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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

明治・大正期の葬式

2010-03-27 06:42:00 | 古里

 埋葬の仕方は、土葬から戦後になって火葬へと大きく変わってきたが、葬式の仕方も次第に変化してきている。村に残されている史料を基にまだ土葬であった明治期・大正期の葬式の様子を見てみよう。

  ご不幸がおこると
 ご不幸が起ると、まず近所に通知して集まってもらう。一家の人びとも集合して、ここで施主(せしゅ)を加えて葬式の相談をする。葬式の仕事は隣組が主になって執り行った。ご不幸を伝える「告げ人」、これは必ず二人組。役場、買い物、家まわりの諸雑用、穴掘りなどの分担が決まる(『嵐山町史』)。こんな様子が,現在残っている史料からうかがうことが出来る。ただし通夜(つや)【死者を葬(ほうむ)る前に、家族や親しい人たちが棺(ひつぎ)の前で一晩過ごす】のことはわからない。役場に行った人は埋葬許可証をもらう。これは役場の記録として年ごとに残されている(『埋葬許可証交付帳』)。大正時代は、遠隔地での死亡、伝染病以外は土葬であった。埋葬地は共有墓地が多い。悔香料控簿には香典(こうでん)・病気見舞い・忌明け(いみあけ)【喪の期間が終わって普通の生活に戻ること】参加者の氏名が記され、後の付き合いの参考にもする。親戚筋は香典の額が多い。家の財力によるのか、時代の風潮かわからないが大正期には、香典の額、振る舞いの費用が多い.蒔銭(まきせん)【葬儀のときに参列者にまく銭】も行なわれている。

  葬式の役割分担
 O家の場合
  1883年(明治16)6月 
  寺      2名
  触れ(10地区) 17名
  米搗き    2名
  勝手     1名
  竹細工    2名
  蓮台     2名
  幕張     2名
  箱作     1名
  寺の供    1名
  松明(たいまつ)1名
  札      1名
  板切     1名
  庶務     7名
  膳方     1名
  穴      6名
         47名

  1903年(明治36)11月
  小川買い物行き 2名
  触れ      4名
  米搗き     3名
  勝手係     1名
  竹細工     2名
  幕張・蓮台
  ・六地蔵・松明 4名
  寺の供     1名
  机持役     1名
  祓切掛     1名
  小持一切    2名
  穴       4名
          25名

  野辺の送りの役割
 N家の場合
  1910年(明治43)2月
   (死者:戸主の母)
   高張提灯   2名
   松明     2名
   位牌(いはい) 1名
   霊膳(れいぜん)1名
   棺掛     4名
   花籠     2名
   花      4名
   香炉(こうろ) 1名
   幡(のぼり)  5名
          21名

  1912年(明治45)3月
   高張提灯  2名
   松明    1名
   位牌    1名
   霊膳    1名
   棺掛    4名
   花籠    2名
   花     3名
   香炉    1名
   天外幡   2名
   幡掛    4名
   墓標    1名
         22名

  葬式の規模と費用
 O家の場合
  1903年(明治36)
   参加者 66名
   香典  30円50銭
   支出  26円66銭
   残    3円84銭
  【支出先】
   小川買物・かごや
   管理者・油揚・寺・役僧
   寺供・川島・酒・酢
   こんにゃく・穴
   米搗き・きよめ料
   玉砂糖・はらい色紙
   (寺社関係費用約半分)

 N家の場合
  1921年(大正10)
   参加者 77名
   香典  126円30銭
   支出  119円22銭
   残    7円08銭
  【支出先】
   饅頭(まんじゅう)580個46円40銭など引物が多い
   50人の人に食事を用意(スシ・煮物・すまし汁・酒)
   寺納め関係

参考資料
 安藤武家文書 1072番  大野益一家文書6,16,23番
 多田一男家文書12番   中村常男家文書786,896,977番
 根岸茂夫家文書215番  大野浩家文書 家計詳細録


