里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵嵐山駅前から駅通りを望む 1973年・1974年

2009-07-28 22:25:08 | 菅谷

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 武蔵嵐山駅から駅通りを写した写真である。道路は再舗装され、柳の街路樹は取り除かれ、せまい歩道が設置されている。人通りは現在と比較して格段に多く、賑わっている。新装開店の食堂凸坊二階には、未だ「喫茶モール」は開店していない。松山映画劇場の看板は未だ有る。撮影年は昭和48年(1973)か49年(1974)である。
   凸坊新装開店:昭和47年(1972)12月30日
       閉店:平成10年(1998)12月31日
    モール開店:昭和50年(1975)8月
                  (権田文男)


武蔵嵐山駅前から駅通りを望む 1970年

2009-07-27 22:58:00 | 菅谷

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 武蔵嵐山駅出口(現・西口)前より駅通りを撮影したものである。一番手前の右側の店は花井商店(菓子店)。その手前の電柱には松山映画劇場の看板が見え、下側のポスターの題名は「女賭博場荒し」と読める(主演:江波杏子。昭和42年9月公開)。その反対側の須沢商店もやはり菓子類などを売り、自転車預りもしていた。熊谷市のボウリング場パークレーンの前売り券発売所の看板が掛かっている。右隣が山岸たばこ店であった。
 道路は簡易舗装のため傷みやすく、窪みや亀裂が出来易かった。歩道は無く、柳の街路樹が未だ見られる。(権田文男)


武蔵嵐山駅前から駅通りを望む 1970年

2009-07-25 23:46:00 | 菅谷

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 駅方向に向って来る5名程の女生徒は、昭和42年(1967)4月に開校した文園嵐山女子高校(昭和47年4月大妻女子大学嵐山女子高校となる)の生徒である。道路いっぱいに広がっている。まだ、自動車の危険もそれ程感じない時代であったのだと思う。電車の到着が迫っているのか、駈け足の様である。(権田文男)


武蔵嵐山駅通りを駅方向から撮る 1970年

2009-07-24 23:59:00 | 菅谷

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 駅前から駅通りを50m程進んで撮影したものである。道路右側に食堂東雲亭が写っている。自転車が沢山見えるのは自転車預り所を行っていたためか。道路左側手前が市ノ川松之助氏宅で自転車預り業を営んでいた。平成20年(2008)12月家屋その他すべて解体撤去され新地(さらち)となっている。(権田文男)


駅通り中程から武蔵嵐山駅を望む 1961年頃

2009-07-23 00:19:00 | 菅谷

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 武蔵嵐山駅舎より約100m位の場所、新井兄弟商会前から駅方向を写したもので、突き当たりが駅舎である。道路左手前に食料品店佐野屋商店、道路反対側にコロンビアテレビと書いた日本コロンビアのトラックが停車している。新井兄弟商会は電気製品の問屋で、当時、日本コロンビアの特約店だった。トラックの奥に市ノ川松之助氏宅が見える。通行人の服装と七夕の飾りが見られることから8月7日頃と思われる。また、街路樹の柳が撤去されず、道路センターラインが見えることや、舗装が新しく感じられることから、昭和36年(1961)前後の撮影と思われる。子供を大勢連れて歩いている人がいる。(権田文男)


武蔵嵐山駅前通り 井上商店・中村巳平商店と嵐山共和会

2009-07-20 22:10:00 | 菅谷

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 駅から見て右側にあった。井上商店はこの写真の頃とは営業内容が異なるが存続。中村商店は廃業したが建物は残っている。この写真の撮影年代は昭和30年代の前半頃か、それもかなり早い年代と思われる。
 井上商店の店頭がこのような形態であったとは記憶に残っていない。「大賣出し」の大きな幟(のぼり)が見える。看板には化粧品、用品、洋服など表記されているが、運動靴、長靴、学生服、その他の雑貨類も取り扱っていたらしい。後には洋服仕立てをメインとした店になった。この写真は井上商店の開店間もない頃のことと考えられる。
 次に中村巳平商店であるが、この店は当時新築し、飴、菓子、玩具、野菜、果物などを商っていたと記憶している。
 それから目につくのは両店の看板の表側に書かれている「嵐山共和会」の表記である。嵐山共和会とは、昭和20年代後半から昭和30年代にかけての大字菅谷の各商店の連合組織で、ほとんどの商店が加入していた。当時、菅谷村大字菅谷であったのに、「嵐山」の文字を標榜に掲げたのは、駅名に嵐山の文字が使われていることと、未だ観光地「武蔵嵐山」のイメージが色濃く残っていた時代であったので、観光地「武蔵嵐山」の復興を強く願う意味も含めて、敢えて「嵐山共和会」としたものと思われる。
 嵐山共和会の活動には、山岸宗朋氏などが大いに活躍したことを記憶している。主な活動の中に、街路灯の設置、街路樹の柳の植樹があった。大賣出しの幟が縛り付けられているのがその柳で、かなり育っているようだ。(権田文男)

