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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

新たな農業の担い手を 越畑・新井弘 1993年

2010-08-26 09:44:11 | 越畑

 今年の春、農業委員会が町内の遊休農地を調べた。二十アール以上のまとまった荒地が五三団地、二六ヘクタール余あった。小面積の荒地はこの数倍に及ぶのではないかと推測される。
 恒常的な勤人となり、農家経済を安定させて、休日に家業の農作業に励む生活スタイルが限界にきたことが荒地の増加という現象になったのであろう。
 一方新規就農者がこの十年来一人もいない。近郊農村である嵐山町の経済構造の中で若い人の就農を望むのは無理であろう。
 だがこのまま農地が荒地化した将来の農村の姿を思うと心寒い限りである。
 農業の担い手に誰がなるのか。六十才前後で企業などを定年の元気な人達がいる。この人達を新しい後継者と考えて、そのように処遇する農村社会のしくみをつくりその活動を期待したい。
 経験豊かで知恵も体力も実行力もある人達が営農組合等を組織して地域の農業の中心勢力となって、農作業の受委託等の集団活動で農村の活性化を促すことを期待したい。十年程度で順次交代してゆけば活動が中断することなく続くだろう。十年位農業に励むことは定年後の生活の張り合いにもなるだろう。
 地域社会の深い理解と、町、農協の強力な支援が望まれる。

   『嵐山町農業委員会報』24号 1993年12月25日


里やまのくらし 19 越畑

2009-03-03 22:30:00 | 越畑

 見合いの日、お茶を出してくれた娘さんとは言葉を交わすことなく、出されたうどんをうまいとたいらげて帰ってきた持田市三さん(大正12年生まれ)、嫁ぐ気が全くなく泣いていたトシ子さん(同15年生まれ)、二人は1949年(昭和24)3月、結婚式を挙げました。見合いの席でうどんを食べることは、娘さんを嫁にもらうという意思表示でした。

  木挽き職人から材木屋へ
 市三さんの父伊作さんは木挽(こび)き職人でした。木挽きは山で樵(きこり)が根切りした原木の丸太を大きなノコギリで挽いて、板や角材をとる仕事です。一本一本の木を見て、どの部分を柱にするか、どの部分を梁(はり)や垂木(たるき)にするかなど木取り、墨付けし、一本の木を無駄なく使い切ります。工務店請負で住宅建設が行われるようになる1960年代以前には、間取りの設計・必要な材木の見積(みつもり)・建主の持山を下見してどの木を伐採するかの選定まで木挽きの仕事でした。
 父に木挽きとして仕込まれていた市三さんは結婚を機に、元締(もとじめ)として材木屋の商売を始めたいと思いました。元締は山の木を売買する仲買です。仕事一筋で根っからの職人の父親は、商売を始めることに初め反対でした。

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 1952年(昭和27)の正月、二人は1500円の豚ッ子を小遣いのかわりに買って貰いました。「あんばいにして小遣いにしろ」と言われ、一生懸命世話して大きく育てて売りました。それを元手に父親に少し金を借り、金泉寺の杉の木を一本買いました。市三さんは普段の日は木挽きの仕事をして、年中行事のある物日(ものび)と雨の日に風呂釜の桶板(おけご)を挽いて、小川の桶屋に売りました。粘土質の土壌で風にもまれたこの地域の杉から作った風呂桶は、20年持つと言われていました。買える木も一本が二本にと増え、桶屋さんを呼んで風呂桶を作って納めるようになりました。

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 やがて、ここからここまでと山の木が買えるようになり、杉だけでなく、赤松・樫(かし)・欅(けやき)・楢(なら)などの建材や薪炭材・椎茸のホダ木も扱うようになりました。持田材木店の始まりです。山には赤松が多く生えていました。松はよいところを建築材にとり、残は経木(きょうぎ)・木毛(もくもう)・チップ工場に、枝は瓦屋へ、葉は焚きつけにと残さず使います。1960年(昭和35)頃には武蔵木毛に出荷しました。木毛は、果物や割れ物を箱詰めにする時、品物を動かないように間に詰める巾2㎜位のかんな屑状のものです。長谷川経木店にはお店が終わるまで節のない材を納めました。経木は松材を紙のように薄く削って菓子や魚・肉を包むのに使われ、枇木(ヒゲッカァ)とも呼ばれていました。

