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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

里やまのくらし 16 越畑

2009-01-31 20:52:13 | 将軍沢

 1956年(昭和31)、将軍沢から越畑に嫁いできた市川文子さんの回想です。夫の之男(ゆきお)さん(故人)は、越畑八宮神社の獅子舞の笛の楽譜を、福島和さん、小澤禄郞さんと協力して、わかりやすい指音符(ゆびおんぷ)本に作りました

  忘れ物
 小学校が国民学校になった1941年(昭和16)、文子さんは菅谷国民学校初等科の2年生です。教科書も新しくなり、例年のように上級生から借りることができず揃えられません。隣の席の子に見せてもらいました。昔の学校では忘れ物をすると家に取りに返されました。原稿用紙を持たずに登校した作文の時間を今でもはっきりと覚えています。戻っても無駄だとわかっているので、遠回りをして将軍沢に向かいます。途中に墓地がありました。「これから悪いことは決してしません。先生には忘れたと言いましたが、家には買い置きもないのです。どうぞ助けてください」と手を合わせました。菅谷の東原団地あたりはヤマで大杉があり、その根元にうずくまり、姿が見えないようにして泣きました。切ない何もない子供時代のことでした。
Web20060801
     菅谷国民学校4年竹組。山下マサさん提供

  一途さが好きに
 之男さんは自転車で将軍沢に通って来ました。「週に一度必ず来るから」という約束で、一日の仕事を終えていつも8時頃でした。ある晩、こんなに良い月夜だから、きっと来ると待ちますが時間が過ぎても来ません。諦めて寝ようとしたら「今晩は」と声がします。夕食後、妹と田んぼ7畝の稲刈りをしてきたと言うのです。嵐になりそうだから今日は来ないだろうと思っている晩にもやって来ました。当時都幾川の学校橋はまだ木橋で、増水時に橋が流されないように取り外します。風雨が強くなって橋はないからと引き留めてもその晩、越畑へ帰って行きました。自転車を水につけないように担いで川を渡り帰ったそうです。嵐の晩から文子さんはこの人と結婚しようと決めました。

  何本もある井戸
 之男さんは、家には井戸が幾つもあると言っていましたが、結婚してそれが水に苦労するということだと分かりました。野良から帰ると、家の後の池で手足の汚れや野菜の泥を落とします。実家の母に小さい頃から、生ものはよく洗ってかけ水をしろと教えられてきたのに充分にはできません。水が足りない時は、田んぼの向こうの幡後谷(はたごやつ)の清水(かれずの泉)から運びました。身重になって汲んできてもらうようになると、無駄にしないようさらに気をつかいました。おしめも真っ黒になった風呂の残り湯ですすぎます。子供が増え、之男さんが家の前に井戸を掘ってくれて、水の不自由さからひとまず解放されました。之男さんは近所にも頼まれ、何本も井戸を掘りました。北部地区上水道施設開設の陳情が1965年(昭和40)に出され、1971年(昭和46)全町給水が決定されました。水道が引かれると洗濯物の黄ばみが無くなりました。その時から人も洗濯物もあか抜けしてきたのだとお嫁さんと笑いながら話してくれました。
Web2006082
     1950年(昭和25)3月 七郷中学校卒業写真。大塚元一さん提供


川島の今昔 その10 終戦当時の川島の各組 権田重良

2009-01-25 18:22:44 | 川島

 終戦当時の川島地区の屋号、戸主、職業を上、中、下の各組を辿(たど)って見る。

 上組
   1 綿屋:綿打。権田稔。農。
   2 絵馬屋:塗師屋。田幡芳太郎。神社絵馬師。
   3 脇の家:絵馬屋の分家。田幡林太郎。農。
   4 こまもん:小間物屋。権田喜恵知。農
   5 新聞屋:権田喜八。農。
   6 篭屋:権田安一。農。戦後移住。
   7 新井屋:穀屋。権田和重。
   宮前村(現滑川町)水房境まで七軒並んでいる。薬師様東側の市野川近くの台地上に古屋敷(ふるやしき)の地名があり、川縁の低地に下の屋敷(したのやしき)という場所がある。その昔に刀鍛冶の屋敷(権田宇多之守。うたえもん)があったという話がある。又、小さな金山様(かなやまさま)もまつられている。