   嵐山共和会発足 昭和28年(1953)3月
 嵐山駅前通りは本村の象徴である。人間の体にたとへれば顔面である。顔の中の眼玉である。顔を一見すれば心身の健康状態が窺(うかが)われる。菅谷村の興廃は駅前通りを見て瞭然とする。この重要な地域に居住する吾々は先ず地域住民の親和協力をはからなければならない。といふ趣旨で此の駅前通りの有志が相計って嵐山共和会を結成した。現在、会員は約四十名。三月十四日夕刻から内田屋に集って、盛大な発会式を催(もよお)した。会則によれば、入会脱会自由としてあるが、村の発展と共に会員は益々増加するものと見られている。尚この日選出された役員は左の通り。
 会長  新井義憲(あらいよしのり。新井兄弟商会の兄)
 副会長 上条(かみじょう)明治
 同   高山千吉
 相談役 田幡順一
 同   山岸宗朋
     『菅谷村報道』31号 1953年(昭和28)4月

   天王様に子供神輿
 去る四月発足した嵐山共和会では、来る七月の菅谷天王様の例祭に子供神輿(みこし)を作って大いに景気をつけることになった。それと共にリヤカーの山車(だし)も作ってこれは少女達に引いて貰うといふから今年の夏祭りは特別の賑いを呈するだろうといふ噂が巷(ちまた)に溢れている。
     『菅谷村報道』33号 1953年(昭和28)6月


武蔵嵐山駅前通り 夏祭りの子供屋台・荷受所・映画館

2009-07-19 11:41:00 | 菅谷

  子供屋台
 例年、7月13日、14日の2日間、津嶌神社(菅谷神社内)の御祭禮での俄か作りの子供用の屋台(山車)が駅前通りを行く風景である。屋台(山車)は3輪か4輪のトラックに屋根と装飾を施したもののように見えるが、はっきりとはわからない。子供は男の子も女の子も見られる。小学校低、中学年の子供の様である。写真の左上部に見える御祭(おそらく“御祭禮”と書いてあったものと思われる)の文字が右から左に書かれているのも時代を感じさせる。現在ならおそらく左から右に書かれているであろう。撮影した位置は2008年現在の埼玉中央農業協同組合(JA埼玉中央)菅谷支店(当時も同じ場所に通称「農協」としてあった)の辺りからほぼ東の方角に向って撮られている。

  荷受所
 次に屋台の右側に写っている建物であるが、この建物は当時の菅谷村全域(七郷村と合併前)の各農家の繭の集荷所で養蚕の時期になると方々から、この場所に繭が集められた(各農家が持って来た)。通称「荷受所」と呼んでいた。出入口は特になく、床の高さに雨戸があり(左側の映画館寄りなのでこの写真では見えない)特に鍵はかかっていず雨戸を開ければ自由に出入ができた。床は板張りで、中には莚が積んであるだけで、この建物の中に入り、子供の頃遊んだものである。
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  菅谷劇場
 写真の左側に写っているの建物は映画劇場である。場所は2008年現在の埼玉りそな銀行東松山支店嵐山出張所の辺りに位置する。客席は1階しか無く、表側にあって映写室の部分のみ2階が造られ、2階から映写された。写真の上側に黒く見える部分が映写室の窓である。舞台もあり、舞台の奥に映写スクリーン(シネマスコープサイズ)が有った。正式名称は失念したが「菅谷映画劇場」とでも呼んでいたろうか。この映画劇場が建てられたのは昭和29年(1954)頃と思われるので、この写真は昭和30年代、それも中頃迄のものではないかと推測する。この映画館(以後、映画館と呼ぶ)の全盛期は昭和30年代前半でその後、映画はテレビの普及と共にテレビに圧倒され衰退してしまった。
 この映画館の営業期間は10年と少し位と思われる。経営者は嵐山亭の石川氏であった。この映画館へ回って来るフィルムはほとんど東松山市の映画館で上映されているもので、それも東松山の映画館2館のうち、上級館である「松山映画劇場」(通称、松映)で上映されているものは稀で、二流館である「銀映」で上映されている時代劇中心の二流、三流作品が多かった。「銀映」で上映されていたものは「松映」で上映されている作品より封切り後、日時を経たものが多く、単純な娯楽作品が主流であった。でも、ときどき「松映」で上映されているものも回ってきた。
 当時、映画フィルムは1本のフィルムを東上沿線の数館で映写時間をずらして複数館共用で使っていて、入れ替え無し館が多かったのでフィルムは厚いシートの様な丸い袋に入れられ、東上線の車輌の決まった戸口に無人で置かれ、フィルムを入れた袋だけが電車で移動。それを映画館の担当者が駅に取りに行って電車から下ろした。そして他の館に送るフィルムの袋を電車に積んだ。東上線はその頃は1時間に1本だったので、おそらく、綿密に映写時間とフィルムの配送スケジュールが組まれていたものと思われる。例えば、東松山→武蔵嵐山→小川町、小川町→武蔵嵐山→東松山というルートで。このようなシステムであったから東上線が事故などで遅れると、フィルムの未着のアナウンスがあり、映写が中断され、観客は待たされたものである。
 写真の映画館は外装もさることながら、内装は頗るお粗末で、フロアには土むき出しの土間。天井が張ってなく、梁(はり)が丸見えだったような気がする。観客用の椅子は長年どこかで使用していたと見られる背もたれ付きの木製の2m位の長椅子、壁は土に藁を混ぜただけの荒壁。男子小水用トイレは昔の東上線の駅のトイレと同じ。前面がコンクリートの壁で下側が溝になって3m位の長さになっている便器なしのトイレ。出入り口の戸も無かったか、または不完全で完全に仕切られている状態ではなかったから、悪臭が漂ってきた。初めて入館したとき、その未完成度に、まだこれから追加工事をするのだろうと思ったが終始そのままであった。それでも昭和30年(1955)頃の正月には満員で多くの立ち見客が出る程であった。
 それから中学生の時、映画教室が行われた。上映された映画の題名は記憶に無い。お粗末なのは建物だけでなく、映写機も当初は電球式の中古品で映像が非常に暗く不鮮明で見にくかった。2年位後、中古のアーク式映写機に入れ替えられたので映像が大分明るく鮮明になったが、それでも極力アーク棒(電極)の消耗を少なくしようと、照度を暗く調整していたので、松映などど映像を比較すると格段の見劣りがした。
 また当時は深谷の興行師などにより浪曲がよく上演され、著名な浪曲師としては、三門博、浪花亭綾太郎、相模太郎、松平洋子などが来演し、聴きに行った記憶がある。
 映画館建物は昭和45年(1970)頃には内部を重点に改装され、向かって左側(駅より側)がパチンコ店に改装されている。その後パチンコ店として営業を続け、元映画館であった建物がいつ頃取り壊されたのは定かではない。