  忙しい毎日
 えり好みをせず、何でも引き受けて着実に仕事を拡げていきました。トシ子さんは材木屋と百姓とお蚕と忙しい毎日です。学校の授業参観ではよく居眠りがでました。五人の子どもたちには何もしてやれなかったし、またよく使ったと言います。女の子は中学生位になると、弁当作りや洗濯は自分でするようになりました。男の子は小学4年生で「早寝早起きは長者の習慣(ならい)」と新聞配達をし、中学生になるとアルバイトをしたお金で仕事の道具を買いました。現在、兄弟二人が市三さんを助けて、製材・伐採の仕事をしています。

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市三さんの木挽鋸(こびきのこ)。刃渡り53㎝。使い込んで幅は10㎝位減り細くなりました。


越畑 三ツ沼の決壊 大正初期

2009-03-01 01:30:19 | 越畑

   三つ沼共有林野の買収について
 「青木村長は、村内に工場が出来れば、村民は雑役に使われて有利であるといった。」これは昨年(1960)九月某日に、小川町及び越畑の三ツ沼裏共有原野の地主数十名が、越畑公民館に集合した席上、誰の発言であったかその時の参会者は思い起せると思う。その後、同年旧九月十三日の前日、秩父セメントの全権大使級の外交員が私方を訪れ、莫大な手土産を私の目前に差出して、同社の、越畑三ツ沼裏用地買収計画に対し、私が強い反対者だが、買収に応じて貰い度い旨を長時間に亘って要請した。この外交員の言葉に奮然とした私は、「私は何もムヤミに反対するのではない。越畑分三ツ沼裏の原野を一町近くも掘れば夏の豪雨の時には、七郷一の貯水量を誇る三ツ沼も、完全に堤防が決壊して、滑川村まで浸水家屋を出し、伊勢湾台風のように、数分乃至(ないし)数十分、数尺、丈余の高浪が襲来して、言語に絶する被害が生ずることは明かである。何故なら、現存の土橋政一さんが子供の時、大正の初期、三ツ沼堤の決壊があり、うろこさがしの魚さがしに行った覚があると言っている。どうしても、この用地が必要なら、その沼下(菅谷・滑川・小川の市野川沿岸)に、一八〇〇万円の補償をして貰いたい」と強く要求した。この金額は、田畑・道路・橋梁・護岸の流出決壊、沼堤防の復旧工事、沼下水田の植付不能を見込んだもので、人畜の被害、養魚の流失等は計算に入れてないものである。
 秩父セメントの外交員は、私の説明を諒承し、水利に明るい会社の技師に調査させ、その後又伺う、といって帰って行った。手土産は押問答の末、外交員の自転車の荷かけに縛りつけて、返却した。かくして私は独断にも、会社が、用地買収前に沼下へ一六八五万円を補償として現金で支払えば、積極的に協力し、且つ外交員に特級酒一升を呈上する旨を述べました。
 所で、この、私一人が会社に要求した金額は不当であったか、多すぎたか、過少であるか、報道紙上で御批判を賜りたい。(市川万吉)
     『菅谷村報道』128号 1961年(昭和36)11月30日


里やまのくらし 5 越畑

2008-06-09 21:44:10 | 越畑

 狭い道路
 越畑の西部、小川町と嵐山町との町境に市野川が流れる地域を串引(くしひき)といいます。1965年(昭和40)、近所に婚礼があり、花嫁の送り届け役を仰せつかった須永功(いさお)さんは、金襴緞子(きんらんどんす)の花嫁御寮(ごりょう)を小川熊谷県道まで歩かせ、自動車に乗せるのではあまりにもかわいそうだと幅六尺の道路に注意しながらそろそろと車を乗り入れました。道の片側は土手、他方には生け垣があり、植え込みのチャノキは堅くてたわみません。ボディにたくさんの擦り傷をつけてしまいました。狭い道だからと言うのに「いいよ、いいよ」と、乗用車のクラウンを貸してくれた勤め先の親父(おやじ)さんの渋い顔と言ったらありませんでした。