 中組(神社周辺と参道)
  神社北側の辻
   8 辻の家:権田豊吉。大工。
   9 森田屋:森田作太郎。農。下組より移住。
   10 権田伊一。下組より移住。
   11 中村巳平。水房より移住。菅谷駅前商売。
   12 前の家:権田峯吉。農。下組より移住。
   13 小沢重太郎。川魚漁。水房より移住。
  神社門前
   14 小川さん:小川圭三。食堂。
   15 善さん鍛冶屋:権田善三。神社奉納鉄棒。上組より移住。
   16 川田屋:権田一重。料理屋。上組より移住。
   17 藤さん鍛冶屋:権田藤次郎。神社奉納鉄棒。下組より移住。
   18 岡島屋:権田徳寿。菓子屋。上組・新井屋の分家。
   19 仲次さん店:遠藤仲次。茶店。土産。松山より移住。
   十二軒でいずれも神社繁栄に伴い、上・下組及び他所より明治期より昭和初期に移住した。神社周辺に集落が出来て、川島の中組が形成された。

 下組(鬼神様の東より滑川町月輪境まで)
  鬼神様東側
   20 豚屋:初雁勝一。養豚業。明治期に杉山より移住。
   21 島﨑栄助。農。島﨑さん分家。
   22 島﨑竹雄。農。
  県道東側
   23 島﨑さん:島﨑和一郎。農。
   24 権田左右。佐官。戦後、松山に移住。
   25 島﨑牛太郎。農。
   26 酒屋:森田清。農。
   27 屋田:森田與資。農。
   下組は八軒である。県道東側は昔、川島の片側宿として十数軒の家並みがあり、篭屋、経木屋。油屋、車屋、荒物屋、紙屋、下駄屋等の屋号の家があったと言われている。
   昭和20年(1945)、戦後の川島には二十七軒が存在していた。川島の三家と言われる権田、島﨑、森田と田幡家は江戸時代にすでに川島に住んでいたが、それ以外の家は明治期より川島に移住した家である。


川島の今昔 その9 川島の片側宿 権田重良

2009-01-25 18:20:22 | 川島

 島﨑家の北側を東に入り月輪西荒井(にしあらい)境までに川島の片側宿(かたがわじゅく)と呼ぶ十数戸の家が並び屋号に篭屋、経木屋(ひげや)、油屋、車屋、荒物屋、下駄屋等の家があったと伝えられているが、屋号に該当する家は現在の川島には見当たらない。入口の土手の上に三体の石造物が建立されている。右の灯籠には金毘羅大権現とあり、文化十二年(1815)建立、願主武州比企郡川嶌村上下講中、世話人島﨑浅治郎とあり、島﨑家の先祖と思われる。中の馬頭観音像は安永二癸巳天(1774)十月十九日、武州比企郡川嶋村念佛講善男女人、施主上下邑中とある。左の青面金剛の庚申塔には享保十七壬子(1732)十一月吉祥日、下川島村同行二十人とある。『比企丘陵 風土と文化』所載の権田恒治さんの文に、川島片側宿入口の石仏群は広野村の飛地と言われた川島の村としての存在と当時の戸数及び人数を知る貴重な遺産と記してある。
 下川島地内の山林には、隣接する滑川町月輪矢尻地区と共に古墳が数多く残っており、屋田古墳群と呼ばれている。上川島の花見堂古墳群とともに、古き時代よりこの川島の地に人が生活していたことが伺い知られるのである。


川島の今昔 その8 下の屋号 権田重良

2009-01-25 18:18:39 | 川島

 沼を過ぎた東側の下(しも)の川島には屋号が続いている家は少ない。明治の初めに鬼神様の近くに移り住んだ家が多いと聞いている。月輪(つきのわ)境より屋田の家【森田佳男】は地名。西となりの酒屋【森田昌男】は先祖が酒造販売をしていたといわれる。酒屋の曽祖父の浦蔵は明治時代に建てられた川島の石碑に多く名が刻されており、寛山和尚の筆塚の建立、川島の地名復活等に尽力した当地の指導者で、川島の為につくした人である。当主の父浦蔵さんも村会議員として活躍し、市野川改修に尽くして、記念碑の建設地も提供しており、世話人として名が刻されている。屋田の家の祖父の森田與資さんも戦後の菅谷村村会議員として村政に携わり、見識者として嵐山町誌編さんに協力している。
 下沼を裏にして島﨑さんの家【島﨑文男】がある。先祖の島﨑里次郎は剣道の達人で、甲源一刀流の師範として多くの門弟がおり、埼玉県の剣士として名を残している。昭和十八年(1943)に奉納した額が鬼神様に飾られている。剣道の先生の家として、神官の家系の小川家とともに苗字に「さん」をつけて屋号としている。島﨑姓の家には何れも屋号が見られないが、本家分家の関係と思われる。
 鬼神様よりの初雁家【初雁康之】は、明治になって杉山より下川島に移り、養豚業として栄え、豚屋の屋号で知られている。
 川島に残る屋号は、他の土地にみられる格式、本家分家、土地柄を示す山・川・上・中・下・田・畑等で表す家は少ない。鬼神様の繁栄に伴い訪れる参詣者相手の商いや農間の余業とした家業を屋号とした家が多いことがわかる。耕地、山林の少ない川島の土地柄である。


