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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷4Hクラブ新役員・事業計画 1959年

2009-04-22 14:32:00 | 1959年

 菅谷地区4Hクラブでは、二月三日総会を開き、三十四年度の新役員、事業計画を次のように定めた。
◇役員
会長  杉田善政
副会長 内田昇
書記  高橋秀男
圃場係 関根秀男
会計  長島崇
冨岡秀、小林二三郞、村田宏吉、吉野了、多田一男、関口明元、高橋博、根岸一男、内田延正、内田清司
◇事業計画
 毎月一回定例会を開き事業の実施について協議をし、各自及び共同プロジェクトについて研修する。女子クラブ員加入の場合に於いても協議し新に事業を計画する。
 二月 菅谷4Hクラブ定期総会、小川地区4Hクラブ地区連絡協議会定例総会、第八回埼玉県4Hクラブ実績発表大会参加、研究圃場の管理、土入れ、中耕、麦踏。
 三月 個人プロジェクトの決定、プロジェクトグループ結成、先進地見学県内圃場管理、麦中耕。
 四月 研究、圃場、夏作共同プロジェクトの計画を確立す、クラブ員花見。
 五月 圃場夏作播種及び圃場管理。
 六月 圃場小麦収穫。
 七月 圃場夏作物管理。
 八月 地区研修会参加(レクリェーション、映画鑑賞)、圃場管理。
 九月 演示大会開催、及び地区郡大会に参加、三十五年度圃場夏作の計画、県内視察自転車。
 十月 圃場陸稲収穫、水稲立毛共進会(クラブ員)
 十一月 県4Hクラブ共進会参加、圃場麦播種。
 十二月 圃場管理、麦の中耕、県外視察、先進地。
 一月 実績発表大会、地区、郡に参加、新年会、一年の計画について。
 二月 定期総会。
     『菅谷村報道』97号 1959年2月15日


比企郡下初の菅谷4Hクラブ発足 1950年1月

2009-04-21 14:28:00 | 1950年

   比企郡下初の菅谷4Hクラブ発足
      会長に長島宗作君
 「4Hクラブ」というのは、一般の人には耳新しい言葉だと思うが、此のクラブはアメリカで発達した農業普及制度の一部で、各の指導者が中心となって、青少年を指導する組織で、三十五年前から「スミスレバー法」に依りアメリカでは立派な成績を挙げてゐる。
 我が国でも昨年度から普及制度が始められ、十才から二十五才迄の青少年を対象として、改良普及員が中心となり、村長始め村の各種関係団体幹部、農業改良普及員が協力者となって、青少年の、男は農業、女は家事の年に一つ以上の課題を選んで研究し、社会のためになる様な事業のやり方を教へ、会合の運営方法、事業計画のたて方を訓練し、これ等の仕事を通じて共同精神を養ひ、責任観念植付けて、将来立派な社会人としての人格を涵養し、技術的にも教養を高めて行く、云はば社会教育を自主的訓練に依って行うことを本来の目的としてゐるもので、次代の民主的農村経営者を作る自己的訓練(ママ)の組織である。
 このクラブの信条は、

一、頭脳HEADの訓練をして、物事を考え計画し分別する力を養う。
二、心HEARTの訓練をして、親切で同情心に富み誠実なる人となる。
三、手HANDの訓練をして、他人に役立つ有用で優れたわざを磨く。
四、健康HEALTHの訓練をして、人生をたのしみ病気に打ち勝ちそして仕事の能率を上げる。

 4Hとはこの頭脳、心、手、健康の四つの英語の頭文字をとってつけられたものである。
 本村に於ては菅谷七郷地区が4Hクラブのモデル地区に選ばれた為に、岡部農業改良普及員及び農業改良委員等有志の援助に依り、比企郡下の町村に先んじて一月二十三日菅谷中学校庭に於て県農業改良課長出席の下盛大な発会式を挙行した。その組織及び役員は次の如くである。

