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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 14 熊谷泰作 1957年

2010-02-27 07:32:00 | 熊谷泰作

 門を下りて橋上にたち、眼前に本丸をみ眼下に清水流れるを聞き流水を眺むれば、十年間の時の流れそれがいまありありと私の前後に顕はれてくる。
 出郷の時門出に祝って喜び励ましてくれた人々の顔「真の人間たれ」と励ましてくれた人、桃の下でかたく交を結んだ友、一個の人間から社会意識の眼をさませてくれた師、人間の深さを教えてくれた古今の師、「学校生活は学校生活なるが故に尊い」と云って学校生活を再び認識させてくれた友、私の真意に共鳴して涙して喜こんでくれた友、「流水先不競」(りゅうすいさきをきそわず)と私のあせりを静めてくれた人「学未だ成らざる」私をなつかしく温ためてくれた友、若き身を真理の追求にささげて余念のない人、又海、山、花、石、竹、川、水、雲、樹々、すでに私を去っていったが去ったものは形のみでその心霊は遂に私を去らず永久に去ることは出来ないだろう。永劫(えいごう)に忘れる事は出来ないだろう。父母兄弟を忘れる事が出来ないように。
 そして再び十年の昔「男児志をたてて郷関を出ず」*の感を新たにする。感慨は果てしなく続く。橋上を去って帰路につく。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:幕末の勤皇家、月性(げっしょう 1817-1858)の作。
   将東遊題壁
  男児立志出郷関 
  学若無成不復還 
  埋骨何期墳墓地 
  人間到処有青山 

   将(まさ)に東遊せんとして壁に題す
  男児志を立てて郷関を出づ
  学もし成らずんばまた還らず
  骨を埋むるに何ぞ期せん墳墓の地
  人間(じんかん)到るところ青山(せいざん)あり


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 13 熊谷泰作 1957年

2010-02-25 07:30:00 | 熊谷泰作

 歩を移して本丸中央に入れば檜林に囲まれる中央一角に高い姿を秩父連山にみ、清き流れを都幾川にみ、英雄重忠居館の地にふさわしい檜の標柱に見事な筆蹟にて描かれる。大文字をみる。よみ上げると我が人生にいいしれぬ力を感じてくる。曰く「雲山蒼々緑水注々先賢之風山高水長」と幼き日より血湧く思いで感迫って言い現わせなかった。私のみづみづしい体験の表現であり、血であり肉であり天声であり遂に人語として十六の文字によって表現されたのだという感じが私の胸に迫ってくる。この表現こそいや高き日本アルプス連峰の動かぬ姿を仰ぎいや遠き信濃川上流に四季に照りそう月、四時に匂う花を眺めて幼時を過した私には、一日一日ときざみこまれた人生の鉄則のような感じがする。「人は利剣を振へどもげにかぞふればかぎりあり 舌は時世をののしるも聲はたちまち滅ぶめり」【島崎藤村『若菜集』所収「秋風の歌」】と歌われているが山河秀ぐれた国に生まれたスイスの人々が想われる。昔治乱興亡は数多くあったであろうが、今海国山国を兼ねた日本も学ぶべき点があるのではなからうか。憲法により戦を放棄した日本平和の鐘はいつなるのか。
 本丸を埋門(うずみもん)より出て前方を見れば、重忠時代の持仏堂跡と思われる長慶寺跡の老松の林を深濠を隔てて仰ぐ。
「風楼いつか跡もなく 花もにほひも夕月も うつゝは脆(もろ)き春の世や」「「自然」のたくみ替らねど わづらひ世々に絶えずして 理想の夢の消ゆるまは たえずも響けとこしへに 地籟(ちらい)天籟(てんらい)身に兼ぬる ゆふ入相の鐘の声。」【土井晩翠『天地有情』所収「暮鐘」】と歌う無行無情の現世の生活において、重忠もよく真の武将として神仏を崇敬し、神社の興隆をはかり、寺を創建し、高僧の徳を慕い法を談じ出離の要道を聞いた。血醒(ちなまぐさ)き戦場に出で死生の境に出入し目の辺り人間の死の厳粛の気と人生の無常を観じた重忠は、俗界の煩悩を絶ち真底の平和を得ようとその鐘をならせた。その持仏寺の跡である。一日も早くこの宿命を打開しようとする信仰心にもえる重忠は真個として己に生き天をうらまず二俣川の露と消えていったのである。
 長慶寺今はなくその鐘楼も今はないけれどその重忠の至誠は強く後人の心に生きて行くことを確信する。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 12 熊谷泰作 1957年