古里「鎌倉稲荷」について 中村常男 1992年

2010-03-26 08:37:22 | 古里

 嵐山町の北端に位置する古里は、其の地名に相応(ふさわ)しく、相当古代から人文・政治・経済の拠点として、近郷近在の中心的な役割を果たしつつ栄えて来たものと考える。
 地形について見ても、古里の略々(ほぼ)中央の東西に集落を形成し、背後に山林沼沢を控え、前面等に豊沃(ほうよく)な水田地帯を有する一箇の別天地の様相を見る事ができる。
 又相当古代から拓かれた地域として、埋蔵された遺跡、古文書等、既に先人の指摘によって私達の知るところである。
 私達の今尚安住の地である古里に、幾多の先人達がどの様な日々のたたかいと、くらしのいきざまを展開して来たのか、現在に伝承された資料等によって、其の一部たりともあきらかにすることができれば幸いとするところである。今回は其の史実の一つである「鎌倉稲荷」について記したいと思う。
 明治三十九年(1906)頃からの国の施策によって、大字古里に現存し古里全体の氏神として、尊崇(そんすう)されて居た兵執神社と、それと同一の氏子を有していた、数多くの社祠が其の境内に移転合祀されたのである。
 「鎌倉稲荷」も現在、兵執神社の右方に移転され祀られている。本地は北方約一キロ、小字清水の山中にある、見上げるばかりの大鳥居、壮麗なる社殿と広大な境内を誇る、大社であった。鎌倉稲荷の起源・沿革等については今の処、確たる証拠となるものを発見し得ない。然し往事を知る二、三の推定を下す事はできる。
 其の一つは中村家に現存する絵図面によってである。此の絵図面は畳一枚程の和紙に、当時の古里の全戸、社寺、屋敷林等の大小、遠近、構成等が手に取る様に描かれているものである。文政十二年八月(1829)の検地による作成である。当時の古里は寺二、堂一、人家八十二、計八十六軒であった。此の古里全部を次に掲げる九人の旗本が、分割知行していた。

   知行所別一覧
長井又右衛門  名主 伴七
森本惣兵衛   名主 茂右衛門
有賀滋之丞   名主 仙蔵
内藤熊太郎   名主 弥十郎
林内蔵助    名主 清兵衛
           伊右衛門
市川伝八郞   名主 徳次郎
横田三四郎   名主 市兵衛
松崎藤十郎   名主 長左衛門
松崎弥兵衛   名主 仝人

