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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

子どもの頃の思い出 9 平沢・内田講

2009-03-18 09:15:00 | 内田講『子どもの頃の思い出』

  その14 山鳥の親心
 「焼野の雉(やけののきぎす)、夜の鶴(よるのつる)、子を思う情は舐犢(しとく)にも備われり。……」は昔の高等小学校「国語読本」にあった書き出しの名文だが、私にはまさに、これを証明するに足る体験があります。高等科二年の夏休み、例によって兄と二人で馬に乗って山草刈り行く途中、家を出て一キロ位山に入り、大沼の西側の山裾の進み、沼のウラ(沼の終る辺)の、幅五十米位の水田を目前にした処で、左手の山から子連れ山鳥が飛び立って水田の上を極めて低空で、水田越しに反対側の山に向かって行く。その数は何と今でもはっきり記憶しているが子が十一羽、親が一羽、余りに数が多いので「一羽位取り得るか?」と思ったのだろう。兄が「駄目駄目」と言ふのも何のその、馬の背ではない尻から跳び降りて、その辺と思う地点に行ってみると、何しろ十一羽の子だからそれが一斉に草の中を走って逃げると、幾状も幾状も草が左右に揺れて素晴らしい光景であった。成る程これでは俺にはどうにもならないと思いつつも、足は二、三歩前進、雛鳥の分け進む草の揺れもずっと遠くなった時、足許二,三米の地点から親鳥一羽が物凄い羽音で飛び立った。自分は度肝を抜かれてあっと棒立ちになった侭。馬の上から兄が「アハゝヽヽ」。説明無用と思いますが、雛が完全に安全地帯に逃げ去る迄は、正に文字通り親鳥は身を挺して接敵動作を続けていたわけですね。
     『嵐山町報道』285号 1979年(昭和54)12月1日
焼野の雉(きぎす)夜の鶴(つる):雉は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身を忘れて子を救おうと巣にもどり、巣ごもる鶴は霜などの降る寒い夜、自分の翼で子をおおうというところから、親が子を思う情の切なることのたとえ。
舐犢(しとく):親牛が子牛を愛しなめてやること。転じて、親が子をかわいがること。


子どもの頃の思い出 8 平沢・内田講

2009-03-17 12:44:00 | 内田講『子どもの頃の思い出』

  その12 草刈り
だいたい、五月から九月いっぱいは、朝作りと称して、それぞれ草を刈ったものです。田植えの終るまでは、田んぼや土手を刈るわけです。
草刈篭と称する小型の篭で、足支度は「足中(あしなか)」を自分で作り、素足ではくのです。田植えが終ると山草と称し、馬で山へ行くのです。八把(わ)刈って、馬に背負わせるのです。その頃になると、夜明けには、一斉にヒグラシが鳴きます。その声によって「カナカナ時計」と申し、それで起き出るのです。
 さて、その鳴き出す時刻は、七月初旬は四時頃から四十分ぐらい日の出が遅れるに従って、少しずつ遅れます。昔のことがなつかしく、七月二十四日に試したら、四時九分いっせいに鳴き始め、四時四十五分には、一匹も鳴きません。
 また、草刈りをする年令ですが、だいたい小学校四年ぐらいからです。私は五年から九年間刈りました。毎朝、学校での話題も草刈りの事からでした。一番辛かったのは、山草の時の時はカヤの葉で指を切ることです。
 もちろん、上手な者は一つも切りません。私は兄と行くのですが兄は何日刈ってもほとんど切りませんが、私は二月も行けば、今の人は信じないでしょうが、右手の第一と第二の指には、二十ケ所以上傷が見られます。二、三日すると黒く治っているが、次々に切るので、本当にうそのような話です。よくまあ、悪質の化膿菌にやられなかったものですね。

  その13 鳰の浮巣
 山草はだいたい一キロ余、山の中へ行くので、中程は大石に沿って行くのですが、ある年、鳰(かいつぶり)の浮巣が作られ、親鳥が卵を抱いているらしいのです。
 幾朝か見た後、私は兄の制止をきかず、水中に入って三十メートルぐらいで、巣にたどりつき、中をみると、卵が五個あったと思いますがしめたとばかり、左腕で抱えて歩き出しました。
 すると、抱えている巣(水は胸の辺)が一歩ごとに下から小さくなり、おやおやと思っているうちに、全部、巣は崩れてもちろん卵も水の泡でなく、水の底、浮き巣とはよく言ったもので水底から水面に伸び出ている草(方言では夜這草『よばいぐさ』と呼ぶ)を巧みに揉(な)い合せて外側を高く、内側はへこみをつけて、その中に卵を生み、巣は水の増減に従って浮き沈みする仕組みなのです。
 何時の年だったか、沼の水が水田のために出されて、だいぶ、減水したある日、魚を釣りに行ったらたまたま、浮巣が水の少なくなった地上に置かれ、やはり、卵が五個あって、大喜びで採って帰った記憶もあります。
     『嵐山町報道』283号 1979年(昭和54)9月1日