2010-02-23 07:27:00 | 熊谷泰作

 眼をうつせば東方彼方に笛吹峠を望む。
 源家に代った天下の執権北条氏も元寇の国難打開を花に衰微の道をたどり遂に元弘三年(1333)上野新田郡生品(いくしな)社頭に兵を挙げ長駆鎌倉街道を武蔵に入り笛吹峠を越えて疾風迅雷の勢をもって鎌倉幕府本営を衝いた新田義貞軍の為に滅亡の運命となった。この戦陣に義貞の四天王と称せられた篠塚伊賀守及び六郎時能は重忠六代の孫といはれている。その義貞も建武の中興足利氏の為に敗れたのち、越前の藤島に討死、正平七年(1352)その子義興、義宗信濃より宗良親生をむかえて父の仇を討とうと再び鎌倉街道を南下してこの笛吹峠を通過した。義興、義宗よく戦い尊氏敗れて石浜に退陣、義興は鎌倉に入り義宗は小手指原に座した。尊氏は石浜におって勢力を回復し、八万余騎をもって高麗原小手指原、入間川原等に義宗軍と戦い笛吹峠に追った。義宗二万余騎をもって笛吹峠に在陣堅く之を守って居た。時に宗良親王武蔵在陣中の歌二首を載せ兵士を統帥(とうすい)した。即ちその一には
 「武蔵国へうち越えてこてさし原と云う所においいて手分けなどし侍りし時いさみあるべき由つはものどもに召し仰せ侍りし、次でに思いつゞけ侍りし君の為世の為なにかおしからん捨ててかいある命なりせば」
とあり。颯爽(さっそう)たる英姿が官方の軍の意気を振起させた事と思われる。宮が月明の夜月に誘はれて陣営の夜々の無聊(むりょう、ぶりょう)を一管の横笛に慰さめられた。その笛はそのまま一箇の人間であり、宇宙万象であり、干(かん)、五(ご)、上(じょう)、ク(さく)、六(ろく)、下(げ)、口(く)の七つの孔は、人間の五情の言葉と両性の呼吸(いき)【吉川英治『宮本武蔵』第1巻】と言い得た事だろう。
 そして万古未了の因を伝へた笛の音は、笛吹峠の名と共に眼をうつしている私の心にも響いて来るような気がする。宮方はこの戦に敗れ越後に走った。このようにして南朝の柱石は相次いでたおれるところとなり世は足利氏の時代となり中央室町の粋をつくしたが幕府の地方政策の根拠である関東管領の反目を機に、諸国守護大名は割居し、下克上時代が現出した。「邦は亡びて邦に嗣ぎ人は亡びて人を追い」
 私がたつ菅谷城跡本丸諸辺の山河も幾変還を見たのである。「夏草やつはものどもが夢のあと」「嗚呼跡ふりぬ人去りぬ歳は流れぬ千載の昔に返り何の地かかれ蓁皇の覇図を見む、残塁破壁声も無し恨みも暗し夕まぐれ春朦朧のたゞなかに俯仰の遊子身はひとり」【土井晩翠「万里の長城の歌(一)】と云う感じが深い。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 11 熊谷泰作 1957年

