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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷村の歴史散歩 その2 大沢喜一 1966年

2009-05-09 22:35:00 | 大蔵

 当時大里郡岡部の住人で岡部ノ六弥太忠澄と称する武士がいたがこの岡部氏との所領争に加えて、義朝が京都にあって源氏の棟梁として重視されているのも、東国の武士団がその支配下にあるからであって、その地盤において、ともに源氏の正統を伝える弟の義賢の武名が日増しに高くなることは、義朝にとっては耐えられない苦痛であったろうと想像される。その心中は甚だ穏やかでなく、東国の棟梁の地位をめぐる内訌的なものではあるまいかと思われる。
 時に駒王丸二歳の嬰児であったが、義平は郎党の大里郡畠山の住人畠山重能に探し出して必ず殺すように命じたが情ある重能に助けられて、長井ノ庄(大里郡妻沼町)の住人斉藤別当実盛に託せられた。
 重能から駒王丸を託された実盛は、駒王丸の乳母の夫、信濃国(長野県)木曽ノ庄司中三権守中原兼遠に預けることにして、駒王丸を懐に抱きながらはるばる木曽に落ちていった。母は涙ながらに中原兼遠に幼児の保護を哀願したことであろうと思われる。
 実盛の母の頼みを聞いた兼遠は、源平盛衰記によると、此の子共は正しく源氏の正統で、今は親を討たれて心細い孤児の境遇にあるが兼遠は何としてでも養育して、天下の檜舞台へ晴ればれしく乗り出させましょうといったと伝えている。
 義仲は宮菊(菊姫)と称する妹がいたが、義賢討死の折、夫人の小枝御前は妹の満寿に、宮菊を養女として託したが詳らかない。
 義仲討死当時の宮菊は美濃国(岐阜県)に住していたらしく、吾妻鏡元暦二年(1185)二月三日の項に左馬守義仲朝臣に妹公あり……その女が美濃国から京都に出て来てとある。
 又五月一日の項に故伊予守義仲朝臣妹公宮菊と云。京都より参上。これ武衞招引せしめ給ふの故なりとあり、更に御台所ことに憐み給ふ……即ち美濃国遠山庄内の一村を賜ふ所也とある。
 頼朝より与えられた美濃国の一村の領地として、頼朝の家人小諸太郎光兼の世話で安穏な生活を送ったと思われる菊姫のその後の消息は残念ながら不明である。
 駒王丸は、その後成長して高祖義家の故事を襲ぎ、仁安元年(にんなん、にんあん)(1166)京都石清水(いわしみず)八幡宮において元服をなし、木曽二郎義仲と称した。
 時に義仲十三歳のときである。
 治承四年(1180)九月七日義仲二十七歳の秋、驕る平家を打ち世を平和にかえさんと北陸道より皇都に攻め上り、平家を西海に追いおとした当時の義仲の心中はいかばかりであったろうか。
 僅二歳にして父を討たれ日陰の身を木曽山中に育った義仲が、三十歳の若き源氏の武将として入京した寿永二年(1183)七月二十七日と後白河法皇から平家追討の院宣を賜った二十八日の両日は義仲の生涯にとって最良の日であり幸福な日ではなかったかと思われる。
 寿永二年八月十日平家討伐の論功行賞として従五位下左馬守兼越後守となり、六日後の十六日には伊予守に任ぜられ翌三年正月六日には、従四位下に昇進し、武門最高の栄誉たる征夷大将軍に任じられて、粟津ヶ原において、相模の三浦一族石田次郎為久に討ち取られる迄、旭将軍と称された薄倖の人木曽義仲は史上余りにも有名である。
 義仲の墓は、大津市馬場之町の義仲寺に存し、その背後には義仲をこよなく愛惜したといわれる俳聖松尾芭蕉の墓がある。元禄四年(1691)八月義仲寺を訪れた芭蕉は観月の宴を催した折、
   木曽殿と背中あはせの寒さかな*
と詠み、短命の英雄を愛して自分もこの英雄の瞑る義仲寺に葬られることを願ったといわれる。
 帯刀先生義賢の墓は鎌倉街道の東面、新藤義治の庭に存する五輪の塔がそれであり、大正十三年(1924)三月三十一日埼玉県指定の史蹟として保存されている。(昭和31年10月20日稿)   菅谷村文化財保護委員・日本歴史研究会理事
     『菅谷村報道』170号 1966年(昭和41)12月15日