・会長
・副会長
・支部委員
 川島、菅谷、平沢、千手堂、鎌形、遠山
・部長
 農業部長、文化部長、体育部長、家庭部長
 青年部長 クラブ会員(二十五才まで)
・書記
・会計
 中学部長 中学部 クラブ会員
 菅谷小学部長 菅谷小学部 クラブ会員(小学五、六年生)
 鎌形小学部長 鎌形小学部   〃      〃

 会長長島宗作、副会長大野角造、青年部長吉野栄一、農業部長儘田弘三、文化部長山下賢治、体育部長内田満、書記大野昌三。

 長島会長談=此のクラブは今迄の青年組織たる奉仕的青年団とは異なって総ての事業を自主的に運営し、男子は農業経営の改良に、女子は農村生活の改善に其の研究目標を選んでゐるのが特色であります。本年一月二十三日発足以来、数次の委員会を開催し、会の組織の強化並に食糧増産の方法、農業経営改善について討論を続けて今日に至りました。今後は尚一層会を強化して、皆様の御期待に添う様努力致します故、村民各位には「クラブ」の目的を好く御理解下され、御指導を御願致します。
     『菅谷村報道』1号 1950年(昭和25)4月20日


通勤者の増加で消防団員の獲得が困難に 1958年

2009-04-20 01:01:00 | 1958年

   菅谷区消防団危機に直面
    区長に嘆願書を提出
 第一分団第一部(菅谷区)の団員十四名は、一月三十日根岸巷作区長に対し、団員の組織強化に関する嘆願書を提出して速やかな善処を要望した。嘆願書の要旨は次の通り。

 二百七十数戸という本村最大の戸数を有する当字に於ては、最近特に村外通勤者が多くなり新入団者もなく、在家する同僚も種々の理由から入団を拒まれてをり、家業にたずさわる一部の十数名のみが、その団員に留まらざるを得ない現況であります。その為めに退団者に対する補充は極めて困難となり、現在欠員あるにも拘らず今尚退団を申出ている者もある実状であります。それに加え昨年自警団の解散により吾々団員の責任と負担は益々加重であると考え、団員一同慎重なる審議の結果、左の通り希望を決議します。

一、入退団及運営等に対(こたえ)る積極的援助に当る組織を早期実現せられる事
二、昭和三十三年度以降における区の公職の選考に当っては団員の兼職をせざる事

 この嘆願書にみられる通り、菅谷区は最近特に通勤者が増加し、家業に従事している者でも入団が拒否されているため、団員の獲得が極めて困難となり、菅谷区消防は危機に直面している。このため区では三月中に区民大会を開き、この対策を協議する。
     『菅谷村報道』87号 1958年(昭和33)2月25日


千手堂青年部、農産物品評会を開く 1950年12月

2009-04-19 00:20:00 | 1950年

   千手堂青年部
     農産物品評会開く
 十二月九・十・十一日の三日間にわたり、第三十七回農産物品評会並びに第一回児童学芸品展示会が千手堂青年部主催によって同里仁堂(公会堂)に於て催された。穀菽(こくしゅく)・蔬菜・園芸等各般にわたって二五〇点の出品を見、特に今年は白菜・甘薯の品質に飛躍的向上が見られたが、根菜類は昨年度に劣る傾向がうかがはれた。優良品二〇点を選び、夫々に実用的佳品(籠・熊手・笊)等を與へた。尚今年は同青年部試作地で落花生の新種八種を栽培し、種子用として驚異的廉価で販売し、民から心からの喜びと感謝とを受けた。児童学芸品の出品は一〇七点で金銀赤賞をえらび。各々に佳品を與へた。民、老も若きも、眼をほころばし、更に他からの参加者も加へて延八百人の盛況ぶりであった。尚此の品評会の運営資金は、一反歩の青年部試作地の農産物売上げ金を主とし、理髪其他青年部の奉仕的事業による収入によってまかなはれた。
 同青年部長瀬山節男君は次の如く語った。
 「大正二年(1913)以来、三十七回の回数を重ね、持続出来ましたことは、民の強い後援があったればこそです。若い青年達にとっては、他の青年達が自由に遊んでゐますのに、会場作り、受付け、審査、あとかたづけと仲々大変ですが。多くの人々に喜ばれたことは、やり甲斐を感じます。農産物の品質の改良と共に、青年の試練の行事として、漸進的に発展を期し度いと存じます。」
     『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日

