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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

節分には挙って鬼は内! 鬼鎮神社 1928年

2009-10-26 17:35:00 | 川島

 日本一の埼玉(八)
  節分には挙って 鬼は内! 鬼は内!
   まるで拷問部屋を見るやうな比企郡菅谷村の鬼鎮神社
 「福は内、鬼は外」は節分の豆まきに用ゐられる全国的共通語に違ひない……。鬼は悪魔としてわれわれの頭には幼稚園時代から桃太郎の鬼退治のお噺でこびりついてゐる。桃太郎の相手になった鬼ヶ島の鬼ばかりぢゃない。地獄の赤鬼、青鬼だって昔から坊さんどもの宣伝(?)で悪魔だと、爺さん婆さんの腹の底までもしみ込んでゐる。

 ところが鬼でなければ夜も日も明けぬといふ地方があるから面白い。節分の豆まきにも「鬼は内」といはなければ福の神が逃げ出してしまふとあって、一村挙って「鬼は内、鬼は内」と大声で怒鳴りたてる。東上線の停車場のある比企郡菅谷村がそれだ。この村の総鎮守は同村大字川島にある村社鬼鎮神社で、すべてをしづめるといふ鬼を祭ってあり、御神体は昔噺の絵本で見るのとそっくりの金棒である。鬼に金棒といふ言葉はここから出た言葉だと村人は信じてゐるらしい。

この神社に参詣する人は必ず鬼の金棒を奉納する事になってゐるので神社の境内にはこの金棒のみをつくって生活してゐる店が数軒もある。神社の周囲は全部各地から奉納した金棒で囲まれ、大きいのは長さ一丈二尺、五尺なんてのもあり、境内の至るところ鬼の金棒がゴロゴロしてゐる様は童話の鬼ヶ島乃至は地獄の拷問部屋へ行った様な感がある。この村へお嫁さんやお婿さんに行く人は節分に「鬼は内」といふことを夢忘れてはいけない……でないと話がむづかしくなるといふわけ。

 遺憾なのはこの村の福代りの鬼は赤鬼か、青鬼かはっきりしないことだ。どうでもいいやふなものの、社掌さんに聞いて見ると「サァ」といって言葉をにごすばかり。門前に売ってゐるお絵馬に赤鬼と青鬼が並べて書いてある。
     『東京日々新聞』埼玉版 1928年(昭和3)8月29日

※参照:鬼鎮神社については、『GO! GO! 嵐山3』の「川島」『里やまのくらし』の「川島」権田重良「川島の今昔」に多数の記事がある。


菅谷小学校3年生以上の児童で苗代害虫駆除の勤労奉仕 1940年6月

2009-10-21 18:20:00 | 1940年

昭和十五年六月廿九日    菅谷小学校長石川逸郎
菅谷村長殿
   苗代害虫駆除状況報告の件
標記の件本校尋常科第三学年以上二日間に亘り実施仕り別紙の成績を収め候段及報告候
  記
第一回 六月廿日
第二回 六月廿八日
苗代害虫駆除状況
字別  監督    回数  児童数 駆除害虫数
菅谷  関根    第一回 八八  一八八六七
    服部    第二回 八六  二九六〇四
          計       四八四七一
川島  長島     一  一九   八六〇七
    大谷     二  一九  二〇一二四
          計       二八七三一
志賀  初雁・山下  一  九四  三〇一七〇
    同      二  九〇  二〇七一七
          計       五〇八八七
平澤  杉山     一  四五  一五二六〇
    同      二  四四  一六八八二
          計       三二一四二
千手堂 木村     一  二〇   三一一八
    同      二  二二   六二七〇
          計        九三八八
遠山  内田     一  一九   三九五八
    同      二  一九   一五七七
          計        五五三五
大蔵  服部     一  六八  二一〇三二
    宮島     二  六七  三七六五一
          計       五八六八三
根岸  本郷     一  二〇   九七二五
    同      二  一九  一一二一五
          計       二〇九四〇
将軍沢 下田     一  三〇  一二四七七
    同      二  二八  一二九六六
          計       二五四四三
合計  二〇     一 四〇三 一二三二一四
           二 三九四 一五七〇〇六
          計  七九七 二八〇二二〇


