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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

修養団菅谷支部が創立される 1958年3月

2009-12-31 05:17:00 | 1958年

   菅谷村支部創立さる
 三月二十三日午後一時三十分から埼玉県比企郡菅谷村の支部創立総会が催された。集まつた団員百十余名。来賓、比企崇神会々長利根川惣平先生、東松山市修養団支部野口仲治先生外数名、村長、村議、民生委員、農業委員、農協長、学校長、身障会長、副会長、青年団長さん方の参列を得て極めてなごやかに開催され、塚本智導氏座長に選ばれ、向上部、愛汗部、白ゆり部のグループ活動に始まり、今日支部創立を見るに至つた経過報告、次に規約審議、役員選任につき協議を進め、支部長馬場覚嗣(七一)、副支部長福島和一(二九)、金子ひさ(四五)、藤野きよ子(二〇)を選任し、次に向上部々長長島藤三郎(五八)、副部長強瀬喜平(五〇)、愛汗青年部々長船戸久行(二五)、副部長新井道正(二五)、白ゆり婦人部長関根天津(四五)、副部長安藤常子(三八)、白ゆり青年部長市川公子(二一)、副部長田幡こと(二一)、庶務強瀬喜平(五〇)、塚本智導(四三)、会計市川源三(五三)、青木金作(五〇)、久保静夫(二五)、市川水子(二一)、外幹事、班長等の選任があった。修養団本部より遠藤、森本両先生が出席された。(馬場覚嗣氏報)

