滞納整理月間
村長以下全員出動 女子職員も
村では、八月十日より九月十日までを滞納整理月間として、強力に納税を督促しているが、三十年度以前のものについては、主として税務係が、三十一年度分については、村長以下全職員が出動して督促に当っている。これは女子職員も加えて分担区域を定め、月間中随時滞納者を訪問して、納税の督促をすることになっている。分担表次の通り
▽七郷地区
第一、二 田島、権田
第三、四 中島、大野
第五、六 吉場、山下
第七、八 長島、高崎
第九 十 村長、飯野
第十一、十二 土橋、千野
第十三、十四 森下、山下さ
第十五、十六 田畑、水島
第十七、十八 助役、浅見
第十九、二十 安藤、中村
▽菅谷地区
菅谷 権田、中島
川島、志賀 浅見、田畑
平、遠、千 大野、田島
鎌形 高崎、千野
大、根、将 助役、吉場
『菅谷村報道』82号 1957年(昭和32)8月31日
島崎年治さんは川島の島崎国吉さんの三番目の弟で、竹雄さんの叔父に当ります。尋常科を卒へ、高等一年をすますとすぐ社会に飛び出したということです。少年の頃は腕白で両親をしばしば手古摺(てこず)らせたといいます。はじめ高崎市の某家と縁組したが、一年半位で解消、上京して下谷の麩(ふ)製造所に雇はれ、ここで大恋愛されて、養子になれとすすめられたが、青雲の志に燃ゆる島崎さんはこれに満足せず更に転じて千葉県内の麩屋に入り麩の製造に専念して技を磨いた。此処で一人前の腕を得た後、千葉市より三里ばかり離れた曽我【蘇我か?】の麩屋の職人となったが、遂に独立して商売をはじめた。その頃は経済的にも相当困窮していたという。たまたま徴兵検査で帰省した時、相当な身支度をした来たが、これは弟の借物であったという。その後、心に決する所があり完全に独立して営業を開始し、苦心力行を続けた。その辛抱振りは曽我の家の娘を魅了し、遂に近所の人達にもすすめられて、結婚して千葉寒川片町に所帯を構えた。島崎さんの独立独歩、苦難に屈せぬ、精神が、今日の成功の基をなしていると思う。
その後内務省の御用商人となり、大いに活躍し、現在は千葉市港町に堂々たる旅館を営み、貸家を十二軒も所有していると聞く。妻君は千葉市の副市長の職にあるという。島崎さんの勇猛心と、これを助ける賢妻の内助の功が、後進者に対する大きな教訓である。
『菅谷村報道』25号 1952年(昭和27)9月1日
〝美しき五月となれば…〟ハイネだかの詩の一節ではないが、美しき自然の景の展開と共に農家はいよいよ仕事に忙しくなる。お茶つみはそのはしりのようなもの。然しこのお茶づくりはなかなかの仕事で今どきの若い者は殆どしたがらない。昔ながらの老人が昔ながらの方式でやっている、茶炉の中に炭を活けて、上に和紙を何枚も張りつけた台を置き、湯洗をしたお茶を手でより合せるのである。そこには機械的な何ものもない。原始的な方法で今もお茶を作って飲んでいるわけである。然しお茶の味はこの方が機械茶よりうまいということである。それだけ風味があるのだろう。人工衛星が飛ぶ時代にあまりにも非近代的なこのお茶つくりは然し何かロマンチックではなかろうか。
およそロマンチックなるものほど非科学的なのである。吾々はこれからこの村に残っているロマンチックなるものを訪ねて歩こうと思う。やがてはこれらのものが滅び去り消えうせてしまうからである。それはロマンチックなものの必然の運命であろうから……。
『菅谷村報道』89号 1958年(昭和33)5月30日
写真右側の人物は紺屋(こうや。屋号)の中島元次郎氏である。
2000年(平成12)まで石倉牧場を続けた酪農家の杉田五九(いつく)さん(昭和3年生まれ)、よしさん(昭和4年生まれ)のお話です。
酪農の始まり
広野で戦前から乳牛を飼っていたのは、宮田万蔵さん、永島丑太郎さん、内田房良さんでした。杉田さんの家では、戦後、牛はおとなしいので女でも扱いやすいからと勧められて、育ち遅れの乳牛を飼い始めました。農耕に使い、牛車をひかせている内に元気になり、種つけをして出産、1947年(昭和22)7月、搾乳を始めました。乳牛は出産後3ヶ月は一日3回、その後は朝と晩の2回、乳をしぼります。しぼった原乳は、缶に入れ井戸水で冷却保存します。よしさんは、毎朝、杉山の内田重男さんの庭先に運びました。杉山には、勝田、越畑、吉田の人達も自転車の荷台に一斗缶をつけて持ち込みました。