菅谷小学校5年生以上の児童で麦刈りの勤労奉仕 1940年6月

2009-10-20 18:17:00 | 1940年

昭和十五年六月廿九日 菅谷小学校長石川逸郎
菅谷村長殿
   麦刈勤労奉仕状況報告
標記ノ件別紙ノ通リ及報告候
奉仕児童 尋五以上男女児童
麦刈リ勤労奉仕 昭和十五年六月廿二日
名 奉仕先   反別   監督 奉仕児童数
菅谷  中島仙太郎 五段   長島 二七
同   中島サダ  三段   同  二二
川島  島崎國治  三段   杉山 一八
同   権田織之助 六段   同  一八
志賀  多田浦吉  二段   初雁 一七
同   栗原七五郎 二段七畝 同  二四
同   根岸甚太郎 二段   同  一七
平澤  内田倭三郎 七畝   本郷 一七
遠山  山下豊吉  七畝   同  一二
千手堂 内田茂作  四段   服部 二九
大蔵  金井小市  二段   宮島 四六
同   金井栄一  三段   同  四六
同   金井好吉  二段   同  四六
同   柴田藤五郎 二段   同  四六
同   山下仁三郎 五畝   同  四六
総計        三町八段六畝


日本農士学校で東洋農道振興大会が開かれる 1940年8月

2009-10-19 23:30:00 | 1940年

   東洋農道振興 農士学校で
 比企郡菅谷農士学校(金鶏学院)では二千六百年並びに創立十周年記念に二本農道の振興を強調満、朝、台、支中堅農村青年に呼びかけ廿三日より二泊三日の東洋農道振興大会を開催する。参加者は付近農家に分宿、講演と実習、討論に新態勢下の農道精神と実践を昂揚、日本農人の本来の使命を具現する、参加者は二百五十名で講演は「世界文明における没落と農村文化」「日本農村の使命」
   『東京日々新聞』埼玉版 1940年(昭和15)8月18日

   東洋農道振興大会 きのふ菅谷農士学校で
      四百五十余名出席
 比企郡菅谷村農士学校(金鶏学院)では二千六百年、創立十周年記念に日本農道の昂揚東洋農業の確立を期し満、蒙、支、台農村中堅に呼びかけ廿三、四、五の三日間同校に東洋農道振興大会を開催。大会第一日廿三日午後一時、文部、農林、拓務三大臣代理、吉田前厚生大臣、土岐県知事外多数の来賓を初め満蒙支内地参加者四百五十余名出席、大会総裁酒井忠正伯司会で国家斉唱、詔書捧読後会長土岐章子爵の挨拶三大臣を初め来賓の祝辞、外地来賓の紹介あって日程入り。午後二時半より同校検校菅原兵治氏の「日本農村の使命」三時間に亘る講演あって第一日を盛会裡に終了、各参加者は村青年団員の案内で付近農家に分宿、夜は宿舎に班別の農本座談会を開いた。第二日は午前八時学監安岡正篤氏の「文明と農村」同十時よりは九大出身済南大学教授[空白(朱経古か)]氏の講演、午後一時より本部提出の「東洋農村指導人士の連契」「東洋農道振興の方策」に関する全員協議会を開催。第三日は外地関係者の隣村大岡村農業視察後午前十時より視察団の意見発表後午後一時午餐座談会を開き閉会する
   『東京日々新聞』埼玉版 1940年(昭和15)8月24日


