goo blog サービス終了のお知らせ 

里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

里やまのくらし 21 広野

2009-03-05 19:07:00 | 広野

2007011web
  屋根屋職人
 農家にとって冬場の農閑期は、出かせぎなど現金収入の稼ぎ時です。内田勝造さん(昭和3年生まれ)は小学校を終えると父親の房吉(ふさよし)さんの弟子になり、屋根屋職人になりました。仕事は親方に教わりながら覚えます。使う材料が少なく、見栄えよく仕上げ、手間賃が少なければ喜ばれますが、その屋根が雨漏りせずに長期間持つかどうかが勝負です。信用は金で買えぬと言いますが、家の人が見て、あの屋根屋さんが葺いた場所は幾年持ったから次も頼もうと信用を得るのです。
 屋根屋は仕事に使う自前の道具は少なく、カケヤ(ガンギ)・カマ・ハサミ・ハリなどです。カケヤは杉板から自分で作ります。カマの長い柄の先に鍛冶屋さんに金(かね)で穴の開いたものを付けて貰い、縄を通すハリと小刀(サスガ)の代わりにしました。材料は草屋根の屋根葺きを頼む家で、カヤ、麦わら、竹、縄、足場丸太などを揃えます。葺き替えは屋根の前や脇の半分とかで、全部を一度に変えることはほとんどありません。期間は普通一週間から十日間位で、2~3人の職人が持ち場を決めて同時に始めます。手間賃は大工と同じ位でした。屋根屋は仕事先の家で朝食をご馳走になり、持参の作業着に着替えます。日暮れまで仕事をし、すすで汚れているので風呂をもらい、夕食を食べて帰りました。昔の農家は土間の向こうが風呂場で、きちんとした目隠しは無く、若いころの勝造さんは風呂にはいるのが恥ずかしかったそうです。

20070102web

  親子で
 ゑつさん(昭和2年生まれ)は1950年(昭和25)に嫁いできました。房吉夫婦と勝造夫婦はよその家の倍々働くことを心がけて、八年掛けて家の新築を準備しました。その頃、十万円あれば大工を頼めると言われていました。その甲斐あって1958年(昭和33)家の新築です。玉川村の元締めに頼んでおいた大黒柱用の欅(けやき)の木が見つかりました。紅赤(べにあか)と呼ばれている木肌がややくすんだ赤く固いものです。根元の所で六尺の臼を取り、大黒柱は長さ十八尺、幅一尺です。最上部は丁度凹みがあり、そこに食用油を一升入れて置きました。年月を経て油が少しずつ柱にしみ込み艶が出て、玄関を入ると直ぐ目に付きました。
 お風呂は五右衛門風呂にしました。火力があり早く沸くと勧められましたが、ゴミは燃せずに樫木(かたぎ)だけ、沸きも遅く、煙くて煙くて困りました。タイル張りの浴室は、しっかり作られており、直ぐに改造は出来ませんでした。
 ゑつさんは養蚕を一生懸命やりました。繭の出荷量は1969年(昭和44)に1129kg、1970年(昭和45)は1234kgにもなりました。1トン養蚕家です。家のどこに行っても蚕だらけで、母屋の庇(おろし)をずっと延ばして蚕室を作りました。長男夫婦は共稼ぎで、お嫁さんに「怪我したって、ころがしたって、気病まないで子守をしてほしい」と孫の世話を頼まれました。下の孫が小学校入学を機に養蚕をやめました。1990年(平成2)嵐山町の養蚕農家は全部で21軒に減っていました。
2007013web
     1970年代の大蔵・安養寺(柿沼芳弘写真集『比企がたり』1995年より)


里やまのくらし 17 広野

2009-02-18 21:14:45 | 広野

 2000年(平成12)まで石倉牧場を続けた酪農家の杉田五九(いつく)さん(昭和3年生まれ)、よしさん(昭和4年生まれ)のお話です。
1275web

  酪農の始まり
 広野で戦前から乳牛を飼っていたのは、宮田万蔵さん、永島丑太郎さん、内田房良さんでした。杉田さんの家では、戦後、牛はおとなしいので女でも扱いやすいからと勧められて、育ち遅れの乳牛を飼い始めました。農耕に使い、牛車をひかせている内に元気になり、種つけをして出産、1947年(昭和22)7月、搾乳を始めました。乳牛は出産後3ヶ月は一日3回、その後は朝と晩の2回、乳をしぼります。しぼった原乳は、缶に入れ井戸水で冷却保存します。よしさんは、毎朝、杉山の内田重男さんの庭先に運びました。杉山には、勝田、越畑、吉田の人達も自転車の荷台に一斗缶をつけて持ち込みました。
 その頃の酪農家の乳牛の飼育頭数は一頭が大半で、一日の乳量は一斗缶の半分か、その上くらいでした。一番出たときには一斗もあったので、「そんなに出るんかい!」と驚かれました。杉山から交代で、駅前の埼玉酪農菅谷集乳所にリヤカーで運びました。
2web