2010-02-21 07:26:00 | 熊谷泰作

 霊祠を去って梅林を尚南え向うと忠魂碑を仰ぐ七百年後の現代戦に一命を捧げた将士の眠る碑である。梅を賞でて再び梅林を本丸に向う。常に「清廉を思い潔白を志して傍人劣らじ」と願っていた重忠の風格を想像するにあまりある清く香り高い梅林を出て本丸埋門に至る眼下に深濠を見雑木林のだらだら道の急坂を上りつめて門跡に出れば前方に展開するのは本丸内郭である。周囲に高塁を廻わし、その右方前方の檜林の中に矢倉跡が見える。
 左方高塁を廻って西方を望むと、はるか彼方に秩父連山を見る。連山は甲武信の三国にまたがってその山姿は四季美わしい。眼下槻川都幾川の二瀬の清流にはさまれた鎌形八幡の森を見る。延歴年間(えんりゃく、782-806)坂之上田村麿草創、頼朝八幡宮崇神の志し強く塩山よりこの地に遷宮したと云われているこの宮には木曽義仲生湯の清水がある。即ち源義賢武蔵上野の武家の統領として鎌形の地に居をかまえ、のち大蔵の豪族大蔵氏を名乗りこの左方にひろがる大蔵の地に大蔵館を建て久寿元年(きゅうじゅ、1154)義仲を生みこの清水をもって生湯に使った。その翌年義賢、娚義平に敗れ討死。義仲は重忠の父重能と斉藤実盛の計により中原兼遠にだかれて木曽谷にのがれ、二十有余年三十才にして旭将軍と云われる武将になったが、「木曽の旭も上れば落つる、落ちて粟津の夕煙散るは涙か草葉の露か」と歌われる運命となり野末の露と消えた。
 一方悪源太と云われ武勇をほこった義平も、父義朝と共に平清盛にやぶれて「平氏にあらざれば人にあらず」とその繁栄をうたわれた、平氏も「祇園精舎の鐘の音諸行無常の響あり沙羅双樹の花の色盛者必衰のことわりを現わす驕れるものは久しからずたゞ春の夜の夢のごとし猛き心もついにはほろびぬひとえに風のともしびに似たり」と諸人のため息のうちに夢のように美しくほろびた勝者関東の白旗も九郎判官義経の悲劇等を惹起しその末を縮め頼朝と云う大樹一たびたおれた後は雄図夢に淡くその間重忠公始め音に聞えた関東武士達は悲喜こもごもに興廃していったのである。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 10 熊谷泰作 1957年

2010-02-19 07:22:00 | 熊谷泰作

 ああ人生は浮雲の流れるように人間の世も移ってゆく。その間にあって悲壮に生きた重忠公の一生を思いつつ歩をはこび梅香る細道を霊祠にぬかずけば重忠公の心魂「我にせまる」の感がある。ここに私の先生【安岡正篤】の作詞した畠山重忠最後の様子を唱った句を吟じて公の霊を追悼する。

  元久二年六月の
  青葉物憂き夕まぐれ
  思ひがけなく鎌倉に
  凶変あれば速に
  上らるべしと知らせあり
  こは何事と取敢ず
  一子六郎重保を
  先づ先駈けて立たせしに
  由比ヶ浜辺の朝まだき
  罵り騒ぐ軍兵は
  畠山殿謀反ぞと
  驚き怒る重保を
  おつ取り囲んで討果す
  さりとも知らぬ重忠は
  次男小次郎重秀と
  一百余騎を引具して
  菅谷の館をぞ出でにける
  鎌倉にては重忠を
  途中に討つて取るべしと
  北條義時時房等
  一万余騎の軍兵にて
  大地をどよもし進みけり
  かかりしほどに重保の
  あへなき最後の悲報にぞ
  さてはと知つて兎も角も
  鶴ヶ峯まで来て見れば
  こはそも如何に白旗は
  空を蔽はんばかりなり
  重忠きつと見渡して
  かくなる上は是非もなし
  我今日に至るまで
  四十二年のその間
  弓矢八幡神かけて
  誠の道を一筋に
  来りしものを今更に
  免れぬものと知りながら
  引返さんは天命を
  知らざるに似て口惜し
  いでこの上は潔よく
  命をここにすつべしと
  主従覚悟を決しける
  この時大軍四方より
  鯨波を作つて攻め寄すれば
  音に聞えし武士の
  最後の程を見よやとて
  獅子奮迅に渡り合ふ
  この乱軍の只中に
  大串次郎重親は
  重忠めがけてかけ向ひ
  弓を絞つて立つたりしが
  去んぬる元暦初めつ方
  木曽殿を打つ宇治川に
  先を争ふ折しもあれ
  馬諸共に流されて
  既に危く見えし時
  我を救ひし重忠の
  厚き情の偲ばれて
  今更弓も引きあへず
  馬を返して去りけるは
  床しくもまた哀れなれ
   俾我哭者英雄之流多薄命
   俾我慟者賢哲之士易銷魂
   天命達人未可測
   勝敗兵家豈能論
   唯有一誠長不朽
   風神奕々射後昆
  嗚呼武士の鑑ぞと
  世に謳はれし英雄も
  二俣川の夕まぐれ
  かくて空しくなりにけり
  恩讐共に亡びつき
  風雲長く忠魂を
  弔ふ夕べ鶴ヶ峯に
  立てば月影暗くして
  松に万古の韻あり
  松に万古の韻あり

