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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

武蔵酪農の歴史 13 『武蔵酪農40年の歩み』より 1990年

2010-01-14 22:43:51 | 1956年

○昭和31年(1956)度
 高坂地区で攻防戦を展開している最中、七郷村に於ては埼玉酪農七郷支部の出荷者の中に於て、武蔵酪農加入の機運は高まり明治乳業伊東所長現地に出向し、内容説明すると共に、菅谷支部の若手リーダーの山田巌氏、奥平武治氏、鯨井正作氏、支部長の中島源造氏等地区内に潜行し加入説得に当たる。七郷地区に於ては、これ又若手の明治派田畑郷治氏、杉田善作氏、中村昇氏等が決起し、武蔵酪農加入推進に邁進し、時の元老達を困らせ乍らも40数名全員一体となって武蔵酪農の加入に漕ぎ着けた。
 6月4日の理事会に於て奥平武二氏理事より経過と全員加入の説明がなされた。この厳しい争奪攻防戦も昼夜に亘り熾烈を極め、菅谷第2支部が発足した。
 その後数名の巻き返し離脱者が生じた。
 昭和31年4月 理事 高橋永治 退任

   武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)21頁


小集団地開発事業で石代堰からコンクリート用水路が出来る 1956年

2009-06-03 00:02:49 | 1956年

 1956年(昭和31)5月25日、菅谷村第4回臨時議会で高崎達蔵村長は、「菅谷村が小集団地開発事業計画の指定をされ、二〇〇万円の費用の内三割が国から補助されることになった」と報告した(『嵐山町議会史』14頁)。この小集団地開発事業については、『菅谷村報道』71号(1956年6月20日発行)に、「小集団地開発事業計画の中に比企地区では本村【菅谷村】が指定され大蔵が百十万、越畑が四十万、太郎丸が五十万、計二百万で三割が国から補助され、残り百四十万は地元負担であるが、その八割に長期融資がなされる」と村長報告が掲載されている。

   石代水路工事進む
 十一月十二日に起工した石代水路改修工事は、長谷場組、伊田組の両者によって工事を進めているが、すでに上流部はコンクリート水路が完成、予定通り三月中旬までには完了する見込みである。
     『菅谷村報道』76号 1956年(昭和31)12月25日

 都幾川の八幡橋上流の石代堰(こくだいせき)から鎌形、大蔵地区の水田への1000mのコンクリート水路は、『嵐山町議会史』の議員経験者の「一言集」で金井倉次郎氏が1982年(昭和57)の嵐山町南部土地改良区の設立まで「両地区に与えた恩恵は多大」と評価している潅漑用水路であった。