  青空劇場
 この映画館ができる前、この場所は野天の映画、田舎芝居の常打ち場所で、いちばん奥に木造の仮設の様な粗末な舞台があった様な気がする。左右に建物があり、その間に駅通りに面して外から見えないように2m位の高さの板塀が張り巡らされ、右側(南西側)に木戸口があった。映画は月に数回、天候の悪くない日に夜一回だけ上映され、松山町(現在の東松山市)から、映写技師と携帯用の電球式映写機2台が来て、柱を2本立てた間に張られたスクリーンに映写された。客席には莚が敷かれ、その上に直に座って見た。座布団持参で見に来る人が多かった。
 この野天の通称「青空劇場」は昭和26年(1951)~29年(1954)頃の話で、野天なので雨天中止。また11月頃になると夜間なので大変寒く、袢纏などを着込んで来る人も多かった。また、フィルムもあちらこちらで使われ、傷んだものが多く、それ故、映像も悪く、俗に「雨が降る」と言われたものが多かった。それから映写機が電球式のため照度が低く画面が暗く見にくかった。フィルムは傷んでいる物が多かったためが、材質が悪かったためなのか、または映写機が悪かったのか、とにかくよく切れて、2本立てで10回前後は必ず切れたように記憶している。それでも娯楽の少ない時代、結構入場者が当時の菅谷村の人口に比べてあったと憶えている。近隣の唐子村、宮前村、七郷村などの菅谷寄りの人も見に来ていたためではないかと思う当時子供の入場料は20円位であった。また寒いので冬期の興行は行われなかったような気もするが記憶に定かではない。
 芝居の興行も年に数回行なわれ、玉川千鳥一座の興行が多かった。玉川千鳥一座というのは、言うなれば芝居好きの半素人集団で座長の玉川千鳥(八木原儀三郎氏)始め、ほとんどの座員が普段は別に職業を持っていて、稽古の時とか、本番の興行の時とかだけ参集したのである。たまに、他の一座の芝居や水芸、田舎歌舞伎の掛かることがあった。(権田文男)