  婿入りの条件
 男手は一人だけだったので父親が留守をすると不安でした。それを見て叔父が仲人を買ってでてくれました。
 五九さんは婿入り話を持ち出されたとき、即座に四つの条件を出しました。婿入り四条件とは、

  一、母親を早く亡くしているので両親が健康で丈夫なこと。
  二、兄弟姉妹が四人位はいること。
  三、酪農が出来ること。
  四、酪農をやりやすくするため、近所の家が離れていることでした。

 五九さんは酪農に熱い情熱を持ち、大きくやってみたいと思っていました。乳搾(ちちしぼ)りをしている娘がいるということにも心が動きます。条件全てが当てはまり、1949年(昭和24)、十九歳の娘、よしさんと結婚しました。
Img_2868web
 
  石倉牧場
 1950年(昭和25)1月、武蔵北部酪農組合が設立されました。これまでの農業では、現金が入って来るのは年に数回でしたが、酪農は毎月乳代が支払われます。一年を通じて現金収入が得られるので急速に広まりました。「杉田さんのところは牛に恵まれているね」と言われるほど、家の牛で子牛を増やせました。それは、山を囲って運動場を作り、牛にたっぷり運動させたからです。
 七郷村の時代には、広正寺前の雑木林(かたぎやま)で牛の結核検査をしました。合併後、菅谷村の農政は酪農推進に重点がおかれ、畜産共進会や乳牛の貸付制度が始まります。杉田家では、両親は米・麦・養蚕に専念し、酪農は五九さん夫婦が担当しました。1958年(昭和33)広野で一番に、軽自動車の運転免許を取り、車を購入しました。車体には、石倉(いしくら)牧場と書き入れました。よしさんも1960年に軽免許を取り、夫婦で車が運転できるようになりました。牛の飼料や牛乳運びは耕耘機(こううんき)から軽トラに代わり、楽々坂道を上がれるようになりました。この頃は十二頭飼育していました。
 東京への出稼ぎに続いて、近くの工場や現場への就労の機会が増えて来ると、酪農の魅力もうすれてきました。さらに、乳代の低迷、飼料代の高騰などから、副業的な酪農家は減っていきます。嵐山町の酪農家は1965年(昭和40)の250戸、550頭、1970年の169戸、715頭をピークに急減します。
 石倉牧場は井戸や沼の水を利用していたときには頭数を増やすのにも限度がありましたが、町営水道がひかれたことで、1970年代中頃には50頭にもなりました。牛は石倉の山に放牧され、電気の通った鉄線で柵をしました。戦時中、兵隊が伐採した松山は、残った小松が成長して見事な松林になっていました。牛の放牧がよかったのか雑木はなく、秋になると松葉がきれいで黄色の絨毯(じゅうたん)を敷いたようだったそうです。
Web
     『嵐山町広報』2006年9月号より作成