     出典:1958年(昭和33)の修養団発行『向上』の記事と思われるが号数等不明。


母に導かれて仏門へ 修養団・塚本智導さん 1997年

2009-12-30 07:07:00 | 修養団

   幸せの種まきの仲間たち
     埼玉県連合会会長  塚本智導さん 1
          『向上』1024号 1997年(平成9)6月

   母に導かれて仏門の道へ
 昨年(1996)二月十一日に創立九十周年を迎えた財団法人修養団は、十一月十八日に秋篠宮、同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、文部大臣はじめ多くのご来賓、社会教育団体や青少年団体の代表、さらには日本全国の会員やブラジルからの会員など千五百人余の参加を得て、九十周年記念大会を開催した。
 参加者の三分の一を越える五百人余は、埼玉県連合会の会員であった。確かに、地の利という便もあったが、埼玉からこんなに多くの人が参加したということは、埼玉県連合会が活発な活動をしている証しでもある。が、なんといっても、先頭に立って人集めに協力してくれたのが、ここに登場する塚本智導さんである。
 塚本さんは、父親・佐助、母親・豊(とよ)夫妻の長男として、大正四年(1915)一月十二日、現在の岐阜県高山市に生まれた。幼名を定次(さだじ)といい、妹・文子との四人家族に育った。塚本家は、雑貨店を生業としていた。
 一般的にいって、こうした書き出しで始まると、すぐに本人のことについて書き始めなくてはならないのだけれど、塚本さんの場合、どうしても、お母さんのことについて触れないでは、前にすすめない。
 冒頭にも触れたように、塚本さんの母親の名は豊というが、その後、仏門に入り豊光(ほうこう)と改名した。
 父親・佐助さんは、大正十四年三月四日、四十二歳でこの世を去る。塚本さん十歳のときのことである。まだ小学校在学中のことでもあり、悲しかったという思い出はあるが、佐助さんのことについてはあまり記憶にない。やはりなんといっても、豊さんにまつわる思い出のほうが鮮烈であり、強い印象として残っている。
 後になって聞いたことだが豊さんが当時のことを振り返って、塚本さんに話している。
 「夢枕に一人の黒い服を着た僧侶が現れて、お前の寿命は三十四歳までだが、お前を生まれかえらせてやる。お前の体を借りて、世のため人のためになってもらいたいからだ」と。
 びっくりした豊さんは、近隣の人に呼びかけて集まってもらったら、夕方六時頃、白装束の豊さんが、バッタリとたおれ、約二時間ほど呼吸がとまっていたという。
 「私がたおれていたとき、美しいお花畑を歩いていると、白髪の方が手招きして『お前はまだこっちにきてはいけない。元の世界に帰りなさい。二十一人の人がお前を待っているから。そして、和歌山の高野山へいきなさい。なにかが掴めるはずだから』とおっしゃって、帰してくれたんだよ」と。
 豊さんは、二時間ほど呼吸が止まり、医者からも臨終の宣言がなされたが、息を吹き返したとき、豊さんを見守っていたのは、予言どおり二十一人の人だったと言う。
 あの世にいくことを拒絶された豊さんは、佐助さんの四十九日法要が終わると、高野山詣でのため行脚に旅立った。後に触れるのだが、塚本さんをお寺に預け妹の文子さんだけを連れて行った。
 またまた不思議な話だが、高野山へ行くように夢枕で指示された豊さんは、高野山に赴くが、どこへ行けばいいのかわからない。苦労に苦労を重ねたずね歩いているとき、ふと、あるお寺の前で足が止まり、足の赴くままにそのお寺の門をくぐると、その住職が、またまた不思議なことをおっしゃったという。
 「昨夜、私の枕元に仏さんがお立ちになり、こうおっしゃったんだよ。『いいか。明日、子どもを連れた女性が、お前をたずねてくる。その女性は私の名代だから、ていねいに応対しなさい』と。なるほど、あなただったのか。不思議に思いながらも、待っていたのだよ。よく来た。よく来た」と招いてくれた。
 こうして高野山に滞在した豊さんは、修業を重ねハッキリと霊感を得るようになる。いわゆる神憑りの道を歩むようになる。
 豊さんの自伝ではないので詳しい紹介はひかえるが、豊さんの風聞はアッというまに各地に広まり、多くの信者を得るようになる。北陸地方、東海地方の各寺院などに招かれて布教した。その効用は、
  一、足腰の起たなかった人が歩けるようになる
  一、豊さんが触れただけでイボがとれる
  一、内臓に苦しんでいた人が全快する
 などなど、枚挙にいとまがないほどであった。
 塚本さんに「お母さんにお世話になった。今日の私があるのはすべておかあさんのお陰である」などと具体的に話してくれる人も一人や二人ではなかったことからも信憑性は高い。そうして恩を感じた人達が、霊泉寺(愛染堂)というお寺へ迎えてくれた。現在でも境内に、昭和十三年(1938)建立された信者たちによる碑が立っている。お供え物などがあると、貧しい人々に施したりしたので多くの人から慕われていたと言う。そうした豊さんは、昭和三十二年(1987)八月十六日逝去する。
 一介の雑貨店のおかみさんが、神憑りの人になったのが、塚本さんを仏門の道へ歩ませることとなる。

閑話休題〕前にも触れたように、父親・佐助さんの四十九日法要を済ませ、母親・豊さんが妹・文子を連れて高野山に向かって旅立ったのと同時に、塚本さんはお寺(久唱寺)に小坊主として預けられる。まだ十歳のときのことである。
 いくら父親がなくなり、母親に命じられたとはいえ十歳の子どもにとってはつらい修行生活だったに違いない。早朝起床、床掃除などの朝の行事などは、腕白で気ままに育ったいたずら盛りの少年にとっては、耐えられぬ苦労だった。半年あまりで母の元へもどった。
 大正末期から昭和初期の古きよき時代に少年時代を過ごした塚本さんは、世間一般の少年がそうであったようにのびのびと育った。どちらかと言えば、大柄だった塚本さんはガキ大将であった。仲間のなかではいつも親分であり、慕われていたと言う。
 当時の高山には、自然がいっぱいあり、野山を走りまわったり、動植物と戯れたり、相撲をとったり、三角ベースの野球をしたり、運動会の騎馬戦ではいつも乗り手になったりして少年期をのびのびと送り、尋常小学校六年、高等小学校二年を過ごした。