その頃の酪農家の乳牛の飼育頭数は一頭が大半で、一日の乳量は一斗缶の半分か、その上くらいでした。一番出たときには一斗もあったので、「そんなに出るんかい!」と驚かれました。杉山から交代で、駅前の埼玉酪農菅谷集乳所にリヤカーで運びました。
婿入りの条件
男手は一人だけだったので父親が留守をすると不安でした。それを見て叔父が仲人を買ってでてくれました。
五九さんは婿入り話を持ち出されたとき、即座に四つの条件を出しました。婿入り四条件とは、
一、母親を早く亡くしているので両親が健康で丈夫なこと。
二、兄弟姉妹が四人位はいること。
三、酪農が出来ること。
四、酪農をやりやすくするため、近所の家が離れていることでした。
五九さんは酪農に熱い情熱を持ち、大きくやってみたいと思っていました。乳搾(ちちしぼ)りをしている娘がいるということにも心が動きます。条件全てが当てはまり、1949年(昭和24)、十九歳の娘、よしさんと結婚しました。
石倉牧場
1950年(昭和25)1月、武蔵北部酪農組合が設立されました。これまでの農業では、現金が入って来るのは年に数回でしたが、酪農は毎月乳代が支払われます。一年を通じて現金収入が得られるので急速に広まりました。「杉田さんのところは牛に恵まれているね」と言われるほど、家の牛で子牛を増やせました。それは、山を囲って運動場を作り、牛にたっぷり運動させたからです。
七郷村の時代には、広正寺前の雑木林(かたぎやま)で牛の結核検査をしました。合併後、菅谷村の農政は酪農推進に重点がおかれ、畜産共進会や乳牛の貸付制度が始まります。杉田家では、両親は米・麦・養蚕に専念し、酪農は五九さん夫婦が担当しました。1958年(昭和33)広野で一番に、軽自動車の運転免許を取り、車を購入しました。車体には、石倉(いしくら)牧場と書き入れました。よしさんも1960年に軽免許を取り、夫婦で車が運転できるようになりました。牛の飼料や牛乳運びは耕耘機(こううんき)から軽トラに代わり、楽々坂道を上がれるようになりました。この頃は十二頭飼育していました。
東京への出稼ぎに続いて、近くの工場や現場への就労の機会が増えて来ると、酪農の魅力もうすれてきました。さらに、乳代の低迷、飼料代の高騰などから、副業的な酪農家は減っていきます。嵐山町の酪農家は1965年(昭和40)の250戸、550頭、1970年の169戸、715頭をピークに急減します。
石倉牧場は井戸や沼の水を利用していたときには頭数を増やすのにも限度がありましたが、町営水道がひかれたことで、1970年代中頃には50頭にもなりました。牛は石倉の山に放牧され、電気の通った鉄線で柵をしました。戦時中、兵隊が伐採した松山は、残った小松が成長して見事な松林になっていました。牛の放牧がよかったのか雑木はなく、秋になると松葉がきれいで黄色の絨毯(じゅうたん)を敷いたようだったそうです。
『嵐山町広報』2006年9月号より作成
村有林管理を大根将へ
採草、雑木の刈取等を条件
村有林、主要樹木の育成を目的として、此の程村【菅谷村。現嵐山町】では、この管理を大根将(おおねしょう)の全区民に委託し、十年間の契約期間を定めて、採草、落葉の利用、雑木の刈取等の利用権を認めて契約を結んだ。
この村有林は将軍沢字南鶴の山林二町六反九畝と、将軍沢字仲町の山林三町四反九畝の二つで、南鶴の山林は大蔵区長大沢久三氏が代表で区民三七名、仲町の山林は将軍沢区長鯨井軍次氏、根岸区長小沢武夫氏が代表で将軍沢三九名、根岸五名の区民が利用することになっている。契約事項は概略次の通りである。
1 採草、落葉の利用
2 雑木の刈取(松、杉、檜以外) 鉄塔下の雑木林は、雑木林として育成管理する。
3 松林については(天然生のものを含む)、松樹の成長に伴い林相を害せざる程度で稚樹の整理を認める
4 樹齢が経過し間伐の必要ある場合は村長と協議の上処理すること
5 その他管理上必要ある場合は村長と協議のこと。
尚利用者は責任を以って良心的に管理をなすことを条件として利用料を徴せず。契約条項に違反した場合は解約することとなっている。
『菅谷村報道』30号 1953年(昭和28)2月25日