川島の今昔 その7 天沼周辺 権田重良

2009-01-25 18:17:09 | 川島

 鬼鎮神社の東に下耕地の用水池として上下に大小の沼があり、天沼(あまぬま)と呼んでいる。水源は上流の山の林の中にあった。清水という小字の現在、サトウ螺子工場の門がある付近(川島1800番地)から絶えることなく湧き出し、上沼(うえぬま)に流れ込んでいた。上沼は水が冷たいので、子どもたちの水浴びの場の下沼(したぬま)と違い泳ぐことができなかったと聞いている。現在は水源の場所は不明となっている。
 下沼の端に小さな弁財天が祀ってある。石碑に文政十二年(1829)九月、上下講中とある。当時、中組の名は見当たらない。下沼の土手際に大黒天の石碑があり、元治子年(1864)、当所講中と読める。

追記:川島には川島1557番地に上沼(かみぬま)があったが、近年埋め立てられた。また川島1815番地には下沼(しもぬま)がある。


川島の今昔 その6 「皇国諸工祖御神璽」の石碑 権田重良

2009-01-25 18:14:24 | 川島

 鬼神様境内より、少し離れて菓子屋権田家の東側の林の中に地元で金刀比羅様(ことひらさま)と呼ぶ大きな石碑がある。小川家の管理と聞くが、荒れ果てた林に埋もれて、その陰も在所も川島の人達も古老が語る以外には忘れ去られていた碑である。
 近年になり近所の人の奉仕で林が整理されて姿が見られる。二段の土台石上に五尺(1.5m)角以上の大きな板碑が菱形に建てられてある。伝承と異なり、表面に「皇国諸工祖御神璽」とあり、裏面に由緒が見え、明治三十年(1898)十一月建立とある。。近隣各町村の世話人多くを始め、当地川島の二十七名の名が世話人、委員としてあり、二段の土台各面にも数百人と思える県内各地の人名が刻してある。由緒に「……本地権田仲次郎氏将敬神愛国之意首唱発起於是盛事與賛同諸人誠以建……」と読め、権田沖次郎が発起人であることがわかる。「武州菅谷古城趾川島金刀比羅祠下信濃散史與田信道謹撰」とあり、與田信道の撰文、小川町下里の田端槐洲の書である。神官では、出雲国之伊波比神社社司高橋信行、神道修成派教務担当支局始祖伊古之速御玉臣神社社司少宣教小川喜六の名前があり、司計【会計】は菅谷の中島宇之吉である。
 権田沖次郎は川田屋現当主一郎氏の三代前の祖であり、建立場所は現況から見て寄進した土地と思われる。なお、高橋信之は鬼神様の宮司を務めた人であり、小川喜六は小川家の三代前の祖にして、刻してある通り神道の普及に努めた方と思われる。子息の伊三郎は、上(かみ)の綿屋より婿入りし、菅谷村村会議員を歴任して川島の地名復活に尽力し、地域発展、神社繁栄に尽くした人である。


川島の今昔 その5 鬼鎮神社界隈の屋号 権田重良

2009-01-25 18:06:05 | 川島

  鬼神様西側の屋号  
 神社の坂下の十字路に辻の家【権田みつ子。大工】。移築して道の南側にんり旧場所は現在住宅地となっている。道の相向かいに森田屋【森田輝義】がある。業は不明だが小川方面より神社門前を通り松山に至る東西の道と南北の土地より神社の下で交わる辻にある場所の家は食商いか参詣客開いての商売と思われる。辻に至る南側に前の家【権田峰吉】。北側にある農家の並びに対する場所の呼び名であり、現在は住宅地の中となり昔をとどめていない。

  鬼鎮様門前の屋号
 神社門前に西より小川さん【小川昌志。食堂】。鍛冶屋「善さん」【権田昭次】。川田屋【権田一郎。料理・宿泊】。鍛冶屋「藤さん」【権田しずえ】。岡島屋【権田昌之。菓子屋】。仲次さんの店【遠藤一男。土産茶店】。いずれの家も鬼神様周辺にあり、屋号で呼ぶ家は神社の繁栄に伴い上・下の川島からの移転か、他の地より移住し、商売により繁盛し、行年になり中組(なかぐみ)の集落ができたのである。
 鍛冶屋の二軒は上・下の川島より移り、神社奉納の金棒の製造。菓子屋の権田家は新井屋の分家であり、嵐山町の銘菓で知られる岡松屋の先祖が修業したとの話が残っている。川田屋の権田家は新井屋の前に居住していたが屋敷替えをして門前に移り木挽(製材)業として建築に携わり、栄えて後に料理屋を開いたといわる。小川家は屋号でなく、小川さんの家、先生の家と呼び、墓石に「大宣教」とあり、明治の始めに神道を広める為にこの土地に移り住んだ神官で神社の繁栄に尽くしている。
 戦後、1950年を迎えた頃を境に鬼鎮神社参詣者が減少し、各店は廃業、転職して営業を続けた店は一軒もなくなっている。