※穀菽(こくしゅく):穀類と豆類。


菅谷村社会教育委員、高坂村公民館を視察 1950年10月

2009-04-18 23:26:00 | 1950年

   公民館設置運動具体化
 予(かね)て懸案中の本村公民館設置運動はいよいよ具体化して来た。村文化運動の一翼として公民館の設置は早くから村民の間に要望せられていたところであるが、これに呼応して本村社会教育委員は去る十月十二日、高坂村公民館を来観した。委員拾数名、あらゆる角度から同村の公民館を研究し、公民館の設置、運営等に関する基本的資料を得たので、これ等を参考として愈々本村の公民館設置に乗出すことになった。
 因(ちな)みに公民館といへば、誰でも一応独立の立派な建物を連想するが、建物は決して必須条件ではなく、役場の会議室のやうな所を利用しても、充分その機能を発揮出来るのである。即ち公民館の行ふ事業は定期的な講座を開設したり、討論会、講習会、実習会を催したり、図書等を備へたり、体育やリクリェーション等に関する集会を開くことなどであるから、村内に存在する集会場、広場、神社、寺院等を利用してうまく運営すれば、特定の建造物を設備しないでも、立派にその目的を達成することが出来るのである。
     『菅谷村報道』10号 1950年(昭和25)12月25日


興農研修所生徒募集要綱 1956年

2009-04-17 00:14:00 | 興農研修所

 高い理想と、由緒深い伝統とを以って、天下に名高い興農研修所は、本村名物の一つとなっているが、この程来年度の生徒募集要項を次のように発表した。
▽卒業の進路
 一、自家営農
 二、農業改良普及員
 三、海外発展
▽募集要項
 募集人員 本科 五〇名
 修業年限 本科 一ヶ年
      研究科 一ヶ年
 入所資格 農業高校(その他の高校卒業生)
 願書〆切 昭和三十年三月十五日
 選衡日  同三月二十日
 選抜方法 口頭試問、筆答試問、身体検査、内申書参考
 学資   授業料は徴収しない。但し、食費のみ納入
 其の他  全寮制度全員収容
     『菅谷村報道』65号 1955年(昭和30)12月20日

   興農研修所学生募集
「農村振興の偉業は、有為の青年人材の手にまつところが大である。智徳兼備の青年人材を育成することが研修所の第一の任務である。そこで、新時代にふさわしい高い教養、美しい品格、世界的視野に立つ広い見識を涵養させ、更に新しい農業経営に必要な諸々の科学的知識、高度の栽培技術、機械化技術を習得させる。又、海外進出にそなへて、移民事情の知識を与える。」
 この目標を掲げた研修所の学生募集は、新春元旦より開始される。
 清流槻川の水を眼下に、武蔵嵐山の景勝を近くに、はるか西方には雄渾秩父連峯をみはるかす優美豪壮な大自然、全面積二十三町歩、耕地八町五反歩の豊富な教育環境。所員、講師は天下に名だたる名流、大家、けだし天下に比類ない人間形成の道場であろう。

 募集要項次の通り
一、募集人員
 (一)本科研修生
   研修期間 一カ年
   定員 五〇名
   入所資格 各種の高等学校を卒業した者、又これと同等以上の学力を有すると認めた者。
 (二)研究科研修生)
   研修期間 一カ年
   定員 十五名
二、本科研修生入所手続
   入所志望者は八円郵券を同封し、入所願書及び関係書類を当所教務係に請求し、左の書類をとりそろえ所長宛に提出すること。
 (一)入学願書
 (二)内申書類(学校長経由
 (イ)最終学校卒業証明書
 (ロ)同 学業成績書
 (ハ)同 人物証明書
 (二)市町村長推薦書
三、出願期限
 昭和三十二年一月一日より三月十五日まで。
     『菅谷村報道』76号 1956年12月25日

