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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古老に聞く 菅谷中学校校歌 安藤専一

2008-09-20 11:32:00 | 古老に聞く

 安藤専一校長が、七郷中学校から菅谷中学校に転じたのが、昭和三十一年(1956)四月。その前年三十年(1955)八月には菅谷中学校新校舎三棟が落成し、三十二年(1957)四月には更に一棟増築にとりかかっている。この頃村の重要施策は新しい教育施設、特に中学校舎の整備に向けられていた。

 菅谷中学校の外、七郷中学校では、三十一年(1956)一月から約一ヶ年、三十二年(1957)二月に新校舎四三七坪が完成している。

斯くして、昭和二十二年(1947)新制中学発足以来の懸案であった新校舎建設は略ゝ(ほぼ)この時代に完了を見たのである。このように学校の形は一応整ったもののこの新しい学舎には、まだ学徒の魂に培うべき、醇美なる校風や、高い理想が建成されるに至っていなかった。それで父祖の伝へた古い歴史や伝統に導かれ、郷党の美しい山河にくん馴致された奥床しい校風の樹立こそ現下の急務と考えられていたのである。新校舎の庭に立った新校長は、この校風と理想を、校歌によって歌い上げようと決意したのであった。

 時のPTAは会長田幡順一氏、副会長岡村定吉氏であった。校長はこのPTAの役員に諮り、PTAの事業として、校歌制定のことを始めたのである。一月のことである。先ず歌詞を村民一般から募集した。締切当日の二十日には、数編の応募作品が集まった。選考委員はPTA役員がこれに当たった。投票の点数により第一位より第四位までを一応入選とし、その中から更に一遍を選んで、正式に校歌として採用することとして、その選定を教育委員会に仰いだ。入選者は、第一位安藤専一、第二位小林荘治、第三位柳生正子、第四位小林荘治の三氏である。

 時の教育委員は、根岸忠興、金子慶助、小林忠一、安藤義雄、長島実の五氏。委員会では、学校の要請により入選作を検討したが、根岸委員長は、委員に諮り更に之を、然る可き権威者に依頼し、補作並に決定を煩はすべき議をまとめ、これを農士学校創始者として、本村に縁故の深い安岡正篤氏に懇請することとした。その時兼任教育長をしていた筆者【小林博治】が命ぜられてその使者に当ったのである。

 東京大手町世界経済会館内全国師友協会の一室で入選四篇のガリバン版刷りを読み乍ら、先生は熱心に筆を加えられた。「矢張りこれが一番いいようだ」と言はれて一位の安藤校長の作品をなおしていかれたが、その結果、(一)の第五句「真理のあとを慕うなる」を「真理の道をすすみゆく」と正され、(二)の第二句の「平和の空は遙けくも」を「平和の空は遙けきも」とし、第六句の「われらが夢」を「われらが郷」となおされた。さて、(三)であるが、(一)が「学舎」(二)が「郷」(三)は当然「国」が来なければならない。先生は暫く考えておられたが、第二位の小林荘治君の(一)に筆を加えられた。

 小林君のものは

   大空に

   のぼる朝日の姿こそ

   菅中校舎の象徴なり

   明るく清く勇ましく

   のびゆく生徒を育てゆく

   輝く 菅谷中学校

が原文であった。これが現在のように、

   澄みわたりたる大空に

   のぼる朝の姿こそ

   われらが学舎の象徴なれ

   明るく清くつつましく

   励む師弟の姿こそ

   我等が祖国の誇なれ

の形になったのである。これにより学舎から郷土、郷土から祖国へと、中学生の理想を追求の姿がここに鮮かに浮び出たのである。

 斯うして出来上がった校歌は川越高等学校教諭牧野統氏の作曲により、昭和三十二年(1957)六月三十日、正式の菅谷中学校校歌として、制定を見るに至ったのである。

 安藤校長を古老に擬するは当らないと思ふが、「安藤専一作詞、安岡正篤監修」と註されている菅谷中学校校歌の成立について、その経緯を知るものが案外に少い。

 四月二十八日、日曜日の午前、今日は人影の全くない庁舎内で偶々訪れた中島運竝(うんぺい)君と四方山(よもやま)ばなしをしている中、話題が菅谷小学校の国旗掲揚塔、門柱などから菅谷中学校校歌にうつり校歌制定の由来についてその実情を知るものの意外に少いことを説かれ、急に思い立ってこの稿を草した。

 菅谷中学校校歌を語るには、安藤校長を措いて他に人はない。それで、些か附会の恨を免れないが、安藤校長に、古老として、御登場願った次第である。

       写真・安岡先生が添作されたガリ版刷の原稿

     『菅谷村報道』143号(1963年5月20日)から作成。

 学校の通称「菅中」「七中」「川高」「菅小」は、それぞれ「菅谷中学校」「七郷中学校」「川越高等学校」「菅谷小学校」に改めた。


古老に聞く 菅谷観音堂由来 多田浦吉

2008-09-18 11:28:00 | 古老に聞く

 菅谷観音の境内に、志賀多田家の墓地があり、その一隅に、寛政九年(1797)多田英貞建立の石碑があって、これに千手観音安置の由来を伝えている。

 寛政九年(1797)といえば今から百六十数年前に当るが、磁石は風雨に暴らされて文字も崩れ、的確に読取ることが困難になっているが、倖(さいわ)い多田さんがその写しを所蔵している。