酪農をやめた1971年頃のこと 長島崇 1976年

2009-01-24 01:46:14 | 嵐山地域

   酪農をやめた当時のこと
 五年前、私は十五年やった酪農経営をやめ、現在は兼業農家として、ポリエチレンの袋を製造している。農業を始めて二年目二十一才の時、青年団の意見発表で県代表として全国大会へ出場したことがある。その時は「豊かな農業生活を目指して」と題して発表し、主題となったのは労働日誌を付けての反省からの経営改善であった。特に酪農経営を伸ばす事が労働の平均化となり、労働が完全燃焼する事が経営発展につながると言う内容だった。今思い出しても「我が青春は乳牛と共に」と言う事が出来る。自分で言うのもおかしいが、農業青年としてまじめに働き、真剣に生きて来たと思っている。それがなぜ急に酪農をやめ、農業以外の職に付こうとしたのか? 興農青年会を結成する時(1965)も関根秀勇君と私で話が始まり、又当時青年団等青年団体がほとんど活動しておらず、又関根茂章氏が村長に就任したばかりで、農村青年の組織を強く希望していた。そうした多くの人達の協力で会が誕生した。そして、「農業をやる仲間として一緒に力を合わせて頑張ろう」とはげましあった。
 その私が【嵐山町興農青年会】三代会長【昭和44・45年度】として解任となってまもなく、酪農をやめざるを得なかったのである。その時、友達や仲間になんと言ったらいいんだろうかと思うと本当につらく、ただ皆にすまないなと思うばかりだった。
 それまで農業以外の職につくなど少しも考えた事はなく、もっと立派な農業経営にしたいと考えていた。いつしか政府は稲作の減反政策をうち出し(1970)、又乳価の割に飼料は高くなり、農業の将来に対しての不安は募るばかりだった。こうした時の夏、消防団のポンプ操法県大会出場の訓練と仕事と火災出動が重なり、過労で高熱を出し五日間寝込んでしまった。ようやく働けるようになった直後に、今度は交通事故で追突に合い、ムチウチ症になってしまった。搾乳しても首が痛くてうまく働けなく、妻に対し非常な労働過重になってしまった。成牛十八、若牛二、育成牛五の計二十五頭全部売ろう。そしてもう一度第一歩から新しい人生を始めようと決心したのはこうした苦しい気持の時だった。
 しかし、酪農をやめれば次に何をするのかも考えなくてはならないが、それよりも十五年間良い資質の牛を育てようとし、気に入った牛も何頭かそろって来た時だけに、売るとなると惜しい気持でいっぱいだった。四十五年(1970)九月一日、武蔵酪農事務所と家畜商秋田屋へ行き、乳牛売却の相談をした。全牛一括秋田屋へ売却するが、一週間猶予をおいて、武蔵酪農の人達でほしい人があればやる、という条件をつけた。それは能力も血統もいくらか自慢出来る牛が二、三頭いたので、これだけは余り遠くへやりたくなかった。出来る事なら近くの人に飼育してもらいたかったからである。
 最近聞いたのだが、当時出した牛の「イエツケ」の系統は比企地方で三十頭以上で、正にこの地方一の名牛になっている。私の所へも四年前にホルスタイン協会より「イエツケ」に対し名誉種雌牛としての称号が送られて来た事からも確かな事だろう。
 こうして酪農から離れたが、考え方はいつになっても農民的な考えから出る事は出来ず、今(1976)は現在の仕事に全力をぶつけて頑張っている次第である。
     嵐山町興農同志会『興農ニューズ』第4号 1976年(昭和51)3月31日号


菅谷上組の共有膳・盤台 田幡憲一

2009-01-20 00:15:48 | 菅谷

 私は昭和七年(1932)生まれの六十三歳です。私が生まれた十一月十五日は大嵐の朝だったと母親がよく話しておりました。私がうろおぼえにしている事に上組(かみぐみ)とゆう言葉が大人たちの間でよく使われていた。
 そして冠婚葬祭の時に使用する内側が朱塗りのお椀、黒塗りのお椀、そして壷平(つぼひら)とゆうような事を聞いたことも。会席膳、座布団、それらの品物が三十人分揃えてあった。そのお椀の蓋には上と書いてあった。一度使用すると次の人が使用するまでの間、それらの品物を預かり保管する。
 それらの品物と一緒に取り扱ったなかに盤台(はんだい)があった。盤台はいまでも土蔵の中にしまってある。盤台は、まず親戚で家の建て替えの時などに紅白のおもちをもってお祝いに行く時に使う。
 また親戚に火事があると、火災にあった人や消防手さんたちのごはんかわりに三角おむすびを作り盤台に入れてもって行く。この盤台は、赤飯は一荷で一斗入る大きなお鉢です。
 盤台はお祝いに使うので、作りもとても立派で外回りも下半分は黒漆、上半分は赤漆塗りで、足も三ヶ所切り込みがありそこのところを利用してロープで花結びに結ぶのか大変だった。こういうものは一生に何回も使うものでもないから、組(くみ)で共同で購入して共同意識を高めたのだと思う。(1995年10月記)