安養寺で戦没者の村葬が行われる 1940年12月21日

2009-10-18 03:07:00 | 1940年

   弔辞
野辺の千草の霜枯れて満目蕭條たる此の日本村出身二勇士の村葬を執行するに當り謹んで弔辞を述ぶ。故騎兵上等兵藤縄茂樹君は今事変勃発後の昭和十三(1938)年一月習志野騎兵第十六聯隊へ現役兵として入営し武を錬り文を錬り聖戦参加を鶴首して待つ中昭和十四年七月故国の山河を後に征途に上り朝鮮龍山より北支派遣となり勇戦奮闘中北支山西省臨汾陸軍病院に於て名誉の戦病死を遂げられたり
又故歩兵上等兵星野幸吉君は補充兵としての任務を帯び家事に精励中名誉の応召により昭和十三年(1938)三月歓呼の声と萬才の旗と波とに送られ歩兵第二十二聯隊留守隊第二機関銃中隊に所属し北支方面にて戦斗中病魔の冒す所となり伊豫松山陸軍病院に入院後引続き自宅にて療養中不幸にして昭和十五年(1940)十一月病没せられたり惟ふに両勇士の愛国の至誠勇戦奮闘其の勲功等はこゝに縷々申し述べるまでもないことなれども軍人の本文発揮のため臣道実践を文字通り遂行し困苦に耐へ欠乏を忍び硝煙弾雨の中を獅子奮迅不幸にして病に殪るゝまでの苦斗は想像以上にして忠烈なる両勇士の行動は新東亜共栄圏の確立に将又新世界体制の建設の礎石たるものと信ず。抑も身を殺して仁を成すは軍人の本分なり生きては即ち股肱の責を全うし死しては即ち後人に範を遺し皇威発揚因りて以て益々遠く志以て達すべきといふべきなり
即ち爾後靖国靖国の神となり国を護り忠魂は村民の心を励まし又家名を挙げて不朽の誉を子孫に伝ふべし。忠魂以て瞑すべきなり
嘆けども両君は遂に帰らず。嗚呼悲しい哉
昭和十五年(1940)十二月二十一日
      比企郡菅谷村長  岩澤彌市

※1940年(昭和15)12月21日、大蔵安養寺で行われた戦没者(星野幸吉、藤縄茂樹)の合同村葬での岩沢弥市菅谷村長の弔辞である。
参照:冨岡寅吉日記 昭和15年(1940)12月


菅谷中学校新校舎建築功労者に感謝状 1950年7月

2009-10-16 22:14:00 | 1950年

   建築功労の三氏に感謝状授与
 中学校舎落成祝賀式に建築に際し特に功績のあった高橋重蔵、的野哲四郎、中島照三の三氏に次の如き感謝状並びに記念品として大火鉢が村長より授与された。

    感謝状
       文教施設株式会社
         社長   高橋重蔵
 貴社は菅谷中学校並附属建築工事に当り、犠牲的価格を以て請負ひ、然も工事施工に際しては極めて良心的にして工事に附随して起る種々の支障に対しては常に沈着勇敢に之を克服し、立派に本工事を完成したことは社長始め貴社関係職員の協力一致の結果であつて、其の心労と努力に対し金一封を贈呈し感謝の意を表する
  昭和二十五年七月二十一日
     埼玉県比企郡菅谷村長 高崎達蔵

    感謝状
              的野哲四郎
 菅谷中学校敷地拡張に当り率先土地を無償提供したことは誠に奇特の行為にして、感謝に堪へない、依つて記念品を贈呈し感謝の意を表する
  昭和二十五年七月二十一日
           菅谷村長 高崎達蔵

    感謝状
                中島照三
 菅谷中学校並附属建築工事に当り専門委員として終始工事の監督に当り本工事完成に寄与した功績は極めて大きく、村民の等しく感謝してゐる処である、依つて記念品を贈呈し深甚なる謝意を表する
  昭和二十五年七月二十一日
           菅谷村長 高崎達蔵

   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学校舎建築費収支概要 1950年7月

2009-10-15 14:59:32 | 1950年

   中学校建築費収支の概要(七月二十一日現在)▼収入の部 総額          321万5568円24銭  内訳 ○国庫補助金       30万0500円 ○村有財産売却代金    97万2500円   村有林立木      95万4000円   青年学校々舎     1万8500円 ○寄付金         77万6657円77銭   菅谷         12万3286円   川島         3万2598円70   志賀         12万6314円   平沢         6万3746円50銭   遠山         2万8010円   千手堂        5万3724円   鎌形         17万6326円57銭   大蔵         7万3315円   根岸         2万1271円   将軍沢        4万3066円   法人         3万5000円 ○繰入金        116万3500円47銭   廿二年度中学校施設費残金              1万3500円47銭   廿三年度中学増設積立金              40万円   廿四年度 同     15万円   廿四年度一般会計より支出              60万円○雑収入(預金利子)      2410円