今から六十年前の大正十二年(1923)九月一日の関東大震災は、十三万五千戸の家を焼き、九万一千人余の人名を奪ったというが最近また、地震についての情報が多くなった。
地殻変動、日本海中部地震、東海地震等は私達に何かの警告を示す思いがする。今の世の中の人口密度、建造物、交通網がもしあの時のような地震の為に寸断されたらどんな惨事が起こるか、思うだに身ぶるいする。
ところで大正十二年(1923)といえば、この地方では(鎌形)電気関係のものは一切なく報道機関も日毎に配達される新聞のみ、それも僅かの家庭であった。交通も自動車の通るのは珍らしく一部の人が自転車、あとは徒歩であった。汽車に乗るには、熊谷、鴻巣又は坂戸まで行かねばならぬ。(嵐山駅は同年十一月【菅谷駅という駅名で】開業)
東の空が真赤
そんな時突然大地震が起きた。九月一日、昼ごろ風のない蒸し暑い日だった。何かにつかまらないと立ってはいられない。地面に座りこむ激しい揺れである。余震が何回もくり返す。その度に戸外に飛び出す。棚の物や家屋の壁、屋根瓦等が場所により落ちた。
その夜、東の空一帯が真赤に染まった。何事だろうかと近所の人達が集まって騒いだ。
三日ばかり新聞も来ない。翌日学校に行くと先生が新聞紙、半切の号外を手にして東京の大災害の話をしてくれた。幸いにしてこの地方には地震による被害はなかったがその後悪い色々な噂が各地に起こり、自警団まで組織して徹夜警備に当たった。何事もないのに警鐘を乱打して世間を騒がせたのであった。
当時私は十五歳であったが縁故者が東京に居たもので叔父に連れられて、東京の焼野原も歩いたし浴衣一枚、素足のまま親戚に向かう人達とも会っている。裸になっても命だけ助かったことを喜んでいた。こうした悲惨な情景はいつになっても忘れられるものではない。六十年過ぎた私の頭にいまだに残る「関東大震災の歌」を記してこの稿を終る。
関東大震災の歌
1 天に自然の道理あり
人に天賦のみ魂あり
自然は人を制すれど
人また自然を制すなり
2 時これ大正十二年
九月一日 正午ごろ
大地俄に 揺ぎ出し
縦また横に ゆすぶれて
3 家は破壊し人潰れ
山は崩れ 土地はさけ
世の破滅かと思はれて
人に生きたるここちなし
『嵐山町報道』316号 1983年(昭和58)9月10日
参照:関東大震災と菅谷村 1923年
関東大震災下の七郷村被害調査と救援活動 1923年
将軍沢日吉神社例大祭は十月二十日、二十一日の両日行はれたが、このお祭りには毎年古くから伝わっている獅子舞が奉納された。二十日には大通りを練(ね)り歩いただけであったが、二十一日には明光寺(みょうこうじ)境内で舞った後、五穀成就(ごこくじょうじゅ)、天下泰平(てんかたいへい)の大万灯(おおまんどう)を先頭にホラ貝、笛、太鼓を鳴らしながら秋晴れの道を静かに練って日吉神社(ひよしじんじゃ)境内に行き「めじしかくしの舞」をもって獅子舞は終った。
この獅子舞は殆ど小学二、三年生の児童によって行はれるが、おかざきという花傘を冠った子が四人ササラを持ち、獅子を冠る子が三人、大ぶれという軍配を持って舞の中心になる子が一人の計八人で、その他笛を吹く人七人、唄を唄う人五人である。唄は「ななつごが今年はじめてささらすり よかれわるかれほめてたまわれ」など四つある。本村に現在残っている獅子舞は越畑、古里とこの将軍沢の三ヶ所だけになってしまったが、いづれも県の無形文化財に指定されている。「村としてもこのような文化財保護については、何らかの考慮を払う必要があるのではないか」と、ある古老は語っていたが、この風習がいつ頃から行はれてきたのか、又神社の祭神は誰なのかについても定かでない。
『菅谷村報道』84号 1957年(昭和32)10月31日
「こまもん」の家に、大正11年(1922)、当主の四代前の権田文五郎が菩提寺の広正寺*1で作成した過去帳がある。過去帳には延宝六年(1678)二月没「浄室妙江信女」、宝永二年(1705)十一月没「宝山道性信士」以来の先祖の戒名が書かれている。
八代前に権田友次郎がいる。友次郎の名前は大蔵より菅谷に向かう都幾川の学校橋の北の坂・蛇坂(へびざか)に文化五年(1808)に建立された「水神塔*2」に刻まれている。この石碑は地元では蛇坂改修記念碑と伝えられている。この坂を行き来した多くの人々の労苦と念願により改修された坂道の完成を記念した碑であろう。菅谷村を始め、志賀、太郎丸、広野、杉山(以上嵐山町)、水房、和泉、羽尾(以上滑川町)と川北の村々の名前が読み取れる。上部に、「上川島 権田友次郎、水房村 宮島八十八、羽尾村 山下良七 山下長五郎」とあり、世話人とも思われる。権田友次郎は文政六年(1823)十二月に亡くなっている。
