宝薬寺(嵐山町越畑1086)の桜も金泉寺(嵐山町越畑1122)の桜も十数年を経たものであらうか。静かに咲いている感じだ。宝薬寺の萱ぶきの屋根と松の木は古い時代を象徴しているが三本の桜は若い。
金泉寺のさくらは濁った沼に白色の花びらを散らしていた。町指定の大いてふは芽ぶかんとしている。樹齢二百五十年。秋には銀杏が寺の庭を埋めるように散り敷く。
薬師堂は神亀の頃(724年、奈良時代)の創立と伝えられる。かって西の山地にあったものを移したものと云はれるが、大ヤツと呼ばれる三ッ沼の奧に薬師堂があったと云はれている場所があるという。ここの薬師さまは安産と目の病い、しゃく(癪、種々の病気によって胸部や腹部に強い痛みを感ずることをいう)の病いに効くと云はれている。したがって縁日には豆ローソクを何十本も立てて灯をともし、少してこれを消し、妊婦に持たせてやる。妊婦はこのローソクを枕元の立てて灯をともしておくと、安産できるとした。また目の病いの治った人は石臼を寄進したと云われ、今でもお参りに行く道に敷き石として列べられている。しゃくの治った人はお福にひしゃくを奉納した。このため、昔は堂の周囲に何百というひしゃくがつり下げられていたという。それをある時、住職がみんな燃やしてしまったのだという。
旧暦の九月十三夜の縁日には今では安産の他に養蚕の祈祷を行っている。これも時代のながれであらう。ここは郡下でも養蚕の盛んな地域である。
薬師堂の本尊は薬師如来で行基の作と云はれる。行基は聖武天皇の所代、東大寺の建立や大仏の造営に協力し、大僧正に任ぜられた高僧である。
ここにはこの他御前立ちと云はれる木彫りの仏像が数多く残されているが、誰も見たことはないしまた見てはいけないことになっているので年代も定かでない。
また、格子型の天井には天女が布をひらひらさせながら飛んでいる絵が書かれている。誰がいつ頃書いたのかわからないが、昔この地方に天女が腰に布をまとって空から舞い下りてきた。村人は見たこともない天女を不思議に思って追いかけたので、天女は南の方へ飛び去ってしまった。県南にはこの天女の下りた地名があるという。天女のまとった機織りの布からオイハタの地名が起りそれがオッパタに変化したのだとも云われている。
宝薬寺は金泉寺の隠居寺とも云われ、共に元和年間(1615年頃、徳川時代の初期で大坂夏の陣があり、豊臣氏は滅亡した)に僧南叟寿玄(広野、広正寺の三世とも云われる)によって創建されたものである。寿玄は寛永十九年(1642)入寂している。
宝薬寺の古めかしい堂宇は今日テレビ映画の舞台装置には恰好で時々ロケーションが行われている。いま無住なのが寂しい。
八宮神社に奉納されるササラ獅子舞は夏の暑い日中を此処から出発したが、以前は中郷の正法院と下郷の観音寺という二つの寺院があり、ここから一年交替で出したものだ。祭の日には餅をついたり赤飯を炊いたりするので、越畑地区は二つの寺院に扶持(職務に対する報酬として主として米を支給すること)を与えていたという。今では宝薬寺と観音寺で一年交替の出発宿をつとめている。
奈良時代から幾星霜、星移り人変り栄枯盛衰幾変転。老松ひとり何を思うや。花は今年も散りゆくものを。
越畑に関する古い話はすべて古老の市川武市氏に聞いたものである。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
越畑で見事な花を咲かせていたのは久保寅太郎氏の庭の桜であった。かなりの年数を経た古木が枝を天に広げて咲き誇っていた。高台にあるこの桜は遠くからも望まれた。坂の登り口に二つの碑があった。一つは句碑で「寂光の桜 影なき鳥にゆれ 軒星」とある。軒星とは久保茂男氏の俳号である。昭和九年(1934)に分家して農業と表装を営んで四十年間此処に住んでいたが、高速道建設のために移転することになった。その記念にこの句碑を建てたと記してある。
もう一つは歌碑で「人からは土竜(もぐら)村長と言はれつつ 我父は村の道を拓きし 茂男」とある。読売新聞の歌壇に投稿し土屋文明によって選ばれたものである。久保氏の父君は三源次と云い明治三十六年(1903)、三十歳で七郷村の第八代村長となり、その後も第十二代目の村長をしている。古里から菅谷に通ずる道路の建設を終世心の誇りとしたという。
白梅の老木の下の句碑も桜の木の傍らの歌碑も春の光のこもれ日に寂然としていた。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