 これによると、畠山重忠が館を構えた頃、その城の傍に仏寺を置いて、長慶寺と称した。興農研究所の洗心林の地点である。この寺は中世に至って、現在の観音様の敷地に移されたが、何時の頃か廃寺となってすたれてしまった。東西八町南北九町といわれる菅谷村が岡部太郎作(新編武蔵風土記)の知行所となったのは寛永年中であると碑文は語っている。多田氏の祖先が、岡部氏の陣屋にあってその頭地を支配していたことは前号(千日堂菅谷観音由来)に述べた通りであるが、宝永三年(1706)、多田重勝の時、前述の廃寺跡の地を岡部氏から貰って、これを多田家の墓地と定めた。そこで重勝はここに多田堂とする堂宇を建て、千手観音を安置してのである。

 新編武蔵風土記によれば、幕府は岡部氏の子孫、徳五郎の時その領地を上地せしめ、将軍直轄の地とした。碑文には、これを「岡部氏滅亡し重勝の子多田英貞こに地に土着し他に移らず」と述べている。多田氏は主君を失なったが、その後支配地の住人となって永くこの地に留まったのである。尚菅谷村は、安永九年(1780)に至り再び幕府直轄を離れ猪子左大夫の知行に移った多田氏が今の志賀の地に居を定めたのは享保九年(1724)であるといふから、岡部氏が亡び、天領となったのはこの頃であると思われる。重勝が、領主岡部氏から賜った観音境内の地は、前述のよう、幕府の直轄領となり猪子氏の領地と変り、ことに明治維新による版籍奉還等のこともあってその所属が次第に不明となり地元菅谷との間に紛議を生じるにいたった。

 これらが熊谷裁判所に持ち込まれたが、その結果「観音は多田亀三郎のものに相違ないぞ。但し志賀から来て守護することは容易でないから、菅谷の人と話合って管理せよ」という裁断が下った。そして従来の多田堂の名を改めて多田山千日堂と称え共同管理の形とし、その議定書が出来た。明治七年(1874)のことである(議定書の内容は未調査)。然し多田さんの話によるとこの亀三郎さんが貧乏して菅谷から話があっても、その都度会合に出席出来ないそれで管理の実権は次第に地元に移っていたという。

 大正五年(1916)、菅谷区長関根浜吉氏調製の「多田山千日堂調」によると、明治二十五年(1892)、畠山城址の城山学校をここに移して菅谷学校を建て、その敷地として観音敷地を貸与したとある。又同じ調書に「現在の管理の実況は、菅谷区長と評議員が之に当り、堂の縁故者多田家が、年度収支決算の時立合っている」とあるから明治の中葉から実権は完全に地元に移ったとものと見られる。

 これについて又多田さんによると、平沢の内田倍太郎(ますたろう)氏が村会議長の時である。内田氏は当時名うて名うての村会実力者、その上その父君は志賀の多田氏の出で内田家の婿になったものである。観音堂の管理について大いに不満を感じたらしい。「大体陣屋がおとなしすぎる。今日は俺の云ことをきかぬと開会しないぞ」という訳で多田家の立場を明らかにしようとした。その結果、従来の経理を明瞭にした上、管理は一本化して菅谷に委せることとし、村会全員でこれに連判した。多田さんの記憶では、時の村議として、滝沢宗八、小林市太郎、関根丑太郎、福島緑造等の名が上げられる。旧村の議員名簿にこれ等の人が名を連ねたのは、明治三十年から四十年の頃であり尚議員名に若干記憶違いもあるようである。とも角管理権は菅谷に移り総決算の結果残ったのは僅か金五円。これを多田氏が受けて旧来の権利を放棄したのだという。

 かくて観音境内六反五分の地が地元管理となり、内一畝二十四歩の墓地が多田家の所有として現在の地に残ったものである。

     『菅谷村報道』139号(1962年12月20日)


観音堂議定書 1874年

2008-09-18 11:20:00 | 志賀

  明治七年五月十七日
    観音堂議定連印証券
              熊谷県管下
               南六大区四小区
                武州比企郡菅谷村
                        志賀村

   多田山千日堂寄付之証
中畠境内成五畝拾三歩 東裏寺分
山四反五畝拾弐分   裏山
 右二口志賀村多田亀三郎先祖多田弾右衛門代寄付
中畠九畝拾歩     東裏改東側
 是ハ菅谷村より寄付地ニ御座候
 三口〆六反五歩
右之通リ菅谷村役場庶帳簿江記載候也

   議定証券之事
武蔵国比企郡菅谷村地内建築
罷在候堂宇之義従来菅谷村
帳冊ニハ千日堂ト記載有之志賀村
施主人方ニテハ多田堂ト称シ何レモ区
分判然不致因テ此度改正之上観
音堂ト改定候事
一 右堂地券状ハ三枚共持主観音堂
  未換候事節ト地券表ニ書載候事
一 券状預リ場ハ境内壱枚ハ志賀村
  施主人所持畠山弐枚ハ其村役場江備
  置大切ニ所持可致事
    但別段券状預リ番ニ取引致スニ及ズ
一 地租納帳ハ其村并施主人共双方ニテ
  帳簿相仕立年々晩歳ニ至り施主人
  立合之上決算仕払相立双方ニテ所持
  可致事
    但双方江備置候帳冊江役場之用印并施
     主ノ用印共合算之処江刻印可致置事
一 地租相納候而残徳ハ其堂守有之ハ
  其堂守江手当不在之節ハ其地徳
  積立置堂宇破損之節修覆手当ニ
  相廻し可申事
    但堂守不在之節積立金ハ年々決
     算之上其村役場江預リ置可申候
一 右堂地之地所堂守自作候ハヽ格別不
  在之節ハ小作人何之誰ト確定候事
    但小作麦■或ハ金貨取極之事
一 右小作納期限ハ其年限リ日限ヲ定メ
  双方立会之上取立候事
一 堂守永年在住ニテ積立金無之候テ
  修覆いたし候節ハ双方尽力出金可致事
    但大破ニテ自力ニ及兼候ハヽ地中立木
     売木致し修繕之足合ニ可致事
一 先前ヨリ備置候修覆手当祠堂金
  之儀ハ堂宇堂宇修繕之節出金取立方
  其村役人上ニテ精々取立之上入費ニ充
  可申事
一 堂守等死去ハ勿論進退ニモ渾(すべ)テ施
  主并其村役人立会談判之上可取
  計事
    但堂宇修繕方法も同断之事
一 是迄堂中ニ設立候其村墓所之義
  従前之通無別条埋葬可致事
一 右堂施主方ニテ新喪出来葬式執
  行罷成候節ハ先規ニ任セ其村方ヨリ
  堂中世話役無差支様可致事
    但葬式ノ節其人数ニ飲食等施主ヨリ相賄ル事
右之条件双方熟諒之上示談納
得取究候上ハ相互ニ違反無之
一同連印仕後年之確証トシテ双
方江一冊ツヽ所持申処相違
無之候因テ如件
 明治七年
  五月十七日
    比企郡菅谷村
      戸長  関根伊左衛門 印
  書記人 副戸長 根岸与兵衛  印
      立会人 中嶋理平   印
    同郡志賀村
      施主  多田亀三郎  印
      同戸長 水野年連   印