参照:埼玉県立興農研修所が設立される


七郷地区の農事研究会「八日会」の活動 1950年代後半

2009-04-16 17:54:00 | 七郷地区

①八日会水稲共進会 1956年
 私達の八日会では恒例の水稲共進会の審査を去る十月廿三日参加会員十七名に依って実施した。入賞者は左記の通りである。

  氏名(反収、品種名)
一等
 中村常男(3石3斗0升8合、中生新千本)
 千野久夫(3石2斗7升5合、金南風)

二等
 中村栄一(3石0斗3升8合、中生新千本)
 持田市三(3石0斗3升7合、金南風)
 大久保義勝(3石0斗1升5合、金南風)
 田島菊(3石0斗0升4合、金南風)

三等
 永島栄(3石0斗0升0合、金南風)
 強瀬長重(2石9斗9升2合、金南風)
 小林辰見(2石9斗8升5合、中生千本)
 安藤専一(2石9斗7升3合、金南風)
 永島倍久(2石9斗7升0合、金南風)
 強瀬米蔵(2石9斗6升1合、金南風)

◎審査終了後、水稲作及其の他の問題に就き研究懇談した。結論として次の諸点を得た。
 1 成績で見る様に金南風の普及は驚く程である。品種に就いては金南風、中生千本が良い。
 2 燐酸、加里分の増施と無硫酸根肥料の施肥が必要である。
 3 農作物の増産に就ても村当局農協一体となって適切な施策を講ず可きである。

     『菅谷村報道』76号 1956年(昭和31)12月25日

②八日会昭和33年度事業計画 1958年
 八日会は昭和三十三年度の事業計画を次のように決定したが全会員張切って自己の研究に進む覚悟であると云う。
  一月 新年宴会 一人一研修案 俳句会
  二月 農家経営診断(関根先生)
  三月 衛生講話(宮崎先生)
  四月 蚕桑研究会(花見兼現地視察)
  五月 畜産研究会
  七月 話し方研究会
  八月 科学研究会(田畑先生)
  九月 水稲審査会
  十二月 反省会 俳句会 来年度事業案の立案
     『菅谷村報道』86号 1958年(昭和33)1月25日

③八日会昭和34年度総会 1959年
 八日会は去る一月八日、新年祝賀会を兼ね三十四年度総会を七郷中学校において開催した。来賓として青木村長及び市川農協組合長を招き盛会であった。尚左記の如き三十四年度事業計画を討議、承認した。
月別  行事 備考
一月  総会及新年宴会
    俳句会 講師安藤専一氏
二月  水稲作の研究 普及員
    農協懇談会 農業組合長
三月  農事放送の実際 先進地視察
    養豚研究会
四月  林業試験場見学 鉢形及玉淀
    花見会
五月  村政研究会 村長
     (主として予算に就いて)
六月  休会
七月  養蚕座談会 指導所技師
     (夏秋蚕の飼育及経営)
八月  県会傍聴 浦和
    映画鑑賞
九月  科学座談会 田畑先生
     (月ロケット等)
十月  水稲審査会 会員圃場
十一月 休会
十二月 反省会
    来年度事業の立案
附記
 八日会は会員三十数名にして、良い家庭人、良い社会人になる為に、真剣に努力を重ねてゐる修養団体である。(中村常男氏提供)
     『菅谷村報道』97号 1959年(昭和34)2月15日


④八日会水稲共進会成績 1959年
 八日会(会長久保寅太郎)では十月十九日、会員三八名の水稲を審査し、左のとおり入賞者を決定した。
         反当収量
一等 藤野守一  三・一九
二等 田島菊   三・一九
〃  永島栄   三・一二
三等 中村栄一  三・〇一
〃  松本茂   三・〇八
〃  小沢文定  二・九八
〃  新井重秋  二・九八
〃  永島倍久  二・九三
     『菅谷村報道』106号 1959年(昭和34)12月10日