▼支出の部 総額          308万6709円75銭  内訳○建築費         288万9925円50銭  1.工事費      283万8888円50銭    請負者に渡せる分             238万9117円    村で直営せる分   38万4063円50銭    設計報酬      6万5708円  2.敷地買収費     2万2965円     関根清一     1万円     中島仙太郎      2000円     根岸宇平       2600円     中島喜一郎      2000円     奥野喜蔵       2000円     道路敷地       4365円  3.整地作業費     2万8072円     甘藷代      1万5972円     車代         4600円     人夫代        7500円○事務費          4万3223円  1.委員手当      3万7900円     吉野         8700円     米山         9900円     加藤         7800円     中島       1万0500円     長野         1000円  2.出張旅費        5323円○雑費           15万3561円25銭  1.落成式費用     7万8798円     酒代       4万2000円     赤飯、餅加工賃    1400円     肴折         9800円     するめ        8000円     湯呑み      1万3800円     火鉢         2600円     人夫賃、燃料、其の他 1198円  2.雑支出       7万4763円25銭     委員懇親会費   1万1390円     接待費      1万1324円     地鎮祭上棟式費  1万6966円75銭     現場従業者慰労費 2万3451円     その他      1万1631円50銭

▼差引残額         12万8858円49銭◎支払未済額        15万1885円

▼予算に対する関係  予算総額       324万7800円  収入未済額       3万2231円76銭  予算残額        1万6109円25銭

   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学、新校舎落成へ 1950年5月

2009-10-14 11:53:00 | 1950年

   県下有数の新制中学校舎落成近し
 二六〇万円の巨費を投じて昨年十一月起工した菅谷新制中学校舎は7ケ月間の日子を費して愈々落成の運びをみるに至つた。この校舎が出来上れば新制中学校舎としては県下でも屈指なものとなり、その偉容はわが村の誇りとなることであろう。
 この校舎が優秀なる点は、県の設計者が称讃した様に、骨組みの材料が特別なものを使用してあることで、柱を筋交ひに組み、組合せ点はすべてクランプを用いて、堅固を極め、地震や暴風雨からの災害を防いでいる。トラス張り(合成張り)は平行トラスと共に更に強固なものにしてゐる。耐火設備には仕切りにプラトン、天井にプラスター・ボードを用ゐてゐる。屋根瓦は三州焼の一級品を使つてゐるがこれは小学校舎の屋根瓦と一見似ているが、より強固なもので県下でもこの種瓦を使用している所は殆どないであろうし、東京でも僅に最近出来上つた法務府ぐらいのものである。床板はすべて楢のフローリングを以て作り、室の仕切りには、この附近では使われない三分のベニヤ板で張られ各教室には全部電燈がつくことになる。又各教室の廊下側に壁があるのは黒板の字が光線の具合で光るのを防ぐと共に、廊下を通る人に気を奪われないためのもので、これ亦最新の設備である。以上の観点よりしてこの校舎が完成の暁は県下稀にみる立派なものとなるであろうと思われる。

〔吉野建築委員談〕 予定の竣工期日より遅くれたことは誠に申訳ないと思つております。江部組が設計の割には比較的安い建築費で請負つて努力してゐる点は認めてもいいのではないかと思ひます。この学校が出来上つた場合には県下に於ても有数の学校となると思います。
〔江部組社長高橋重蔵氏談〕 完成期日が大変おくれて村民の皆様方に対し誠に申訳がないと思つております。私としましては初志の希望をこの学校に生かして最後まで努力を続けるつもりでおります。学校が完成した時に村の皆様方からいい学校が出来てよかつたと云われる様に誠意を以てやる覚悟です。尚私の方で建築の際苦心しましたことは設計図面を短時日の間しか見なかつた為予想以上に木材を使用したこと、更に木材の等級を厳密に検査されたことであります。

   『菅谷村報道』2号 1950年(昭和25)5月20日


若者と考える嵐山町のイメージづくり 2 1988年

2009-10-13 22:32:49 | 1988年

   若者と考えるわが町のイメージづくり・PART2

   これからの嵐山町づくり
     「ぼくらに任せろ」とは言わないがー
二十一世紀を展望する町づくりの指針となる第三次総合振興計画について、前号【『嵐山町報道』365号】、前々号【364号】と関連記事を載せてきましたが、主役となる若者たちはどのようにかんがえているのでしょうか。本年一月号【360号】に続く第二弾として、今度は、青年クラブ、青少年相談員、手話を学ぶ会、4Hクラブなどの各団体の例会を訪問し、若い世代の飾らない声を聞いてみました。

