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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

里やまのくらし 10 根岸

2008-07-07 15:23:00 | 吉田

  大火の歴史
 明治の頃、嵐山では数十戸が全焼する大火が幾度もありました。1868年(明治元)10月・全焼30戸、1870年(明治3)1月・全焼25戸、1881年(明治14)5月全焼50戸、同年11月・大蔵全焼13戸、1890年(明治23)2月・菅谷全焼47戸という記録が残っています。明治後半以降、1910年(明治43)4月・菅谷村役場、1917年(大正6)9月・鎌形小学校、1939年(昭和14)5月・七郷産業組合が焼けています。
 1935年(昭和10)12月3日の菅谷の大火では、米山材木店の東側にあった菅谷小学校も類焼しました。火元より延焼して21戸52棟が焼けた原因は、前日からの北西の烈風と消火のための水の便の悪さからと言われています。

  大蔵・根岸の大火
 1946年(昭和21)3月8日午後1時頃に出火した大蔵の火事は南東の方角にある大字根岸に飛び火し、10軒が焼け出される大火となりました。
根岸福平さん(写真右)の話:横なぐりの強風で焦げた麦ワラが空が見えないほど飛んで来ました。母屋のワラ屋根に飛んでくる火の粉を払うため、濡らしたムシロを持って屋根に上がりました。北側の家二軒が燃え上がるのが見えても、わが家を守るのに手一杯で助けには行けません。煙が立ち上らず地面をはうように流れたので、大蔵・根岸方面が火事だと気づかれるのは遅れました。応援に親戚が来てくれた時は助かりました。
根岸茂夫さん(写真中)の話:大きな黒い固まりのワラがボタッと落ちるとパッと赤くなって火の粉となり飛び散ります。はしごで屋根に上がりホウキで火の粉を下へ払い落としました。新しいワラ屋根は堅くて滑りやすいので自分も下へ落っこちそうで怖いものでした。都幾川対岸の唐子村の青年団の人たち多数、消火の応援に来てくれました。演習の時にはかかった消防ポンプもこの時は動かず、手押しポンプを使いました。
対岸からの目撃者の話:盲腸で岩田病院に入院していました。家財道具を運び出すことにみな夢中になっているようでした。屋根の火の粉を払えば間に合うのにとやきもきしながら見ていると、屋根が赤くなり一気に燃え広がっていきます。吾妻(あづま)神社【権現様(ごんげんさま)】のある前山(まえやま)の山林にも火がつきました。

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 大字根岸では1923年(大正12)、各家の目につきやすい場所にコンクリートの灰小屋を設置しました。カマドやイロリから出た灰を貯蔵し、カリ肥料として使いました。上の写真の灰小屋は根岸隆男さん宅の庭先にあります。

  根岸観音の火災
 安産と子育ての御利益(ごりやく)があるとして近郷の信仰を集める根岸観音の祭りは毎年2月20日と10月20日におこなわれています。下の写真は1953年(昭和28)10月20日に撮影されたものです。境内につくられた舞台には、昭和の初めに大蔵の若者たちが組織した「大若連」の引き幕があり、警備の消防団員が写っています。観音様のお堂は、1948年(昭和23)4月14日の火災(全焼2戸3棟・公会堂)で類焼しました。
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根岸直次さん(写真左)の話:当時は観音様のとなりに住んでいました。前年9月15日の大水で流された月田橋の掛け替え工事のため家の側の旧道を代燃車(木炭自動車)のトラックが走っていました。その火の粉が、積んであった麦わらに燃え移り、そこから発火したのです。現在の観音堂は1997年(平成9)に新築したものです。


里やまのくらし 9 町内

2008-07-07 13:42:00 | 大蔵

  夜 番

 2005年11月8日、不審火による住宅火災が発生し、志賀2区では住民による防犯パトロールが毎晩行われるようになりました。今回は1950年代後半(昭和30年代前半)の火の用心の話です。