 右に掲げた各九人の名主によって年貢の取立、上納、紛争の解決等、一切を取りしきって居た様である。鎌倉稲荷の社趾は現在コロニー「嵐山郷」の中にある。当時の絵図面にも其の箇所に、稲荷社の模様が描かれている。是に依ると先ず第門の長さは約六十間、道幅約五間に及び、社殿の境内には約五反歩を有したと伝えられている。
 更に第門の両側には亭々(ていてい)たる杉の巨木があった。又社殿の後方にも数本の杉の大木を主体とした森があった。飯島正治氏が小学生当時、祖父の福次郎氏と共に見た是等の木の切株は、其の周囲優に一丈を超えて居たと云う。此の杉は日露戦争の為に明治三十七、八年頃に伐採された。当時此の「鎌倉稲荷」の神木は遠く熊谷宿からも望見し得たと伝えられている。
 社殿は本殿のほかに、神楽殿、社務所等があり、丈余の朱塗りの大鳥居とともに、煌々と輝く灯火に映えて、実に壮観であったとの事である。
 又稲荷社から数百米南方に熊谷-小川往還が東西に走って居り、其処(現在の飯島信子氏宅付近)から、社に至る約六百米の参道があった。縁日に当る巳の番にはこの参道に、数限りない灯籠が灯(とぼ)された。
 又第門【?】の両側には、常時、酒、だんご、いなりずし其他もろもろの物を商なう、五、六軒の店があり、其他多数の出店が立並び実に賑やかであった。参道入口から社殿に至る間を、数多くの善男善女が列をなして参詣(さんけい)したという。
 関根長治郎氏宅の祖母の叔父に当る竹次郎氏は、門前に店を構えて居り、新井勘重氏の祖父に当る伊之助氏は、縁日等には必ず店を出して、酒、だんご、おでん等を売って居たとの事である。更に伊之助氏は本業である炭屋をやめて、門前前の商売の面白さにつられて、家を移転、店を構えようと計ったが家内に反対され、是を果し得なかった。お陰で新井家は今日あるものと思うとは、当主勘重氏(八十四才)の述懐であった。
 毎月、縁日の度毎に賭場が開かれた。胴元は熊谷駅の枡屋一家であった。はなやかな祭りの蔭に悲喜交々(ひきこもごも)の人生が展開された事であろう。明治三十九年(1906)移転合祀の際、共に運ばれて来た手洗い場の台石に、寄進は明治十五年七月吉日と記されている。更に近郷近在の奉納者三十九名の中に熊谷駅の枡屋一家五人の名が刻まれている事によっても、右の枡屋が賭場を取りしきって居たものと推定される。
 更に現在の処に祀られた「鎌倉稲荷神社」の側に、恐らく同時に運ばれて来たのであろう。旧社屋の鬼瓦数基が保存されている。是に刻まれている、交差する矢羽の紋様は実に珍しいものと思う。この鬼瓦が作られた時代についてもいつかは解明したいものである。
 後一件つけ加えると、中村家にはつい最近まで「稲荷社」と大書した「額」と燈籠(祭の時に新に紙を張り替え当時の風俗等を模写して、建て並べたもの)が数十基あったが、是は合祀された当時氏子総代であった為、私の家に預り置いたものと思われる。尚当時は既に社運も傾きつつあり、兵執神社の総代が併せて祭典を執行したいた。
 さて問題の一つは「鎌倉稲荷」の創設の時期である。大正末期頃確認された周囲丈余に及ぶ杉の切り株(推定約三〇〇年位)、絵図面に見る文政十二年(1829)当時既に亭々たる大樹であった事、其他古老の言を勘案するに、鎌倉の名を冠する社名と共に、鎌倉時代末期頃の創見にかかるものと思われる。
 問題の二は然らば最も隆盛を極めた時はいつの頃か、云い伝えによれば幾度か大火によって盛衰を繰り返した様である。史書にもあるように、文政七年(1824)、関東大水害、同八年、諸国に一揆起る。文政十一年、諸国に大洪水り、同年、越後大地震、同十二年、江戸大火、同十三年、京都大地震等々。打続く大乱のため、鎌倉稲荷も衰退した時期にあったものと思われる。前述の絵図面にも、大社の様相が判然とされて居ない事と併せて考えると、壮麗な社殿は其後再建されたものであろう。それから明治初期に至る、四、五十年間が最も隆盛を極めた時期であったものと推考される。慶応三年(1867)生れの飯島福次郎、十四、五才の頃は未だ祭りは盛大であったと、祖父から聞いた飯島正治氏の言である。
 最後に問題の三は、何故此処(当時交通の要路であった)に創建されたのか、又年久しく庶民の信仰の対象として隆盛を誇ったが、いかなる事態によって、いつしか凋落(ちょうらく)し来って崩壊の一途を辿(たど)らざるを得なかったのか、きらびやかに着飾った善男善女が列をなしたという、縁日の光景を脳裡(のうり)に描きつつも、此の事ばかりは私達凡人の到底窺(うかが)い知る処ではない。
 兵執神社境内に合祀された当時、既に社殿の傷みは相当進んでいたが、其後も尚神楽殿は何年か残り、遂に崩れ去ったとの事である。社殿の跡の近傍に二つの塚があるが、是も何かの関連があったのではないか、更にその一つに小さな鳥居を立て、参詣する何人かがある様だが、何か不思議の感を覚えた次第である。
 附記
 「鎌倉稲荷」についての記事を構成するに当り、飯島正治氏、吉場雅美氏、飯島文八氏、新井勘重氏等の方々の多大の協力を得ました事を特に記して、感謝申し上げたい。

