杭木代は一本大が七銭、小が四銭に踏み、薪代は一把(わ)十五銭、手間代は一日三十銭に見積っている。
 この工事に要した諸材は次のようである。
  杭木 大小計一九五本
  モツコ    六〇枚
  松薪     三〇杷
  縄      三三房

 諸入費支払扣帳
 本帳も明治四十一年二月十二日付となっている。購入日附ごとに細かく記してあるが、収支の総括的記入はなされていない。
 右諸帳より拾い出して収支を整理すると、大要左記の如くなるやうである。

【再調査中】

 残金十一円三十三銭は第二期工事費に充当したようである。

     安藤専一『郷土の今昔』(1979年1月)から作成


古里の今昔21 古里の青石塔婆

2009-06-18 06:06:00 | 古里

   十六、字内の青石塔婆
 昭和三十一年(1956)四月から同三十七年(1962)三月まで町立菅谷中学校に勤務、この間菅谷村文化財保護委員会調査専門委員長として、村内板碑調査のため村内を探訪したことがある。
 そのため板碑の史料性、板碑の変遷、造立の趣旨による種類、本尊表現の方法、私年号十三仏種子等について調べ、一応の知識を持つようになった。
 嵐山町内には数十基の板碑が散在しており大字吉田には宗心寺に保管の弥陀種子と来迎三尊の複合塔婆、日陰堂に立つ金剛界大日題目複合大結衆塔婆、菅谷城址内元重忠霊祠にあった図像塔婆や逆修塔婆、大蔵向徳寺内の板碑群等見るべき物も数基あるが、本章では大字古里に散在の十数基の概要を記し、後世の参考に供したい。
 備考 昭和三十三年(1958)頃調査したことがあるが、同五十四年(1979)一月再調査したものを記す。

 【以下略】

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔20 安藤貞良翁の筆塚に立つ

2009-06-18 05:55:00 | 古里

   十五、安藤貞良翁の筆塚に立つ
 表面の碑文には次の如く記されてある。

   安藤翁頌徳碑
         正三位勲一等男爵千家尊福篆額
身を修め業を習ひ誠忠勤倹夙に木鐸の任に當りて風教を維持し闔境其薫化を受く翁の如きを徳行の士といふべきか翁幼名は運太郎後貞良と改む安藤氏武蔵国比企郡七郷村古里の産考諱は幸徳妣名は佐仁宗家長左衛門嗣子なし因りて其後を襲ぐ蓋し其先裔藤原氏より出伝て邑の旧族たり中興の祖山三郎越後高田城主徳川忠輝候に仕へ信越地方に采邑を領せり後其故土に還る当時の古文書現に家に蔵すといふ翁幼より学を好み和漢の典籍を攻む既に長じて徳川幕府の摩手地頭有賀滋之焏より中小姓を命ぜられ後名主となり苗字帯刀を許され明治維新に降り戸長村長郡会議員等の職を閲歴して治蹟咸挙る公餘帷を垂れて教授す子弟風を慕ふて来り学ぶ者多し明治三十九年八月十七日歿す年七十有ニ頃者其の受業生等胥謀り碑を建てゝ翁の徳業を不朽に伝へんと欲し余に文を請ふ翁は実に余の岳父たり誼辞すべからず其の大概を挙げ掲ぐるに国歌一首を詠して銘に代ふ曰く
   里人のふみゆく道の教草にほひゆかしきこれの石文
       官幣中社金鑚神社宮司 正六位勲五等金鑚宮守撰
                     熊谷 野口膳謹書
  大正元年十一月

 裏面には筆第四十四名。発起人十名、親戚十二名、賛助員二十二名と幹事、翁の子供達の名前が連記されている。

筆弟 安藤照武 大塚民蔵 安藤力蔵 本田眞下喜三郎 飯島貞吉 安藤伍良右エ門 安藤榮次郎 飯嶋万次郎 安藤才輔 大塚鷲太郎 安藤熊蔵 千野重兵衛 安藤和助 吉場米吉 吉田島田久松 越畑強瀬テツ 大塚熊吉 下横田久保田房吉 黒田沼尻寅吉 安藤仙重郎 安藤九兵衛 安藤富右エ門 吉田小林常吉 安藤角次郎 安藤龍太郎 牟礼吉田イセ 安藤金蔵 安藤文右エ門 奈良梨門倉喜惣次 熊谷瀧澤與太郎 田島弥三郎 西古里森浦次郎 〃千野孫十郎 木村豊次郎 飯島弥十郎 新井源次郎 福田神山助次郎 安藤喜三郎 吉田小林平三郎 〃荒井新兵衛 飯島幸蔵 東京飯島安助 千野安右エ門 千野多一郎