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月
*:山を抜き取るほどの力と一世をおおい尽くすほどの気力の意味から、威勢がきわめて強く元気が非常に盛んであること。


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 9 熊谷泰作 1957年

2010-02-17 07:20:00 | 熊谷泰作

 私は愛唱の畠山重忠公を吟じて二の丸の高塁を重忠公霊祠に向う。その韻は高く低く心に響く。

  ここに畠山次郎重忠と聞えしは
  鎌倉山に綺羅星と
  輝く武将のその中にも
  一際(ひときわ)目に立つ英雄なり
  抜山蓋世(ばつざんがいせい)の雄略も
  深く韜(つつ)んで現さず
  衆を愍(あわれ)み士を愛し
  功を譲つて争はず
  風雅の道に心をよせ
  優に床しき武士(もののふ)の
  誠を推して仕へしかば
  右府もまたなく思しけり

 その至誠公明人をうつ重忠の人格に右府頼朝はこれこそ「源家の柱石なれ」と臨終の折重忠を枕頭に招き弱年の将軍頼家を始め源家の後事を托して五十三才を一期に鎌倉山の露と消えた。「士は己れを知る人の為に死す」【史記・刺客伝】人生これにまさる感激はありえようか。重忠は一途よく弱年の頼家を輔け今は亡き頼朝の信にこたえた。しかし頼朝亡きあとは尼将軍政子の生父北条時政は外戚の権をもって政をもっぱらにせんとし、まず頼家の舅である比企能員とその一族を謀殺し遂に新将軍頼家を幽殺してしまった。この時のことを物語化したのが修善寺物語であり人間頼家の最後の一こまである。そして弟実朝若年にして将軍職をついだが、時政の威権はますます強かった。
 重忠は源家の後事を思ひ心をいためながらもよく実朝に使え元勲としていっそう諸将の畏敬するところとなった。この重忠も遂に北条時政の後添「牧の方」の妊計により重忠の一子六郎重保と牧の方の愛婿平賀朝雅の争論を機についに謀叛の名を負わされ北条氏のために相州二俣川の露と消えてゆくのである。時に重忠生年四十二才であった。実朝は重忠が讒言(ざんげん)によってその実なくして殺された事をあわれんだが北条氏の武士の中にも謀殺の挙をにくむものが数多くあったと言う。重忠亡き後実朝はその形勢を察し風月を友とし世事を脱却して身を其の間に善処したが北条氏の専恣はその実朝をして「源氏の正統この時に縮まり畢(おわ)んぬ子孫之(これ)を敢て之を相継ぐ可からず」【吾妻鏡】と歎かしめた程である。そして公暁が鶴ヶ丘八幡宮の銀杳の下において実朝暗殺の愚挙に出たのを最後に源家将軍は三代にして北条氏の代るところとなったのである。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 8 熊谷泰作 1957年

2010-02-15 13:07:00 | 熊谷泰作

 歩を進めて三の丸へ入ると北側の高塁の脇に二三の人家を見る。人の世の生業は果しなく続く。天に太陽あり地に山河の存する限り世界はなお理想と希望との存する世界である。
 こゝに梅花の咲き匂うを見る。矢負に梅花をさし幽しい武人の風流に興じ滋藤の弓に生国の名挙をかけ、馬にうちまたがって名乗りをあげる武夫の武術修練の場と想われる。馬場の跡がこの一画に名残をとゞめている。
 分け入れば老松その枝を亭々とのばして、いかにも武蔵武士の気骨を示すかのように屹立している「松ヶ枝分けいでし昔の光」今はないけれど英風颯夾の関東武士の名残り追憶するに充分である。
 三の丸に心を留めながらも二の丸に向う。山林の自由を味わいながら二の丸門に入ればこゝに梅林を見る「梅花無尽蔵」と詩歌集に書き留めた古人の心のしのばれて懐かしい。古来日本人は梅を愛しその詩歌は数多い。天満天神として祀られた偉人菅公は十一才の春すでに梅を眺めて「梅花似照星」と歌っている。
 爾来春秋星霜亡くなるまで外部の褒貶に動くことなく梅の花のようにその自分を清くしその潔白を持ちつゞけた。ほろぶことなく、今もなお咲き香る梅にむせび、山林の児に生まれた自由多き青春の幸を思う。
 前方に本丸を眺める鎌倉の昔武士の鑑と歌われ至誠人の道をつくして遂に天命にたおれた畠山重忠公の館跡である。東方左手の丘にあがれば畠山重忠公像が最後の地二俣川に向って射るような眼を向けている。丈余の像の左右には香りも高い月桂樹が二本、公の徳をたゝえて香る。その碑文【小柳通義「重忠公冠題百字碑文」】に曰く
    畠山重忠公貞亮晩節堅
    山間秩父荘出如斯大賢
    重義履正路文武両道全
    忠良無私心仕源家罔愆
    公明而寛大人敬其誠純
    蹈水火忘身轉戦着鞭先
    正受疑應召發菅谷進駐
    路上討兵遮相州二俣川
    遭難釋甲冑自殺不怨天
    讒構雖覆明無實之罪甄  と。
 像のもとに立つと往時の事などしのばれて暗涙と共におもいは恩讐の彼方へと馳せる。「戦争と平和」私の青春はこの岐路にあって苦しんできた。もってこゝに恩讐を超えたこの偉人の人生に崇高な愛敬を捧げるのみである。たゞ誠心を盡して身を致し成否を天に委ねて永遠の真理に殉じた重忠公の名は七百年の今日尚燦然として我々の頭上に輝やいている。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 7 熊谷泰作 1957年