*「木曽殿と背中あはせの寒さかな」は、伊勢の俳人島崎又玄の元禄五年(1692)の句。
参照:ブログ『現身日和(うつせみびより)』の記事「義仲と芭蕉が眠る義仲寺は静かに訪れる人を待つ <大津巡り18回>」。


菅谷村の歴史散歩 その1 大沢喜一 1966年

2009-05-08 22:29:00 | 大蔵

   まえがき
 本稿は私達郷土の偉大なる先人達が残した足跡を山野に尋ね、歴史的考古学的探求を主眼として、祖先が逞しく生き継いてきた、有形無形の文化財を調査して、更に次代の人々に伝えることは、私達共同の責任でなければならないと考え菅谷村の歴史散歩と題して諸賢の協力と御指導を仰ぎ逐次菅谷村の歴史と文化財について回を重ねていきたい所存であります。
 何分にも浅学の身分なれば誤りあるは必定と存じますので何卒御理解ある御叱正御鞭撻を賜わりますよう御願い申し上げます。

   大蔵の館
 武蔵国比企郡大蔵の館(たて)は別名大蔵堀(ほり)の館(やかた)とも称し、東国源氏の一拠点として重要なる位置を占め、勇武絶倫所謂関東武士の典型を発揮して上武相の地を縦にした。大蔵源氏の棟梁帯刀先生源義賢の居城址である。
 館址は槻川と都幾川が合流する所の台地上、御所ヶ谷戸の地に位置し、東面は太平記で名高い笛吹峠、正平三年(1348)武蔵合戦古戦場に通ずる鎌倉街道、往事の上野信濃越後本道に面する要衝(ようしょう)の地である。
 本館址については、新編武蔵風土記稿大蔵村の頁に昔帯刀先生義賢が武州大蔵の館と聞こえしは当所にてとあり。
 又古城蹟村の西方にあり方一町許、構の内に稲荷社あり……カラ堀及び塘(とう)の蹟残れり、此より西方に小名堀ノ内と伝あり、昔は此辺までも構の内にて帯刀先生義賢の館跡なりと伝えている。館址は東西170メートル、南北215メートルを算し、東西南の三面に土塁、湟の遺構が存している。
 土塁の高さ2.4メートル湟巾4メートルにして入口は東面するものと考えられる。本館址は土塁、湟の一部が破壊されるも、平安京末期における武家館の代表的な存在として、その資料性は高く評価されている。
 義賢は源氏の統領として東国に地盤を確立した。清和源氏鎮守府将軍陸奥守義家の家督、六条判官源為義の次男(母は六条大夫重役の女)として生まれている。
 早くより近衛天皇の東宮時代に仕えて、帯刀長となり帯刀先生義賢と称した帯刀は春宮坊の舎人監の役人で、先生はその長官を意味するもので、皇太子の侍従武官長である。
 保延六年(ほうえん)(1140)に至り源備(みなもとのそのう)と宮道惟則(みやじのこれのり)の争いに関係して帯刀長をやめさせられている。その後東国に下り上野国(群馬県)多胡(たこ)郡多胡の庄に館を構えて以来、上野国武蔵国における多くの武士達が義賢に従い、源氏勢力の中心となっていた。
 此の頃既に別館鎌形の館は構えられていたらしく、久安元年(きゅうあん)(1145)に至り、義賢の夫人藤原氏〔周防守(すおうのかみ)藤原宗季(むねすえ)の女(むすめ)〕と嫡子仲家が京より下りて、鎌形館に来住し、翌二年81146)には女子が産まれている。後の親鸞上人の母吉光御前である。