発起人 安藤照武 飯嶋万次郎 安藤九兵衛 安藤金蔵 安藤文右エ門 田島弥三郎 安藤喜三郎 安藤廣吉 安藤徳次郎 安藤角次郎

親戚 児玉郡青柳村ニノ宮金鑚宮守 熊谷野口膳 寄居清水清五郎 和泉久保郡作 鷹巣吉田定助 肥土高橋守平 安藤喜三郎 安藤仙吉 寄居清水茂一郎 人見清水周助 西古里轟重定 牟礼内田紋次郎 和泉久保賢吉
長男安藤仙蔵 次男安藤浦次郎 嫡孫安藤寸介 長女安藤ます 二女金讃ふく 三女安藤ため 四女清水たね/ 庭造門松染吉/伊藤留吉

賛成員 重輪寺住職英文映 板井篠場豊盛 越畑船戸揖夫 岩田孝登 中村國治 飯島貴壽 中村清介 千野房吉 飯島友助 飯島善太郎 田代積 田島伊右エ門 安藤巳代吉 安藤多三郎 安藤熊蔵 安藤伊十郎 安藤喜蔵 安藤喜一郎 安藤新兵衛 安藤武十郎 安藤辰五郎 安藤所十郎  安藤常吉

 嵐山町大字古里字尾根地蔵庵の西南、小川熊谷旧県道道沿に安藤貞良翁頌徳碑とその実弟安藤仙重郎の尽忠碑が立並んで、心ある人士の関心を呼んでいる。
 金讃宮守宮司の撰文の如く、貞良翁は学徳に勝れ、行政面において幕末より明治中初期における近在の実力者であり、また居宅の一部を教場として寺子屋教育にも力を入れ、先代長左衛門に劣らぬ手腕家であった。
 安藤昭武、才助、仙重郎等は貞良翁の実兄弟で、貞良は安藤宗家を嗣ぎ、照武は実家の後をとり、才助は若くして死亡、仙重郎は軍人を志し、明治十年(1877)、西南の役で戦没している。

     安藤専一『郷土の今昔』(1979年1月)から作成


古里の今昔19 古里の古墳を探る

2009-06-18 04:54:00 | 古里

   十四、古里の古墳を探る
 古墳は大きく前期(4世紀-5世紀半)と後期(5世紀半-6、7世紀)とに分けられている。前期では竪穴を多くの石で囲み、その天井は板状の石で竪穴式石室を作って、その中に死体を安置し封土を盛り上げる竪穴式古墳が行われていた。後期なると、大陸伝来の横穴式石室を壮麗に営むようになった。
 副葬品は始めは鏡、剣、玉程度であったが、後期は装身具、馬具、武具等実用品が次第に増して来たようである。
 かつて七郷中学校に保管された特殊の冠を有する埴輪(庶民埴輪)や七郷小学校にあった武人埴輪は、古里駒込の円墳より出土したもので、その外直刀・勾玉・管玉・円筒埴輪等も出土している。
 字内には神山・藤塚・二塚・清水・岩根沢・土橋・駒込等各地区に円墳が見られ、町内屈指の古墳散在地域である。
 当地は町の北隅にあり、丘陵地は東西に走りその北斜面は荒川の扇状地に属し、南斜面は滑川上流に面し、古墳時代の人々の求める生活の場として、絶好の土地であったと推測される。
 かつて七郷中学校保管の「特殊の冠を有する埴輪」は、昭和六年(1931)三月、駒込共同墓地の北側にあった円墳を、同字飯島一介氏が山林を共に開墾した際、発掘したもので、七小の武人埴輪とその他埴輪・勾玉・管玉(青玉)等も同所より同時に出土している。
 嵐山町文化財関係で当字円墳は数回調査したことがあり、各円墳の高さ、東西南北の横巾等は既に調査済であるので、ここでは省略する。とに角往時には多数の円墳があり、盗掘もなかったのですべて完全なものばかりであったが、大正以降山林開拓が盛んに行われ、そのため多数の円墳が消滅された。また残るものも一時盗掘が横行したため、無傷のものが皆無となったことはまことに残念なことである。