志賀の水野倭一郎、令三郎ら新徴組に参加する 1862年

2009-01-11 00:55:28 | 広野

   水野家の気骨 幕末の激流に身投じる
 東上線武蔵嵐山駅の北西に位置し、細長い町のほぼ中央が志賀地区。江戸末期は志賀村で四家村ともいった。内田、大野、吉野、深澤の四家が村を支えていたためだが、この四家を束ねていたのが水野家だった。代々の名主で村一番の富豪。若き日の渋沢栄一がまゆ玉を背負って訪れたと伝えられている。この水野家は“気骨の家”としてまた知られている。
 安永四年(1775)生まれの水野清吾は、甲源一刀流を学び、比企地方に同派を広げ、弟子の数は、秩父三峰神社奉納額によれば「属弟千五百人」。その長男倭一郎は、新選組の母体となる浪士隊(のちに新徴組)に参加、刀一本をひっさげて幕末の激流に身を投じた。この時、倭一郎は四十二歳、一緒に連れて行った三男令三郎は十五歳だった。
 浪士隊=幕末の志士清河八郎が「京都の勤皇浪人を取り締まる」を名目に尊王攘夷(じょうい)のための隊を編成したもの=入りの話が倭一郎の元に舞い込んで来たのは文久二年(1862)暮れのこと。県内の武術を研究している埼大山本邦夫教授によれば「清河は甲山村(大里村)の郷士根岸友山と親しく、根岸は清吾の門人。この関係で倭一郎も誘われた」ようだ。
 倭一郎は門人の内田柳松らを集め、浪士隊への参加を決めた。村から出立は翌文久三年一月二十八日。この日朝、水野家の「士関演武場」道場に集まって門出の祝い酒を受け、江戸に向かったと伝えられている。
 浪士隊は、江戸小石川の伝通院に集まり隊を編成した。倭一郎は一番隊の副隊長格の小頭。この時、近藤勇や土方歳三は六番隊の平隊士だったから、名前は倭一郎の方が知れ渡っていたらしい。浪士隊は上洛したのち、江戸に戻って庄内藩酒井家預かりとなり、名称を新徴組として江戸取り締まりにあたる。倭一郎はここで隊剣術師範、酒井家との連絡を担当する取締付という肩書で隊の中心人物的な存在となった。
 隊の戦闘参加は、庄内藩内(山形県東田川、西田川、飽海郡)での戊申庄内戦争(慶応四年)だった。半年間の激戦の中で、倭一郎の活躍は目ざましく、わずかに残っている資料の中にも、敵の首を挙げたことが記されている。だが、一緒に戦った令三郎は、流れ弾がひざに当たり、戦死した。
 十九歳の若さで散った令三郎の戦死の模様を水野家に伝えてくれたのは、日露戦争の旅順攻撃の際、第九師団参謀長だった妻沼町出身の須永宗太郎中将。大正初め水野家を訪れた須永中将の話によると、令三郎は「戦は負け。出撃するな」という上司の警告を振り切って出撃し、戦死した。警告を守って命拾いをしたという須永中将は「学問も剣術も令三郎さんが上だった。生きてれば、私が中将なのだから大将にはなっていた」と家族に語り、その気骨ぶりをたたえたという。
 一方、倭一郎は、明治初め、郷里の志賀村に戻った。それも庄内藩での軟禁状態からの“脱走”だったらしい。令三郎を失った悲しみか、負け戦だったためか、新徴組のことはあまり家の者に語らなかったようだ。このため、倭一郎の逸話らしいものが伝わっていない。
 が、一つだけ、こんな話が残っている。倭一郎は志賀に戻ってから、また剣術を教えていた。出稽古(でげいこ)の帰り道、三人組の辻強盗に襲われた。一緒にいた根岸徳次郎は、「先生は簡単にやつける」と、かたずをのんで見ていた。ところが、倭一郎は懐から金を出し、その場を逃がれた。徳次郎が不思議に思って聞くと、「お前は火縄(ひなわ)のにおいが気づかなかったのか」。木の上から火縄銃でねらっていたもう一人の仲間がいたのだった。倭一郎は、銃のこわさを庄内戦争でいやというほど味わったためのものだろう。
     ◇          ◇
 現在(1978)、水野家を継いでいるのは、産婦人科医の水野正男さん。倭一郎について詳しく知っていたのは、叔父の水野円三さんだった。だが、円三さんは、先月十七日、脳いっ血のため八十二歳で亡くなられた。円三さんの口ぐせは「武士の家柄ということを考えろ」。死んだ時は、まわりをぐるっと見回し、涙を一筋流しての大往生だったという。「武士の最期みたいでした」と長男の信夫さん。

メモ:倭一郎の参加した新徴組は、不思議な団体で、勤皇派と佐幕派の浪士が混在していた。このため、隊から新選組が生まれ、尊王攘夷のために決起した筑波新徴組が出るというぐあい。原因は清河八郎の奇策にあったといわれる。庄内藩領地に行ってからも、勤皇の意思を持った隊員が官軍と戦ったり、庄内藩からは戦闘の際、必ず最前線を守らされ、明治になると軟禁状態で松ヶ岡(東田川郡羽黒町)の開墾をやらせられるなど、徹底的に利用された。
 新徴組を調べている山形県酒田市の小山勝一郎さんは、「私の家も庄内藩の士族の出だが、それにしても、藩の扱いはひどすぎた」と新徴組に同情する。山本邦夫教授の調査だと、県内での浪士隊への参加は四十七人。嵐山町からは六人となっている。
     『読売新聞』1978年(昭和53)5月12日 まちかど風土記90 鎌倉街道・嵐山


大正時代の正月行事 宮田金作

2009-01-01 14:19:01 | 広野

 嵐山町広野出身の宮田金作さん(1909年)生まれ)の自分史『軌跡』(1995年刊)。から、大正時代の正月の行事を回想している部分を紹介する(同書8頁~10頁)。嵐山町広野に初めて電燈が灯ったのは多分1928年か29年(昭和3、4)12月の下旬。正月に天井から吊るす神棚は「年神棚」(としがみだな)。小正月のモノツクリで宮田さんがオッカドと言っているのは、ウルシ科のヌルデではなく、ハナ木とよばれるスイカズラ科のニワトコ。