 仁平元年(にんぺい、にんぴょう)(1115)義賢は、武蔵国比企郡大蔵郷の豪族、大蔵九郎大夫経長(武蔵守村岡五郎良文の後裔にして野与党の頼意の弟経長が大蔵郷に住して、大蔵九郎大夫と称す)の娘を娶り、大蔵屋敷(経長の館)の南御所ヶ谷戸の地に館を構えて、上野国多胡の館と共に大蔵の館を根城として東国源氏の一拠点とした。義賢の居館は御所谷(やつ)と呼ばれ、大蔵様と尊称されていることからも、上武相の地における武士達の信望あつく、律儀で忠実温厚な武将であったろうと想像される。
 此の年に義賢の夫人と仲家及び女子は、鎌形の館より京に帰る。
 仲家は後に源三位頼政に保護されて、六条蔵人仲家と称されたが、木曽義仲の旗挙の先立つこと三カ月あまり前、治承四年(1180)五月二十五日の宇治戦いに敗れて、翌二十六日に嫡子蔵人太郎仲光と共に討死にしている。従って仲家、義仲の兄弟は、顔を合わせたこともなく、もっとも近い肉親の父や兄弟の顔も知らずに世を去らなければならなかったとは、思えば薄倖な義仲であり、仲家であったといえよう。
 大蔵館址の中には、稲荷社西方に日枝神社が存して、都幾川の対岸には源氏の氏神として崇敬を受けた鎌形神社がある。
 当社は延暦十二年(793)坂上田村麿が筑紫の宇佐宮を勧請(かんじょう)と伝える古社で、八幡太郎義家、木曽左馬守義仲、右大将頼朝、尼御台所等の信仰厚く神田地(みとしろ)の寄進ありと社伝にあれば住古は過分の大社なりしことが知られる。
 境内の御平洗(みたらし)の筧(かけい)は、久寿元年(1154)誕生の義賢の次男駒王丸、後の旭将軍木曽義仲産湯の清水と伝えている。
 大正十五年(1926)二月十九日埼玉県指定の史蹟となった義仲産湯の清水地につき、鎌形八幡宮縁起は、七ヶ所の水を把て産湯に進られしとてあたり近き此面彼面に木曽殿清水、君清水、天井清水、照井清水、塩沢清水此外二ヶ所の名水八幡の社地にありと。
 又新編武蔵風土記稿鎌形村の項に、清水南の方にあり竹藪に間より湧水する小流なり木曽殿清水と呼べり……又此辺を木曽殿屋敷と呼べり此辺統て六カ所の清水ありと。
 木曽殿屋敷とあるのは、鎌形館を意味するもので付近には木曽殿坂、海道馬場、馬洗、木曽園橋(木曽殿橋)などの地名が存している。社宝として伝える銅製の革蔓〔懸仏(かけぼとけ)〕は、弥陀の坐像を鋳出し、安元二丙申天(1176)八月元吉清水冠者源義高にある義高は義仲の嫡子で十一歳のとき質子(ちし)として鎌倉の頼朝の許え送られて、頼朝の長女大姫と結婚させるという形で人質になっていたが義仲討死の折に、頼朝が極秘のうちに義高殺害を命じたことを大姫より知らされた義高は、信濃国(長野県)から連れてきていた同年の海野小太郎幸氏を身代わりにして、鎌倉を脱出して大蔵へ向う途中入間川原において、頼朝の追手堀ノ藤治親家のために元暦元年(げんりゃく)(1184)四月二十六日に誅殺されている(埼玉県入間川に存する八幡宮は義高の霊廟である)。当時五、六歳位であったと思われる大姫は、許嫁としての義高をこよなく慕っていたのであろう。八幡宮の社伝に此時大姫君愁傷の余永く漿水を断て日夜紅涙に沈み、文治三年(1187)に義高の菩提を弔うべく比企郡の岩殿観音へ参詣し当社八幡宮へも社参ありとある。
 久寿二年(1155)八月十六日義賢は、鎌倉の甥、源太義平(義賢の兄義朝の嫡子)の襲撃により、河越二郎大夫重隆(畠山重忠の父、重能の叔父)と防戦するも利あらず遂に大蔵の館において若冠十五歳の義平に討取られているがその原因は詳でない。
     『菅谷村報道』169号 1966年(昭和41)9月15日