     志賀・多田一男家文書29


境外仏堂類焼御届 1935年12月

2008-09-18 11:15:00 | 志賀

    比企郡菅谷村大字菅谷九番地
     曹洞宗東昌寺境外仏堂千日堂
一 仏堂 木造瓦葺、間口二間四尺奥行三間四尺向背付
一 所在地 比企郡菅谷村大字菅谷字東側百五拾四番地
右ハ昭和十年十二月三日午前一時民家ヨリ発火折柄烈風ニテ防火ノ功ナク遂ニ類焼仕候ニ付此段及御届候也
昭和十年十二月十八日
         右東昌寺住職
     管理者  中島信龍 印
     信徒惣代 根岸久一郎 印
     信徒惣代 山岸徳太郎 印
          多田豊作 印
          関根正作 印
 埼玉県知事 斎藤樹殿


仏堂寺院所属認可申請書 1940年

2008-09-18 11:10:00 | 菅谷

    埼玉県比企郡菅谷村大字菅谷
       仏堂 千日堂
右仏堂左記ノ通り寺院所属致度二付御認可相成度関係書類添付此段及申請候也
 昭和十五年 月 日 仏堂受持僧侶
       比企郡菅谷村大字菅谷東昌寺住職
               中島信龍 印
 埼玉県知事土岐銀次郎殿
一、名称 千日堂
二、所在地 比企郡菅谷村大字菅谷字東側百五拾四番
三、本尊ノ称号 千手観世音
四、由緒沿革
宝永三年(1706)先ノ知行岡部藤十郎元貞廃寺跡ヲ多田平馬重勝二賜リ則一宇ヲ建立千手観音ヲ安置シ多田堂ト名ケ永ク子孫ノ墳墓ノ地トス。享保八年(1723)松山宿吉田七兵衛比企郡内ノ観音ヲ順拝札所ヲ開基シテ之レヲ比企弐拾六番ノ札所トナス。寛政九年(1797)重勝ノ子嗣一角英貞ノ建テタル由来ノ碑文モ境内ニ現存シアリ。明治七年(1874)五月時ノ判官ニ依リ千日堂ト改称シ来レリ
五、教義儀式及行事ニ関スル事項
教義ハ曹洞宗ノ教義ヲ布演儀式ハ曹洞宗ノ儀式ニ依遵(いじゅん)シ毎年九月二十日祭典ノ行事ヲ行フ
六、管理維持ノ方法
東昌寺住職管理ノ責二任シ維持費ハ仏堂所有財産ノ内ヨリ毎年度ノ予算ニ計上シ充当ス
七、属スへキ寺院ノ名称及所在地
比企郡菅谷村大字菅谷九番地東昌寺
八、属スヘキ寺院所属宗派ノ名称
曹洞宗
九、属スヘキ寺院ノ選定理由
大正八年(1919)ヨリ東昌寺受持トシテ事実上ノ管理ヲ受ケ来リタルニ由ル【因ル】
          根岸久一郎 印
          関根正作  印
          関根清一  印
          米山松五郎 印
 菅谷村長岩澤弥市殿


古老に聞く 千日堂菅谷観音由来 中島喜市郎

2008-09-18 10:20:00 | 古老に聞く

 「菅谷村ハ江戸ヨリ十五里、郷庄領ノ唱ヘヲ伝ヘズ…御入国ノ後ハ岡部太郎作ノ知行所ニシテ……」とある。志賀の陣屋、多田米三郎氏の先祖がこの岡部氏の被官として、東西八町南北九町の須賀谷(菅谷と書き改めたのは元禄頃から)の知行所を支配した。その陣屋は現在の中島長吉氏宅附近だという。陣屋というのは領主の役所の意味で、城を築くまでに至らない格式の領主の政庁である。

 伝えによれば、この岡部氏の先祖に岡部主水という人があり、その母が二代将軍の乳母として、殿中に仕えた(*)。将軍秀忠が生まれたのは、天正四年(1576)四月、その前年に、信長・家康の連合軍が武田勝頼を長篠に破っている。家康は元亀元年(1570)に浜松城を修築してこれを根拠とした。秀忠も父の居城に生まれたのである。その乳母であった岡部氏は、そのまゝ浜松にとどまりやがて、その地で死去したという。これは岡部氏が菅谷に知行所をたまわってかららしい。交通不便な江戸初期のことである。その遺骸は現地に葬り、「正心院殿日幸大姉」の位牌が知行所の菅谷の送られて来た。その後宝永三年(1706)(将軍綱吉の時)領主岡部藤重郎元貞は、長慶廃寺の跡を、多田家の墓地として、多田平馬重勝に賜った。これが現在の観音堂の敷地である。仍(よ)つて多田重勝はここに堂宇を草創し、正心院殿の位牌を納め、千手観音を安置し、多田堂と名づけて奉仕した。然し、この多田堂は昭和十年(1935)十二月の火災で焼失するまで、間口二間四尺奥行三間四尺向拝付の本堂を構えて、その名は近隣に高かった。時は移って昭和十九年(1944)、安岡[正篤]先生が東京中野に松村善蔵氏御訪問の事があった。