里やまのくらし 15 平沢

2009-01-14 23:58:46 | 平沢

 今から約70年前の昭和十年頃、平沢でヨッチャン(奥平美太郎さん、大正12年生まれ)、ボウヤン(奥平武治さん、大正13年生まれ)、モリサン(山田森之助さん、昭和3年生まれ)と呼ばれていた子供たちの夏の遊びの回想です。
Photo

  水浴びに行く
 お昼を食べて一休みすると、遊び仲間が集まり十三階段に向けて出発します。十三階段は谷川橋が架かる前にあった遠山と小倉をむすぶ季節橋の下流です。張り出した岩の上に着物を脱いで素っ裸になり、槻川の深みを対岸まで泳いで渡ります。そこには大きな岩があり、一段、一段と手をついてのぼると十三段目がてっぺんです。平沢の子供達はその岩を十三階段と名付けていました。ここから鼻を結んでふかんぼう目がけドボーンと飛び降ります。これが出来るとどんなものだと胸を張り、少し偉くなった気分でした。
 泳げない子は深みにはいらぬように注意して、浅瀬でパシャパシャと水浴びをします。犬かきを覚え、立ち泳ぎや抜き手ができるようになると、向こう岸までどれだけ真っ直ぐに泳げるか競います。川の流れが速いので、力がないとずっと下流まで流されてしまいました。泳ぎにあきると、むぐりっこや水中での鬼ごっこ、魚とりをします。岩の間に手を突っ込んでウロさぐりをしてギギュータ(ギバチ)をつかまえます。体が冷えると岩の上で甲羅干しをしました。少し離れた場所に水面には顔を出さない岩があり、大砲の砲身に見えたのでタイホウ岩と呼んで、またいで乗って遊びました。遠山では、ホウレキ岩、ノゾキ岩、フドウ岩などと名前がついた岩が槻川にありました。
 川で泳げるようになると、近くの大沼で泳ぎました。沼の縁を一周する時は、つかまるものがあるので安心ですが、横断するときは緊張しました。沼の水は重いといって川で水浴びする時より注意するようにいわれていました。

  お盆のころ
 平沢寺は無住だったので子供のよい遊び場でした。墓地のカシノキの張り出した太い枝にフジつるをゆわえて小さな子にブランコをさせたり、ぶら下がって飛び降りました。お盆の時は寺役の人が泊まるので、男の子は一緒に泊まり寺の上にある白山神社で度胸試しをします。寝ている子の腹にこっそり、へのへのもへじを書きました。翌朝、家に帰って朝食を食べ、すぐに川へ行って裸になるといたづらされているのがわかりました。本堂には子供の落書きがありました。
 ヨッチャンが二年生の時(昭和5年)の事です。お盆には小学校の校庭に盆櫓がたちます。夕食を早くすませ上の者と菅谷に出かけました。昼間の遊びの疲れがでて、一足先に一人で帰ることにしました。眠気と戦いながら延命橋まで戻って来ましたが、橋から落ちて足首をくじきました。トウモロコシの芯やヤナギを燃した灰に、うどん粉と卵と酢を交ぜてこねた家伝薬を患部に貼りました。よく効いたそうです。