子どもの頃の思い出 7 平沢・内田講

2009-03-16 08:46:00 | 内田講『子どもの頃の思い出』

  その10 旗行列
 今日、日清、日露、日独(第一次世界大戦)のことを言うは、或は、時代錯誤とか、好戦国とかまた、反民主的とか、いろいろ論議はあろうが、これこそ今、日本が全国民を挙げて討論すべき焦眉の大問題と思う(私は、このような大討論会をおおいに行うべきだと思う)が、それはさておき、大正3年(1914)(私小学三年)、サラエボの一発により、引きおこされた、いわゆる第一次世界大戦(私の記憶では、七月と思う)に、日本は日英政府同盟の立場から、八月一五日、連合軍として、ドイツに対し、戦を決し、二十三日に宣戦布告、九月二日には、早くも、神尾中将の率いる、四国善通寺第十一師団が山東半島に上陸。
 十一月七日、ついに、青島(ドイツの東洋基地)を攻略し、日英同盟に対する一応の仁義をすました。(この間、青島脱出のドイツ巡洋艦「エムデン」の大活躍もあるが略す。)
 この時、日本は、勝った勝ったで小学生は旗行列をした。それは三年生以上(私は三年生)が指定村社、七郷は七社のうち、その辺はっきりしないが、古里、吉田、太郎丸、越畑ぐらいと思うが、とにかく、手に手に小旗を振って、特にできた歌を高らかに、ノドの続く限り、どなりながら歩いた記憶があります。
 残念ながら、歌の文句は思い出せません。唯一節「今や青島陥落……」だけです。たぶん時期は十一月半ばだったと思います。
 この時、初めて飛行機が参戦しました。それは、あとで大正八年三月(高一終了)、修学旅行で東京に二泊三日の旅行をした時、「遊就館(ゆうしゅうかん)」に吊ってあった飛行機でした。複葉単座、支柱類は全て木材、翼材は上質の日本紙に油を引いたような感じで、処々に弾痕に張り紙がしてあったような感じでした。
 尚、つけ加えれば、この時ドイツ兵の捕虜が善通寺に収容され、七小の教頭、板倉偵吉先生(勝田の出生で浦和駅東口にあった板倉家に養子に行っていた。)が視察に行き、とてもとても大きい立派な兵達が、なぜ、日本に負けたのかわからない等の話をされたのも思いだします。

  その11 マラソン
 その頃、走ることの総称として「マラソン」と言っていたと思います。考えてみると、フランスのクーベルタン男爵によって、再開された四年目ごとのオピンピックの第五回大会が明治45年(1912)、スエーデンの首都、ストックホルムで開かれ、日本最初の参加として、マラソンの金栗四三氏(たぶん、熊本県人、当時、東京高等師範学校地歴科学生)が十四位?かになったので、マラソンなることばが猛烈に流行し、七郷小でも、たぶん、大正2年(1913)4月(私は小二)から、毎月三年以上が「ソーカ廻り」、今の七小から下にでて、北上し、吉田、古里境にある陸橋【歩道橋】から左折し、小川方面に向き、三ツ沼下から左折して学校に来る道をしたが、私が三年になると、四月と十月の二回になり、大正5年(1916)頃自然に消滅しました。
 今でも、少しでも走るとよくマラソンというが、皆様、御存知のとおり、その起りは遠く、ギリシャがペルシャと約二十五倍の敵兵と戦った時、その死命を制するという「マラトン」の峠の激戦に、とてもギリシャ側(当時、代表アテネ)に勝ち目はないとされた時ギリシャ軍が大勝し、その喜びをアテネ城門に、ひた走りに走って持ち帰り、「喜べ!勝利は我が軍に」と高らかに叫ぶと同時に、心臓破裂でバッタリ倒れた勇士を称えて、その走破した距離が四二・一九五キロメートルだったので、その距離をマラソンレースとして取り入れたものなので、他の如何なる距離を走っても決してマラソンと言わないのが正しいのです。
 メートル法の前は、二十六マイル四分の一だったと思います。だからこれ以外を言う時は、「短距離マラソン」とか「十マイルマラソン」とか、何か副詞的文字を冠するのが正しいわけです。
     『嵐山町報道』282号 1979年(昭和54)8月1日