 松村氏は大阪の石油会社社長である。この時先生に随行した農士学校農場長酒井利晴氏は、松村氏饗膳の前に観音経の一節を誦唱して箸をとった。このことから予(か)ねて観音信仰者である氏との交契が始ったという。これは中島氏が酒井氏から直接聞いた話である。

 観音堂は、昭和十年(1935)焼失後、多田氏が、三尺四方の小堂を建立して、尊靈だけを祀っていた。次いで昭和十八年(1943)、的野梅軒氏が、観音堂敷地を借りて梅精工場を建てるに当り、更に観音堂も新築した。

 ここに的野氏は、酒井氏を通じ、松村氏が観音像寄贈の意あるを知り、酒井氏を介して、千手観音一躰の寄贈を松村氏に懇請した。松村氏はこれを快諾して、大阪の仏師藤岡志好氏にその彫刻を依頼してこれを完成したのである(**)。

 昭和十九年(1944)七月、酒井氏からの通知により、(酒井氏は農士学校を辞し、東京日野町在住)、根岸久一郎、根岸正作、的野梅軒、中島喜市郎氏等が上京して、松村氏から新彫の観音像を受領した。七月十八日である。

 この日のついては、中島氏の記憶によると、一行は途中安岡先生のお宅を訪ねた。この時先生は、小磯大将が帝国ホテルで待っているというので出かけるところだった。小磯氏は大命を拝し組閣中であったが、「多分今夜中に組閣を終わるであろう」といって先生が出かけられたという。つまり組閣の前日に当たっているので、この日を記憶しているという。観音像は中島喜市郎氏が拝持して、午後四時菅谷駅に着いた。出迎えの総代関根清一氏等に守られて、東昌寺に安置し、後二ヶ月を経て、松村氏夫妻、村長、その他有志が列席して、開眼式が行なわれた。

 又、現在観音堂内の「正心院殿日幸大姉」の位牌は中島喜市郎氏が、在京の多田龍作氏を数回訪ねて寄進を得たものである

 昭和二十年(1945)敗戦の結果、全国、中・小学校の奉安殿は撤去されることになり、菅小の奉安殿は、村会の議決を経て、観音堂として、無償譲渡となった。これが現在のものである。千日堂の由来のついては尚考証を要する点が多数あるので、今回は、特に中島氏が直接携り、又見聞したことを中心に、書きとめた(未完)。

*日幸大姉の位牌の裏面には、「岡部主水の母、徳川将軍の御乳母、慶長十五年正月二十六日江府城内に病死」とある。

**中島氏所蔵の観音像写真裏面には、「藤岡志好謹刻/葛野仏喜堂監工/施主 松村善蔵/昭和十九年五月大祥日」と書いてある。

     『菅谷村報道』138号(1962年10月10日)


菅谷の千手観音について 浅見覚堂

2008-09-18 10:10:00 | 志賀

 昭和53年(1978)12月、享年80歳で亡くなった中島喜市郎氏の遺構を、編集したものです。

  菅谷の千手観音について
 
比企郡嵐山町大字菅谷、曹洞宗東昌寺に、多田山千日堂があります。

①千日堂の由来
 千日堂の本尊は、千手観世音菩薩であります。嵐山町大字志賀の「陣屋」と土地の人たちに呼ばれている、多田米三郎氏の先祖【主君が正しい】岡部主水(もんど)もしくは玄蕃守(げんばのかみ)の母は慶長年間(1596~1615)、徳川二代将軍秀忠公の乳母【秀忠誕生は1576年(天正4)】をなされ、正心院さまと申されておりました。正心院さまがお亡くなりになりましてから、正心院様のお位牌は国許の志賀の陣屋、多田家に送り届けられました。法名を正心院殿日幸大姉と申します。そのため当主の多田平馬は正心院様の位牌堂建立を計画し、宝暦年間(1751~1763)、多田一角が完成したものが多田山千日堂であります。

②千日堂の焼失
 この千日堂は昭和10年(1935)、大字菅谷の大家にあい、本尊・位牌・堂宇共に焼失しました。

③本尊千手観世音菩薩新造祭祠の縁起
 昭和18年(1943)10月下旬のある日の夕方、日本農士学校農場長、長野県出身の酒井利晴先生が我が家を訪れまして、「中島君、サツマのふかしたのがあるかな」と云いました。その時あいにくサツマのふかしたのがなかったので、私は先生に「今晩、夕食を食べていませんね」と言いますと、先生は「見破られたかな、その通りです」と言うので、「それでは百姓の真の生活を味わってもらいましょう」と麦飯に白菜、自家製のおなめを出して食べてもらっていますと、隣家の関根正作さんが「今晩は」と言って入って来ました。食べ終わって参人でお茶を飲んでいましたが、酒井先生の言うことに、「俺はこの間、安岡先生のお供して、東京に石油会社を経営している松村善蔵さんという人のところに行きました。すると食事が出たので観音経を読み合掌しました。すると、松村さんは先生に、『あなたは観音信者か』と聞きましたので、先生は、『観音信者ではないけれど観音経を読んだのだから観音信者だ』と言った」のだそうです。「松村さんは、『観音信者なら観音様の軸物をあげる』と言った」という話をしました。
 この話を傍で聞いていた正作さんが独り言のように、「菅谷では観音様が焼けてないのだから、誰か観音様をくれる人があればいいなぁ」と言いました。酒井先生が「それでは私が話してみましょう」と言って帰りました。
 二、三日過ぎて松村宅に行き、その話をすると松村さんも快く受けてくれ、「それは何観音」と聞かれたので、「それはわからない」と言いますと、「聖観音ならすぐある」と言われたそうでが、わからないまま帰り又、正作さんに会いその話をしますと、「千手観音である」と言いました。先生は松村宅に行きその話をすると、「千手観音ならこれから半年後でなければ出来ない」ということでした。昭和19年(1944)7月になって「ご希望の千手観音像が出来上がった」という知らせがありました。