志賀の水野倭一郎、令三郎ら新徴組に参加する 1862年

2009-01-11 00:55:28 | 広野

   水野家の気骨 幕末の激流に身投じる
 東上線武蔵嵐山駅の北西に位置し、細長い町のほぼ中央が志賀地区。江戸末期は志賀村で四家村ともいった。内田、大野、吉野、深澤の四家が村を支えていたためだが、この四家を束ねていたのが水野家だった。代々の名主で村一番の富豪。若き日の渋沢栄一がまゆ玉を背負って訪れたと伝えられている。この水野家は“気骨の家”としてまた知られている。
 安永四年(1775)生まれの水野清吾は、甲源一刀流を学び、比企地方に同派を広げ、弟子の数は、秩父三峰神社奉納額によれば「属弟千五百人」。その長男倭一郎は、新選組の母体となる浪士隊(のちに新徴組)に参加、刀一本をひっさげて幕末の激流に身を投じた。この時、倭一郎は四十二歳、一緒に連れて行った三男令三郎は十五歳だった。
 浪士隊=幕末の志士清河八郎が「京都の勤皇浪人を取り締まる」を名目に尊王攘夷(じょうい)のための隊を編成したもの=入りの話が倭一郎の元に舞い込んで来たのは文久二年(1862)暮れのこと。県内の武術を研究している埼大山本邦夫教授によれば「清河は甲山村(大里村)の郷士根岸友山と親しく、根岸は清吾の門人。この関係で倭一郎も誘われた」ようだ。
 倭一郎は門人の内田柳松らを集め、浪士隊への参加を決めた。村から出立は翌文久三年一月二十八日。この日朝、水野家の「士関演武場」道場に集まって門出の祝い酒を受け、江戸に向かったと伝えられている。
 浪士隊は、江戸小石川の伝通院に集まり隊を編成した。倭一郎は一番隊の副隊長格の小頭。この時、近藤勇や土方歳三は六番隊の平隊士だったから、名前は倭一郎の方が知れ渡っていたらしい。浪士隊は上洛したのち、江戸に戻って庄内藩酒井家預かりとなり、名称を新徴組として江戸取り締まりにあたる。倭一郎はここで隊剣術師範、酒井家との連絡を担当する取締付という肩書で隊の中心人物的な存在となった。
 隊の戦闘参加は、庄内藩内(山形県東田川、西田川、飽海郡)での戊申庄内戦争(慶応四年)だった。半年間の激戦の中で、倭一郎の活躍は目ざましく、わずかに残っている資料の中にも、敵の首を挙げたことが記されている。だが、一緒に戦った令三郎は、流れ弾がひざに当たり、戦死した。
 十九歳の若さで散った令三郎の戦死の模様を水野家に伝えてくれたのは、日露戦争の旅順攻撃の際、第九師団参謀長だった妻沼町出身の須永宗太郎中将。大正初め水野家を訪れた須永中将の話によると、令三郎は「戦は負け。出撃するな」という上司の警告を振り切って出撃し、戦死した。警告を守って命拾いをしたという須永中将は「学問も剣術も令三郎さんが上だった。生きてれば、私が中将なのだから大将にはなっていた」と家族に語り、その気骨ぶりをたたえたという。
 一方、倭一郎は、明治初め、郷里の志賀村に戻った。それも庄内藩での軟禁状態からの“脱走”だったらしい。令三郎を失った悲しみか、負け戦だったためか、新徴組のことはあまり家の者に語らなかったようだ。このため、倭一郎の逸話らしいものが伝わっていない。
 が、一つだけ、こんな話が残っている。倭一郎は志賀に戻ってから、また剣術を教えていた。出稽古(でげいこ)の帰り道、三人組の辻強盗に襲われた。一緒にいた根岸徳次郎は、「先生は簡単にやつける」と、かたずをのんで見ていた。ところが、倭一郎は懐から金を出し、その場を逃がれた。徳次郎が不思議に思って聞くと、「お前は火縄(ひなわ)のにおいが気づかなかったのか」。木の上から火縄銃でねらっていたもう一人の仲間がいたのだった。倭一郎は、銃のこわさを庄内戦争でいやというほど味わったためのものだろう。
     ◇          ◇
 現在(1978)、水野家を継いでいるのは、産婦人科医の水野正男さん。倭一郎について詳しく知っていたのは、叔父の水野円三さんだった。だが、円三さんは、先月十七日、脳いっ血のため八十二歳で亡くなられた。円三さんの口ぐせは「武士の家柄ということを考えろ」。死んだ時は、まわりをぐるっと見回し、涙を一筋流しての大往生だったという。「武士の最期みたいでした」と長男の信夫さん。

メモ:倭一郎の参加した新徴組は、不思議な団体で、勤皇派と佐幕派の浪士が混在していた。このため、隊から新選組が生まれ、尊王攘夷のために決起した筑波新徴組が出るというぐあい。原因は清河八郎の奇策にあったといわれる。庄内藩領地に行ってからも、勤皇の意思を持った隊員が官軍と戦ったり、庄内藩からは戦闘の際、必ず最前線を守らされ、明治になると軟禁状態で松ヶ岡(東田川郡羽黒町)の開墾をやらせられるなど、徹底的に利用された。
 新徴組を調べている山形県酒田市の小山勝一郎さんは、「私の家も庄内藩の士族の出だが、それにしても、藩の扱いはひどすぎた」と新徴組に同情する。山本邦夫教授の調査だと、県内での浪士隊への参加は四十七人。嵐山町からは六人となっている。
     『読売新聞』1978年(昭和53)5月12日 まちかど風土記90 鎌倉街道・嵐山