昔の紙芝居の話 菅谷・権田文男

2009-07-18 15:04:00 | 菅谷

 話は昭和28年(1953)にテレビ放送が開始されたものの未だ受像器が高価*で一般家庭には普及していず、紙芝居が子供の大きな娯楽であった昭和27年(1952)から昭和29年(1954)頃の話である。菅谷の様な辺鄙(へんぴ)なところにも紙芝居が来るようになった。自分の見る場所はいつも決まっていて、自分の家ではなく、祖母のいる菅谷の下(しも)に住んでいたので見る場所(紙芝居の来る場所)はいつも決まっていて、旧郵便局と関根由平さん宅(小川屋)との間の消防自動車の車庫(通称消防小屋)の前の空き地であった。面積は100坪(330㎡)以上あったろうか。現在の奥平はきもの店のところである。紙芝居は決って、小学校高学年の下校時の午後4時頃になると来た。年齢は45歳位であったろうか。面長で髭面で結構鄙びた顔をしていた。人柄は呑気で人のいいという感じであった。荷台の大きな自転車に引出しの付いた木箱で出来た紙芝居の舞台一式を載せ、広場のやや奥の中央に自転車を止めた。そして合い図の拍子木を打ち鳴らす。子供を集める合い図である。拍子木が鳴ると、小さいのやら、大きいのやら様々な子供が集って来る。観客は多い日で20人位であったろうか。自分は一度訊ねたことがある。「おじさんはどこから来るん」と。そうすると「吉見からだよ」と答えた。吉見にもいろいろある。西吉見、東吉見、南吉見、北吉見、それに大里吉見。小学校4年生位の私は、それ以上は聞かなかったが、東松山市街中心部から菅谷中心部迄道路も悪く砂利道で自転車のタイヤも砂利に食い込んだりして走りにくかったので、あまりスピードは出ず、また荷台に大きな重い荷物があるので、優に30分はかかっただろうと思う。そしてまた吉見でも住んでいる場所が北吉見だったら鴻巣の近くなので、これまた東松山迄かなりの時間がかかったと思う。これは4年生の、その時でなく、かなり後になって考えたことである。
 子供が集まると、紙芝居屋は紙芝居の見賃(見物料)として、各子供から5円取り、替りにドカベン(土方の弁当箱)の様な大きな弁当箱に入った水飴を割り箸の三分の二位の長さの割り箸と同じ位の太さの断面が正方形に近い2本の木の棒に絡めて渡してくれた。分量は10ミリリットル位だったろうか。子供は水飴を受取るとすぐに食べないで2本の木の棒の先で水飴を練る。そうすると、最初は透明であった水飴が、空気を含んでか白濁して来る。そしてより白く練ることが出来た子2人位を選んで、水飴とか、ウェハースの様な賞品を呉れるのである。また、水飴と同時に丸く薄いウェハースの様な材料で作られた煎餅のような物も呉れた。それには絵柄が型押ししてあった。その絵柄は子供用の絵柄で、動物の顔とか、乗物(電車とか飛行機とか)が簡単に図形化してあった。それは何をするかと言うと、絵柄の外形に沿って手で千切り、狸なら狸に、飛行機なら飛行機の形に仕上げるのである。これも上手に出来た子2人位を選んで、水飴を練った時と同じ賞品を呉れるのである。貰った子供は大喜びで、次回もまた来たくなるという仕掛けである。紙芝居の観客は全部が小学生、それも1年生から6年生までとなると、かなりの年齢差と体格差がある。水飴を練って白くするのも、ウェハース様のものを千切るのも、下級生より上級生の方が上手なのは決まっている。そこは紙芝居屋も心得ていて、水飴がよく練れていて他の子より白くなっていると自分で思っても、ウェハース様の物の千切りが自分では上手にできているなと思っても、審査は紙芝居屋である。決して、同じ子に続けて賞品を呉れる様なことはしなかった。紙芝居を見に来る子は決まっている。紙芝居屋は子供の顔を憶えていて、いつも違う子供を選んでいたのである。これは下級生も上級生も無く、紙芝居を見に来てくれる子全員を公平に喜ばせようとの配慮からのものであったと思う。自分の記憶によると紙芝居は週に1日位休んだと思う。それから、雨の降る日は来なかったと記憶している。紙芝居も、現在のテレビの連続ドラマなどと同じで見ていると物語りの次の展開が知りたくて、来る度に行ってしまう習癖が付いてしまうのである。自分は4年生頃から6年生迄足掛け3年、丸2年位見たと思う。6年生位になると、もうすっかり紙芝居屋さんと顔馴染みとなり、拍子木のリズムも覚えて、拍子木打ちを買って出る始末。紙芝居の自転車の場所から県道鴻巣小川線を上(かみ)(小川町方向)に100m位、下(しも)(東松山方向)に100m位、紙芝居屋の客集めの拍子木を打って回ったものである。これを行なうと紙芝居の見賃5円は只、無料で見られたのである。しかも水飴付きで。
 1回に持って来る紙芝居の話の題名の数は4話から5話であったと記憶している。1話(1巻)の絵画の枚数は8枚位。これを1話5分位、全部で20分位で終らせ、次の場所へ移動して行った。紙芝居は絵を1巻8枚なら8枚、舞台様になっている木枠に入れ、表から順番に引き抜いて見せて行く。だから、今見ている絵の台詞(せりふ)は前の絵の裏に書いてあるのである。書いてある台詞を見たことがあるが、筆書きで数行の極く簡単な文句しか書いてない。これをそのまま読んだら、面白くも、可笑しくもない。紙芝居屋は自分の能力と裁量で、その絵の話に尾鰭(おひれ)を付け、面白可笑(おもしろおか)しく、時には怖(こわ)く、悲しく、いろいろな工夫をして、その絵の魅力を精一杯引き出すのである。そのままの筋書きを書いてある通り読んだら5~6秒で1枚の絵の説明は終わってしまうと思う。それを20秒から30秒位に延長して語るのである。自分の永年見た紙芝居屋はそれ程話術とか頓智(とんち)に長(た)けているとは思われなかった。どちらかと言うと大雑把で平凡な語り口であったと思う。現在記憶している話の題名は、何しろ50年以上経過しているのでほとんど忘れてしまっている。その中で憶えているのは、「ライオン児」「ピンちゃんとポンちゃん」「網走のすずらん」の3話だけである。
 その他ではもう一人、どこの人か知らないが、50歳位の吉見の人より上手い、独特の語り口をする人が来たが、自分より5~6歳上の悪ガキが猛犬をけしかけたりして脅したので、間もなく来なくなってしまった。
 それから、自分の記憶に残っているのは、5年生位のとき、家の人が留守で5円貰えず、見ることができず、非常に残念で悔しい思いをしたことである。それから、水飴を練っていて、大きい子が小さい子の頭や衣服に水飴を付けてしまうことが度々あった。
 また、すべての子供が紙芝居を見られる訳ではなかった。家が貧しく1日5円の小遣いの貰えない子、小学生の兄弟姉妹が多く、1人にだけ見せる訳にはいかない家などもあり、金銭的にある程度余裕のきく家の子供が見にきていたと思われる。
 それから、これは後日考えたことであるが、紙芝居の業界といいうのは一体どのようになっているんだろうと考えて見た。この業界も映画界と同じような興行形態になっていて、絵の配給元(版元、総元締め)があって、個々の紙芝居業者(個人)はそこの会員になり、一人一人が日を違えて巡回して来る絵(各版)を有料で借受け、翌日に返却すると同時にまた続きの絵を借り受けるという組織形態になっているのではないかと思った。絵の汚損状況から配給元にも同じ絵(各巻)が複数あるのではなく、一つの絵(巻)を複数の業者に交互に巡回して使用させていたものと思われる。(2009年3月作成)