④観音像を迎えて
 昭和19年(1944)7月19日、当時観音さまの世話人であった根岸久一郎さん、関根正作さん二人と、観音さまの事につき非常に協力していた的野哲四郎さん(陣屋の血統を引いているという)と私と四人で行くことになりました。四人はまず東京の金鶏学院に着きました。休憩して昼食は学院に戻ってやることになっておりましたので、私は学院のコック飯野さんにおかずを頼んで学院を出発しました。安岡先生のお宅に立ち寄りましたが、先生も非常に多忙な方で、菅谷から来てくれたのでゆっくり話したいが、小磯君が帝国ホテルに待っているとのことで、先生と一緒に安岡先生宅を出まして松村氏宅に向かいました。その時は小磯内閣の組閣の時でした。松村氏の宅で、昼食としてあんこのない炭酸まんじゅうを頂きました。松村さんは観音像の前にて謡曲をやってくれました。そのあと松村さんの奥様と私二人で観音像を箱に入れ荷造りしました。それを頂いて金鶏学院に戻り、持参の弁当を食べました。
 東上線にて菅谷駅【1935年(昭和10)以降は武蔵嵐山駅】に着いたのですが、驚いたのは駅の玄関前には当時の東昌寺住職・中島信龍和尚、宝城寺住職・鷲峰玉堂和尚、他檀信徒三、四十人が出迎えに来ていたのであります。私は白布に包んだ観音像の箱を抱え、四人一行は迎の方々に護られて無事、東昌寺に着きました。

⑤正心院殿日幸大姉の位牌
 東京の実業家松村善蔵氏の篤志によって、多田山千日堂の本尊千手観音像が大字菅谷に寄進されましたので、多田家の当主多田浦吉氏に相談いたしましたところ、浦吉氏はもう全部焼失してしまったからと言って、相談に乗ってくれなかったので、多田家八代目豊吉氏の三男竜作氏(当時、東京深川清澄町に住す)に観音様の写真を持って行き相談しました。快く引き受けてくれまして、出来たのが現在の正心院殿日幸大師の位牌なのであります。

⑥奉安殿が観音堂に
 昭和20年(1945)8月15日大東亜戦争も終戦となり、その後はマッカーサー元帥の指令の許に我が大日本帝国は自由国家となり、天皇は帝国国王の位が無くなりましたので、日本国家の象徴となったのであります。そのため全国学校の奉安殿が廃止となり、菅谷小学校にても不必要となり、大字菅谷にては村会の議決を経て奉安殿を観音堂としてもらい受ける事になったのであります。そのため全国学校の奉安殿が廃止となり、菅谷小学校にても不必要となり、大字菅谷にては村会の議決を経て奉安殿を観音堂としてもらい受けることになったのであります。
 翌21年(1946)2月ある日の事、前夜の雪も止んで、快晴の日でありました。当時の区長中島勝哉さんと区長代理の石根丑三さんの二人が私宅に参りまして、この度大字菅谷にて奉安殿を観音堂としてもらい受ける事になったのでと言うことでありました。それからしばらくして三人で相談してから関根亀次郎さんを呼び、四人で相談してから奉安殿を見に行きました。私宅に戻って相談の結果、奉安殿を引く準備を亀次郎さんに任せました。亀次郎さんは志賀の斎藤与吉さんを相手に準備することに任せました。亀次郎さんは志賀の斎藤与吉さんを相手に準備することになり、基礎の方は石根丑造さんと私でやることになりました。
 奉安殿は菅谷丸通運送店のトラックに積まれ、エンジンをかけずに大勢の信徒の力引き綱によって観音堂の位置に着きました。その後入佛式を行い、供養を行っておりましたが、堂の痛みが激しくなり、中島操、中島正男、山岸一利氏三人の篤志金参拾万円にて、現在の位置(東昌寺境内】に「観音堂兼茶室」として移転したのが多田山千日堂であります。
 多田山千日堂(観音堂)解体は昭和52年5月頃で、その跡地には菅谷自治会館が建設され、同年八月十六日竣工式を行いました。
  『原っぱ比企』7号(1990年10月)の「街角の歴史散策」に掲載されたものを修正、補筆した。


古老に聞く 鎌倉街道記念碑 関根茂良

2008-09-10 23:52:04 | 古老に聞く

関根茂良氏から旧鎌倉街道記念碑建立の由来を書いておくようにと言はれてから四年気にかけていたが最近は殆んど忘れていた不図筐底から当時の覚書を発見しこれに促がされて、一応建碑の経緯を記して後に残そうと試みた。今を逸すると全てを忘却し去る懼れがある。不確のところは関根氏に質した。(小林博治)