町の今昔 ケツあぶり 長島喜平 1968年

2009-03-21 12:27:00 | 大蔵

 ケツあぶりというと少々上品でない感じがするが、そうかといって、この地方では昔から捨てがたい行事となっている。
 六月一日または七月一日に、嵐山町では、大蔵、根岸、将軍沢と鎌形の植木山の地方に、なお本県では八高線に沿った西部山麓一帯で行われてきた。
 これは、当時庭先や家へ入るカイドなどで、小麦のバカを燃して、家族のものや隣のものと尻をあぶるのである。
 どうもこのことは、何のためにするのか、はっきりしないが、秩父方面で多く行われる虫送りや吉田町の小川百八灯、熊谷の高城神社の胎内くぐりなどに少しは共通するところがありそうである。
 それは尻をあぶることにより、体の中の病気を追いだし、これにより半年を無事にということであるし、また稲作に虫がつかないようにということでもあろう。
 また土地の人はこう言う
 田村将軍様が岩殿山で大蛇を退治するとき大雪が降り、丁度六月のことなので、小麦のバカを燃してあたたまり、それが行事となって今でも続いているのだという。
 このことについて、岩殿山の寺伝には、「坂上将軍東征の時、この観音の堂前に通夜し悪竜を射たをせしことあり。頃しも六月の始め金をとかす炎暑たちまち指を落すの寒気起り、積雪尺余に至りしかば、人々庭火を焼て雪中の寒気をさらし、いま近郷六月一日、家ごとに庭火を焼くは其の時の名残なりと伝々……」とある。
 私は子供のころ聞いたところでは、殆んどこの寺伝と同じである。
 平安のはじめ、桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、東国の蝦夷征伐に向わせた。時に延暦二〇年(801)のことである。将軍がこの土地に到着したとき、岩殿山の奥深いところに、一匹の大蛇が住み、土地の人々をなやましているということを聞きこれを退治して、村人を苦しみから救ってやろうと、九十九峰四十八谷といわれる岩殿山へ入ったが、大蛇の居どころは一向にわからない。そこで将軍は岩殿の千手観音にお参りし、是とも大蛇征伐に観音様にお力をお借りしたいと祈った。
 ところが翌朝(六月一日)夏山の岩殿がすかっり雪におおわれ六月であるのに、ひどい寒さとなったので、土地の人々は将軍と兵士たちに、小麦のバカを燃やしてあたらせたという。
 将軍は、これこそ観音様のお力と、お礼をのべに山に行くと、谷間に雪がとけて地肌の表れているところがあるので、怪しいと思って近ずいてみると、そこには大木を倒したような大蛇が横たわっていた。
 将軍は兵士と力を合せ、その大蛇を退治するとき、将軍の放った矢が大蛇にあたると、空は一天にわかにかき曇り、風を呼び嵐がおこって、立木はばたばた倒れたがまもなく嵐がやむと、すっかり晴渡り、先程の大蛇は、のたうって死んでいったという。
 その大蛇の首は、岩殿の観音堂の傍のなかずの池の島に埋めたという。
 寺伝では悪竜といい私は大蛇と聞いたが、いずれにしても同じことであろう。なおある人は大蛇は実は蛇ではなく、悪者共だと、つけ加えてくれたのは、なにか将軍の伝説イメージが、こわされたような気がする。
 更に雪は悪竜のしわざと寺伝はいい、私の伝え聞いたところでは観音様のお力であるという。
 いずれにしても伝説は、その土地に住む人々の生活の中から生まれてきたものであるから、つくりかえないで、そっと次へ伝えてゆきたいものだ。  (筆者寄居高校定時制主事)
     『嵐山町報道』186号 1968年(昭和43)7月30日


将軍沢の村有林管理を大蔵・根岸・将軍沢に委託 1953年

2009-02-13 00:29:18 | 大蔵

   村有林管理を大根将へ
     採草、雑木の刈取等を条件
 村有林、主要樹木の育成を目的として、此の程村【菅谷村。現嵐山町】では、この管理を大根将(おおねしょう)の全区民に委託し、十年間の契約期間を定めて、採草、落葉の利用、雑木の刈取等の利用権を認めて契約を結んだ。
 この村有林は将軍沢字南鶴の山林二町六反九畝と、将軍沢字仲町の山林三町四反九畝の二つで、南鶴の山林は大蔵区長大沢久三氏が代表で区民三七名、仲町の山林は将軍沢区長鯨井軍次氏、根岸区長小沢武夫氏が代表で将軍沢三九名、根岸五名の区民が利用することになっている。契約事項は概略次の通りである。
  1 採草、落葉の利用
  2 雑木の刈取(松、杉、檜以外) 鉄塔下の雑木林は、雑木林として育成管理する。
  3 松林については(天然生のものを含む)、松樹の成長に伴い林相を害せざる程度で稚樹の整理を認める
  4 樹齢が経過し間伐の必要ある場合は村長と協議の上処理すること
  5 その他管理上必要ある場合は村長と協議のこと。
 尚利用者は責任を以って良心的に管理をなすことを条件として利用料を徴せず。契約条項に違反した場合は解約することとなっている。
     『菅谷村報道』30号 1953年(昭和28)2月25日