  いい町づくりをするため まずこんなことから-
 今、町に各種の町民からなる委員会がありますが、どの委員会も同じようなメンバーで構成されていて、変り映えがしません。何人もの若者がはっきり意見が言えて、それを人生経験のある年配者がサポートしてくれたり、アドバイスして実現可能なものにしていくというかたちがとれるような委員会の構成と、時間帯(昼間が多いため、仕事を休まなければならない)とをかんがえてほしいと思います。もう一つ、ある団体の長あるために当て職としてくる委員というのをやめてほしいのです。人選はその団体に任せてもらって、適任者を団体のほうで選出させてほしいと思います。
 会議に出ても、ほとんど決定されたものを承諾し、それに従って行事を手伝うというかたちのものが多いけれど、できれば企画の段階から参加し、いっしょに考えていきたいと思います。

  ちょうどいい時期だから新町長には、こんなふうにしてほしい
一まず、任期を気にしないでほしい。短期の実績にこだわらず、長期展望にたって、ほんとうに町にとって良いものをつくってほしい。
一、素人考えをたいせつにしてほしい。実際そこに住んでいる人間が、いちばんその土地のことはよく知っているのだから。
一、嵐山町の産業の柱となるものをつくってほしい。
一、町のシンボルがほしい。魅力的なものが今何もない。
一、嵐山町全体をみると、施設その他、一方に偏りすぎている。
一、他町村がつくったからといってまねをせず、真に嵐山町にとって必要なもの、利用者が徐々に増えていくような施設をつくってほしい。
一、海外との交流も考えてほしい。

  では具体的には、どんな施策、施設を望むかというと-
一、町役場を、駐車場を多くとれるもっと広い場所に移転してほしい。
一、立ち入り禁止の立て札のない芝生と自由に散歩のできる道と、気軽に使える広場や空き地のある、広く大きな公園がほしい。
一、コンサートができるような野外音楽堂がほしい。
一、有料でいいから、開放的なスポーツ施設がほしい。現在テニスコートや体育館など無料で使えるが、登録制なのでめんどうだし、閉鎖的で町外の人々には使えない。
一、地区ごとの集会所を充実してほしい。
一、菅谷館跡を再現してほしい。
一、駅前の整備。すばらしい景観と、安心して買い物のできる道路づくり。できれば、町政や町内の事情が一目でわかるようなモニターテレビも。
一、ナイター設備をもつ宿泊施設。
一、ゴミ処理施設などマイナス面をもつものを利用して、レジャーランドやヘルスセンターなどをつくってほしい。
一、本格的な図書館。
一、スタジオ。楽器の練習をする場所を確保したい。
一、外国の学校の姉妹校を嵐山町につくってほしい。

  さあ、明日の嵐山町づくりを彼らに任せられるかな-
 出ました、出ました。言いたい放題、思う存分吐き出された希望の数々。けれど「なるほど」と思うことがありませんか。概して彼らは、間に合わせ的施策に対して批判的です。例えば、歩車道境界ブロックにフラワーポットやプランターに入れて置かれている花いっぱい運動。看板倒れともいわれるあいさつ道路の看板。舗装さえすればよいという、将来の見通しも計画性もない道路行政等など。八方美人的な行政はどこまでも間に合わせで、いちおうあります、いちおうやっていますという行政では、彼らの望む「嵐山町といえばコレ」という特色のある町づくりは、不可能ではないでしょうか。
 折しも中学生が祖母と両親を殺すという事件、兄妹四人がマンションに置き去りされた事件があった後なので、これから父親・母親になろうとする彼らに、「子育て」について質問してみました。

 子は親の背を見て育つといいますから、やはり自分が信念をもつこと、一から十まで完全な人間などいないのだから何かひとつでいい、これだけは自分がいっしょうけんめいやっているというものを持っていることがたいせつだと思います。また、間違ったときに、無理に押し通すことなく、訂正するという態度がとれることもたいせつだと思います。今の子供は親の働く姿を見ていないので、親の苦労を知らなさすぎます。生きることの厳しさを教えるためにも安易に物を買い与えたりせず、労働に対する報酬といったかたちで与えたらと思います。またどんなに忙しくても、いつも子供を見ていて、子供のことをよく知っている親になりたいと思います。

