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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

昭和33年(1958)台風22号で都幾川の月田橋(一部)が落下

2008-08-26 23:20:14 | 唐子

   荒川筋ぐんぐん増水 東松山は各所で増水
台風二十二号の影響によって早くも比企郡内の越辺、都幾、市の川の各河川は二十六日早朝から一斉に増水を始めた。
このため東松山土木事務所では危険箇所の視察を行うと共に、地元の水防団に対し厳重な警戒態勢をとるよう指令を出した。
同事務所の調べによると越辺川は三百ミリ、都幾川は二百五十ミリ、市の川は二百ミリで堤防決壊等の危険状態となるが、越辺川では東松山市宮鼻地先堤防、都幾川では東松山市早俣地内堤防、市の川は上流の滑川、菅谷村一帯が未改修のため特に決壊の危険があると警告している。
なお東松山署に入った連絡によると荒川筋の吉見、川島村も二十一号台風以上の増水を予想、二十六日夕刻から警戒態勢に入った。
    (『東京新聞』埼玉版1958年9月27日)

   台風22号 県下に大きなツメ跡 雨量21号台風の二倍 荒川警戒に二万五千人が出動
台風二十二号は大雨台風だった。雨量は二十一号台風の二倍で、河川の増水も激しく、荒川は二十六日夜半から二十七日午後二時すぎまで洪水の心配があって水防団員約二万五千人が警戒に動員され、自衛隊員など延べ三千人が土俵積みなど必死の水防作業を行った。家屋の浸水、道路橋梁の損壊、護岸堤防の崩落、通信黄通、農作物などの被害も二十一号台風のざっと三倍、大きなツメ跡が各地に残された。

   運転手ら二人 トラックごと川に転落
東松山市唐子地先県道の月田橋の中央部十六メートルが流失、橋の上に小型トラックを止めて写真を撮っていた同市材木町、土建業関中組運転手【氏名略】(一九)と現場【氏名略】(二〇)の二人はトラックごと都幾川に転落したが約一キロ下流で付近の人に救助された。
このほか川島、吉見村などでガケくずれがあり、田畑約三百ヘクタールが冠水した。川島村中村地先の越辺川神明堤防が約二百メートルの長さにわたって地くずれを生じ決壊寸前にまでなったが地元水防団の補強工事で難をのがれた。
二十六日よる十時五十分ごろ、東松山市下押垂二十三戸百九十人は近くの都幾川早俣堤防が増水により危険状態になったため、同市災害救助本部では同十一時民に避難命令を出し、民は野本小学校に避難した。
    (『産経新聞』埼玉版1958年9月28日)

月田橋上で写真を撮っていた東松山市材木町土建業関中組自動車運転手【氏名略】(一九)同組現場監督【氏名略】(二三)と付近の子供五人が一緒に流されたが、発見が早かったため奇跡的にも全員助け出された。
    (『東京新聞』埼玉版1958年9月28日)


古老に聞く 農士学校と重忠公の像2 関根茂良

2008-08-19 17:00:49 | 千手堂

 小柳通義氏が本村を訪れたのは昭和三年(1928)初夏の候。六十歳の頃である。
 小柳氏は明治の漢学者根本道明博士の弟子で、漢学の権威として当時の学界に重きをなし、一高、慶応等の講師に聘されたが、辞して受けず、専ら野に在つて、漢学の研究に一生を委ねた。
 この小柳氏がある日、浄瑠璃、鎌倉三代記(紀海音作)を読んで、畠山重忠の行跡と武蔵国小衾郡菅谷の館の件りに逢着。懐旧の念禁じ難く、その遺蹟を探ねて、本村を訪れた。 駅頭に立った小柳氏は、先ず、畠山館蹟を訪ねて、山王沼を経、現小学校敷地を貫く村道から城に入ったらしい。この時沼に辺りで現村議根岸巷作氏の家人に道を問うたことが、後日明らかになった。根岸氏の家人が沼で養具を洗っていたというから、小柳氏の来村は、丁度今頃若葉の薫五月の初めであったと思われる。
 その当時、武蔵嵐山は、根津嘉一郎氏により「新長瀞」の名で、漸くその風趣が、都人に宣伝され出した頃、小柳氏は、更に新長瀞探勝を思いついたのであろう。ここにゆくりなくも、小柳氏と関根茂良氏の邂逅が起った。
 昭和六年(1931)、庄田友彦氏が現在の嵐山道路を開くまで六角堂下の川沿いに僅かに魚とりの通う仄路が新長瀞に続いていた。これを辿るには関根氏の前庭を過りその西側の谷から川岸の道に出る外はない。小柳氏は剌を通じて関根氏邸内通過の許可を求め、恰も在宅の関根氏に、菅谷村探訪の意を語った。斯うして、小柳関根両氏の交りが始ったのだという。
 この年(1928)十一月十日、今上天皇御即位の大礼が行われた。当時在郷軍人分会長であった関根氏は上京してその式典に参列し、その帰路、日暮里の宿に小柳氏を訪ね、ここで、重忠像建立の議が決したのだという。
 もと重忠館趾については大正十二年(1923)県知事から百三十円の助成を受けて畠山重忠菅谷館趾史跡保存会(会長山岸徳太郎氏)が結成され、その保存に務めていたことは、重忠像下の碑文で明かであるが、像建立の趣意を述べたものは、像近辺の碑文に残されていない。
 像落成の昭和四年(1929)の秋日、「忠魂義胆懐武士道」の頌德詩一篇が小柳通義氏の手に成り、銅板に刻まれて、像の傍に建立されたが、戦後心なき輩により、この銅板は盗み去られた。然し幸にその詩文の原文は、中島喜一郎氏が蔵せられ現存している。(本誌[菅谷村報道]第八十五号所掲) 
 農士学校を相して、東方主事長の一行が来村したのはこの昭和五年(1930)の夏、(前号で四年の秋としたのは誤り)これ又、中島喜一郎氏の蔵する「日本農士学校建設秘誌」によれば、「昭和五年七月十三日、菅原茂次郎を伴い……味爽萬居出て、東上線を武州松山駅に下車し……転じて菅谷駅に下車し……遠山越の隧道上高地に立って東方を瞰下すれば図上旧城址と思しき辺りに白紗の衣を干したるが如く見ゆるものあり、夫れと相距る程遠からぬ地点に、又真白で切り立てたる石塔様のものが見えた。伝々」とある。今、廃懐し去った忠霊塔である。
 こうして前号でのべた関根茂良氏の語る、農士学校用地選定の端緒は、秘誌の筆者、東方・氏によって、明かにその裏付けがなされ、紛れない史実として、後世に伝えられるべきものとなるのである。