長島喜平『源義賢・義仲郷土史に関する研究』刊行 1941年

2008-12-28 12:20:09 | 大蔵

  発刊に際して
 本小冊子を発刊するにあたり、【埼玉】師範学校の村本・高崎両先生をはじめ、本校の郷土班員、又多くの人々のご協力に対して深甚なる敬意を表する次第であります。
 印刷につきましては、自分で本年六月頃着手しましたが多忙のため中止し、十月に入って謄写の印刷所へ依頼して発刊することとし、それにつきましても又有志の方々には心よく御賛助して下され、草案としてのまゝ印刷して御分ちする次第であ[り]ます。
 印刷には経費の関係上相当思切って原稿を捨て殆んど半分位にしました。出来上ったものを見ると、そのため意味の不関連な所も見受けられて、御分ちするには堪へられぬ程になりましたが、これ以上如何とも出来ません。
 又写真は皆手形にしようと思ひましたが経費の関係上御赦し下さいませ。
  昭和十六年十一月二十日夜
     (第七回県下連合演習後三日)
                      寄宿舎にて
                          長島喜平

Img_7907   研究草案目次
 一、緒論
 二、武蔵武士と源氏の東方勢力
 三、源義賢の概説の研究
 四、大蔵の戦の史蹟をめぐっての研究論文
  1.大蔵の館跡の現場
  2.大蔵の戦史
  3.木曽引畧記
  4.大蔵館跡と源義賢墓の二論説
 五、班渓寺開基山吹姫
 六、木曽義仲の概説
 七、木曽義仲についての生立の論説
 八、土地の名前
 九、巴御前義仲の子孫及び関係名

  奥付
  昭和十六年十一月三日印刷着手
  昭和十六年十一月二十一日修了   (非売品)
  昭和十六年十一月二十三日製本
               研究者  長島喜平
                      (埼玉県比企郡菅谷村鎌形六五三)
               賛助者  村本達郎教諭
                    柳沢栄吉
                      外郷土班員
    特別賛助者(順序不同 敬称略)
      齋藤熊谷市長 新藤延平 平村日吉神社社掌
      班渓寺伊藤禅師 故根岸【山岸徳太郎?】郵便局長
      世田谷永安寺(東京)           外十数名

 埼玉県郷土文化会会長、嵐山町博物誌編さん委員長をつとめた長島喜平氏の郷土史研究最初の著作。埼玉師範学校在学中のガリ版刷りの冊子。「曽て関東に於ける源氏の興亡について、研究を企てたのは昭和十二年(1937)七月頃のこと。その一部なる源(木曽)義仲についての研究は既に諸紙に発表し又その父義賢について発表したが、それ等が連絡もなく、又不徹底であったので、此の度出来るだけ、補正して、関東に於ける源氏の一端なる義賢、義仲を中心として不束な論説をかゝげやう。」と緒論にある。半世紀後の1991年(平成3)12月、『朝日将軍木曽義仲―史実と小説の間』(国書刊行会)が出版されている。

   文化ともしび賞の人々〈24〉長島喜平さん
  伝統文化の保存に貢献
    真実求め科学的に研究
 県文化団体連合会郷土文化部長、武蔵野郷土史研究会会長、嵐山町文化財保護委員長、歴史研究会埼玉県支部長など肩書は十指に余る。長い間、郷土の歴史などを研究、伝統文化保存に貢献してきた証(あかし)だ。
 子供のころより歴史に興味を持った。。旧制松山中学時代は、畠山重忠、木曽義仲などの武蔵武士を研究。当時、表彰規定がなかったにもかかわらず「貴重な研究」と当時の【山本洋一】校長から特別表彰も。埼玉師範を卒業して教壇に。小・中学校の教員を経て、昭和二十二年(1947)、第一回県外派遣生として東大で一年学ぶ。その後、高校へ。もちろん専門は歴史。そのころ、「埼玉古代史概説という論文を埼玉新聞に上中下で掲載したこともある」という。
 四十八年(1973)には、「修験文書集」をまとめ、翌年、県文化団体連合会より表彰されて高い評価を得た。数年前は、三体揃った円空仏(役行者像、前鬼像、後鬼像)を発見、話題に。これまでを振り返り、「歴史は真実を求めて科学的に研究することが必要。『…だろう』と歴史を作ってはいけない」と語る。昨年、中国へ行ってきた。「歴史も含めてスケールの大きさにビックリしてきた」という。[略]
     『埼玉新聞』1985年(昭和60)3月17日