     『向上』1024号 1997年(平成9)6月


小林慈海さんとの出会い 修養団・塚本智導さん 1997年

2009-12-30 07:02:00 | 修養団

   幸せの種まきの仲間たち
     埼玉県連合会会長  塚本智導さん 2
          『向上』1025号 1997年(平成9)7月

   母に導かれて仏門の道へ
 前回触れたように、神憑りになった豊さんの噂は広まり、その噂を聞きつけて、多くの人が高山にくるようになった。その中の一人が塚本さんの生涯の師となる小林慈海(じかい)さんである。
 可愛い子には旅をさせろ、の格言にもあるように、自分の手元におくのではなく、誰かに面倒を見てもらおう、と考えていた豊さんは、渡りに船のように、小林さんに塚本さんをゆだねた。十四歳の頃のことである。
 十歳の頃のお寺でのつらい修行生活とは異なり、分別もついていた塚本さんは、素直に豊さんの指示どおりに小林さんにしたがった。小林さんのお供をするということは、全国行脚をすることであり、汽車に乗れることもうれしいことだった。小林さんには、いつも二~三人のお供がついており、身の回りの面倒を見ていた。塚本さんは最年少のおつきだった。身の回りのことをするとはなっていたが、小林さんは何でも自分でする人であり、楽なものだった。
 小林さんのお供の時代に忘れられない事が二つある。
 小林さんは、多くの会社などから社員教育の一環として講演を頼まれていたが、姫路市の東洋紡績での講演中に最前列の椅子に座っていた塚本さんは、不覚にも居眠りをして、椅子から転げ落ちてしまった。無論、講演を聞いていた女工さんたちは大爆笑。
 しばらくたって、「この子は疲れているんですよ」と言葉をかけてくれた。その一言で女工さんたちは静かになり、講演は無事終了した。
 控え室に戻った塚本さんは、ひら謝りに謝ったが、小林さんは一言もそれには触れず、「疲れていたんでしょうね。今後はお互いに気をつけましょうね」とやさしく諭すだけだったと言う。
 もう一つは、明石の海岸沿いの旅館に宿泊したときのこと。前夜来の大雨も上がり、夜が明けて海を見た塚本さんは、大きな声で「先生、大雨で水があふれています」と言い、爆笑を買った。満潮時でもあったこともあり、海を生まれて初めて見た塚本さんの目にはそう見えたのだった。
 やさしい小林さんについていては、自分自身が成長しない、と判断した塚本さんは、十七歳になったのを機に、自分の進むべき道を真剣に考え、小林さんと相談し、お別れした。
 昭和七年(1932)、鳥取で別れた塚本さんは、豊さんの紹介で岐阜県の板取村(長水寺)に一人で向かった。
 今年(1997)の四月、最高裁判所で愛媛県の靖国神社への玉串料訴訟の違憲判決が出て、世間はかまびすしい。板取村では、遺族会にたいして補助金を出すなどして知られているが、当時は米もとれない寒村だった。現在では人口二千人程度の村であるが、当時はサトイモが主食、和尚さんも副業の養蚕に力を入れるような貧しい村だった。
 ちょうど食べ盛りだった塚本さんは、ご飯のお代わりもままならぬ生活で身体も数キロ痩せ、ついには体調を崩し、わずか八ヶ月でまた母の元へ舞い戻った。
 その年(1932)の九月に名古屋市の明忠院に移り、伊藤玄竜師の徒弟となり、本格的に僧侶として曹洞宗の得度を受け、僧名を智導と改名した。
 この寺にはたくさんの檀家があり、檀家の子どもたちのリーダーをおおせつかった。蓮沼門三初代主幹が少年時代に仲間たちと氷を売って資金を得たように、塚本さんも子どもたちと一緒になって、新聞紙を集めて袋を作り、それを売って子供会の資金を捻出した。
 この時代に人を集める楽しさを味わったことが、修養団の人集めにもつながるのである。
 昭和十一年(1936)には、名古屋市の曹洞宗・瑞泉寺専門僧堂に安居し、住職としての資格を取得した。
 昭和十三年(1938)五月軍隊に入隊し、中支(中国)に派遣された。戦場では隣にいた戦友が鉄砲に撃たれるのも目の当たりに体験し、自らも銃弾が右腕を貫通して負傷し、十四年(1939)四月には名古屋の陸軍病院に転送された。入院中にお花やお茶の師範の免許を取得したり、小林さんを病院に招き、講演会を催したりもした。
 金泉寺の住職になったのは、昭和十八年(1943)のことである。檀信徒強化に努め、小林さんを始め修養団の講師を招き講演会を開いたり、昔とったきねずかでお茶の会、生け花の会などを開催した。これが修養団の白ゆり会結成になる。さらには早起き会、託児所、早朝坐禅会、子ども一泊講習会などありとあらゆる催しを開催した。これが修養団の支部へと発展していく。支部の設立は昭和三十三年(1958)三月のことである。
 支部の設立が『向上』に掲載されたのをご覧になったのだろう。突然、故野口仲治さんが尋ねて来られ、埼玉県連合会設立へと話は進んでいく。野口さんは、当時の野本村支部(現在の東松山支部)を昭和二年(1927)三月に結成し、昭和五十二年(1977)に名誉団員となった、埼玉県連合会設立の恩人の一人である。
 塚本さんは野口さんと呼吸を合わせて、県連合会創立へと力を注ぐ。
 爾来、塚本さんは意気天を衝く勢いで、八和田、小川、熊谷、寄居、江南各支部、嵐山町連合会などを相次いで設立していく。利根川惣平さん、大塚喜太郎さんの跡を継いで、現在は埼玉県連合会会長の要職にある。
 八十二歳となった今でも自らバイクに乗り、本部から送られてくる『向上』『愛』を一軒一軒配って歩き、会員との会話を重ねることを最大の楽しみにしている。
 また、長男・智雄(修養団講師・ばんだいふれあいぴあ所長)の熱心さに口説かれ、裏山にキャンプ場を作り、そこで開催される少年少女キャンプを楽しみにしている。金泉寺というお寺なのか修養団の道場なのかわからない「場」を提供し、一家総出で修養団運動の伸展に尽力しているのである。
 昭和六十一年には名誉団員を贈呈され、嵐山町では民生委員、社会教育委員の要職を三十年以上も歴任し、まだまだ老け込む余裕がないほどの多忙の毎日をすごしている。
「埼玉県連合会といっても、県西部の市町村が加盟しているだけです。今後は、県東部の浦和や大宮などにも支部を結成し、文字どおりの県連にしていきたい」と、塚本さんはすこぶる意気軒昂である。