   嵐山町教育委員会編集『嵐山町の研究』(一) 1992年3月発行

※鎌倉稲荷については、『新編武蔵風土記稿』、『武蔵国郡村誌』、『七郷村誌原稿』、『七郷村誌原稿(社寺明細帳)』、『神社明細帳』に記述がある。


菅谷神社境内社天手長男神社の由来 菅谷・笠原三郎氏談 2009年

2010-03-23 10:53:02 | 菅谷

   菅谷神社境内社天手長男神社の由来
          菅谷・笠原三郎氏談
 菅谷神社境内、本殿の東前に一坪程の建物があり内に、小さな社(やしろ)が祀(まつ)られている。
 菅谷の人は御手長様(おてながさま)と呼び、古来より火伏せの神、火防(かぼう)の守り神として祀られてあったと聞いているが、「菅谷神社由緒」の中に、当社に関する記載は見られない。
 戦後期まで菅谷宿(すがやじゅく)中央の神社入り口、高野(こうの)氏宅地内に祀られ、例祭が行なわれていたと聞いている。戦前期の社について詳細を語る人は少ない。
 菅谷在住の笠原三郎氏が父傳伝吉氏の話として、御手長様縁起の一端を語ってくれた。
 昭和十年(1935)十二月の菅谷大火の二、三年程前【昭和8年】に、宿の大上(おおかさ)にある農家の藁葺(わらぶき)屋根の母屋が火災により消失した。
 当時、お手長様(天手長男神社)は菅谷宿の、火伏せ(火防)の守り神として、東昌寺前の辻の道端の角地に祀られており、宿の人々に信仰されていたが、この火災により消失した。
 宿の人達は、火伏せ神の在所の火災により社も消失した事実に驚いて、ご利益の有無について論議が交わされたと言う。
 火災が一軒で留まり類焼を見なかったのはお手長様の御利益が有ったという説と、母屋の火災により御手長様まで焼失したのは御利益が無かったとの二説に菅谷宿の人達が別れたと伝えている。
 社の再建が大上に為されたかは不明だが、菅谷大火後と思われる時期に、宿の中程の神社入り口南側の高野氏宅地内に移されて例祭が行なわれている。
 その後、昭和六十一年に完成した菅谷神社大改修の際に、境内社として移され、現在の場所に祀られている。
 例祭日は十二月二日である。(2009年 菅谷・権田重良)


梅の香と人の世は 菅谷城跡を尋ねて 15 熊谷泰作 1957年

2010-03-01 23:25:40 | 熊谷泰作

 二の丸に名残りを留めて三の丸、搦手(からめて)門に向う。
 すでに原子力時代の息吹を身に感ずる今日、私自身がどのように生活しどのように勉強していくかということは、日本人としてどのように生活し勉強していくかにつながり、そしてそれは人類がいかなる方向にどのように生活しどのような勉学を希望と夢をもって続けていかなければならないかという直接課題につながって行くのではなかろうか。
 暗雲と迷低の間に真の人間の尊さを捧げて「水漬(みづ)く屍(かばね)草生(くさむ)す屍(かばね)」と散っていった第二次大戦の尊いぎせいに対して、生きて今日残っている私達は、尚遠く人類の歴史に目ざめて愛に生き真実をつらぬいて手をつなぎ合って世界平和の道に邁進(まいしん)することを願う心で一杯である。
 三の丸搦手門にたつと前方に明るい清らかな校舎を見る。菅谷中学校である。ここに勉学する若き人達よ真に人間愛と希望に生き「青春に悔いなく人生に幸あれ」と願うのみである。
            梅香る菅谷城跡搦手の門にて
                慕郷の旅人  熊谷記

   菅谷中学校生徒会報道部『青嵐』8号 1957年(昭和32)3月

*:軍歌「海ゆかば」の一節。原歌は万葉集に収められた大伴家持の「陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌」。
   海行かば 水漬く屍
   山行かば 草生す屍
   大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
   かへりみはせじ