里やまのくらし 9 町内

2008-07-07 13:42:00 | 大蔵

  夜 番

 2005年11月8日、不審火による住宅火災が発生し、志賀2区では住民による防犯パトロールが毎晩行われるようになりました。今回は1950年代後半(昭和30年代前半)の火の用心の話です。

 師走になると21支部(杉山の猿ヶ谷戸・川袋)では、全戸が順番に毎晩二軒一組で夜番(よばん)をしました。あかりは持たず、寒いのでどてらに襟巻、頭巾やほおかぶりをして歩きます。雨の日は休みです。不審な明かりやたき火の始末を確かめながら家ごとに庭まで入り、拍子木をカチカチとならし、「ごようじんない」(ご用心なさい)と声をかけ、「ご苦労さん」と返事が返ってくるのを待ちました。夜半に二度回るので、どちらか一人の家が宿(やど)になって次の巡回まで暖を取ります。冷え込みの厳しいときは、甘酒、おっきりっこみ(煮込みうどん)、小豆がゆなど夜食をとりました。当番の家の都合で女性や子どもがでることもありました。

 杉山・猿ヶ谷戸の夜番は薬研堀の細い山道を通ります。二人並んでは歩けません。前になっても真っ暗、後になっても真っ暗で、ガサガサと音がしてこわくてイヤだったそうです。川袋の夜番は、山道ではなく、耕地の側の道を通りました。

 大蔵の消防小屋に夜警交番表がありました。1971年(昭和46)のもので、21組までの当番と巡視路略図が書かれています。大蔵では四軒一組で12月~3月にかけて毎晩、夜警をしています。当番の四人が二人ずつ組み、宿に当たった人の組から先に、頭に鉄の輪のついたかなんぼう(鉄棒)をジャランジャランとならして通りを回りました。杉山のような庭先での声かけはしません。後の組は帰りがけに翌日の当番の家にかなんぼうを置いて帰りました。

 現在、大蔵にはボランティアの大蔵自治消防団(2005年度の団員は男子15名、女子6名、計21名で3班編成)があり、2005年度(2004年11月1日~2005年10月31日)は歳末の28日~30日に夜警巡回を実施しています。

  火防巡視

 消防団の役員が昼間各家庭を訪問し、家屋内の火の元点検をするのが火防巡視です。かまどやいろりの廻りがきれいに掃除されているか、風呂場の火口のまわりはどうか、周囲に可燃物が置かれていないか、煙突にすすはたまってないか、取り灰はきちっと処理されているかなどチェックします。点検が終ると火災予防の標語の印刷されたステッカーに優・良・可のランクを書いて手渡しました。

 1955年(昭和30)、大蔵の冨岡寅吉さんは菅谷村消防団第8分団(大蔵・根岸・将軍沢)の役員でした。「火の用心は誰のため」が当時の日記に書かれていました。2月22日に菅谷で実施した合同火防巡視の感想です。この日は役員三名で、翌年は婦人会役員と回っています。

 火防巡視を実施して気の付いた点を上げて見ます。未だ掃除していない家ではたいてい言い訳をします。「未だご飯をすませたばかりで片づかない」とか「子供がうるさくて」等々。いつもの火防巡視でも言訳は付きものですが、自分の為の火の用心ですから他人に言訳することはないと思います。台所でたき火をして小さい子供さんと暖まって居ましたが、子供が一人の時まねしますと間違いの原因となりがちです。消火弾の設備のある家で小母さんに使用方法を問うたら主人が知っていますと答えたが、誰にも使用できる様にお願いしたい。設備を良くするには金をかければ出来ますがたとへ簡単なかまどでも注意を怠らなければ、立派な火の用心が出来ます。設備に頼るより自分を信頼してお互いに気をつけませう。(消火弾:ガラスの球に消火液の入った手なげ弾)