     『菅谷村報道』133号(1962年5月15日)


古老に聞く 農士学校と重忠公の像 関根茂良

2008-08-18 18:39:35 | 千手堂

 菅谷地内の、字城と呼ばれる地帯が、鎌倉初期の畠山館址であり、戦国末の菅谷城址である。今その本丸址の中心地点に丈余の角柱が聳え、その正面には「雲山層々、緑水汪々、先賢之風、山髙水長」の墨蹟が、永く風雪の患に耐えて、人間精神の淸深を象徴している。ここはもと日本農士学校・金鶏神社の遺蹟で、学校は終戦に際し、占領軍の接収にあい、次いで国有に転じ、解かれて同窓会の手に移り、日本農士学校の発足となった。この標柱は、その頃解体した金鶏神社の遺材で建設されたものだという。

 昭和二十七年(1952)、学校は、県有に移り、県立興農研修所となり、学生は高い教養、美しい品格、広い見識を養い、農業経営の新しい知識技術を習得して、県内各地で農村の指導的人材となって活動し、又、南米の天地に雄飛した。然るに、近事著しい経済発展に伴う、農業構造の改善に即応して、研修所は更に農業研修センターに改組され、昭和六年(1931)日本農士学校創立以来三十年の道業は、ここに大きく改変されるという。

 「時は過ぐ、歴史は移る人の世に」而して「真理を究め技を磨き、正義を執りて国のため、世の為に尽くす誠こそ、これぞ宇宙を開く力である」と、農士学校創立者安岡正篤氏が諭し、在野の碩学小柳通義氏は「人道の起点・菅谷城」を説いたという。

 高い理想精神に導かれて、重忠の菅谷荘が新しい歴史の上に、どのような歩みを進めるか。これは一切、経世の先覚に委ねて、いまは暫く目を過去に集め、農士学校用地選定の事情を視い、これを記録に留めて村誌編纂の資料に備えんと希う。

 さて、農士学校に道縁深い関根茂良氏の談話によれば農士学校の創立は昭六年(1931)これに先立つ四年(1929)の秋[次号で昭和五年の夏に訂正]、元乃木軍参謀で陸軍大佐、当時金鶏学院の主事長であった東方寿氏が学校建設の地を相して本村を訪れた。比企郡内に三ヶ所位候補地があったという。本村ではたまたま遠山地内に山林の売り物があったらしい。一行は、遠山に入り目的の土地を検分したが、ここは険しい傾斜地で、とても、学校敷地の用に適さない。落胆した一行は、空しく帰路につき、道を大平山の山道にとり、やがてその山頂に辿りついた。ここは村内でも有数の、眺望絶景の場所で、眼下には槻・都幾の清流が田野をうるほして遠く地平に消え、森と林に包まれた平和な山村が 眠っている。ふと、目をやると、槻川に沿う緑の木立の中に何やら白いものがひらめいている。はて何ものかと、案内の村人に聞くとこれぞ、新建成った畠山重忠公の像だという。この時像はまだ除幕式が行なわれず、像を包む白の白帛が風にはためいて、東方氏一行の目をとらえたのだという。

 東方氏一行は、ここで忽ち重忠公の像を中心とする、菅谷城址の地相に心をうばわれた。何しろ重忠以来の勝地である。東方氏一行が期せずしてこの地に惚れ込んだのも、むべなる哉である。暫くして農士学校の敷地は決定したのだという。日本農士学校を、菅谷之荘に導いた畠山重忠像建立の由来については、明治の碩学小柳通義氏について筆をすすめなければならない。

     『菅谷村報道』132号(1962年4月15日)


「古老に聞く」連載開始に当たって 小林博治

2008-08-18 18:22:39 | 古老に聞く

村の教育委員会で、村誌編纂のことを始めるという。わが報道も早くから移り行く村の姿を筆にとらえ、カメラにおさめて、十余年を経た。今また失われ行く口碑伝説、風俗習慣の多きを憂えて、これを古老に聞き、文にとどめて村史編纂の資にも供せんと「古老にきく」の稿を起した。筆者を一定せず、有志相はかって、書きついて行き度い。
     『菅谷村報道』132号(1962年4月15日)掲載