友次郎が商いをしていた記録はないが、その後、馬次郎、喜藤次、恵助と三代八十数年間にわたり、権田家は小間物商を続けた。
各地に鬼神講が作られ参詣者が増えると、その道筋は鬼神街道、鬼神道といわれ、道標が各地に建てられた。現在、開発により多くは不明になっているが、東松山市内の八幡神社門前の三叉路に立つ数基の石碑の内に鬼神道の道標がある。「嘉永三年(1850)四月吉日 右川島一里三十町 左小川志賀」とあり「願主 鴻巣宿 柿屋長三郎 世話人 小間物馬次郎」とあり、権田家七代前の馬次郎の名前がある。他に松山 石井長五郎 伯光屋仙衛門 八百屋権[ ]がある。当時の小間物商いは行商人が幾段もの引き出しがある木箱の中に紅、白粉(おしろい)、櫛、かんざし、髪油など化粧用品や日用のこまごまとした品物を入れて、大きな風呂敷包みに背負い、各家を売り歩く商売だった。
小間物商初代の馬次郎の商いの様子は不明だが、後年には小間物卸商となり、母屋西側の薬師様の道沿いに二階建の離れの店を建てた。行商にでかける人達が毎日出入りし、又鬼神様参詣客相手の商いもしていたようだ。馬次郎は安政二年(1855)八月に亡くなっている。
小間物商二代目は息子の喜藤次が継いだ。この時代は繁栄期だったが、三代目となる息子が料理屋に働く娘と恋仲になり、親の許しが得られずに鬼神様の上沼(うえぬま)に心中し、若い命を絶ったという話が「こまもん」に語り継がれていた。昭和五十年代になり、明星食品工場の排水問題が起こり農家の水利関係者が調査した際、弁財天の石碑が天沼の藪の中から発見された。「安政二年(1855)卯九月吉日 願主 権田喜藤次」とあり、言い伝えと一致している。親を八月に亡くし、続いて子に先立たれた喜藤次が若者の成仏と家運を祈願して弁財天を建てたのであろう。世間から忘れ去られた安政時代の出来事が、百三十年後の二十世紀のある日、天沼で発見された石碑からよみがえった。この話が川島の人々の話題になり、弁財天は場所を移して再建された。その後も、権田家では四季の花を供えて先祖の供養を続けている*3。
喜藤次は明治四年(1871)七月に亡くなり、小間物商三代目は二男の恵助が継いだ。恵助は明治二十三年(1890)七月一日に実施された第一回集議院議員選挙の選挙人であった。この時の選挙権は、二十五才以上の男子でその居住する府県内で直接国税十五円以上を納める者に限られ、総人口の約一・二四%にすぎなかったといわれている。商売が繁盛していたことの証(あかし)であろう。後年になり、恵助は本業は人任せにして、鬼神様の門前に料理屋「恵比須」(えびす)を開業し、道楽に明け暮れた生活を続けたという。その頃、兄の店を手伝いに来ていた器量よしの妹まきは広野広正寺の十九世の若住職に見そめられて入山している。菅谷の町内で昭和後年まで小間物商や他の商いをして栄えた家の先祖が、川島の「こまもん」で働き行商をしていたのもこの頃のことである。
恵助は明治三十三年(1900)没し、川島「こまもん」は三代続いた店を閉めた。三人の息子がおり、長男文五郎は農業で家を継ぎ、次男熊五郎は出家し、僧名玉瑞として後年、加田(滑川町)にある慶徳寺三十世として入山している。下の弟は高輪泉岳寺に使用人として預けられた。小間物商の廃業は、広正寺に嫁いだ恵助の妹まきと新井屋に婿入りした弟長吉の考えた結果と思われる。商売に使われた二階屋は売られ、近年まで杉山の旧家に存在していた。
*1:広正寺は、慶長十年(1605)、この地方を支配していた高木正綱が父の広正の追福のため、高木山広正寺と父の名を寺号として中興開基した寺である。高木氏は中爪村(小川町)、越畑村・広野村(嵐山町)、和泉村(滑川町)四ヶ村二千石を受領していた徳川家譜代の家臣である。以来四百年間、広正寺は火災や震災にも合わず現在にいたり、慶安二年(1649)の家光以来歴代将軍の二十石の朱印状が残されている。
*2:「博物誌だより」参照。
*3:「里やまのくらし 13 川島」参照。