 「伊昔鎌倉街道菅谷」菅谷から嵐山に通じる県道、東武バス停留所「原」から南に入り、農髙敷地の西側をまっすぐに槻川へ下る道路に沿う櫟林に中に、この七文字を刻んだ鎌倉街道の記念碑が建っている。これは記念碑の裏面に刻まれているとおり、昭和三十三年(1958)四月、有志八八余名により建立されたものであるが、この記念碑建設の経緯は概ね次のとうりである。
昭和三十二年(1957)九月十五日、皇太子殿下が興農研修所見学のためお成りになった、この奉送迎中石川浅夫氏のカメラの中に偶然関根茂良、田端順一、小林博治、小林久、関根昭二、水野正男の六人が一かたまりになって写っていた。これがもとで前記六名(水野氏は病欠)が集まり二葉本店で淸酌閑係を試みた。秋も酣(たけなわ)の十月二十五日夜である。この席上関根茂良氏から同氏が予ねて抱懐せる旧鎌倉街道建碑のことが開陳され一同これに和して翌年桜花の頃を期してその実現を計ることになった。これがその発端である。かくて昭和三十三年(1958)一月三十一日第一回発起人会が開かれるに至るまで、建設場所の選定、碑石の調達、同志の勧誘等総て関根氏の独力で基礎的準備が進められていたが、その中で特に書き留めたいことは碑文の策定と、揮毫(きごう)のことである。
これは、文、書共に安岡先生の手に成ったものであることは万人のよく知るころであるが、何時何処でという点になると、殆んど記憶する人はないと思う。筆者もその年月日については完全に忘れ去っていたが、偶々これに関係ある一文書を発見して、場所は勿論、年月日まで明らかとなった。それは一つの寄せ書であるがその冒頭に「昭和三十二年師走念七日於芝石庵愚弟相会痛飲席上」とある。これは現内閣官房副長官細谷喜一氏の筆である。十二月二十七日の夜芝の御成門付近の芝石庵という料亭で安岡先生を囲んで忘年会が行なはれたその時にかねて関根氏の依頼があって先生の「伊昔鎌倉街道菅谷」の碑文が出来上ったのである。「伊昔」は「これむかし」と読むのである。三十三年(1958)一月には、発起人二十三名連名で旧鎌倉街道記念碑建立趣意書が発せられた。草案は筆者。関根氏が加刪(かさん)した。

 「文治五年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討つ時、その大軍は鎌倉を発し一は北上して、本県の西部を過ぎ、下野国から白河を経て陸奥に入っているが他の一隊は、西北に向かって八王子飯能を通り上州高崎から信濃路を越え日本海岸を伝って出羽に進んでいる。今、図上にその跡を辿ると征討軍は秩父連山が東に傾いて武蔵にその姿を没せんとする山麓の丘陵地帯を通過したものと考えられ、その進路は大体今の八高線に沿ったものと想像される。
 本村内に古く鎌倉街道と称せられる地点が数ヶ所存ずるが、今この地に立って、地形を相すると頼朝の遠征軍が果して此処を通り過ぎたか否か俄に之を決することは出来ないが、少なくとも鎌倉から上、信、越を連ねる路線が本村内に存したことは主骨出来る。畠山重忠の故事、木曽義仲の伝説、後に上州世良田長楽寺の所領が存在したことなど、又このことを証拠づけるものと考えられる。
 私達は徒(いたず)らに過去に泥んで古を重んずるものではないが、今の時代が長い過去を承けてこれを遠い将来に伝える大きな歴史の歩みの一貫であることを思う時、今私達が、その父祖の跡を顕彰することは、子孫に対す責務の一環であると思う。
 よって茲に有志相集まって、鎌倉街道跡に記念碑を建立し、これを後世に留めようと計ったのである。
 尚、更に思うことは、終戦以来こゝに十年余、敗戦による混乱の期はすでに去ったといはれるが、今や米ソを頂点とする自由、共産両国家群のはげしい対立や、人工衛星出現による科学的成果の驚異に耳目を奪はれ世は挙げて魂の帰趨(きすう)を失い内に省る暇なく、国を治めず、家を斉えず、身を修めることを忘れて、世情騒然祖国は再び興亡の岐路に立っている。吾々は一大勇猛心を奮起して、この危機を突破しなければならない。
 而してこの勇猛心に培ふものは、日本古来の伝統に根ざした民族精神の覚醒である。古を尚(たっと)び、伝統を重んずる私達の志が結集して建碑の計画となったのであるがこのさゝやかな営みがわが民族精神覚醒えの一つの灯になることを念願する次第である。」
関根茂良、小林博治、野口静雄、根岸忠興、笠原祥二、田幡順一、森田清、内田百太郎、内田実、杉田角太郎、高橋正忠、高橋照士、瀬山修治、関根関太郎、関口庄平、瀬山芳治、簾藤国平、長島一平、金井佐中、根岸寅次、福島愛作、安藤専一、内田家寿

