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GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

戦後五十年に思う(古里・吉場雅美) 1995年

2008年12月05日 | 戦争体験

 思えば昭和十九年(1944)同期兵百七十人の寄せ書を頂き各部隊にと別れ南国に又大行山脈の岩肌に多くの戦友は若い命を散らした。
 特に十九年濠北戦線に転進後は征空征海権の全く無い戦場に特に徒手空挙に等しい劣装備のまま優勢なる連合軍の真正面に投入され戦友の実に九十五パーセントを失ったのである。三大隊も「ビャック島」で玉砕して戦友飢えて密林を沈んだ戦友の思えば五十年忌に当る意義ある年である。
 昭和十九年三月南方派遣の命を受け青島に集結のち陸路朝鮮釜山港より私物に髪や爪等を同包手紙も家族に送った。三日間の揺揚作業で八隻の輸送船に物資満積し、我等第一大隊は任地西部ニューギニアに向け前進しました。
 四月二十六日真夜 バーシャル海峡にて楓部隊は雷撃にて撃沈さる。海面火と化し全滅した。
 五月六日 我々の乗船亜丁丸七、五〇〇トンはセレベス海に於て敵潜水艦の雷撃を受け二分間にて沈没す。同時但馬丸と天津丸にも命中共に火炎に包まれ瞬時にして沈没した。救助は七日朝まで績行され少人数や単独で漂流した者は発見し難く犠牲者となった痛ましい場面も見えた。難を免れた船は海難者の救助につとめた。
 五月九日 ハルマヘラ島「ワシレ」に入港して生気をたくわえた。再軍備してニューギニアに配置された。半年前に上陸した兵士は湿地帯に丸太を敷き歩道を造ってくれた。暗闇の中で揚陸開始となり密林を七〇〇米以上集積所まで必死で運び疲労も後まで績き思考力も気力も喪失し樹木の中で仮寝した。物資も下し過ぎ船にもどす有様。命により如何に作戦が混乱していたかが想像出来るが何を云っても命令は命令そのうち北岸作戦目指して進行とか其の後二大隊と三大隊共に応援支援と合流奮闘したが支隊と共に連合軍の猛攻を受けビアック島でも玉砕の報も入り、第一大隊は主力が北岸作戦に出撃したが後方からの補給も全く絶えた。次から次にと病人も蔓延し尊い命が失われました。本隊もジャングルの陽も見ない湿地帯で食と戦い兵士は脚気、マラリヤ、赤痢や皮膚病等にかかり一個中隊で四名も五名も病死し悲愴な姿。髪も殆どぬけて我が生死は刻一刻と運命の日を待つ有様であった。白水の墓標は日、一日と増え一寸角の箱に名記し親指のみ切断し焼いて納め他を埋葬しました。
 死の寸前には何か食べたいと云い残す者も多く見られ、我が同期兵も六十七人いたのが残るは唯、私一人となり若くして祖国のため全員が帰らぬ南方の土と化した。これらの戦友に対しても真の平和を祈るものである。
 実は本年二月二十六日の事、滑川町の松寿荘に於て戦友会の席に、姉妹会を四人で開き嵐山町の勝田の杉田松夫という者の様子を御存じの方は居ませんか、と急報あり折よく同町の私はこの旨を告げた。松夫さんとは救われた船内で数分話した時の様子を申すと四人の方は何時かは話の聞ける日もあろうと心境を語った。今晩皆様に話し合えたのも亡き兄の導きであろうと、五十年間も身から離さず持ち績けた入営当時の写真に向って咽び泣きながら報告した。兄思いの妹さんの清い心根に一同感動したのであった。松夫さんの死の様子は分かりませんが、北岸作戦の際サンサポールに於て本県熊谷市宮町出身の大隊長岩村宕郎二十六才の戦死の時敵の猛攻により多数の犠牲者が出た。その時ではないかと云う者がいた。この作戦では殆ど全滅した。本隊復帰された大隊副官の永田隊長以下二十八名のやせきった姿などを思う時、二度と戦争を起こしてはならないという願いを強くする。
 当時の暗黒な思いを決して風化せず過去を反省し、学校に社会に伝え、具体的な平和教育を通じ明るい未来が見える様努力する事を心よりお誓い致します。


     筆者は1922年生まれ。嵐山町報道委員会が募集した「戦後50周年記念戦争体験記」応募原稿。『嵐山町博物誌調査報告第4集』掲載。



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