2010-02-13 11:31:00 | 熊谷泰作

 往時足利のを懐古すると関東管領時代の名将に太田道灌と云う人があった当時都に上ぼり時の帝に「武蔵野は。」と問われて、「露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原」と答え「武蔵はかるかやのみと思ひしにかゝることばの花や咲くらん」と帝を感嘆久しうさせたと云うこの名将道灌は関東の地に江戸城等を築城した。昨年はその五百年祭が東京で行われた事は記憶に新らたである。当時関東管領は扇谷上杉と山内上杉の両上杉にわかれていたが道灌は名実共に両上杉の棟梁であった。この道灌が糟谷の館に五十五才を一期に讒死(ざんし)したあとの両上杉は相共に兵をあつめてその覇を争い武蔵、相模の間に小合戦を現出した。この合戦の中にこゝ菅谷の原の合戦がある。即ち扇谷定正の嫡子朝良、相模扇谷を本拠とし江戸河越岩槻を従え道灌の家臣であった斉藤加賀守を軍奉行として長享元年(1487)十一月武蔵菅谷の原に山内上杉顕定と対陣したその時戦乱の巷に諸将の陣営を廻った漆桶万里の詩文集である「梅花無尽蔵」には、菅谷に扇谷上杉方の武将太田源六資康の陣営があり長享二年(1488)六月十八日には両軍大合戦あり戦死者七百余人、馬たおれるもの数百と書いてある。
 こゝに書かれた武将太田資康が道灌の一子で菅谷城はすでにこの時資康の手で改築されていたものと思われる。こゝに見えし武蔵武士は戦場の閑に詩歌念に身を寄せて武夫のおくゆかしさを歌に託す色も香もある風雅の人であった。
 この武人も合戦にあっては「恥かしからん敵ござんなれ」とその武勇を競う人となったのである。そしてこの仰ぎ見た大手門を馬に打ちまたがって討って出たものと思われる。
 菅谷原の戦は先に家職の事により両上杉に反抗した長尾景春が扇谷定正に附属して働いている。朝良が一時敵襲に敗れて退く際山内顕定父子の軍再び横より攻め立て将に危ぶない時、父定正左右に命じて朝良を援けさせた程で非常に接戦であったといわれている。
 治乱興亡は夢ににて世は一局の碁の如く*この両上杉も小田原北条氏の為に衰亡し武蔵の国は世変り人変り早雲謙信、信玄の戦場となった。私の生地信濃も謙信、信玄の川中島の決戦の歴史を刻んだ。後北條氏は秀吉の征服する所となり浪花の夢は二代にして消え德川氏十五代の基礎、江戸城に築かれた。「功名なんぞ夢のあと」はたして人の世で消えることのないものは何であったろうか?
 懐古は無限に続く。地球には年令はないが人の世は刻々とその歴史を語っている。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:三上卓(1905-1971)の『昭和維新の歌』(別名・日本青年の歌)(1930)の一節か。
  汨羅の渕に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れ飛ぶ
  混濁の世に我れ立てば
  義憤に燃えて血潮湧く