*昭和28年に駅通りの新井兄弟商会で16インチ高級タイプが25万円。昭和27、28年頃の大卒サラリーマンの初任給が7千~8千円。


手白神社縁起(宗心寺蔵) 藤野豊吉 1976年

2009-07-14 00:14:00 | 1976年

 手白大明神は、人皇十七代仁徳天皇の御代、当村西南の方に大池あり。池中より夜毎に光を放ち異香紛々たり。村人深く是を怪しみ、池のあたりに来りて見れば、不思議なる哉(かな)、ひとりの神女池中より現れ給うを見る。人々小女郎弁財天と唱へ奉る。それより池のあたりに村民参詣の度、手の白き神女を見ること多し。依って小女郎弁天を改め、手白大明神と名づけ、その池のあたりより一丁ばかりを隔てた杉森の中に遷宮し、村の鎮守として崇敬し奉る。今に至って氏子十一軒、歴然たり。
 当村に、久安寺という寺あり。本尊阿弥陀如来にして、爰(ここ)に伝唱上人という念仏の行者あり。或る夜睡眠中、手白神社のお告げあり。曰(いわ)く「人手や腕の痛み諸病のある者は、我に平癒を祈らば、立ち処に其の痛みを去らすべし。又女人にして呉羽綾羽(くれはあやは)の業の秀達を我に誓はば、呉服の芸の秀達を得さすべし」と、その言葉、猶耳にあるが如く、夢は覚めて影は失せにけり。上人神女のお告げのありがたさを後人に知らせんがため、筆を執り記して本尊阿弥陀仏の御服の中に蔵め置きたり。その阿弥陀仏、今は宗心寺に安置すること年久し。嗚呼(ああ)、手白明神の神徳益々さかんにして、利益あること人の知る所なり。
 嵐山町の伝説、口碑等を記録にとどめ置くことを、今にして成さざればの感を持って折に触れ、古老に尋ねて、収録していた。今度報道の係からすすめられて記述を進めることにした。
 高崎市の南部から八王子市への山の続きは、地質学で昔の断層の時、関東平野は太平洋の中に没し、笠山、堂平に近く海が迫っていた。其の後の地殻変動で陸になったり、海になったりの変化を続けて、今日の地形をかたちづくった。
 日本海がまだ陸だった頃に、移動した動植物、十万年前に発達したと言われている人類も、関東地方に住むようになったのが約三万年位前からと、今の学説で説かれる。
 隆起した海岸で、貝を採って食べた原始人は貝塚をつくり、陸地深く入った人々は、石で色々の道具を作って狩もし、川で魚介類を漁った。その人々の恐れをなしたものは、蛇であったり、熊であったり、大木であったり、奇岩怪石であったりした。そこに、信仰が生れ、これが伝説のもととなった。
 近代科学は、分析の科学と言われる。伝説も一面信仰の部類があるので、それを分析したくないのであるが、現代人は、なかなか承諾出来ない。そこで僅かづつ、説明して行きたい。而し余白が少いので、順次述べていくが、今回は、私の産土神(うぶすながみ)手白神社の縁起について、宗心寺にある記録をお伝えした。比企の神社誌には近代的な縁起が記されているが、古代人に育くまれた素朴な姿に私はひかれて、民俗学的な内容をお伝えした。
 終りに、資料蒐集といってもほんのかけだし、お知りの方は教えて下さい。
     『嵐山町報道』254号 1976年(昭和51年)1月1日

※『柴田よしきの日記』さんの「手白神社」。神社がどこにあるかは、「手白神社のさくら」(関根昭二)のGoogleマップで確認して下さい。


越畑たのしみ会がお嫁さんを招いて感謝会を開く 1970年4月

2009-07-12 18:44:16 | 1970年

   お母さんよありがとう
 越畑たのしみ会は嫁さんを招いて感謝会を開く(会長市川水市)。越畑たのしみ会は昭和三十六年(1961)一月、地区民生委員が発起人となり、三名の婦人会員の奉仕によって姑さんを中心に結成された。
 毎月の定期会は医師を招き老人病に付てのお話しを聞いたり、駐在官には交通道徳、防犯指導修養講話、マッサージ講習、其の他色々の行事を行ってきたが、去る四月十二日は日頃家庭で世話になっている嫁さんを招待して手作りのおすしで感謝会を開いた。
 当日午後一時、金泉寺に於て姑とお嫁さん、孫さんが集まり、会長挨拶につづき、老人代表、強瀬喜平氏感謝の言葉をのべ、嫁、姑の話し合い、嫁と姑の歌合戦、孫さんの合唱は格別老人を喜ばせてくれた。
 最後に金泉寺住職の法話「嫁と姑のありかた」に付てのお話を聞て、全員感恩の歌を合唱し有意義で楽しいひとときを過ごした。  (塚本)
     『嵐山町報道』204号 1970年(昭和45)5月20日