     『向上』1025号 1997年(平成9)7月


嵐山町の俳人達(明治・大正期)15 大蔵 根岸渡

2009-12-29 13:04:43 | 俳諧・俳句

大蔵
 俳号 大器 週月 五風 雪道 平正 平井 竹月 蚊風 観桎 清
    江月 進遊 寿月 石山

 大器 大沢国十郎 沢大器 漢学者
   貫だしたやうな季藤の朝雫
   灯篭や恋と無定のうら表
   鷹化して鳩やさりとは身の辷り

 週月
   春もまた寒き味なりとろゝ汁
   枕にも重たし旅の雪二日
   帯を解く艸木に霜の別れ哉
   砂埃り踠立て来たり夏の雨
   綻びぬ義の一言や桃の酒
   太平は君の武徳や御代の春
   心願を疂む日傘や神の前
   万石の垣口にさくや杜若
   竹描く筆のはしりや郭公

 五風
   雨風のうきとも厭はずむ注(夢中)の子
   鶴の舞ふ亀井の里や初日の出
   葷酒さへ許さぬ山や女郎花
   花なきは分入り次きに月の雲
   手を拱いていさ聞む霜の音
   誉らるるはづみにそれし手鞠哉

 雪道
   しむしむと咳近し霜の声
   春雨や皆根の生ず遊び連
   手造の草鞋も見へて冬籠
   蕣(アサガホ)や蔓ほどながきはな盛り

 平正
   花やかな衣裳揃ふや伊勢踊
   山越えて一と息つきし清水かな
   鴬の老ても声の若粳(オクテ)かな
   真黒に見えて降けり沖島
   かい(へ)さぬきいていなしされど今朝の雪
   屈(カガ)みたる処には居らずきりぎりす
   手に行を握る将基の助言哉
   雨凌(シノク)く工夫のかたき巣鳥かな
   何そ富羨まず此庵の月