 1950年代の農家はまだわらぶき屋根も多く、土間にはへっつい(かまど)やいろりがあり、そこから火の粉が飛ぶこともありました。消したはずのたき火や風呂の残り火、取り灰が風にあおられて燃えだしたり、養蚕の暖房の不始末、子どもの火遊びから火事になることも多かったのです。

 農家の土間の様子は、『埼玉の民俗写真集』で見ることができます。

     (嵐山町広報2006年1月号掲載分を増補)


里やまのくらし 7 将軍沢

2008-06-12 21:16:33 | 大蔵

 「昔の人の言っていることに、うそはない。人生経験から言葉は生まれてきている。」と語る将軍沢の鯨井正作さん(大正15年生まれ)と上唐子(かみからこ)から嫁いできた妻ヨシ子さん(昭和3年生まれ)のお話しです。

●写真:花嫁写真

 恋愛結婚
 年ごろの男女が知り合うきっかけの一つに夜遊びがありました。一日の仕事を終え、夕食後に自転車や歩きで、気のあった仲間と青年団の素人演芸会や映画会、若い娘のいる家に出かけました。正作さんも新井ヨシ子さんを夜遊びで見初め、四年後、正式に仲人を立て結婚を申し込みましたが、小姑が多く、職人の家では苦労すると母親が大反対。嫁方、婿方双方から仲人を立てることで母親も折れ、1949年(昭和24)1月結婚しました。恋愛から結婚に至るには、親の承諾が不可欠な時代でした。
 当時、将軍沢には役牛(えきぎゅう)はいましたが乳牛は飼われていませんでした。血統書付きのホルスタイン種の乳牛を結婚を機会に購入しました。値段は5万円。結納金と同額のため、今でも角のない牛(農家の嫁)と同じだったんだよねとヨシ子さんに言われています。この牛は一日二斗も乳が出ました。

●写真:牛

 縁切り橋
 大蔵の南、将軍沢に接するあたりの不逢ガ原(あわずがはら)に発する流れを入加(にゅうか)堀といいます。その流れにかけられた橋は坂上田村麻呂将軍の伝説から「縁切り橋」と呼ばれ、結婚式のご祝儀の時にはそこを通らぬようにしてきました。
 鯨井さんは御祝儀の当日、婿方一行と花嫁を迎えに唐子に出かけ、花嫁宅で祝言を挙げます。その後、花嫁一行と迎えの人たちは花嫁行列で歩いて将軍沢に向かいます。月田橋を渡って大蔵に入り縁切り橋に近づくと、橋を避けて手前のみたらしから西に回って原(はら)(現・嵐山カントリーゴルフ場6番ホールのそば)を通り、将軍沢に出て花婿宅に到着、そこでも祝言を挙げました。嫁方・婿方の双方で祝言をあげる御祝儀の形は、将軍沢では1965年(昭和40)3月の秋山勝・行枝さんの御祝儀が最後でした。昭和30年代からは、嫁方と婿方が一か所に集まり式場などで挙式するように様変わりしたのです。
 縁切り橋には縁切りしたい女性の櫛が捨てられており、子供のころ拾ってくると「櫛は縁を切ると言って駄目だ」と、おばあさんに注意されたと富岡ツネさん(大正12年生まれ)が話してくれました。

●写真:日吉神社(1970年10月撮影)

 生活の違い
 将軍沢は「ポーポー谷(やつ)」と呼ばれた寂しい場所でした。「昔のくらしは今じゃできないなぁー」とヨシ子さんは言います。唐子の実家には自家水道があり、米搗(つ)きは発動機のある精米所でしましたが、将軍沢では足踏みの地唐臼(じがら)でするのでたまげました。竈(かまど)の仕事は嫁の仕事と言われ、ご飯は朝・昼の分を一度に3升も炊きました。麦の多く入ったものでした。
 足半(あしなか)草履は草刈りに初めて履きました。見たことがなかったのです。乳搾(ちちしぼ)りは一日4回するので遠くの畑に仕事に行っても、昼には家に戻ります。落ち葉の季節には道脇にたまった落ち葉をぎっしり詰めた印篭籠(えんりょかご)を背負って、40分位かかりました。嫁は働くだけで直接お金を手にすることができなかったため、実家にお客に行った時にもらったものを「チクチク」貯めました。月々の積み立てができ、旅行に出かけられるようになったのは後々のことでした。