こんやぐんじろおのはなし 杉山文悟 1884年

2009-07-07 16:45:50 | 古里

   勉強忍耐の人能く身を起す
 左に掲けたる紺屋軍次郎の話は杉山文悟(本会特別会員)君の作りし所なり。頗る教育上に裨益(ひえき)あるへき事実なれば掲げて修身口授の一助に供せんとするなり。

   こんやぐんじろおのはなし
ぐんじろお わ せい なかむら ちちお ばんしちと いひ ぶんか 十二ねん 十二ぐわつ 七にち むさし ひきごおり ふるさとむら に うまる いへ だいだい のお お なりわい と せり ぐんじろお うまれつき ごおき にして ちち の ろく お しょくするおこころよし と せず つね に ひとりだち の こころざし あり 十七さい の とき いへお いで しょしょ の こんや に いたり みづから その やとい と なり べんきょお すること 五六ねん まったく いとそむわざ お おぼへたり よって いへ に かへり みうち の たすけ お えて こんや お はじめたり されど いろいろ の ふべん ありて もおけ も こころ の ごとく ならず ふたたび いへ お いで おおく の くにぐに お へめぐり そのあいだ あきびと となり また ひと の めしつかい と なり よろづ からき わざ お なし よおやく のんど お うるおし たり されば とき に よりて わ のやま に ねふし また あるとき わ ふつかのあいだ しょくもつ お ゑざる こと も ありたり ついに めぐりて むさし こだま ごおり ほんじょお に いたり うおるい お あきない たり されど いわし 二十四五ひき の あたい わづか 二三せん ほど のことなれば なかなか これにて もとで お うる に たらず こども わ うゑ て ひざ に なき つま わ つかれ て とこ に ふし さらに せんすべ も なかりしが さいわい ひとの たすけ ありて えき の みなみ しんでん に いへ お かまへ ここ に こんや お はじめ はたらく こと 一ねん ばかり やや にちょお のどおぐ もそなわり たり しかるに たまたま ひのえむま の とし くわさい あり かざい のこらず はいけむり と なしたり もとより ほそき もとで なれば いま わ いかんとも なす あたわず しかれども みづから おもえらく われ とし すで に 三十 に あまれり しかして その すぐるところ おおむね ひと に つかわれ たり いま にして たつ あたわず ば しょおがい また やすむとき なかるべし いのち の あらんかぎり わが こころざし わ かゆまじ と こころ に ちかい ふたたび ところところ の みうち に たすけ お こひ 八りょお の かね お えたり これにて かれこれ のにゅうひ お すまし やけのこり のかめなど あつめ わづか に いぜん の しょくぎょお お つげり のち しんく すること 二三ねん すこし も りえき なく かへって 五十りょお ばかり の かりきん お しょおじ たり されど なお くっせず ひめもす いと お しぼり かたわら あいだま の あきない おも なしたれば 五六ねん に して かりきん も すみ やや もおけ お みる に いたれり これより ちからづき ひるよる おこたらず はたらき ければ しだい に りえき も おおきく なり いま かさん の たかわ すうじゅうまん に のぼりたり おきな わ ことし 七十二さい こども 六にん まご 十一にん ひこ 二にん あるもの わ ほか に ゆき あるもの わ いへ に おれり また はしため しもべ あわせて 八にん あり しだい にしょくぎょお も はんじょお なし かくて いまの しんだい に いたり たる わ ただ しょおじき お まもり て はたらき たる のみなり と いふ
     『埼玉教育雑誌』7号 1884年(明治17)4月5日

※埼玉私立教育会発行の雑誌に『埼玉教育雑誌』に掲載されたこの話については、「立身出世のモデルとなった紺屋軍次郎」を参照。「こんやぐんじろおのはなし」を漢字かな交じり文にすると、次のようになる。