 以上簡単にまとめましたが、やたらに今の親を非難するということもなく、自分自身の意見をしっかり持った頼もしい青年たちでした。確かに、福祉の面ではほとんど何の意見もでませんでしたが、そういう面は年配者(経験者)が補っていけばよいのではないでしょうか。まじめで、年配者に対する敬意も持ち合わせ、意志もはっきりとした意気のいい彼らに、もう少し行政に参加してもらえたら、嵐山町ももっと何か変わった方向で魅力的な町となるのではないでしょうか。
 二十一世紀を目指す町づくりには、ぜひ、二十一世紀に主役となる若者たちに参加してほしいと思います。
   『嵐山町報道』366号 1988年(昭和63)9月15日


二十一世紀をめざす町づくり委員会が発足する 1988年7月

2009-10-12 22:07:00 | 1988年

   嵐山町ってどんなまち
     イメージアップの可能性を求めて
 嵐山町ってどんなまち-? みなさんなら、この問にどう答えられますか。
 確かに「町のイメージがいまひとつ」という声をよく聞きます。これまでは「自然と歴史の町」ともいわれましたが、そんな抽象的ことばから、鮮明な嵐山町のイメージが浮かんでくるでしょうか。
 今月号では、現在の嵐山町の姿を大まかではありますが紹介し、みなさんのイメージづくりの参考にしていただきたいと思います。

  メンバーは百人、まちづくり委員会発足
 現在策定されている総合振興計画の基本線に沿い、現状に即した見直しを行って、より計画に具体性をもたせるために策定されようとしている第三次総合振興計画。その概要については前号でお知らせしましたが、その後「二十一世紀をめざすまちづくり委員会」”も発足し、七月七日には第一回目の会議も開催されました。
 二十一世紀にむけての町づくりには、住民参加が必要不可欠。そして、よりよい町づくりのためには、町全体のバランスがとれたものでなくてはなりません。
 そこで、嵐山町の北部・中央部・南部の現状を把握し、それぞれの地域の特色を生かした町づくりが展開されるよう、今月号では、大まかではありますがまちの現状についてお知らせし、みなさんの未来の町づくりイメージの参考にしていただきたいと思います。
Web

  地域の特色を生かした町づくりがポイント
 まず南部地区では、「緑と清流の町」そして「自然と調和した文化的田園都市」を目指すわが町にとって、その目玉になるであろう県民休養地事業が進められています。
 左ページの図に示されるように、国立婦人教育会館、県立歴史資料館を含む二瀬(ふたせ)を中心とした、約四百ヘクタールにわたる区域が計画に組み込まれています。区域内は、公共施設区・田園景観保存区・運動施設区など七つに区分けされ、野鳥の森やオオムラサキの森、駐車場、ふるさと歩道などすでに整備されたものもあり、今後ほたるの里やサイクリングロードなど、数多くの施設が整備されていく予定です。
 次に中央部ですが、武蔵嵐山駅や役場・公民館などの公共施設が集中し、駅東区画整理事業や国道二五四号バイパス沿いの開発など、市街化区域として各種事業が着々と進んでいます。
  最後に北部地区ですが、従来からの農業が中心で、その経営の合理化や安定化を図るための各種事業が行われています。
 耕地の集団化を図り、近代機械化作業の導入による労働生産性や土地生産性の向上を目指す県営ほ場整備事業。その技術や経営能力を有する人々によって農業生産が担われるような、農業構造の改善を進めるための核的施設となる農業構造改善施設センターの建設。農業経営の安定の可能性を探るため、農家の方々にお願いして取り組んでもらっている薬草栽培。
 そして何といっても、農工調和した活力ある町づくりをすすめるため、県企業局によって着手された総面積百五ヘクタール、吉田・勝田地区にまたがる花見台工業団地の大型プロジェクトがこの地域では進行中です。

  胸を張って紹介できる私たちの町を
 さて、概略ではありますが嵐山町の現況について述べてきました。民間レベルの無計画な市街化や観光化が行われた後では、総合的な開発は夢に終わってしまいます。そのためにも、今から町全体のバランスのとれた計画・整備が必要とされます。「私たちの町はー」と胸を張って紹介できる町づくりをみんなで考えていきたいものですね。なお主要な農産物、公共施設・史跡などを図示してみましたので、今後の各種のアンケート調査や公聴会などでの参考資料としてご参照ください。

   『嵐山町報道』365号 1988年(昭和63)8月5日