   正月は風にのって来る
 三、四歳頃の私は、ラジオも電燈もなかったから、家族揃って除夜の鐘を聞くこともなく、今のように、元旦に賑やかなお詣りに行くこともなかった。二日の朝、雑煮を食べ終わった頃、したの家の角を曲がって、「広正寺のご年始、広正寺のご年始」と露払いの声が風に乗ってくる。間をおいて和尚さんが綺麗な法衣を着て、右手に扇をもっていた。父が式台のある縁側で座って待っていると、年始の挨拶を述べ、広正寺名入りの手拭を差出していった。近所に私とおない年の「はるちゃん」がいてその兄さんが、広正寺年始廻りの露払いだった。鎌倉時代の旅装か江戸時代の飛脚のような出立ちで、金ぴかの鷹の羽の紋章のついた挟筥(はさみばこ)を担いできた。挟筥には手拭が一杯詰まっていた。その頃の私は、お正月は、和尚さんが風に乗せて連れてきてくれるものだと思っていた。

   思いでに残る正月行事
 官衛・学校の行事は当時から太陽暦によっていたが、農家の年中行事は総て旧暦に従っていた。旧暦は太陽暦に比べ一ヶ月程遅れていた。
 正月行事は、元旦前後の大正月と、十五日前後の小正月に分かれ、大正月は公的儀式や挨拶行事が目立ち、十五日前後の「小正月」は農耕と結びついた儀礼が集中していた。

   大正月の年男
 暮れの三十日大掃除が終ると、表廊下に面した八疊の二間に疊を敷き、あがりはなを隔てた土間に近いほうの八疊間の中央天井に神棚を吊した。神棚は新しく伐採した木の香の匂う小楢(コナラ)を八十㎝位に切断したものを小割にする。普通の薪より細く割られたこの楢材を正方形に並べて、切り口に近いところに同材の副木を当てる。
 その年に収穫した新しい藁の縄で、副木に小割の棚材をしっかりと締めつけて、四ツ角から吊り下げ縄は角錐状に固定される。この棚を作る仕事と、それを吊り下げて、既設の神棚から神様を遷座することは、当主である父の仕事だった。年男はわが家では、数え十五才になった男の子が勤めることに決っていた。この年男は次の男の子が十五才になるまで同じ男が毎年年男を勧める。その男の子がいなくなると、当主がこれに代る定であった。
 年男の仕事は元旦の早暁から始まる。家族の誰よりも早く起きて顔を洗い身を清める。新しい神棚に燈明をあげて、三ヶ日は毎日年男一人で雑煮を作って供へる。四日の朝から七草粥までは家族の整えた朝食を供へる。
 年男の行事は七日で終るのであるが、私は一年勤めただけだった。早朝の寒さをこらえながら、慣れない雑煮作りに閉口したことを、今でも時折り思出し郷愁に誘われることがある。

   小正月のモノツクリ
小正月は、農作物の豊作を祈って行う、予め祝う儀礼で、色々の作り物や所作で豊作の様子を模擬的に表現するのである。ツクリモノには十二繭玉・十六繭玉・削り花などその種類は沢山あるが、私の父の作る自慢の作り花は、近所のどの家のものより大きくそれは綺麗だった。畑の畔や境界に植えてあるオツカドは多年生で、楮(コウゾ)と同じように毎年刈り取るが、楮は年内であるのに、オツカドの刈り取りは小正月の十四日である。
 オツカドは根もとで三、四㎝真直に二メートル位に伸びている。夏の間、葉のついていたところが節になっていて、先に行く程節の間隔が短くなっている。父は刈り取ってきたオツカドを、作品の、三階バナ・十二バナ・
十六バナと種類毎に選び分ける。削る花は、ひと節に一個で、表皮をまず剥ぎ先の方から花弁が細長く縮れるように削る。左手許で、右手のハナカキ道具の動作と交互に廻して、花をふっくらと丸く仕上げる。ハナカキは、鎌の形で先に曲がりがあって頑丈な柄のついた鍛造刃物で、この曲がり部分を手際よく利用するのである。三階バナでは花の茎が二十㎝以上にもなる見事なものもあった。三階バナを台所の煤ぼけた大黒様に飾ると黒光りのしている天井や鴨居などとコントラストがよく、一段と美しく見えるのであった。
 十二バナは歳神様に、十六バナは蚕の神様へ供へ、アボ・ヘボは蔵や堆肥場に立てた。アボは削り花のついたもの、ヘボはこれのないものを云う。アボとは粟穂のこと、ヘボとは稗穂のことである。門松は一般に、七草粥までが松のうちのようだったが、その頃のわがふる里では、小正月に取り払いその後穴に、十六バナを二本並べて立てておくのであった。
 当時からオツカドを植えてない家と、無器用でアボ・ヘボを飾らない家もあった。そんな風にツクリバナは、根気と技術を必要とする仕事だった。父は器用な上、律儀な人だったから、昭和五年(1930)に六十三才で亡くなるまで、正月のツクリバナの伝統を守り続けた。まさに骨董のような人であった。