●写真1 五人並ぶと道幅いっぱい(右二人目から青木保平・はる夫妻)

 1959年(昭和34)、菅谷に舗装道路が初めてできました。この頃の道路は、ほとんどが幅六尺(1.8m)位の砂利道でした。串引では小川町や寄居町男衾のお医者さんが病人の診察に来てくれましたが、道が狭くて患者の家まで車を運転して来れません。夜の往診で県道に停めておいた車が壊されたり、「追いはぎ」事件があったりして、医院間の申し合わせで夜間は来てもらえなくなりました。

 土木工事は演習
 1964年(昭和39)、道幅を広げてお医者さんが往診に来られるようにしてもらいたいと道路改修の要望書が地元の串引から出されました。当時の新村建設五ヶ年計画(昭和35~39年)や第一次農業構造改善事業では生活道路や農道の整備が重点施策とされ、遠山と玉川村小倉との間の槻川(つきがわ)にかかる谷川橋新設(昭和37年)、県道小川鴻巣線の国道254号線への移管(昭和38年)、太郎丸と川島の間の市野川にかかる精進橋竣工(39年)と道路や橋の新設、改修が行われています。串引道路の改修は、自衛隊の機械力を利用して早期完成を期すということになりました。

●写真2 1967年(昭和42)12月、杉山で道路工事をする自衛隊

 自衛隊法第100条には、国、地方公共団体の実施する土木工事が自衛隊の訓練の目的に適合する場合には、その工事を引き受けて実施できるという土木工事等受託の条文があります。工事資材、燃料、輸送費を委託者が負担すれば、人件費抜きで、自衛隊の演習として土木工事が実施できるのです。

 自衛隊道路
 自衛隊に早く来てもらうには、隊員募集に協力する組織を作るのがいいと言われ自衛隊協力会を作ることになりました。土地買収お願いの廻状(かいじょう)を回したところ応じられないとの反対も出て説得が夜おそくまで続くこともありました。地元の利益になることはわかっていても、「豆腐一丁の広さの土地でも増えれば、農家の身上(しんしょう)(財産)」と言われていた時代で、自分の家の田畑を削るのはたとえわずかでもたいへんだったんだよと青木保平(やすへい)さんは回想しています。農協の支部長(農事組合長)が署名のとりまとめをしてくれました。
 土木工事委託申請書は自衛隊朝霞駐屯地に出されました。村会議員をしていた市川紀元さんの熊農時代の同級生が幹部にいて越畑と言う文字に気づいて工事の順番を早めてくれたようです。陸上自衛隊古河施設大隊から作業隊約30名が派遣され、七郷公民館(旧七郷村役場)を宿舎としました。工事現場では、社宮司社(しゃくしさま)の幟(のぼり)台の旗竿に日章旗が掲揚されていました。
 1966年(昭和4)12月11日、自衛隊による越畑串引道路改良工事は竣工しました。この日には自衛隊協力会も発足しています。整備された道路は、ブルドーザーでズーコズーコと押して道幅を広げただけの法面(のりめん)も側溝もない道でしたが、自宅までトラックを乗り入れられ、商売がしやすくなったので、須永さんは、1969年(昭和44)、独立して丸越商店を始めました。

●写真3 幟台で語る青木さん(右)と須永さん(左)。幟台は工事中、誤って根元で折られ倒されました。

                 (嵐山町『広報』2005年9月号から作成)


川越沼か川後岩沼か

2008-05-11 06:56:00 | 越畑

 大沼とも呼ばれる川後岩沼は嵐山町総図や市販の地図には川越大沼と印刷されています。川後岩入という小字名があることや、溜池台帳から誤記は明白ですが、耳で聞くと「かわごえのま」とも聞こえます。江戸時代の『名寄帳』にも平仮名で「かわごえ」と書かれているものがあります。

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