  権門上に傲れども
  国を憂うる誠なし
  財閥富を誇れども
  社稷を思う心なし

  ああ人栄え国亡ぶ
  盲たる民世に踊る
  治乱興亡夢に似て
  世は一局の碁なりけり

  昭和維新の春の空
  正義に結ぶ丈夫が
  胸裡百万兵足りて
  散るや万朶の桜花


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 6 熊谷泰作 1957年

2010-02-11 11:29:00 | 熊谷泰作

 今再びその青春の足音を鎌倉街道と遺称する道と思われる山道に響かせた。鎌倉街道は鎌倉―東村山―所沢―入間川町―高萩―今宿―菅谷―花園―児玉町、更に北上し藤岡に至る信濃越後に向う主要道路である。鎌倉時代畠山の庄司重忠この街道を鎌倉に向う折しも、南都幾川の断崖に臨み視望遠く展けたこの形勝の地を認め居館としてより鼎は移り歳流れて足利時代の長享年間太田道灌の子源六郎資康之を改築山河姿を改えて鎌倉館跡の片影を留めていず往時を回想することはできないが、今残存している資康築城の城跡は「平山城」を作り東と西とは谷を深くして区画し北方の台地に続き南方より順次本丸二ノ丸三ノ丸を置き各廓の間は深濠高塁を以て区分している。長さは各々等しく東西南北共に約四七二米(二百六十間)面積は約十町六反九畝歩ある。同城本丸の一部が重忠居館跡であったと思われる。その後小田原北条氏時代は北条氏方部将小泉掃部助が城代として守っていた。この三ノ丸の外濠高塁を南に見て杉檜の木立入り乱れる雑木林にふみ入ると両者に高い残塁を仰ぐ、」大手門である。濠ははるかにその深さを増している。濠におり立って大手門に至れば武蔵野にふさわしい雑木林が立並び周囲残壁累々として廻る、こゝに一軒の伏屋があり人の暮して居るのを見る。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 5 熊谷泰作 1957年

2010-02-09 11:27:00 | 熊谷泰作

 戦に敗れて声はなく興廃は移って悲喜まじる昭和二十一年(1946)春夢空しく去った落日の夕べに十九才の私にも傷心の身に盛衰存亡一場の夢なることをおぼろげながらも感じとれた。そして私はこよなくこの城跡を逍遥した。
  国破山河在 城春草木深
  感時花濺涙 恨別鳥驚心
と杜甫の春望の詩*を吟じ月の夜は荒城の月を唄って時の移るを忘れ傷心の身をいやした今日ここに十年未だ当時口ずさんだ牧水の
 「かたわらに秋草の花の語るらく
    ほろびしものは懐かしきかな」
と言う歌を覚えている。梅を尋ね春草の萌え出るを見、寝てしまうには惜しいような夏の夜に月を眺め秋草に情をこめ雑木林に山林の自由を吟じて血を湧かしそのようにして青春の息吹きは育くまれて来たのである。
「世の中を夢とみるみるはかなくも尚おどろかぬ我が心かな。」と驚き得ぬ自己の不明にいらだたしさを感じながら、青春を成長させていた友と語り明かした春宵もあった。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:杜甫「春望」
  国破山河在   国破れて山河在り
  城春草木深   城春にして草木(そうもく)深し
  感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
  恨別鳥驚心   別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚かす
  烽火連三月   烽火(ほうか)三月に連なり
  家書抵万金   家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あた)る
  白頭掻更短   白頭掻(か)けば更に短く
  渾欲不勝簪   渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 4 熊谷泰作 1957年

2010-02-07 11:24:00 | 熊谷泰作

「古跡についての懐旧の情は永遠の自然と一転瞬の人生との対照であり又懐古の詩文は必ず其の中に宇宙観と人生観とを含む」といわれているが全くその通りで、この感慨には無量の思いと無限の生命のつながりがあることが感じられる。人生において人間としての深いなぞに直面したとき誰でも自分の生命の根源に呼びかけ、自分の生命の秘密を深く究めようとする。
 そして自然を念い故郷を慕い血統を探りその結果郷土と父祖への愛に貫かれた自分の宿命を覚り懐古の情となって現れるのであろう。信州は私の生命の故郷であるが、私の青春をはぐくんだのは菅谷城跡である。菅谷城跡こそは私にとっては第二の故郷である。こゝに私の人生の花は咲き山林の一生を想う心は根強く養われたのである。皇師七百万日本の雄図は敗れ昭和二十年(1945)軍旅を引いた多恨の私が未知の国菅谷に旅装を解いたのは昭和二十一年(1946)四月十九才の時であった。
 こゝに再び全国の有為な青年と一緒に生活をすることが出来るようになった。そして『会いがたき師』にあい『得がたき友』を得た。爾来菅谷及び菅谷城跡は遂に私の忘れることの出来ない存在となったのである。今城跡に遊ぶことになってうたた感慨無量のものがある。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 3 熊谷泰作 1957年