 古里古墳分布略図

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔18 兵執神社奉額句集のこと

2009-06-18 03:52:00 | 古里

   十三、舳取神社奉額句集のこと
 床屋文学と称されて大衆化した発句(ほっく)が、農山村に全勢を極めたのは明治二十年(1887)以降のようである。当古里においても発句熱が挙がり課題に結び字入、戀ごと読込などし、又また時々発句角力までして夜晩くまで過ごしたようである。
 その頃古里屋根を中心にして廿数名の発句愛好者がおり、幽雪庵、松静亭松月、野守亭古州(後に俵雪庵、安藤専一祖父)、喜楽亭林鳥、積雪庵喜翠の五名が宗匠格で、外二十名程の同志があった。
 偶々(たまたま)明治廿五年(1892)夏の句会において会名を穂揃連と命名することに決し、この結成記念に字の鎮守舳取神社奉額句集を大々的に募集することとなった。そして松月、林鳥、古洲の三名を発起人に推し、九月より大量のちらしを用意して募集に取りかかった。
 四季混題三句組合せの部は夜雪庵金羅(東京)、春秋庵有極、可布庵茂翠の三宗匠を、兼題四季花鳥二句合せの部は藤楽亭、積雪庵宗匠に撰者を依頼することになった。
 開巻は廿六年(1893)秋、句稿〆切は同年三月末、出句整理は四月、五月中、四季混題は各撰者とも十三句、課題句は各八句入選のこと、撰者の撰句完了を七月、八月末までとする等のことを協定する。
 このちらしは広範囲に配布され、句稿は吉田、越畑、志賀、遠山、大蔵、福田、小江川、塩、板井、本田、畠山、富田、牟礼、赤浜、鉢形、笠原、腰越、小川、月輪等約二百数名の有志から、四季混題2400句、兼題300句、計2700句に及ぶ大量の出句があった。
 明治廿六年(1893)八月までに各宗匠からの撰句が終了し、奉額調成、奉額の揮毫、奉額開巻当日の準備等に追われ、、予定よりやや遅れて十二月廿四日奉額記念式兼開巻行事が執行された。
 当日地元来賓五十二名、穂揃連全員二十六名、他村出句者十数名が参加して盛大な記念行事であったという。
 この行事に用した諸経費の収支は次の如く記録されている。
一、収入
  入花金   拾七円八十八銭
  企三人出金 九円五十四銭
  雑収入   一円五十五銭
       計二拾八円九拾七銭
一、支出
  額面板代金  六円四拾六銭
  外購入品一切 拾八円廿貮銭
  雑費     弐円五拾銭
       計貮拾七円拾八銭
  差引残金壱円七拾九銭
       (穂揃連会計繰入れ)

 奉額には宗匠撰句別に、左記の如く五十五句を記載し、最期に催主三名の名前を記入してある。額面は現在既に八十数年を経過しているため文字消失せて殆んど不明となってしまった。

   舳取神社奉額句集
春秋庵有極宗匠撰
 若竹や石をうごかす根の力    古里 友鴻
 凩や何所から吹いて何所を果   勝田 池水
 百尊の風呂を馳走や菊の主    吉田 一暁
 馬の舌洗ふ水あり夏木立     吉田 林遊
 殺された碁石の生きる日永かな  笠原 芳翠
 神の留守子供泣かすな馬肥せ   日陰 喜水
 鈴の音も澄むみ社や松に蔦    勝田 如昇
 松陰のうやうやしさよ神日の出  須賀広 喜楽
 たしなみは女子の常ぞ針供養   月輪 佳月
 知っている道聞き寄るや□凧   吉田 林遊
 明日のあるやうには見えず花の人 安戸 花楽
 先へ行く人に追ひつく清水かな  小川 丸見
 喰もする様にそそぐや苗の泥   五明 小水

可不庵茂翠宗匠撰
 杜若咲いて傘を開きけり     古里 一花
 馬の舌洗ふ水あり夏木立     吉田 林遊
 初花と云ふ内後も咲にけり    吉田 一暁
 寝惜しさや客と戻りて月の庵   牟礼 梅志
 神の灯に餅搗く音の届きけり   日陰 尊逸
 何もなき空に隠るる雲雀かな   勝田 如昇
 袴着や流石家柄育ちがら     遠山 其水
 笑み口を小鳥の覗く柘榴かな   羽尾 かおる
 来てしばし何も思はず花の中   瀬戸 柿国
 首ひねりくちは呑む新酒かな   本田 助扶
 筆おいてしばし無言や月の客   唐子 研酬
 額づけばおのすと涼し神の前   小川 最鯛
 持ち替て手の水切るや杜若    神戸 靖朝