   紺屋軍次郎の話
 軍次郎は、姓中村、父を伴七と言ひ、文化十二年(1815)十二月七日、武蔵比企郡古里村に生まる。家代々、農を生業(なりわい)とせり。軍次郎生まれつき剛毅(ごうき)にして、父の禄を食するを心よしとせず、常に独立(ひとりだち)の志あり。十七才の時、家を出で、所々の紺屋に至り、自らその雇いとなり、勉強する五、六年。全く糸染むわざを覚へたり。よって、家へ帰り、身内の助けを得て、紺屋を始めたり。されど、色々の不便ありて、儲けも心の如くならず、再び家を出で、多くの国々を経巡り、あおの間、商人(あきびと)となり、また人の召仕となり、万(よろづ)辛き業をなし、漸く喉を潤したり。されば、時によりては、野山に寝臥し、またある時は、二日の間、食物を得ざる事もありたり。ついに巡りて、武蔵児玉郡本庄に至り、魚類を商いたり。されど、鰯(いわし)二十四、五匹の値、僅か二、三銭程の事なれば、なかなか、これにて元手を得るにたらず。子供は飢えて膝に泣き、妻は疲れて床に臥し、更にせん術(すべ)も無かりしが、幸い、人の援(たすけ)ありて、駅の南、新田に家を構へ、ここに紺屋を始め、働くこと一年ばかり、やや二挺の道具も備わりたり。しかるに偶々(たまたま)丙午(ひのえうま)の年(弘化三年、1846)、火災あり、家財残らず灰煙となしたり。元より細き元手なれば、今は如何とも為す能わず。しかれども自ら思へらく、我、歳既に三十に余れり。而して、その過ぐるところ、概(おおむ)ね、人に使われたり。今にして立つ能わずば、生涯また安(やす)む時無かるべし。命のあらん限り、我が志は変(か)ゆまじと心に誓い、再び所々の身内に援(たすけ)を乞ひ、八両の金を得たり。これにて、かれこれの入費を済まし、焼け残りの甕(かめ)など集め、僅かに以前の職業を継げり。後、辛苦すること二、三年、少しも利益なく、却って五十両ばかりの借金を生じたり。されどなお屈せず、終日、糸を絞り、旁ら藍玉の商いをも為したれば、五、六年にして、借金も済み、やや儲けを見るに至れり。これより力付き、昼夜、怠らず働きければ、次第に利益も大きくなり、今、家産の額は数十万に上りたり。翁は今年、七十二才、子供六人、孫十一人、曾孫二人。ある者は他所に行き、ある者は家に居れり。また、婢(はしため)、僕(しもべ)あわせて八人あり。次第に職業も繁盛をなし、些(いささ)かの不足もあることなし。かくて、今の身代に至りたるは、正直を守りて働きたるのみなりと云う。

 作者の杉山文悟は嵐山町杉山出身。本庄町で郡立中学校の教員をしていた。その後、1889年(明治22)、東京に出て普及社に入社、教科書の編さんにあたる。1896年(明治29)埼玉県視学となる。その後、台湾総督府、日本共同火災などに勤める。1927年(昭和2)11月没。
 「こんやぐんじろおのはなし」は1984年(明治27)3月に目黒書店から出版された、石井了一・石井福太郎偏『家庭教育 修身亀鑑』の第12章に掲載されている。そこでは軍治郎の父の名前が「番七」となっているが、古文書などから、「伴七」を使っていたようだ。「老いて安楽の生活をせんには、如何して可なるや」を参照。


昭和恐慌下の風俗改善に関する申し合わせ 大蔵 1930年

2009-07-06 18:15:00 | 1930年

   菅谷村大蔵風俗改善ニ関スル申合
一、新年賀礼 一月一日午前十時ヲ期シ鎮守社頭ニ参拝祈念シ相互ニ敬意敬祝ヲ表シ回礼ヲ廃止ス。但親戚又ハ特別関係者ハ随意トス

二、時間ヲ確守する事 各戸使用ノ時計ハ勉メテ正確ニ合セ置ク事。集会ハ時刻ヲ指示スルヲ以テ指定ノ時間ニハ必ラズ出席シ若シ已ムヲ得ザル事情ニ依リ欠席セントスルモノハ其旨申出ヅル事

三、婚礼ニ関スル事 婚礼ハ良習慣ヲ失ハザル限リニ於テ分度ヲ守リ費用節約ス可キ事。被招待者ハ饗応ノ良否ヲ問ハズ祝意ヲ失ハザル事。披露セザルモノト雖モ字一般交際ヲナスモノトス

四、葬式ニ関スル事 立会人ハ成可少人数トシ必要ニ応ジ依頼スルモノトス。大組会葬者ハ普通膳一回トス。大字見舞者ニハ膳部ヲ廃シス。児童(満七才以下)ノ死亡ニ際シテハ特別ノ関係アルモノノ外、見舞ヲ廃スル事。立会人ノ役餞ヲ廃止ス。但シ穴場ノ者ハ其限リにアラズ。葬式ノ通知者ハ夜間及特別ノ場合ノ外、副使ヲ出サザル事。翌日施主ノ礼廻リヲ廃止ス

五、入営帰郷者ニ関スル事 壮丁入営帰郷者ニ対スル送迎ハ鎮守社頭ニ於テ祝意ヲ表スル事。送迎旗ハ二旗以上立テザル事。金品ノ贈答、酒食饗応ハ之ヲ廃止す。但親戚及特別ノ関係者ハ此ノ限リニアラズ。入営帰郷ニ際シ、兵士ノ礼廻リヲナサザル事。餞別ハ大字ヨリ葉書百枚ヲ贈ル事