 平井
   朝■に子も早起を習ひけり

 竹月
   胼の手に有(?)や不(?)咎(?)のゆつり状

 蚊風
   花に念入てなしか遅さくら

 観桎
   咲菊に時めかしけり賎の庭

 清
   懸乞の乗てもどるや口車

 江月
   入営の餞にさけり菊の花

 進遊
   存才に居る気はなくも暑かな

 寿月
   又一ツほめへらさるる瓢かな
   花足袋の咄しやこちて足して聞く

 石山
   寝こころや蛙啼く夜の雨催ひ
   誰の嘱に鳴海絞りの浴衣かな
   落葉や拾ひ日和の鼻の先
   頓(ヤガ)てすく田とおもわれず蓮花艸
   野仏の前や後や蓮花艸
   ちるかたへ出ず雪洞や夜の花
   葉さくらや子は持ちながら能い妹
   幾千とせ汲とも汲とも清水かな
   旅笠や同行四人五月雨(サミダ)るる


嵐山町の俳人達(明治・大正期)12 遠山 根岸渡

2009-12-26 12:56:00 | 俳諧・俳句

遠山
  俳号 其水 たぬき 三之 高橋

 其水 杉田啓次郎 杉の本
   踊り子や飛出しさうな蝶の髷
   二た筋の道に迷ひし花野かな
   親の咳苦にして懸る布団哉
   袴着や流石家から育から
   乗合を帰らして渡す角力かな
   藻の花や亀に引れて丘揚
   末永く結ぶ願や常陸帯
   一生は只短夜のゆめ間哉

 たぬき
   脚半とく無事をえりと時雨哉
   一かいの富は保たず散る桜

 三之
   持参金よりも頼もし壻の胼(タコ)

 高橋
   親の親あつて睦まし桃の宿


嵐山町の俳人達(明治・大正期)11 平沢 根岸渡

2009-12-25 12:53:00 | 俳諧・俳句

平沢
 俳号 鍜水 香山 至考 光盛 馴太郎 香天亭 近月 五汀
    青柳軒 藤の家 吾雀 青月 溪屋

 鍜水
   下戸の名を捨て戻るや花の山
   子に七分親は三分の日傘哉
   人手にはあとも掃けぬ桜木哉
   蒸(フカス)子の野(イナカビ)て居るや臼の米
   夜桜や生酔一人恋の罠

 香山
   春雨や糸に撃ぎし客の足
   梅程は筆の揃わぬ在所かな
   翌(?)日(?)ありと思ふ油断やそ(?)で(?)の雨

 至考
   鍋よりも口にふせたしふぐの友
   菊の香や古哲(フルキサトリ)を子の几(ツクエ)

 光盛
   月の海見渡す果のなかりけり
   男子生れて■誉と■ めし
   石山や月は昔のものながら
   用も無き人呼込や春の月
   梅咲くや柱暦の重ね張
   元日や雀も竹に千代の声
   鴬の声に疲れけり雪達麻
   欄木の影また凄し冬の月

 馴太郎
   立聞の罪つもりけり傘の雪
   親らしき摺(ヒダ)の匂ひや二かの月

 香天亭
   男気も物にこそよも鰒(フグ)に箸

 近月
   竹さらりさらり凉しき小窓哉
   呼べと子は空吹く風よ紙鳶(カミトンビ)

 青柳軒
   貫一ツ貞婦の帯を解せけり

 五汀
   寝にあがる二階も庵の月夜かな

 藤の家
   春風やかくし山葵に眼のしぐれ

 吾雀
   春風や醤油の匂ふ焼団子

 青月 日高市かも
   凉しさや川見おろしてよい坐敷
   此の沢の世はうつくしや花に人

 渓屋 【現・日高市の平沢かも?】
   朝が日に起読ふりや明からす


嵐山町の俳人達(明治・大正期)10 志賀 根岸渡

2009-12-24 12:50:00 | 俳諧・俳句

志賀
 俳号 琴賀 雲星 杢秀 秋声 竹老 竹走

 琴賀
   遠くから心通ふや夏木立
   年のくれ短かくなかひ気持かな
   残されて涼しや酒と月と我
   雪の竹見て堪忍を覚ひけり
   花の散る思ひや雪に掛る雨