夜雪庵金羅宗匠撰
 魂を花に預けて遊びけり     古里 善翠
 舳取社の御鏡清し今朝の春    古里 一花
 経た年の知れぬ齢や松の花    古里 古洲
 朝寒や暖かそうな舟の飯     赤浜 鵑月
 豊年となるや穂揃ふ稲の出来   赤浜 茂理
 雨を呼ぶ木のふところや枝蛙   須賀広 柳川
 一八やおらの家作は甚五郎    瀬戸 柿白
 寝る顔は狸ではなし春の雨    富田 其山
 綿入ぬいで人も身軽し蝶の椽   神戸 一い
 袴着や末は武門の名取草     赤浜 自黙
 豊年や馬の引ずる稲の丈     古里 大洲
 霧晴や生れたやうな二夕子山   須賀広 喜楽
 酒吹いて焙る鞁や春の雨     月輪 佳月

藤楽亭先生撰
 天、穂揃の披露目出度し稲の花  古里 一花
 地、雨の萩起して直路教へけり  古里 古洲
 人、雪よりも重き雫や萩の花   古里 一花
 外、山吹や棚田へ落る水の音   越畑 雨水
 外、山雀や知恵の輪潜る身のこなし中尾 一風
 外、日の昇る迄なり蓮の花見舟  越畑 嘉静
 外、嬉しさの餘る羽音や放し鳥  古里 春鳥
 外、羽に首隠して鴨の浮寝かな  塩 花山

積雪庵善翠宗匠撰
 天、塩釜の煙正しや鳴く千鳥      学之
 地、鳴きこぼす垣根の雪や時鳥  古里 梅花
 人、筆塚もある御社や 梅の花  大蔵 五風
 外、降る雪も雫となりぬ梅の花  古里 春鳥
 外、女子さへ馬曵く里や閑古鳥  古里 一豊
 外、雨の萩起して直路教へけり  古里 古洲
 外、乳を握る児の手冷たし厂の声 古里 一花
 外、山迫る須广の浦辺や 時鳥  古里 林鳥

     明治廿六年拾弐月廿四日
         催主 松静亭 松月
            喜楽亭 林鳥
            野守亭 古洲

               昭和四十五年(1970)二月記

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔17 文政年間古里村絵地図に偲ぶ

2009-06-18 02:51:00 | 古里

   十二、文政年間古里村再検地絵図面に偲(しの)ぶ
 わが家に分青年間の古里村再検地図面のあることを知ったのは。幸蔵没の昭和九年(1934)より数年前のことであった。ようやく之を古掛軸箱より探り当て、近世文書などと共に保管している。
 その絵図面の概要を記し。篤志家の参考に供したいと思う。
 絵図面の東南余白に「文政十二年己巳(つちのとみ)(1829)八月 郷中検地相改絵図面仕立致候」とあり、「寺堂共軒数合八十六軒、白…田、黄…畑、青…水、赤…道、黒…山、同…荒畑山」と記されている。
 又西南部余白には、当時の知行所、領主名名主名が次の通り書き連ねられている。
  領主 有賀滋之丞  名主 仙蔵
     森本惣兵衛     茂右衛門
     長井五衛門     伴七
     村内蔵郎      清右衛門
               伊右衛門
     市川伝八郎     徳次郎
     清水御領知     善蔵
     内田熊太郎     弥十郎
     権田三四郎     市兵衛
 右記のとおり当時の村内が八知行所に分轄にされていたことが知れる。尚図面西北部余白には、検地人足が次のように記してある。
  縄張 儀兵衛
  問尺 喜蔵 梅次郎
  磁石見 初太郎 久次郎
  目当持 宇平次 幸次郎 伝蔵 定次郎 磯次郎
 更にまた図面北東余白に、絵図師名が左記の如く記載されている。
  森本惣兵衛知行所
      絵図師 百姓代 藤右衛門
           補助 確蔵
  清水御領知
      絵図師 勇右衛門
 文政十二年(1829)は仁孝天皇(にんこうてんのう)の御宇、第十一代徳川家斉将軍の代で今より143年前である。この年江戸大火があり、また松平定信、近藤重蔵が死去した年である。
 戸数については「寺堂共軒数合八十六軒」とあるが、社寺数を差引いて民家戸数79戸。現在は左表のような状況で、この140年間の戸数増率はわずがに160パーセントに過ぎない。

組別  文政期  現在
内出上  17    24
馬内   18    28
内出下  14    20
尾根   30    54
社寺    7    4
計    86   130

