七郷小学校のさくらは校庭の土手にまとまって咲いていた。年数もかなりたっているのだろう。風が吹くと桜吹雪となって散って行くのが美しかった。
昭和四十四年(1969)にプールが出来て桜の木は校庭からは上の方しか見えなくなった。新校舎は四十九年(1974)に完成して七郷小学校は面目を一新した。さくらは歴史の移り変りをどのように眺めたことであらうか。
七郷小学校の校地が此処に決定されるまでには長い年月が必要だった。明治五年(1872)に学制が頒布された翌六年(1873)、杉山小学校が創立され、杉山の八宮神社の参道を上がる途中に校舎を建てた。十二年(1879)に杉山学校を分離し、吉田学校を設置して坂本幸三郎氏宅の前方に校舎を建てた。明治十九年(1886)には両校を合併して越畑に昇進学校を設立した。二十二年(1889)の町村制実施により七郷尋常小学校と改名された。
しかし二十七年(1894)になると再び分離して第一、第二七郷尋常小学校となってしまった。第一小学校は校舎を吉田に新築し、吉田、勝田、古里、越畑地区の児童を収容し、第二小学校は杉山の旧校舎に杉山、広野、太郎丸の児童を収容した。
この二つの学校が再び合併することになるまでには、位置の問題で十年余りの歳月が必要であった。
明治四十二年(1909)、第一、第二七郷尋常小学校を廃止して七郷尋常小学校を設置することが決まり、翌四十三年(1910)に現在の地に新校舎ができ上ったのである。しかし、これには通学道路をつくることが條件であった。村では甲乙丙の三線を考えた。甲線は古里から広野、太郎丸を経て菅谷にいたるもの、乙線は越畑を横断する十三間道路、丙線は勝田から広野へぬけ、広野から杉山を通り中爪へ至る線である。時の村長田幡宗順氏は、県から補助金をもらうべく浦和へ泊りこみで嘆願した。
その当時新校舎の運動場の周囲に桜を植えたというが今その桜はない。
子供たちは無心にボールをけって遊んでいた。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
縄ない作業
大正から昭和にかけての不景気に、1930年(昭和5)世界恐慌の大波が押し寄せ、米・繭価の暴落は農家のくらしに大打撃を与えました。1933年(昭和8)4月、七郷村は経済更生村の指定を受け、この危機を全村一体、自力更生で乗り切ろうと村民大会を開き、農家経済の基本調査を実施し、翌年3月経済更生計画を決定しました。
七郷小学校では、勤労作業を通じて児童の人間形成を目指すという「労作教育」の一環として、四年生以上の児童に、縄ないをさせました。1934年(昭和9)度には、一万一七六九房(ぼ)を作り、売上代金一三五円全額を「勤倹力行貯金」として産業組合に貯金しています。
練炭の製造
高等科男子は、作業実習として練炭を作りました。大塚禎助(ていすけ)先生の指導で、石炭や木炭を粉砕したものにふのりを加えてよく練り合わせ、型にいれて整形しています。
購買部の運営
小学校には産業組合が経営する購買部が設置されました。毎日始業前30分、お昼休みの45分間、鉛筆やノート、学用品などを販売します。1934年(昭和9)度の総売上金はおよそ六〇〇円、利益は九〇円です。写真で前から三番目に並んでいるおかっぱの女の子、内田アサさんの話から、販売係は、太郎丸の上級生鈴木宣民(よしたみ)さんと田幡一(はじめ)さん、並んでいるのは三年生で1938年(昭和13)の撮影だとわかりました。
勤労奉仕
1937年(昭和12)、日中戦争が拡大、長期化すると、神社参拝、慰問文の作成、出征兵士の留守家族宅や戦死者の遺族の家への勤労奉仕などが行われるようになりました。広野中郷の出征兵士永島進一さんの畑で、妻のカウさんを手伝って小学生が除草作業をしている写真です。右手は八宮神社の森、1746年(寛保3)広野村講中の庚申供養塔が小さく見えます。左手の建物は、内田房吉さんの母屋と物置です。