木曽義仲産湯の清水は木曽殿坂の清水 長島喜平 1941年

2009-01-03 23:05:00 | 鎌形

七、木曽義仲についての生立の論説
(1) 出生
 山吹姫は班渓寺に穏栖し久寿元年(1154)駒王丸(義仲)が生れ、次の年即ち久寿二年(1155)に大蔵の戦に義賢が敗れ、山吹姫及駒王丸も捕へられしが、山吹姫はその後ゆるしを得て、班渓寺に一生を送り、此の寺の開基として往生をとげた。
 義平はその駒王丸をなきものにしゃうとし畠山庄司重能(重忠の父)に命ぜしが重能は流石に重忠の父だけあってどうかして助けてやらうと思て【斉藤】実盛に頼んだ。
 此のことは前の処でのべた。

(2) 木曽にて育成
 その後旗上までは木曽山中にて育ったことであらうが、長じて二十才の頃ひそかに関東の地にもどったと思はれる。
 これらは文献等には不明であるが、地方の伝説又木曽引畧記に依っても察せられる。
 木曽引畧記に妾は荻久保氏の女とある。その妾は多分関東へ戻りし時の妾なりと推論する。

(3) 木曽義仲の産湯の清水について
 鎌形へ来て義仲の産湯を問ふるならば誰しも郷社八幡神社の境内に案内する。
 そしてその水壷は半石も水を貯へることが出来、又その傍に「木曽義仲産湯の清水」と刻んだ石碑が立って居て、それは誤りだと思ふ人はあるまい。しかし実はそれは誤りで当地の故簾藤左近氏が八幡神社の境内に石碑を立てれば人目につくと思ひ、自分で石に刻んで明治年間に建てたものである。
 そしてその石碑無名無年月日にした。かうして史蹟を人目につく様に郷社八幡神社に建てたことは賢明と云はねばならないと思ふ。
 又それを郷土史としても差つかへはないと思ふ。[ この部分は抜けている ]を始め郷土史の種々の本にあらはれて居るから此の論説をくつがへす必要はないと信ずる。
 而し私は此の問題について、いさゝか関心を持って居る。それ故私は此の郷社八幡神社の清水を否定すると同時に班渓寺の境内を西へ出て木曽殿坂にある清水をその真なるものと思ふからである。
 此の清水は寛で水を十数米位引へて来て甕の中へ落す。付近は一面竹林が茂り、自然当時様子がひしひしと身にせまってくる感がする。これも八幡神社の清水も鎌形の七清水の一に数へられて居る。
 これまでのべると此の二つの問題についてどうしてかと疑問になる者もあるだらうから此処に私の研究の一端を述べやう。
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 ◎八幡神社の清水を使用しなかった理由
 (イ) 八幡神社は坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に応神天皇を塩山(鎌形の小山)に祀ったので以後そのまゝそこに祀られてあったが約二、三百年前、此の地に遷されたものらしい。
 今日未だ塩山に大願成就の奉納旗を見ることがあるので遷されたことは古くない。
 (ロ) 今の神社と班渓寺の距離が相当に遠いので、若し今神社のある場所に清水があったとしても水汲みにわざわざ行かなかっただらう。
 (ハ) 若し神社があったら神の御利益を得る為に遠路をわざわざ行ったらうが、その当時神社はなかったことは前に推定して居る。
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 ◎班渓寺木曽殿坂の清水を利用した理由
 此の木曽殿坂の清水は平安朝頃からあったに相違なく、又班渓寺建築以後日用の飲料水として用ひられて居たと思はれる。それ故にこれがつかはれたことが察せられる。
私は以上の様なことを研究推考して見た。
     長島喜平『源義賢・義仲郷土史に関する研究』(1941)(http://blog.goo.ne.jp/satoyamanokai/d/20081228)


大正時代の正月行事 宮田金作

2009-01-01 14:19:01 | 広野

 嵐山町広野出身の宮田金作さん(1909年)生まれ)の自分史『軌跡』(1995年刊)。から、大正時代の正月の行事を回想している部分を紹介する(同書8頁~10頁)。嵐山町広野に初めて電燈が灯ったのは多分1928年か29年(昭和3、4)12月の下旬。正月に天井から吊るす神棚は「年神棚」(としがみだな)。小正月のモノツクリで宮田さんがオッカドと言っているのは、ウルシ科のヌルデではなく、ハナ木とよばれるスイカズラ科のニワトコ。