 師走になると21支部(杉山の猿ヶ谷戸・川袋)では、全戸が順番に毎晩二軒一組で夜番(よばん)をしました。あかりは持たず、寒いのでどてらに襟巻、頭巾やほおかぶりをして歩きます。雨の日は休みです。不審な明かりやたき火の始末を確かめながら家ごとに庭まで入り、拍子木をカチカチとならし、「ごようじんない」(ご用心なさい)と声をかけ、「ご苦労さん」と返事が返ってくるのを待ちました。夜半に二度回るので、どちらか一人の家が宿(やど)になって次の巡回まで暖を取ります。冷え込みの厳しいときは、甘酒、おっきりっこみ(煮込みうどん)、小豆がゆなど夜食をとりました。当番の家の都合で女性や子どもがでることもありました。

 杉山・猿ヶ谷戸の夜番は薬研堀の細い山道を通ります。二人並んでは歩けません。前になっても真っ暗、後になっても真っ暗で、ガサガサと音がしてこわくてイヤだったそうです。川袋の夜番は、山道ではなく、耕地の側の道を通りました。

 大蔵の消防小屋に夜警交番表がありました。1971年(昭和46)のもので、21組までの当番と巡視路略図が書かれています。大蔵では四軒一組で12月~3月にかけて毎晩、夜警をしています。当番の四人が二人ずつ組み、宿に当たった人の組から先に、頭に鉄の輪のついたかなんぼう(鉄棒)をジャランジャランとならして通りを回りました。杉山のような庭先での声かけはしません。後の組は帰りがけに翌日の当番の家にかなんぼうを置いて帰りました。

 現在、大蔵にはボランティアの大蔵自治消防団(2005年度の団員は男子15名、女子6名、計21名で3班編成)があり、2005年度(2004年11月1日~2005年10月31日)は歳末の28日~30日に夜警巡回を実施しています。

  火防巡視

 消防団の役員が昼間各家庭を訪問し、家屋内の火の元点検をするのが火防巡視です。かまどやいろりの廻りがきれいに掃除されているか、風呂場の火口のまわりはどうか、周囲に可燃物が置かれていないか、煙突にすすはたまってないか、取り灰はきちっと処理されているかなどチェックします。点検が終ると火災予防の標語の印刷されたステッカーに優・良・可のランクを書いて手渡しました。

 1955年(昭和30)、大蔵の冨岡寅吉さんは菅谷村消防団第8分団(大蔵・根岸・将軍沢)の役員でした。「火の用心は誰のため」が当時の日記に書かれていました。2月22日に菅谷で実施した合同火防巡視の感想です。この日は役員三名で、翌年は婦人会役員と回っています。

 火防巡視を実施して気の付いた点を上げて見ます。未だ掃除していない家ではたいてい言い訳をします。「未だご飯をすませたばかりで片づかない」とか「子供がうるさくて」等々。いつもの火防巡視でも言訳は付きものですが、自分の為の火の用心ですから他人に言訳することはないと思います。台所でたき火をして小さい子供さんと暖まって居ましたが、子供が一人の時まねしますと間違いの原因となりがちです。消火弾の設備のある家で小母さんに使用方法を問うたら主人が知っていますと答えたが、誰にも使用できる様にお願いしたい。設備を良くするには金をかければ出来ますがたとへ簡単なかまどでも注意を怠らなければ、立派な火の用心が出来ます。設備に頼るより自分を信頼してお互いに気をつけませう。(消火弾:ガラスの球に消火液の入った手なげ弾)

 1950年代の農家はまだわらぶき屋根も多く、土間にはへっつい(かまど)やいろりがあり、そこから火の粉が飛ぶこともありました。消したはずのたき火や風呂の残り火、取り灰が風にあおられて燃えだしたり、養蚕の暖房の不始末、子どもの火遊びから火事になることも多かったのです。

 農家の土間の様子は、『埼玉の民俗写真集』で見ることができます。

     (嵐山町広報2006年1月号掲載分を増補)