六、雑件 出産祝及ビ五月鯉、三月雛、年末破魔弓、宮参祝ハ長男、長女ニ限ル事。神仏参拝ニ際シ餞別及土産物ヲ廃ス事。病気全快ニ際シ床上祝トシテ重鉢*ノ贈答ヲ廃止ス

七、申合セハ昭和五年十二月十八日ヨリ実施スルモノトス

右申合ス
          菅谷村大蔵字内一同

*重鉢(じゅうばち):重箱。


小作料軽減覚書 大蔵小作人一同 1931年

2009-07-05 22:53:00 | 1931年

   覚書
大字区民ノ生活ノ安定ト平和円満トヲ熟望セルモ古来ヨリノ田方小作料高率ナルタメ従来小作料ノ減額要求屡々(しばしば)起リツツアルヲ甚ダ大字ノ不祥事トシ今回小作人一同熟議ノ上昭和六年度ノ産米ヨリ永久ニ小作料ノ軽減ヲ歎願シ地主各位ト数度ノ会見折衝ニヨリ現下不況ノ深刻ナル折柄一段ノ勤勉努力ヲ経(たていと)トシ共存同栄ヲ緯(よこいと)トシ郷土愛ノ温情ニヨリ左記ノ通リ軽減セラル事ニ協定被下候以上今後如何ナル凶作ニ遭逢スルモ絶対ニ小作軽減ノ歎願ヲ致サザルベク小作人一同ニ代リ代表者連署シテ今後ヲ誓約ス為将来覚書一札如件
 但シ免租若シクハ政府ノ救助ヲ仰グべキ大凶作ハ此限リニアラズ
昭和六年十二月十七日     右代表者
                  野村三郎 印
                  金井親治 印
                  野口民吉 印
  地主
   金井栁作
   山下庫次郎
   冨岡茂八
   新藤延平 殿
   山下與平
   山下卯之吉

     左記
  田方
従来ノ小作料一反歩一石五斗ヲ一石三斗五升ニ減ズル事
一石五斗以下ノ乾田及一石以上ノ水田ハ前記ノ率ニ減ズルコト
 但シ特別割引シアル協定ハ此限リニアラズ
奨励米ハ村規定ノ通リ下ハ一俵ニツキ一升、不合格ハ二升ノ割増米ヲ付スル事

  畑方
麦畑ノ周囲ニ現存セル畦桑ヲ今後三年以内ニ相互協定撤去シ桑小作金ヲ廃シ麦小作料一畝歩ニ対シ小麦一升大豆五合ヲ増量スル事
 但シ大豆ヲ大小麦ニ換ヘルコトヲモ得
畑方ノ改正実施ハ昭和七年度ヨリトス
                以上

※今後小作料減免を要求しないという条件で、1931年(昭和6)産米より水田一反歩(300坪)当の小作料1石5斗を1石3斗5升、1割減とする協定である。【1石=10斗、1斗=10升。米1俵=4斗(16貫、60㎏)、1石=2俵半。】


武蔵嵐山、百穴・農士学校・嵐山・鍾乳洞ハイキングコース 1930年代後半

2009-07-03 23:11:00 | 1941年

  比企高地(武蔵嵐山)
家族向
地図:熊谷
池袋-東武東上線1時間15分→武蔵嵐山-1キロ・15分→畠山重忠館趾-2.5キロ・50分-武蔵嵐山(あらしやま)-0,5キロ・15分-小倉城址-1キロ・25分→下里-2.5キロ・50分→下里観音-3キロ・1時間→小川町-東上線1時間25分→池袋
費用概算:2円11銭(池袋-武蔵嵐山99銭、小川町-池袋1円12銭)
註:武蔵嵐山駅の近くに、有名な国学の精神道場、農士学校がある。尚、嵐山から次のコースをとる事も出来る。
 嵐山-0.5キロ・5分→遠山-1キロ・20分→仙元山-2キロ・30分→上古寺鍾乳洞-2キロ・30分→小川町

  国学の精神道場・吉見百穴・鍾乳洞
一般向
地図:寄居、熊谷
池袋-東上線1時間10分→武州松山-2キロ・30分→吉見百穴-2キロ・30分→武州松山-東上線7分→武蔵嵐山駅-0.5キロ・8分→農士学校-1.5キロ・25分→武蔵嵐山-0.5キロ・5分→遠山-1キロ・20分→仙元山-2キロ・30分→上古寺鍾乳洞-2キロ・30分→小川-東上線1時間半→池袋
徒歩行程:11キロ、3時間
費用概算:2円42銭(池袋-松山1円、松山-武蔵嵐山14銭、小川-池袋1円28銭)
註:吉見百穴は古代民族穴居生活の跡であり、崖に穿たれた数百の穴は奇怪なる古代生活の面影を今尚ありありと残してゐる。農士学校とは、魂を持つ農業家を養成する学校で、農事の実際を授けると同時に国学の真精神を伝授し新時代の農士として生きるべく真摯(しんし)な努力を続けてゐる。武蔵嵐山は比企丘陵の裾、遥かに東に走る松林地帯、槻川の清流に三方を囲まれた景勝の地。小川町は生漉き紙の特産地で、槻川に沿ふて紙漉き場があり、その素朴な生産過程は非常に興味深い。

     『東京中心徒歩コース七百種』(1941年3月、朋友堂発行)

※東京近郊のハイキングコースを「家族向」「一般向」「健脚向」に分けて紹介したガイドブック。家族向は大体10キロ以内、2、3時間程度の歩行コース。一般向は11キロより19キロまで、4時間乃至(ないし)7時間程度の歩行コース。健脚向は20キロ以上、7時間以上の歩行コース。同時期の東武東上線のパンフレットは「戦勝祈願とハイキングは池袋から東上線で」、現代の「ふるさと歩道ハイキングコース」も参照のこと。