 右戸数の内、尾根(おね)東部(駒込地区)が意外の発展ぶりを見せている。
 次に絵図面全体の彩色、写術等技術面は極めて幼稚で、外観は余り立派なものとは云えない。縮尺等も記入なく頗る大雑把なものであるが、参考となる面は村境に全面的に間数の記入があり、黒色の実線又は青色の水堀で区切らせている。また内面の人家、社寺等は主家、下家、土蔵、長屋門、屋敷内の森林等念入に記入されて、當時の各農家の盛衰の様が判然と知られる。
 更に各農家の今昔を思考すれば、文政年間(1818-1831)よりその大部分が現在に及んでいるが、十分の一強に当る11戸がその跡形を消失している。また当時の大家が破産して他地域に移動しているもの、現存するが当時の面影をひそめてしまったもの、当時の小百姓(小作層)が現在巨宅を構えて近隣の指導的立場となるもの等種々様々で、世の栄枯衰退の歴史の跡がつくづく察せられる。
 尚古里村東部駒込(こまごめ)地区は、その当時わずか2戸程度の未開拓地帯であったが、現在は15、16を有し、然も県道熊谷小川秩父線をはさんで、住宅地として将来益々発展するものと期待される。再びこの検地絵図面を眺めて思うことは、遺産文化財の一つとして重要視されている古墳群等の跡が指摘されていない点である。もっとも当時の世相としてはこの点を重要視する時代でなかったので、やむを得ぬことである。  (昭和四十五年二月記す)
     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔15 安藤家の家系

2009-06-18 00:47:00 | 古里

   十、わが家の家系
 わが祖藤田右近太夫政重は、男衾郡藤田花園城主の一族である。始め城主藤田康邦の家臣として仕えていたが、天正九年(1581)九月鉢形城竣成するや城主北条氏邦に従属してこの城に移り、家老職を務めて城主を扶け武威を振いたるのみに止まらず、民治に最も意を用いたため領土は繁栄を極めたという。
 天正十七年(1589)秀吉諸大名に小田原出陣を命じ、翌十八年(1590)秀吉の大軍小田原を包囲して攻め立て、遂に落城して北条氏を平定するに至った。同年四月秀吉の軍は松山を抜いて鉢形に迫り、総大将前田筑前守を筆頭に上杉、毛利等その軍勢は三万余、城兵能く防戦したが衆寡敵せず、これまた落城を余儀なくせざるを得なかった。時に四月十五日。
 鉢形城落城となるや、多くの家臣らは浪人となり各地に四散した。わが祖藤田政重もまた浪人の身となり、翌天正十九年正月五日当古里村に落ち忍び土着したものである。
 第二代藤田助左衛門政勝以降代々男子を以て裔を嗣ぎ、十四代粂次郎に至り勤倹力行して産を固め、十五代金蔵は父の志を継ぎ治水事業に尽瘁して古沼を再興し、子孫のために住宅の移転新築を完成して中興の祖となり、十六代幸蔵(爲啓)を経て当主専一の現代に至る。天正十九年以降現在まで約三百八十年を経る当村旧家の一つで、初代政重より既に十七代を重ねている。
 当家はその祖藤田右近太夫政重(天岳瑞公居士)、二代助左衛門政勝(藤伝霊苗信士)より十一代(各代の法名判明す)を経、十四代粂次郎に至るまで藤田姓を有し、代々の通り名、助左衛門として代々百姓代を踏襲して来たと聞く。粂次郎に至り菩提所が同一箇所となったこと、同藩に属し安藤の宗家長左衛門が名主、当家粂次郎が百姓代にて親交の特に深かった関係上、これを縁故として藤田姓を廃止し、安藤家を上座に藤田家を従座に姓の合流をなし、爾後安藤姓を名乗り現在に至ったものである。

   附 藤田右近太夫政重について
  わが家の祖藤田右近太夫政重は、花園城主藤田康邦(邦房)の一族にして男衾郡藤田村に住し長く康邦に仕へる。康邦逝去の後は氏邦と共に鉢形城に移り城主氏邦の重臣として仕へる。
 康邦の息女大福御前は、小田原城主氏康の三男氏邦を迎へて康邦の後嗣とす。康邦(邦房)逝去の後、氏邦は鉢形城を築き姓を北条と改む。その築城は天正九年(1581)九月なり。当時氏邦は男衾・幡羅・榛沢・大里・比企・横見・児玉・上州沼田の郷を併せ七拾八万石の領土を有し、北武・上州方面に武威をとどろかす。
 その後、豊臣秀吉は関八州の城を攻畧の策を講じ、小田原城を陥落しついで上杉、前田の軍勢を以て松山城を落し、鉢形城に迫り天正十八年(1590)四月遂に落城の悲運に遭ふ。氏邦は加賀金沢城主前田利家の客臣となり、家臣悉く四散するに至る。
 わが祖右近太夫政重(重政)が浪人となり古里村に落ち土着せしは翌天正十九年正月五日なり(記録より)。

   【以下略】

     安藤専一『郷土の今昔』(1979年1月)から作成