 雲星
   貝拾ふ手先を吹や春の風
   しほ桶に翻(コボ)れ込みけり松の花

 杢秀
   夜綱引聲幽しおぼろ月

 秋声
   短夜の業に日長し蜘の糸

 竹老
   此の里の富貴草也草煙艸

 竹走 竹窓、高﨑秀三と同一人か
   魂棚に人の見ぬ袖濡しけり


嵐山町の俳人達(明治・大正期)7 杉山 根岸渡

2009-12-21 12:44:00 | 俳諧・俳句

杉山
 俳号 杉の宴 二川 一枝 学庵 梅月 卜足

 杉の宴
   野菊折る怨も手向のひとつかな

 二川
   出来晴や塗替させし簓獅子
   寒食や畄子ても無て物静か

 一枝
   汐くさき風呂敷洗ふ弥生哉

 学庵
   不二に眼の届けば寒き小春哉

 遂人
   また鐘か〆る氷の轄かな

 梅月
   春雨や子は双六の旅つかれ
   末枯や朱冠黒みし納露 →霪(オサメアメ)
   上手より下手に奥あり■(過)用力
   村雲は俄の莖か天の川
   短夜や鶏の預る壱念の勝負

 卜足
   夜に入ればよい風のある土用哉


嵐山町の俳人達(明治・大正期)6 広野 根岸渡

2009-12-20 12:41:00 | 俳諧・俳句

広野
 俳号 花砕(酔) 小はな

 花砕 花酔 栗原慶次郎 同一人と思われる。
   昼の蚊のかくれ処や蚊きり種

 小はな
   香にくもる夜空となりぬ梅の花
   誰かなと待夜をたたく水鶏哉
   待宵や松をこころの澪標
   執着の余りの夜も花蝶
   夕たちや恋に是疎き身繕ひ


嵐山町の俳人達(明治・大正期)5 勝田 根岸渡

2009-12-19 12:38:00 | 俳諧・俳句

勝田
 俳号 如昇 池水 飛代

 如昇 田中太蔵 夜秋庵 古雪庵
   寝おしむや翌日は桜に見せる髪
   鎗は錆ても名はさびす榾の主
   智は盗まるる患なし榾の主
   頓て豊に羽を伸す鶴か祝の子
   玉鉢の纏う笠簑や鳴千鳥  簑―蓑
   頓(やが)て咲く椛(もみぢ)の花や三日の月
   雪障(さはら)むや旅僧一人り馬の上
   月丸し花のまことを見るゆふべ
   掛乞の方でもいふや不仕合
   明る戸に鍵音高し庫開き
   傘張の借る明地や菫艸
   寝た鳥の羽を組直す夜寒哉
   鈴の音絶ぬ社や松に鳥
   思ひあふ中とは見えずうかれ猫
   何もなき空にかくるる雲雀哉
   喓々虫吏(つかさ)見心魂尽んとす
   火は虫に魚は猫に取られけり
   笹子鳴や梅は日向に片靨

 池水
   畄守せよと猫撫て出る凉(すゞみ)哉
   凩や何処から吹て何処の果
   あし火たく伏家も花の主哉

 飛代
   ほととぎす疂に酒を呑れけり


嵐山町の俳人達(明治・大正期)4 越畑 根岸渡

2009-12-18 12:35:00 | 俳諧・俳句

越畑
 俳号 花蝶 花弄 香光 玉晃 紅雲 山石 松花
    清流 一川

 一川
   人去て花も眠るか薄月夜
   聞は皆別な声なり花千鳥
   近よれば花になりけり山の雲
   走入たる鴨の背にさす夕日哉

 雨水
   つゝがなく夜は明にけり芥子の花
   丁度よい頃もころなり初さくら
   山吹や稲田へ落る水の音
   絵日傘や持草臥て横くるま

 清流
   木雫に消る火縄や閑古鳥
   涼しさやあさ観音に夕薬師

 松花
   花にさへ一重は清し筑摩鍋
   飛びついた蛙も青し燕子花

 花葉
   餅搗や一番鶏に二番臼
   師走ではないかと起す朝寝哉

 花弄
   突負て背の子をおろす手鞠哉
   雨あした日脚のからむ時雨哉

 山石
   よくよくの事かと聞けば雪見哉

 香光
   鬼を出す顔つきもせず傀儡師

 玉晃
   抱籠や柳も知らぬ風の肌

 紅雲
   莞爾と笑顔見せけり
   紅梅や気楽二人の住所

 嘉静
   旭の昇迄なり蓮の花見船