 一月三十一日の発起人会では次のことが定められた。即ち建設費は
  石工謝礼   6000円
  〃 食糧    1000円
  建設工費   2000円 
  石材運賃   1500円
  祭事費     1500円
  会議費     1000円
  諸雑費     1000円
  記念品代   3500円
  計            17500円
とし、これは発起人と、賛同有志会員で搬出することと石工は小菅山福治氏に依頼、碑石は杉田角太郎氏、台石は、簾藤庄治より共に進んで寄贈の申し込みがありその厚意を仰ぐこと、記念品は、手拭百本を作り、賛同者に贈ることなど、等のことであった前述のように右諸計画及び賛同者の勧誘など全て、関根茂良氏を主軸として進められていたのであるが、更に発起人会を組織化し責任の分担を明らかにして、事業の推進を計るを可として二月二十日左の役員を選んだ。
  委員長      関根茂良
  副委員長    田幡順一
  〃(兼書記)   小林博治
  石工相談役  簾藤国平
  〃          田幡順一
 さて軌道に乗った建設事業は順調に進捗(しんちょく)し、建碑の場所は、旧街道の俤(おもかげ)を最もよく残しているといはれる高橋照士、中島茂平両氏の山林が提供され、又四月中旬完成に至るまで、千手堂有志による代石の搬入、基礎工事、建立。遠山有志による石碑の運搬等ひたむきの奉仕作業が続けられた。尚石碑裏面の文字は出野憲平氏、基礎の石積は、内田武一氏の手に成ったものである。以上の如くして、記念碑は予定の通り完成し、四月二十四日の除幕式を迎えるに至ったのである。
 この日桜花には稍(やや)おくれたが、春色正に酣(たけなわ)の、古い鎌倉街道の辺りに、記念碑の除幕式が行はれ、続いて菅谷中学で祝賀会が催された。出席者は前記発起人の外
来賓 横川重次、村長青木義夫、議長山下欽治
賛同者 松浦高義、関根長倭、福島秀雄、島本虎雄、岡村定吉、関根子之助、米山永助、松本金兵衞、中島喜一郎、山岸宗朋、関根昭二、新井義憲、青木髙、森田与資、島崎和一郎、初雁勝吉、河野要、権田和重、権田稔、権田喜又、高橋亥一、高橋四郎平、儘田雪光、高橋甚右ヱ門、出野憲平、根岸善吉、内田清、内田茂、内田保治、内田喜雄、山田巌、小林忠一、小林久、村田富次、吉野賢治、栗原彌之助、内田孫三郎、瀬山光太郎、内田喜代作、林忠一郎、西沢光五郎、高橋重吉、瀬山善吉、関口保助、関根平三、内田佐助、西沢富次、浅見覚堂、吉野松蔵、内田直一郎、内田原作、内田武一、岩沢房之助、簾藤庄治、山下正、金井倉次郎、金井孝作、山下伝次郎、山下光太郎、小久保恭之助、福島楽、忍田福造、小久保幾喜、伊藤泰治の各氏である。
        写真<鎌倉街道記念碑>

     『菅谷村報道』137号(1962年9月20日)

この菅谷館跡西側の「鎌倉街道跡」は、その後の調査(http://satoyamanokai.blog.ocn.ne.jp/sekizoubututyousakai/2008/12/1982_48e3.html)で疑問が出て、1983年(昭和58)、このルートはまちがいで、実は堀跡であったことが判明した。
また、菅谷婦人会『しらうめ』18号(1998年3月)に関根昭二嵐山町長の「歴史的真実と伝説(鎌倉街道について)」があるので併せて参照されたい。


古老に聞く 津島神社縁起 根岸宇平

2008-09-10 23:33:18 | 古老に聞く

 慶応二年(1866)十月、菅谷村(大字菅谷)の戸籍帳(根岸宇平氏藏)によると、名主伊左衛門、組頭与兵衛、同一郎左衛門、同柳七等の名が見える。この組頭柳七さんが根岸宇平氏の祖父の当るが、津島神社の起源はこの柳七さんの頃だという。
 県道をはさんで、宇平氏が西側。東側が中島元次郎氏(農業委員会長)の家であるが、中島氏の曾祖父を平兵衛さんといい、この二人が、ある夏の頃、都幾川筋で瀬干しの漁を試みた。この時、図らずも水中から拾い上げたのが、津島神社の御神体だという。然しこの神様がその後すぐに津島神社、天王様として村人の信仰を集めた訳ではなく現在の天王様の信仰が固まるまでには尚若干年月の経過があったらしい。
 両人は御神体を両家の間の、街道の真ん中に安置し、市神様(いちがみさま)(街衢(がいく)にあって疫神の侵入を防止する神)として奉祀したという。新編武蔵風土記稿に「菅谷村ハ……戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道ヘ出ル脇往還ニシテ人馬継当ヲナセリ」とあるから、往来の人馬も可成り繁かったと思われるが、何分維新前のこととて世の中は呑気であった。コセつかず悠々としていた。道路の真ん中にこんなものを邪魔外道としかる人もなかったらしい。それのみか、この道路上の市神様は次第に厄病除け悪魔祓いの神として村人の尊信を集めるようになって来た。
 さて旧菅谷村内の九ヶ村即ち、菅谷・川島・志賀・平沢・遠山・千手堂・鎌形・大蔵・根岸・将軍沢が統合され、菅谷村聨合戸長役場が出来たのが、明治十七年(1884)であるが、この頃になると流石に往還中央の神祠は時勢に合わず傍傍村人の信仰も増して来た為であろう社祠移転の議が起り、根岸宇平氏の家で、宅地六坪を割き神地として奉納し、社殿を建てて移祀することとなった。かくして現在祭典の際お仮谷の建てられる場所に鎮座することになったのである。役場の土地台帳には、西側440のロ、宅地六坪、八雲神社有として登記されている。現在は津島神社といっているが、土地台帳に見るように、八雲神社といった時代もあり又、根岸さんの話によると八坂神社といったこともあるらしい。
 八坂神社も、八雲神社も、津島神社も祭神は皆、素戔鳴命であり、天王様というのも新羅牛頭山の素戔鳴命の神靈、牛頭天王から出た名称であって、厄除け、悪魔祓い神としての、素戔鳴命信仰には変りがないので、時により、山城の八坂神社に準じ、伊勢の八雲神社に做い、尾張の津島神社に和して、このように社名が変ったのであろう。 
 いづれにせよ、明治二十年頃(1887)になると、この神社は道路上の市神様から更に一歩進んで天王様としての、性格が明らかに固まり、厄除けの神として大字菅谷全体の崇敬をうけるようになっていたと考えられる。
 即ちこのことは、明治二十三年(1890)菅谷の大火の時、すでに神輿が出来ており,この神輿は、根岸忠与氏の邸内に安置してあったが、この火災で焼失したと伝えられているから、天王祭りの中心神事である神輿御渡の行事がすでに存在していたことが分り、当時の天王様信仰の実態を推察することが出来る。尚現在の神輿はその後七年、明治三十年(1897)に小川の梅さん大工(米山宗吉氏家より出る)の弟子熊さん大工によって作られたものだという。
 かくして、天王様としての神格を確立した津島神社は大字菅谷の発展と共に、その祭典も漸く華やかになった。京都八坂神社の祇園祭とその名も同じ、七月十四・十五日の例祭に、疫神・災厄を吹き飛ばして、意気軒昂と市中を練り歩く神輿は菅谷祇園の呼びものとなり、近郷近在の善男善女が、団扇片手に浴衣がけの夏姿で、神輿見物に集った。祇園祭りは、夏の農繁期を終えた村人達の憩の場所でもあった。
 根岸さんが兵隊に行っている頃、字内の神社の統合が行なわれ、津島神社と稲荷様が、現在の菅谷神社の境内に移され、根岸忠与邸内に安置した神輿は、稲荷様の祠に納め、稲荷様には新しい社殿が建設された。約五十年前というから、明治の末、大正の初の頃と思う。然し祭典は、その後も必ず縁りの地にお仮屋を設けて執行され、神社発祥の地には、今尚脈々として、その伝統が生きているのである。
 〔附記〕長い梅雨と入れ替りに、俄に訪れた猛暑の午後。ここは涼風の渡る根岸家の縁側で、土用の暑気払いと進められた心づくしの梅酒を傾け乍ら、根岸さんから聞いた数々の話の中、津島神社の分だけを摘記してその発祥と信仰の成立を辿った。尚御神体を川から拾い上げたという件りは善光寺の本尊が本田義光の難波の堀江から拾い上げたものであり、浅草の観音様は、隅田川の下流で土師臣真中知の網に懸ったものであるという伝説に思い合わせ、地方信仰の起源を探る上から興味深いものと考えた。