※八日会句会については、「八日会句会の農民俳句」を参照


村は積極的農業政策の推進を! 山田巌 1958年

2009-04-15 18:03:00 | 嵐山地域

   危機に立つ日本農業
    村は経営合理化に積極的農業政策の推進を!
 今よく農村に聞く言葉に、「働く嫁は貰ひたし家の娘は宿場の嫁に」といふ言葉が御座居ます。これが農村の風潮を表現している言葉の様です。なぜだろうか? これは現今の生活が都市労働者の収入に比較し意外に低く、経済状態そのものが戦後二、三年を絶頂とし、下向の一途を辿って居り、自分の可愛い娘にも思ふ様な小遣も呉れられない実状そのものが、子を持つ母親の心境となって表現されていることは、いつわりのない所である。
 数年前より農家経済の合理化が声高く叫ばれている。而し乍ら農村の実状は遅々として、合理化の方向へ進んでいない様に考へられる。今や日本農業は転換の岐路にたたされて居る。食生活の改善に伴ひ、米の消費量は戦前の国民一人当り消費量一石に対し、現在の都市居住者一人当たり五斗五升~六斗となっている。麦の消費量は大麦の消費減を小麦の消費増で補ひ戦前の消費量を維持している。今や農家の頼みの綱は養蚕であるが、二、三年前の繭の争奪戦もどこ吹く風、昨年の国会を通った業者間の生産制限法により、今までの買手市場から売手市場に変ってしまった。そして今まで、俵二十四万円もしていた生糸も輸出不振と化学繊維の大進出により俵十九万円を維持するのに汲々の様である。この結果、生産者の貫当り繭価は千四百円は争えない価格となった。当地方の特産の甘藷も今までは馬鹿にならない農家収入であったが、今や甘藷を食用とする時期は過ぎ、大部分が加工用となり、保証される価格は二十四円五十銭となってしまった。
 ここに日本農業危機説の唱えられる原因がある。本村がその例外では決してあり得ない。ここに本村の農業収入の実態(推定)を出し参考に供したい。
 米の収益(自家消費を含む)九千八百万円
 大・小麦(〃)五千二百万円
 養蚕(四万貫)六千万円
 畜産(養豚、養鶏は資料なきため略す。和牛は計算出来ず。)
 牛乳日産十一石年間収益二千万円
大体以上となる。
 これを該当農家戸数、頭数で調べて見ることにする。
 米を農家戸数千三百戸として収益計算をすると、一戸当り平均約七万三千円、麦は約四万円、甘藷は約一万三千円となり、養蚕農家は八百戸として約七万五千円となる。ここに無視出来ないのは畜産収入(乳牛)である。現在飼育頭数は二百五十頭(搾乳、育成)である。飼育農家は一五〇戸一頭平均八万円、一戸平均十三万三千円となる。
 之を畑計算にして小麦六俵(一俵二千円)、甘藷五十俵(一俵三百円)で計算し、二万七千円となり、肥料代を三千円を差引くとすると純益二万四千円となる。【畑一反歩からのおおよその年間利益】
 乳牛一頭年間搾乳量二十石として(石五千円)で十万円となり、この五割【五万円】を飼料代として差引いても楽に畑二反歩の利益【二万四千円×二=四万八千円】に匹敵する結果となり、土地の肥培管理の面も考へ合せ、一石二鳥の結果となって現れている。
 本村畜産(乳牛)は二十六年(1951)を一〇〇として、頭数にして二〇八となり、利益に於て三四〇の数字を示している。故高崎村長の家畜導入補助金の是非が論じられたが、その成果は遅々としてではあるが数字の上に現れている。奨励的意義は大きものがあってと思考される。
 この畜産の収入が示す如く、農家経営の合理化は畜産を加味せずにはあり得ないとは現実の数字そのものが如実に物語っている。
 この際、村当局に於ても本村農業政策の基本的なものを打ち出し、農業危機打破の体勢を確立し、農業生産率の上昇を期し、購買力を高めることこそが、中小商工業者の繁栄をもたらしめる最大のものではなかろうか。そして、本村構成の七割の農民の切なる希望に応える唯一の道ではなかろうか。
 比企郡酪農の中心は我が菅谷村にある。三つの酪農団体の事務所を持ち、三つの牛乳処理工場も存在している。この菅谷村を「牛乳と密の流れる豊かな明るい平和の郷に。」
 大方の皆様方の御批判を乞う。(山田巌 筆者は菅谷酪農協会参与・村議)
     『菅谷村報道』87号 1958年(昭和33)2月25日