2010-02-05 10:36:00 | 熊谷泰作

 私の幼時を追憶すると今もなお自然は忘れることの出来ない存在となっていることに気づくことが多い。一木一草を眺める毎々に故郷の姿幼き日のいろいろのこと等が頭に浮んでくる。城跡といえば戦国の昔故郷の偉人二木豊後守重高は松本城主小笠原氏を甲斐武田の軍勢の手より救い、故山の中塔*に迎え攻め寄せた武田勢と戦い城を固く守って遂に信玄の計画である私の郷土征服の野望を、挫折させたこの重高の本城中塔城跡の姿が目に浮んで消えない。私はこの城跡に遊んで荒れはてた城のあとに戦国の世を偲ぶ日が多かった。「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」と啄木も歌っているが眼を閉じれば高塁樹々皆眼底に残り、忘れることの出来ない印象の一つとなっていて、又しても今日十五の心が脈うつのを覚える。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:『城と古戦場』さんの「中塔城


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 2 熊谷泰作 1957年

2010-02-03 10:33:00 | 熊谷泰作

 人間が長い歴史に文化を連絡し之を表現し伝達するに至った天恵の書である。「自然の児たらしめたまえ」と祈った独歩の願望、天地の有情を夢みながら無限の詩鏡を歌い「うたかたの世々のあと、いづれの世か乱れの騒ぎなかりけむ」と歎き史上の英傑に思慕を寄せて治乱興亡の果敢なさに万るいの涙をそゝいだ晩翠の感慨等深くこの自然と歴史と人生と永遠の相におもいをめぐらせると「行く春の春とこしえに春ならじ」とこゝに生き抜いてきた二十九才の生涯に懐旧の情を止めることが出来ない。「人の生涯は殆んどその出発点できまると云うことは以前から学んでいたが近頃それについて思い当ることが多い。青年時代が人間の生涯に重要な位置を占めているということはいう迄もないが然し大体において人間は極く幼い少年時代に既にその生涯の路がきまるのではあるまいか、そう思って私は時々心に驚くことがある。だから自分の郷里がどんな田舎でもどんな石ころの多い土地であってもそこには自分の幼年時代がありその記憶が周囲のものであって見れば自分の生涯に及ぼす郷里の影響を軽々しく思うわけにはいかない。」と藤村は語っているが、実際異国にあって祖国をあこがれ異郷にあって故郷を慕うこのような時こそ初めて祖国が、故郷が、父祖が、幼時が、そしてそれを囲む自然環境がその真の意義において自覚されてくるのではなかろうかと私もつくづくと感じるようになった。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 1 熊谷泰作 1957年

2010-02-01 10:31:00 | 熊谷泰作

   梅の香と人の世は
        ―菅谷城跡を尋ねて
 「耐雪梅花香」(ゆきにたえてばいかかおる)*春にさきがけて香わしく匂う梅の花の無量の妙味を慕い、来る春に無限の情を走らせる頃になると私は近年いつも物を思う人となる。あー私はどのように人生を生きて来たか、青春には悔はなかったかと、そして「花とこしえの春ならず」と夢のように短い人生を悠久なる永遠の行旅と考えた游子の旅情にかようような、淡い言い知れぬなにものかを感じるのである。
 このような早春の一日「野は私の書斉、自然は私の書」と云って人生を楽しみ、或は行く旅を詩歌に託して人生をつぶさにかみしめ、或は思索散歩と名づけ?、朝夕散歩して人生観を呼び覚ましたりした人達の事を追憶しながら菅谷城跡を散歩し武蔵野及び武蔵武士の面影を満喫することゝした。大自然はさながら天の書である。

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:西郷南洲「示外甥政直」(がいせいまさなおにしめす)の一節。