     『菅谷村報道』136号(1962年8月5日)


古老に聞く 火渡り刃渡りの神事 西沢富次郎

2008-09-10 23:22:48 | 千手堂

 千手堂の内田寅吉氏の屋敷前、県道に沿った畑の西南部に、熊野神社が祀られてある。宮のたたずまい、鳥居社碑等にかりそめならぬ信仰の深さを感じて、行人の足は自らここにとまる。
 この神社の祭りが、毎年三月三日、西沢富次郎さんによって行なはれ、御神酒酒を上げ近所の子供達に団子を呉れて終っている。これはもと、旧正月十七日に行わはれ、村内の信者が、うるち牡丹餅を奉納して、祭典を行なっていたが、時代の移りと共にいつかこの習慣も薄れて、現在の形に簡素化された。
 この熊野信仰は、もと御岳講から始まったもので、御岳講が崩れて遂に解散したあと、講人の西沢富太郎、父の男女吉、関口吉蔵(現利重)、関口福次郎(現幸衛)、内田為五郎(現豊三郎)、内田新五郎(現正作)、内田虎吉(現明成 )さん達が集って、この熊野講を結成した。
 出雲の熊野神社は、すさのをの尊を祀り、出雲大社と併称された有名な神社で地方では、火難・盗難除けの神徳に関するもので、この行事によって熊野神社のお札に火ぶせ・やく除けの神威がこもり、近隣から集る信者が争ってこのお札を受けて帰るのである。
 さて、火渡りの神事とはその行者・西沢さんによれば、松薪百本を積み並べてこれに火をかける。中座と称する行者を中心に講人がこれを囲んで坐し祈祷をはじめる。
 「オンサンバタラヤシリソワカ」呪文が繰り返され祈祷が最高調に達すると、中座に神がのり移る。中座の手にある大きな幣束の紙が風もなしに急に逆立つのである。そして両足を堅く縛って胡座した行者がそのまま、二三尺の高さに跳び上るという。これは関根茂良氏も目の当り見たと語った。かくして神がのりうつり、精神の統一が出来た行者はやおら立って、燃えしきる猛火の中を真跣足で歩き渡るのである。勿論本人は熱さを感じないし、火傷もしない。
 刃渡りの神事は、剣の刃を上に向けて、梯子の如く組み立て、垂直に立てて、これを昇り且つ降りるのである。西沢さんは十三段の剣の梯子を昇降したという。これも全然けがをしないのである。精神統一が出来ると炎の色はカニ色に映り、つるぎの刃元から白い御光が謝するように見えるという。
 完全に精神統一が出来たかどうかは、前述のように行者の手にある幣束が大きく上下するので分る、不十分の時はこれが動かない。神がのりうつらないのである。精神統一不十分の時は危険であるから勿論行は出来ないし、又剣や火に穢れがあると間違いが起りやすい。
 鎌形の長島一郎氏から借りた名刀を使った時、刀をふみかけてどうも気持ちが悪い電気にかかったような感じをうけた、後で長島氏にこのことを話すと、それはおそらくこの刀で野犬二頭を切ったことがあるが、それを清めてなかった為だろうと答えたという。
 又ある時、玉川の田中文治氏の〝村正〟借りたことがあったが、流石に抜けば血を見る村正だった。梯子の昇降中腕を刃の先にぶっつけて怪我をした人があったという。又ある火渡りの時、火を渡って内田虎吉氏の庭の東端に達した時、二歩ばかり熱さを感じた。あとで聞くと、そこは堆肥をかたづけたあとの汚れが残っていた為だという。
 西沢さんは、小川警察へ二度も呼びつけられ、この神事が人体に危険であり、且つ、人心を惑わすものとして、警告を受けた。又、玉川の巡査部長の臨検もあったが、部長はこの神事の崇高な空気にうたれ、却って感心して帰ったという。
これは世間一般常識の及ばぬ世界である。而して、それが現実に存するのである。

     『菅谷村報道』135号(1962年7月5日)