菅谷村畜産と自給飼料 吉場雅美 1958年

2009-04-14 17:58:00 | 古里

   研究 菅谷村畜産と自給飼料
 家畜の冬期における飼料需要期をひかえて購入飼料の手当買いは増しているようだ。我が第二(馬内)二十七世帯中畜産農家は十六戸、この中十三戸は多少にかかわらず飼料を購入しているのだ。この十三世帯の三十二年度の飼料購入額は大体次の様だ。
 麦糠(むぎぬか)に換算すると二百六十俵余りとなる。
 三十二年度の金額にすると一九五八五八円となる。家畜の少ない馬内内ですら右の様な統計が生ずるのであるからこれを菅谷村全村に見ると驚くべき巨額に達するであろう。
 経済的変動などによって最近の乳価安と一方飼料高の現象がつづき、酪農ブームも漸次下り坂の傾向を示してきた。従って飼料自給を中心とした合理化を図り生産コストの引下げをする以外には方法がない。私は五年間の酪農設計書の実績を取りまとめて過去の体験をも総合的に考えてみると次のような基礎的な対策が必要であることがわかった。

 一、購入飼料を与えることを合理的にへらす。
 一、自給飼料作物を計画的に作付けて給与の研究とする。
 一、協同購入によるような飼料購入方法の研究が必要である。
 一、飼料作物の反収を増大するような栽培技術の研究をする。

五年間の年平均飼料価額(昭和28年以降)
 大豆粕で10貫、麬8貫、糠麦8貫
 年(大豆粕、麬、糠麦)
28年(1405、697、620)
29年(1700、757.50、560.40)
30年(1706、784、639)
31年(1638、745.80、640.40)
32年(1755、830、753.30)
平均価(1640.80、762.86、642.62)

 二十八、九年の月別飼料価額の変動は実に烈しきものがあった。

昭和三十二年度月別飼料価額の変動
 月(大豆粕、麬、麦糠)
1月(1750、810、690)
2月(1750、830、730)
3月(1760、860、730)
4月(1830、845、725)
6月(1830、845、725)【ママ】
5月(1830、850、755)【ママ】
6月(1730、830、730)【ママ】
7月(1740、820、755)
8月(1740、860、780)
9月(1750、820、785)
10月(1740、820、775)
11月(1740、840、780)
12月(1700、840、780)

 麦は地方の価額を大体取りまとめたものですが、村民各位が多少なりとも参考にして購入飼料を少しづつでもへらしたら、菅谷村の発展の一露ともなるであろう。(古里 吉場雅美)
     『菅谷村報道』86号 1958年(昭和33)1月25日


「報道」より見た1965年(昭和40)

2009-04-13 09:59:00 | 嵐山地域

 村史編纂責任者に小林博治氏を決定した。
 農業委員会長に関根村長が選ばれた。
 三月定例会で助役に七中校長の安藤専一氏が議会の同意を得て決定した。
 三月二十五日、菅中体育館が完成した。
 四月十五日、体育館落成及び合併十周年式典が行はれた。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1964年(昭和39)

2009-04-12 09:58:00 | 嵐山地域

 「報道」百五十号発行記念祝賀会は二月十一日、信金菅谷支店の二階で開かれ、保存者の六名を表彰した。
 七小中給食室完成、二月十日給食開始、工費二八六万円、給水タンク二〇万で総計四一九万円である。
 菅谷中央簡易水道完成。日本水道が二千六万円で落札して工事をしたもの。
 太郎丸の精進橋は五月完成した。
 菅谷幼稚園は四月開園した。根岸忠与氏が園長で定員八十名。
 小林助役辞任、五月末日で十七年にわたる収入役と助役の生活から退いた。
 九月六日に行はれた村長選挙は新人関根茂章氏が前議長の青木高氏を圧倒的に引き離して三代目の村長に就任した。関根村長は三十九才の青年であり「愛と道義の行政」を基調として、理想の田園都市を建設する基本方針を述べた。
 九月の定例村議会で議長に奥平武治氏が選ばれた(十代目)。
 教育長金子慶助氏は十月二十六日急逝した。教育委員長関根昭二氏を葬儀委員長として教育委員会葬を二八日に七小講堂で執行した。
 社会教育主事補の井上文雄氏は十一月十八日死去、十二月一日の教育委員会で教育長に奥住清氏を選任した。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1963年(昭和38)