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里やまのくらし 6 小倉

2008-06-10 07:09:53 | 大蔵

 小学校の同窓会で、一年生の担任だった先生から「あなたはおしゃまだったから忘れないよと言われたの」と、夫の知助(ともすけ)さんに昔を懐かしく語る玉川村小倉(おぐら)で昭和4年に生まれた大蔵の大沢こう(旧姓杉田)さんのお話しです。

  子供のころの嵐山
 子供のころ、嵐山(あらしやま)には水車の堰(せき)があってボートが浮かべられ、船遊びもできました。観光客が小学生の遠足のようにぞろぞろと行列して来ていました。地元で東京もんと呼んでいた人たちが細原の原っぱで、キャンプファイヤーをしているのを川を渡って見に行きました。男の人や女の人がキラキラしたレイを首にかけて、踊ったり歌ったりしています。それを家や学校で真似て遊びました。観光客の帰った後にはきれいな包みが捨てられていて、何だろうと開いてみると、箱詰めののり巻きやおいなりさんでした。食べきれずに捨てていったのでしょう。男の子は森永や明治のミルクキャラメルの箱を足で踏んで中身を確かめていました。大平山の麓にあった松月楼のバンガローには、蚊取り線香の燃えさしがあり、珍しくてそぉーと、匂いをかいだりしたこともありました。初めて撮ってもらった写真は、右端で足のすねがでている着物丈のおかっぱ姿です。

●写真

  娘時代
 家族の着物を縫い、洗い張りをして縫い直し、繕(つくろ)って使い回しをするのは当たり前でした。娘たちは嫁入り修業に裁縫を習いました。和裁は、冬の間幾年か下里の島田ケイ子さん宅に歩いて通いました。月謝は気持ちだけでした。洋裁は自転車で、小川町の写真屋秩父堂へ二年間通いました。島崎愛先生はクリスチャンで、賛美歌を皆で歌って授業を始めました。
 松月楼のまわりには畑がありました。槻川の傍なので、細かい砂と土の混じった砂味(すなみ)の畑です。丁寧に鍬(くわ)でうなう父に負けまいと一生懸命に土を起こしていると、「おこうがやると仕事が速い」と母は褒めてくれました。でも、その頃は土を細かくすることまで気が回りませんでした。
 戦争が長期化し、男の人たちは兵隊にとられ、軍需工場にいきました。男手が足りないのだから女も馬や牛を使えなくてはと馬耕講習会が始まりました。出征前の兄が馬の口を取り、鋤(すき)を使って畑を耕す練習を家でもさせられました。

 婚礼・里帰り
 1950年(昭和25)に見合いをし、翌年結婚しました。結納金は二万円で足踏みミシンを買ったら残りはありません。小倉から大蔵まで花嫁行列で歩いてきました。トボーグチ(玄関)を入るとき、「上を見ないで下を見て暮らせ」と農作業にかぶる菅笠(すげがさ)をさしかけられ、「子供ができるように」と杵(きね)をまたがせられました。
 実家に帰れるのは1月15日の小正月、節句、9月1日生姜(しょうが)節句、オクンチ秋祭り、農休みくらいでした。自分から「行ってもいいですか」などと言い出せません。「お客に行く」と言って着物・羽織姿の盛装で出かけました。親は「早く寝かせてやろう、沢山食べさせてやろう」と気づかってくれましたが、一晩か二晩泊まれるだけでした。戻る日に帰りが遅くなると、それだけで親たちに気を遣いました。自由によそに出かけることなど出来ない時代でした。

●写真 崖上は1931年(昭和6)、庄田友彦氏が開いた料亭松月楼。与謝野晶子は、1939年(昭和14)6月この地を訪れて二十九首を詠む。

    おぼつかな二つの岩を繋ぎたる
               湯桁の幅の夏山の橋

          (嵐山町『広報』2005年10月掲載より作成)