チサン団地として分譲が開始されたのは昭和四十六年(1971)九月からである。まず川島に近い県道の北側が売り出された。その後、志賀の地域に属する一帯が整備されて住宅が建てられた。桜はその時植えられたものであらう。メイン通りを見通すと桜並木が花やかな色どりをそえている。
桜の木の間隔がありすぎて少しさびしい気がする。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
不動さまと白山神社(嵐山町平沢968-2)と平沢寺(嵐山町平沢977)は同じ高台にある。
ひっそりとした境内の桜だけが散っていた。
白山神社には「太田資康詩歌会址」の碑が昭和十五年(1940)建てられている。碑に云う「月ヲ観賞シ風雅ヲ講ズトイヘルハ即チ当所ノ事ニシテ当代武人ノ風格ヲ偲ブベキ遺址ナリ」と。
この地を訪れた万里僧は「社頭の月」と題して詩を作った。
一戦勝二乗ジテ勢尚加ハル
白山ノ古廟沢南ノ涯
皆知ル次第二神助ケ有ルヲ
九月春ノ如ク月自カラ花ナリ
平沢寺は天台宗の寺院で三十六の堂坊があり、かなり大きな寺で一の門は青鳥に、二の門は延命橋にあったという。これらの堂坊は天正十八年(1590)松山城落城の際焼失したと云われる。この時、寺の釣鐘が前の田んぼに落ちたまま埋もれていると伝えられている。地元の人たちは、この釣鐘を掘り出すよう町に頼んでいる。
平沢寺には県指定考古資料の経筒があるが蓋がない。話によると経筒の価値を知らない坊さんが煙草の灰たたきに使って一緒に持って行ってしまったのだという。
平沢寺の下にアカ井の水と呼ばれた井戸があり絶ゆることなくきれいな水が出ていた。地区の人たちは、この水を汲んで家まで運び生活用水にあててくらしてきた。昭和三十三年(1958)に新農村建設事業として共同給水施設をつくり、ここを水源にして水を各戸に引いて苦労は解消した。
今日、平沢寺の七堂伽藍の壮大さも、武蔵武士たちの合戦の激しさも、肩で水をかついだ生活も、昔の面影はどこにも見当たらない。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
悲劇の武将畠山重忠は今も鎌倉を望んで屹然(きつぜん)として建っている。
元久二年(1205)の館跡も面影をとどめている。
歴史は移り人変り、さくらは今日も散っている。
天地の悠たるを念(おも)い
独り愴然(そうぜん)として下る
と詠じた中国の詩人を想いつつ、この日、城跡の一隅で盃を挙げる吾らが、観楼のうたげにも花はただ散るのみであった。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
校庭にもテニスコートにも道にも白くさくらは散っていた。
新しい学校だけに桜の木も若い昭和四十二年(1967)開校時からの桜の木であろう。校庭に数本と千手堂への道に沿って並木のように校庭側に植えられている。
風が吹くたびに花びらが雪のように散った。
ラケットを振る乙女たちのはずむ声にも、ベンチで読書するセーラ服にも、散策しながら語り合う少女の髪にも、そして夢みる青春の瞳にも、花は散りに散る。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日
新学期はさくらの花とともに始まる。黄色い帽子に新しいランドセルの新入生が校庭に並んでいた。
四本の老木は大きな枝を伸ばし花はまっ盛りであった。
花は幾たび子供たちを迎えたことであろう。「年々歳々 花相似たり、歳々年々 人同じからず」と歌った中国の詩人の言葉が思われる。
運動場が広がったので、かって校庭の土手際にあった桜の木は、今ではグランドの中央になった。
菅谷尋常高等小学校が商工会の事務所のある地にあった頃の昭和三年、御大典記念に植えられたものだという。昭和10年(1935)12月、大火に逢い学校も焼け、各所に分散して授業したが、14年(1939)にここに建設された。その時、桜の木は運ばれてきたものである。焼け残った桜の木をいとおしむ人たちの心がそうさせたのである。
いままた古い木造校舎は取り壊されて鉄筋の新しい校舎が建った。この老木もやがて消え去る時がくるだろう。だが新しい桜の木は植えられていない。やがて学校に花の咲かないさびしい春が来るのだろうか。
『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日