2009-04-11 09:56:00 | 嵐山地域

 七中技術科教室完成、建坪四〇坪、物置三坪、テラス一〇坪、工費二五五万円。
 村史編纂委員会発足。
 嵐山駅-古里間バス開通。
 将軍沢ダムの建設計画があり、三年計画で調査することが明かになった。
 小川信用金庫菅谷支店が新築完成し、四月二日披露の祝賀式が行はれた。
 町制施行準備委員会は八月三十日菅小で開かれ、会長に青木高議長、副会長に市川武市氏を決めた。
 十月、村会議員選挙があり十二名の新人が当選した。議長に山下欽治氏が就任した(九代目)。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1962年(昭和37)

2009-04-10 09:54:00 | 嵐山地域

 新村建設五ヶ年計画(三十五年~三十九年まで)を立案。
 二月、大映の「情熱の詩人啄木」の映画ロケが鎌形小学校であった。
 四月、役場事務機構を改革し、新たに課制を設け四課一室となった。
 庁用自動車を購入した。
 消防団長に松本晴次氏が選ばれた。
 小川町、玉川村と三町村の連絡の焦点である谷川橋は五月落成した。工費二四〇万円。
 六月定例村会で小林博治氏が助役に再任された。
 十月、議会議長に青木高氏就任(八代目)。
 鎌形小学校創立七十周年記念祝賀会は十一月三日、同校校庭で行はれた。
 収入役に関口高吉氏が選任された。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1961年(昭和36)

2009-04-09 09:52:00 | 嵐山地域

 新庁舎落成式は二月二十五日菅中講堂で行はれた。将軍沢と鎌形地区に建設予定の嵐山カントリークラブの地鎮祭が三月九日に行はれ、ゴルフ場建設が本格化した。
 五月、平沢に栄建設が分譲地を造り売り出した。これをきっかけに各所に団地が造成され、団地ブームが生れた。地価の値上りはこれから始まった。
 内閣官房副長官細谷喜一氏は五月十二日「茶の湯と人生」と題して講演した。
 小川信用金庫の菅谷出張所は六月十五日支店に昇格した。
 収入役安藤安雄氏は八月一ぱいで辞任した。
 東武バス武蔵嵐山線が九月十六日開通した。
 明星食品嵐山工場は十月から操業を開始した。
 八月の臨時村会は農業高校の存廃問題、村有土地を明星食品、根岸電材等に売却する問題、向山光学問題などをめぐって論議が沸騰した。
 十月臨時村会で瀬山修治氏が議長に就任した(七代目)。
 十一月、嵐山ゴルフ場の竣工式。
 十二月、役場職員組合は給与引上げで村長と団交したが要求が入れられないので闘争態勢をとった。このため廿四日に予定されていた比企中部一周駅伝競走は中止になった。
 村長は二十四日午後、組合側の要求を入れることを即答したので解決したが、村長は「課長制をとる考えである」と述べ、中島執行委員長は「長い間の不満の爆発である」と組合側の立場を訴えた。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


「報道」より見た1960年(昭和35)

2009-04-08 09:50:00 | 嵐山地域

 七郷農協の有線放送は四月に通話を開始した。総経費五一一万円。
 四月一日から七郷支所を廃止した。
 九月四日の村長選挙では青木義夫村長が無投票に近い状態で当選した。
 作家の今東光氏は大蔵安養寺の住職として八月二十五日入山式を行った。また、この模様は日本テレビで放送された。夜は七時過ぎから約一時間にわたり、菅中講堂で講演した。
 役場職員組合が結成され、執行委員長に中島立男氏がなった。組合員数は二十五名である。
 十月の臨時村会で青木高氏が議長に就任した(六代目)。
 一月に新庁舎建設委員会が結成され、五月に敷地が決定した新庁舎は、十二月二十五日に落成した。総工費は本館一〇二九万円、附帯工事百三十万円である。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日