   正月は風にのって来る
 三、四歳頃の私は、ラジオも電燈もなかったから、家族揃って除夜の鐘を聞くこともなく、今のように、元旦に賑やかなお詣りに行くこともなかった。二日の朝、雑煮を食べ終わった頃、したの家の角を曲がって、「広正寺のご年始、広正寺のご年始」と露払いの声が風に乗ってくる。間をおいて和尚さんが綺麗な法衣を着て、右手に扇をもっていた。父が式台のある縁側で座って待っていると、年始の挨拶を述べ、広正寺名入りの手拭を差出していった。近所に私とおない年の「はるちゃん」がいてその兄さんが、広正寺年始廻りの露払いだった。鎌倉時代の旅装か江戸時代の飛脚のような出立ちで、金ぴかの鷹の羽の紋章のついた挟筥(はさみばこ)を担いできた。挟筥には手拭が一杯詰まっていた。その頃の私は、お正月は、和尚さんが風に乗せて連れてきてくれるものだと思っていた。

   思いでに残る正月行事
 官衛・学校の行事は当時から太陽暦によっていたが、農家の年中行事は総て旧暦に従っていた。旧暦は太陽暦に比べ一ヶ月程遅れていた。
 正月行事は、元旦前後の大正月と、十五日前後の小正月に分かれ、大正月は公的儀式や挨拶行事が目立ち、十五日前後の「小正月」は農耕と結びついた儀礼が集中していた。

   大正月の年男
 暮れの三十日大掃除が終ると、表廊下に面した八疊の二間に疊を敷き、あがりはなを隔てた土間に近いほうの八疊間の中央天井に神棚を吊した。神棚は新しく伐採した木の香の匂う小楢(コナラ)を八十㎝位に切断したものを小割にする。普通の薪より細く割られたこの楢材を正方形に並べて、切り口に近いところに同材の副木を当てる。
 その年に収穫した新しい藁の縄で、副木に小割の棚材をしっかりと締めつけて、四ツ角から吊り下げ縄は角錐状に固定される。この棚を作る仕事と、それを吊り下げて、既設の神棚から神様を遷座することは、当主である父の仕事だった。年男はわが家では、数え十五才になった男の子が勤めることに決っていた。この年男は次の男の子が十五才になるまで同じ男が毎年年男を勧める。その男の子がいなくなると、当主がこれに代る定であった。
 年男の仕事は元旦の早暁から始まる。家族の誰よりも早く起きて顔を洗い身を清める。新しい神棚に燈明をあげて、三ヶ日は毎日年男一人で雑煮を作って供へる。四日の朝から七草粥までは家族の整えた朝食を供へる。
 年男の行事は七日で終るのであるが、私は一年勤めただけだった。早朝の寒さをこらえながら、慣れない雑煮作りに閉口したことを、今でも時折り思出し郷愁に誘われることがある。

   小正月のモノツクリ
小正月は、農作物の豊作を祈って行う、予め祝う儀礼で、色々の作り物や所作で豊作の様子を模擬的に表現するのである。ツクリモノには十二繭玉・十六繭玉・削り花などその種類は沢山あるが、私の父の作る自慢の作り花は、近所のどの家のものより大きくそれは綺麗だった。畑の畔や境界に植えてあるオツカドは多年生で、楮(コウゾ)と同じように毎年刈り取るが、楮は年内であるのに、オツカドの刈り取りは小正月の十四日である。
 オツカドは根もとで三、四㎝真直に二メートル位に伸びている。夏の間、葉のついていたところが節になっていて、先に行く程節の間隔が短くなっている。父は刈り取ってきたオツカドを、作品の、三階バナ・十二バナ・
十六バナと種類毎に選び分ける。削る花は、ひと節に一個で、表皮をまず剥ぎ先の方から花弁が細長く縮れるように削る。左手許で、右手のハナカキ道具の動作と交互に廻して、花をふっくらと丸く仕上げる。ハナカキは、鎌の形で先に曲がりがあって頑丈な柄のついた鍛造刃物で、この曲がり部分を手際よく利用するのである。三階バナでは花の茎が二十㎝以上にもなる見事なものもあった。三階バナを台所の煤ぼけた大黒様に飾ると黒光りのしている天井や鴨居などとコントラストがよく、一段と美しく見えるのであった。
 十二バナは歳神様に、十六バナは蚕の神様へ供へ、アボ・ヘボは蔵や堆肥場に立てた。アボは削り花のついたもの、ヘボはこれのないものを云う。アボとは粟穂のこと、ヘボとは稗穂のことである。門松は一般に、七草粥までが松のうちのようだったが、その頃のわがふる里では、小正月に取り払いその後穴に、十六バナを二本並べて立てておくのであった。
 当時からオツカドを植えてない家と、無器用でアボ・ヘボを飾らない家もあった。そんな風にツクリバナは、根気と技術を必要とする仕事だった。父は器用な上、律儀な人だったから、昭和五年(1930)に六十三才で亡くなるまで、正月のツクリバナの伝統を守り続けた。まさに骨董のような人であった。